パーン、と断続的に乾いた音が響いている。よく晴れた空の下、女子の黄色い声と男子の野太い声がその中心に向かって飛び交い、彼らの視線の先には応援の声なんて聞こえていないんじゃないかと思えるくらい顔色を変えない選手達が真剣に黄色いボールだけを見つめている。硬式テニス部マネージャーの垣之内優歌は、ベンチに座ってスコアを取っていた。
 今現在のスコアは一対三で、負けている。しかもこのゲームを落してしまえば負けてしまうのだが、コートの中の彼らはそんな事を微塵も感じさせないように走り回っていた。同じ姿の二人が同時に頷いて、顔も見合わせずに動いた。前衛が構えながらボールの前から姿を消し、代わりに同じ顔が後ろから走りこんできて綺麗にスマッシュを決める。ボールがフェンスに叩きつけられてガチャンとけたたましい音を立ててから、二人はお互いを振り返ってそっくりな顔で同じように笑った。無言でラケットをぶつけ合う。
 相馬律。面倒見の良いテニス部部長。
 相馬充。やんちゃなテニス部エース。
 同じ環境で育ち、同じ顔、同じ嗜好を持つ一卵性双生児。充は髪を赤茶に染めていたのだが、何故か今日いきなり黒に染め直してきたので律と見分けをつけることが出来ない。ラケットをぶつけ合っただけで言葉を交わす訳でもなく、双子は無言でポジションに戻った。同じように真剣な面持ちをしているが、微かに律のほうが相手の動きを見ているし、充の方が攻撃的な色を瞳に宿している。それは多分誰も気付かないくらいの小さな違いでしかないけれど。律が充の後ろで構えているのを見て、ベンチの優歌はシャーペンを強く握った。


「お。やってるやってる」


 律の手からボールが離れて優歌が真剣な面持ちで視線でボールを追っていると、後ろから陽気な声が聞こえてきた。予想外すぎて眼を見開いてばっと振り返ると、軽装の人影が逆光で眼に入る。黒い人影は笑ったような気配をさせて、ベンチの中を覗きこんできた。


「中、入れてもらっていい?」


 顔がかげって、初めて優歌の目にその人物の顔が映る。人懐っこい笑顔を浮かべた彼女は、自分よりもどこか大人びて見えた。「どうぞ」と答えると、彼女は優歌の隣に腰を下ろしてにっこりと笑いかけた。


「律充、勝ってる?」

「あ、今負けてて……」



 優歌は慌ててスコア表をめくった。別に捲る必要はなかったのだけれど、何となく捲ってしまう。スコア表に顔を向けながら言うと、隣で笑った気配がした。


「昨日は、勝つから見に来いって言ったくせに」

「……あの」

「って、充の頭黒くなってんじゃん。おもしろー」


 話しかけてきているのか独り言なのかいまいち分からなくて、優歌は困ったように眉を寄せた。どうにか会話の糸口を探そうとするが、全く見つからない。それ以前に、彼女は誰だろう。優歌が困って他の部員を探そうと視線を回すと、丁度歓声が上がって審判がこちらが一ゲーム奪取した事を告げた。


「よっしゃ、あと三ゲーム!」

「逃げ切られるかもしれないだろ、バカ充」

「アホ律。優歌チャンが応援してくれたら俺、負けねぇもん」


 同じ顔が同じような声で言い争っている。まるでクローンでも見ているような気分になれるが、部員達にとってもはやそれは馴れた光景だ。コートチェンジなのかこちらに向かって歩いてくる彼らに、優歌は慌ててドリンクを準備した。当たり前のように充がこっちににこやかに手を振る。あんな事をするのは充だけだと分かっているのだが、優歌は微かに頬が赤くなるのを感じた。同時にリストバンドで汗を拭った兄弟ダブルスに微笑んで、優歌はドリンクを渡す。


「はい、ドリンク」

「ありがとう」


その隣で彼女が「よ」、と顔を出した。


「充、律。約束どおり応援に来てやったぞ」

「千影じゃん。マジで来たんだ」


 ドリンクを受け取りながら、彼女の姿に充が意外そうにきょとんと瞬いた。彼があまりにも意外そうな顔をするので、彼女は口を尖らせて充の頬に軽く拳を当てる。しかし、怒る訳でもなく逆ににこりと笑った。


「頑張れよ」

「応援ありがとう、千影」

「千影が来たのは俺のためだろー。アホ律」


 会話の中にサラリと割り込んで、律が爽やかに笑った。そんな律に充が呆れ気味に呟く。千影も微かに口の端を引きつらせ、にんまりと笑った。


「いいから、とっとと行きなさいよ!」

「最後まで見ててね。一緒に帰ろうね、千影」


 子供の頃と変わらないような律の言い方に千影が呆れたように頷くと、満足したのか律はドリンクのボトルを置いてコートに戻る。


「ほら行くぞ、充」

「俺のほうが律なんかより格好いいから、ちゃんと見とけよ」

「早くしないと帰っちゃうからね!」


 優歌に言っているのか千影に言っているのか、ずいと顔を出した充は、やる気満々の律に引きずられる様にしてコートに連れ出された。よく見ると首が絞まっているように見えるが、気のせいだろう。充は元気に暴れている。相変わらず騒がしい双子に苦笑して、千影は隣で俯いて座っている優歌に微笑みかけた。


「いつもうるさい奴等でごめんね」

「あ、あの。私、垣之内優歌です」


 緊張しているのか、頬を微かに染めてつっかえながら名乗った優歌に、千影は自分が名乗っていない事に気づいた。多少の罰の悪さを感じながら内心で絶対に応援に来いと揃って言った双子に毒吐きながら手を差しだす。


「浅井千影。あいつらとは幼馴染なんだ」

「そう、なんですか……」


 どこか戸惑ったような色を彼女の声音に感じて、千影は目を瞬かせた。差し出した手は、ほんの少しの力で握り返されてすぐに離される。じっと優歌を見つめて、千影はぽんと手を打った。


「律のこと好きな子だ!」

「なん……!?」


 納得したような千影をよそに、優歌は顔を真っ赤に染めた。なぜ彼女にまで話が知られているのか、恥ずかしくて沸騰しそうだ。耳まで赤く染めていると、千影は苦笑して優歌から視線を離し、コートに視線を移した。見分けがつかないくらいそっくりな二人が、コートを走り回っている。


「それで、充が好きな子」


 呟くように発せられた言葉に、優歌は微かに小首を傾げた。なぜ彼女はこんなにも淋しげな声をしているのだろう。


「あの、」

「いい趣味してるね、優歌ちゃん」


 優歌がかけたためらった声を自分の声で誤魔化して、千影は笑って見せた。その時、パァンと一際強い音がして次いで歓声と、律と充の声がした。


「「ナイッショー!」」


 前にいた方が決めたのは分かったのだが、優歌にはどちらが律だか分からない。同時に笑みを閃かせた顔はよく似ていて、やっぱり見分けはつかなかった。


「お、ホントに律が決めたわ」


 優歌は見分けられなくて眉を寄せているのに、千影は何のためらいも無くそう言った。つい、優歌の口が疑問を浮かべてしまう。


「今決めたの、律くんなんですか?」

「ん? 律だよ」


 普段のプレーは二人の性格通り、充が攻めて律が守る。なのに今は律が積極的に攻めに行ったという。初めてに近いその行動に優歌が言葉を失っていると、千影は笑った。


「昨日の夜来てさ、応援に来てくれたら年の数だけスマッシュ決める、とか言うんだよ。律も相当バカだよね」


 笑みを向けられ、優歌はただ苦笑してコートの彼らに視線を移した。


「充くんも試合が始まる前に同じような事言いましたよ。律くんじゃなくて充くんの応援をすれば十七回スマッシュ決めるって」

「双子だねぇ」


 楽しそうに眼を細めて、千影がコートの彼らに視線を移した。千影の目がどちらを見ているのかは優歌には区別がつかなかったけれど、その顔を端目で捉えて優歌は彼女が羨ましいと思った。何が羨ましいかは、漠然とし過ぎてよく分からないけれど、確かに羨ましかった。


「律のどこが好き?」

「え?」

「いや、律もいい奴だけどさ。充も同じ位いい奴だから」


 また一点決めてこちらを笑顔で振り返った二人の顔は、そっくり同じだった。その顔にハッとして、優歌は手元のスコア用紙にペンを走らせる。さっきまで負けていたはずなのに、もう追いついていた。律か充かどちらかがサーブを打つのを見ながら、優歌は数度ゆっくり瞬いた。


「律くんの方が優しいし……」


 悩みながら、優歌が言葉を選ぶようにして口を開く。
 どこが好きと言われても、気が付いたら好きになっていた。理由なんて見つからない。かろうじて言えたのは律の充と違う所だった。充はいつだって、自分に意地悪だ。それしか言えない自分が恥ずかしくて優歌が唇を噛むと、それを見て千影が微笑んだ。どこか安心したような、淋しい色を含んだ笑みに見えた。


「充が好きになるのも分かる気がする」

「え……?」

「好きな奴のここが好き! ってはっきり言える女は碌な女じゃないよ」


 にぱっと笑みを閃かせて千影が言う。優歌がきょとんとしていると、千影は小さなショルダーバッグから飴の包みを数個取り出して、手の平に乗せた。


「何味が好き?」

「あ…メロン」

「はい、どーぞ。律のほうが器用なだけでね、充も優しいよ」

「ありがとうございます」


 優歌に飴を渡して、千影はイチゴの飴を残してバッグにしまった。ピンクの飴玉を口の中に放り込んで、舌で転がす。


「充ってバカでしょ。バカで不器用で単純でバカなの」


 言いながら千影はネット際を走り回っている充に視線を移した。単純でバカな幼馴染は、不器用だけれど優しい。それはどちらも同じだけれど、バカな分だけ充の方が可愛かった。自分は、お姉さんだから。


「充くんは、意地悪です」

「ガキだからね、好きな子はいじめちゃうんだよ」


 口の中で飴を転がして、千影は充が決めた所を見て眼を細めた。
 自分は律ではないと自分の為に、律の為にわざと派手な赤茶に変えていた。自分は律ではなく充だけれど、それと同時に自分は律の片割れなのだと子供のように言っていたのは、つい数ヶ月前の事だ。ずっと染めていたのに、律とお揃いの髪型するなんて、何てバカなんだろう。


「優歌ちゃんは幸せだね」

「そう、ですか?」

「そうですよ。充、実は髪染んのこだわりがあったから」


 こちらに手を振る充に手を振り返すと、充は満足したように律とラケットをぶつけた。優歌の手が滑り、スコア表に丸を書き付ける。


「あの髪も私への意地悪かと思いました」

「充は運動だけは律に勝てたからね。優歌ちゃんにいい所、見せたかったんじゃないの?」

「……テニスは充くんの方が上手いですもん」


 呟いて、優歌はペンを持つ手に力を込めた。右手が白む。
 試合の組み立てや攻撃の柔軟性、意外性。どれをとっても律よりも充の方が勝っているのは誰にでも分かる。確かに、運動している時の充は格好いいと思ってしまう。もしかしたらそれは、律と同じ顔をしているからかもしれない。


「律と充ね、テストの合計点はいつも一緒なんだよ。律は満遍なく出来るし、充は出来る教科と出来ない教科が激しのに、一緒なんだよ」


 同じ能力を宿して生まれてきたはずの双子は、こんなにも違う。でもどこかで繋がっていて、それはきっと繰り返される。まるで、自分たちの関係のようだ。


「律は律で充は充なんだよ、双子なのに」


 彼らは違う人間だ。分かっていたのに充に律を投影しようとした自分が恥ずかしかった。優歌が黙ってしまうと、千影はほんのすこしばつが悪そうに苦笑した。


「充も悪いんだよ、そっくりにしてきたんだから」


 自分を律と間違えて、ほれてくれれば言いとでも思ったのだろうバカな幼馴染に千影が苦笑して眼を細める。そんな事をしても、充自身のことを認めてくれる訳ではない事を誰よりも分かっているくせに、分かってない振りをするのは相変わらずだ。


「私はね、今の関係を崩す気はないんだ」

「今の関係、ですか?」

「そう充と律が幼馴染で、優歌ちゃんと四角関係な今が一番心地いいから」


 千影が笑って口の中の飴を噛み砕いた時、審判が高らかと相馬兄弟の勝利を告げた。





 ×××





 選手が全員コートに集合し、互いに礼をする。それを見て千影は首を傾げてとなりでドリンクを準備している優歌に問いかけた。


「何、もう終わりなの?」

「団体戦で、今のが最後の試合です」

「へー」


 団体戦は先に三勝した方が勝ちなのだが、生憎三敗を喫していたため、相馬兄弟の試合は消化試合だったらしい。だからこちらの選手に元気がない。


「「勝利ー!」」


 パンと手を打ち鳴らす音が聞こえて視線を移すと、そっくり同じ顔が並んで立っていた。優歌が微笑んで律にドリンクを渡して笑いかけた。マネージャー、贔屓です。他の部員が微かに思ったが、誰も口には出さなかった。


「お疲れ様、律くん」

「サーンキュ、優歌チャン」

「え、充くん!?」

「もちろん充くん」


 律とそっくりの顔で、充がにんまりと笑った。優歌は驚いて口元を手で覆い、顔を赤くして俯いた。ちらりと律を窺うと、呆れ顔で自分でドリンクを取って飲んでいる。


「千影、ごめんね。スマッシュ三本しか決まんなかったよ」

「じゃ、残りの十五本分はジュースでいいよ?」

「オレ、スマッシュ八本。垣之内、残りの九本はオレの唇でどう?」

「いりません!」


 自慢なのか報告なのか分からない事を言って、充がさり気なく優歌に顔を近づけた。びっくりして慌てて優歌が千影の陰に避難する。そこから顔を出して充を窺うと、充は眉を下げてしゅんとしていた。


「充、お姉さんが慰めてあげよっか?」

「間に合ってマース」

「千影、じゃあ充の代わりに俺を慰めて」


 この双子は……。いきなり汗まみれで抱きついてきた律とふいっとそっぽ向いてしまった充に、一瞬だけ千影の中に殺意が芽生えた。


「あの、律くん。解散した方が良いんじゃないかな?」


 片づけを終わらせてしまった優歌が後ろを振り向いて、遠慮がちに言った。後ろには彼らを呆れたような目で見ている部員達がいて、律は爽やかに頷くと、千影から離れてジャージを羽織った。


「そうだね。じゃあ解散にしようか。明日は個人戦だから今日よりも一時間早く集合する心意気で」


 律の言葉を聞きながら、充はラケットをしまってジャージを適当にバッグに突っ込んだ。


「じゃあ俺は優歌チャン送ってくわ」


 さらっと言って、充は自然な動きで優歌の肩に手を乗せた。優歌は真っ赤になって律に助けを求めるが、律は一瞬充そっくりの意地の悪い笑みを閃かせた。もう誰の助けも得られないと優歌は思った。


「充くん。家、逆方向だしいいよ」

「こんな時間に女の子を一人で返したら危ないだろ」

「まだ三時なんだけど……」


 本当に誰も助けてくれなかった。遠慮しても充は全く聞く気はないらしく、肩に乗せた手を自分の方に引き寄せている。どうにか堪えていると、千影が溜息を吐くのが聞こえた。


「バカなこと言ってないで帰ろ。帰りにタイヤキ奢ってあげる」

「……オレがいつも食い物に釣られると思ってるだろ」

「思ってる」


 しれっと言い放った千影に、充はがくりと項垂れた。そんな二人を見て、律が微かに目を眇める。充が彼女を送っていってくれれば自分は千影と二人で帰れたのに、と不機嫌になるが、千影を困らせる者はたとえ片割れでも許さない。
 部長だという事も周りの部員の視線で思い出し、律は溜息を一つ吐くと充の襟を掴んで優歌から引き剥がした。


「垣之内さんは松木、送ってやってくれ」

「あの、一人で帰れるから……」

「充と帰るか松木と帰るかしか、選択肢をあげられないんだ。ごめんね」


 ちらりと律が、隣に視線を移すと、そこには不機嫌に顔を歪めている充の顔がある。


「うん。松木君よろしく」


 優歌は素直に頭を下げた。


「じゃ、帰ろうか。千影」

「優歌ちゃん、バイバイ」


 千影が不機嫌にポケットに手を突っ込んだ充の腕を無理矢理自分の左腕と絡め、開いた手で優歌に手を振った。恥ずかしそうに優歌も遠慮がちに手を振り返す。爽やかな笑顔で、律がさり気なく千影の手を握って不思議そうに問いかけた。千影は一度律を見たが、特に気にした風もなく頷く。


「あれ、二人はそんなに仲良くなったの?」

「うん。ライバルだから」

「千影、暑い」


 充が不機嫌にそう言って千影の腕を振り払おうとしたが、千影が全く離れないので諦めてポケットに手を戻した。踵を返した律につられて歩き出し、数歩歩いた所ではたと止まって振り返る。


「優歌、また明日な」


 微かに笑んで、充は歩き出した。
 いつもと違う真面目な声でそう言われ、優歌は頬が火照るのを感じて俯いた。心臓の音が、妙に耳をつく。ほんの少し遠くなった双子の声が、ますます優歌の頬を朱に染めた。


「帰ったらゲームしようぜ、律」

「バカ充は力技で攻めてくるしか出来なくてつまらないから嫌だ!」

「アホ律はパズルゲームしかできないもんな!」

「あんた達いい加減にすれば?」

「「そう言えば、予備校入学おめでとう。千影」」

「うるさい!」





-END-  

部誌(以下略)
書く度に律が変態臭くなるのはどうしてだろう。