開いた教科書にくだらない落書きをみつけて、律は教壇で熱弁をふるっている教師にばれない程度に深い溜息を吐き出した。双子の弟と共同で使っている教科書に書き込み以外の落書きをしないという約束は何処へ消えたのだろう。それともわざとだろうか。成績優秀な相馬律は、校内で有名な相馬双子の兄の方。弟の充と姿形はうりふたつの一卵性双生児だが、同じ環境で育ったのに性格は正反対だ。
 律が呆れて消しゴムを手にして消してみたが、ボールペンだったようで全く消えなかった。後で文句を言ってやろうと思って消しゴムを充とそっくりの動作で乱暴に置いたとき、授業終了のチャイムが鳴った。


「相馬君」


 教師が教室から出ていくのを見ながら机の上を片付けていると、落ち着いた声が降ってきた。「相馬君」とこの教室で呼ばれるのは自分しかいないので、律は顔をあげて微笑んだ。


「何?明石君」


 声をかけてきた友人はさっきまで使っていた教科書と弁当箱を持っていて、律は鞄にしまったノートを弁当と一緒に取り出した。涼し気なフレームの細い眼鏡をかけている明石竜之介はクラス内でも地味な印象を受けるが見た目同様頭が良く、律と親しい。二人で教科書を開いている姿はよく目撃されている。


「さっきの授業でちょっと思ったんだけどね」


 そう言いながら彼は弁当の包みを解きながら教科書を片手で器用に開いた。落書き全くない、代わりに沢山のラインマーカーや走り書きがある教科書が少しうらやましい。彼ら双子は教科書が共同のため、律がどんなに綺麗に使っていても充が天才的に上手い落書きをするのだ。そういえば明石君は一人っ子だなと思いながら、律は教科書を覗き込む。


「ここのところなのだけどね……」


 彼が指したところを見ながら、律は手を合わせて口の中で「いただきます」と呟いた。今日の弁当は昨日の夕食の残りだ。いつものことなので特に感想も持たずに夕べよりも味の染みた煮物を摘む。律が教科書に指を伸ばしたとき、あまりにも聞き慣れた声が走り込んできた。


「律!財布貸して、財布!」


 迷うことなく律の席まで駆けてきて手を差し出した片割れを見て律は短く息を吐き出したけれど、充はそんなことを気にも留めずに「早く」と急かしている。充は自分の財布を持ってるだろうにと律は思うが、充のことは彼が律のことを知りつくしているように何でも分かるつもりだ。律は財布から数枚の札を抜くと、それを充に渡した。


「財布」

「中身」

「「金」」


 同じ顔が同時に同じ言葉を紡ぐ。彼らにとって馴れていることだが、苦笑に似た笑みを浮かべていた明石は感心したように感嘆の息を吐き出した。その息に双子は同時に視線を向け、一人は苦笑に似た笑みを、一人は今気付いたように微かに口の端をひきつらせる。その反応に明石は更に笑みを深くし律が苦笑から呆れ交じりの表情を浮かべるが、充はそれどころではないことを思い出したのか顔の前でパンと手を合わせた。


「マジお願い!金貸して」

「理由。小遣い日まであと一週間だけど?」

「財布忘れたんだよ!昼飯代、澄那から借りてんの!」

「お前、まだあいつとつるんでるのか」

「あいつ5分で利子10割取りやがるんだよ!!」


 「早く」とせかす充に律は大きく溜息を吐き出しながら財布に札を戻すと、押し付けた。さっさと行けとでも言うように手で払うと充は礼も言わずにすっ飛んでいく。そもそも10割は違法だということに気付いているだろうか。いや、そんなことが念頭にあるわけないな。
 馬鹿な弟に律は緩く首を横に振ると、にこにここちらを見ている明石に向き直った。律のせいではないけれど、僅かに申し訳なさそうな顔を作る。


「ごめん、明石君」

「それはどういう意味で?」


 にこにこと楽しそうに微笑んでいる明石に律は一度彼を見たが、すぐにその意図を読み取って充とそっくりの表情を浮かべた。


「うちの弟が話を中断させてさ」

「構わないよ。相馬弟はいつも騒がしいね」

「悪かったね」


 律の言葉の柔らかさと表情は変わらなかったのに、明石は目の前にいる校内で有名な相馬双子の兄から苛つきに似た感情を読み取った。本人が気付いていないところがなんともほほえましい。
 考えがでてしまったのか明石が律をみて微笑んでいると、律が不可解そうに僅かに目を眇めた。


「何?」

「兄弟仲がよくて羨ましいよ」

「別によくないよ」


 緩く頭をふりながらも律の顔は微かに綻んでいる。その事実を指摘しようかとも思ったが、明石はそれをせずに黙って弁当に箸を伸ばした。一人っ子の彼にとって、兄弟がいる律が羨ましいことは確かだ。だが、充のような弟が欲しいかときかれると迷わず首をふるだろう。それでも、明石は律が羨ましかった。





×××





 充は風呂からあがると、2リットルのペットボトルに口を直につけながら二階に上がって行った。下着姿のこの格好を見た母親に何を言われるか予想は簡単につくが、風呂上がりに服なんて暑くて着ていられない。四分の一以上残っていたペットボトルを空にして、充は自室のドアを開けた。肩から掛けたタオルで頭を拭きながら充は振り返りもしない自分とそっくりな律の声を聞いた。


「財布」

「風呂入れって」


 片手で頭を拭きながら充は律と向かいにある自分の机の上をざっと見渡した。けれど物が散乱した机上に見慣れた財布はない。充が少し不安になりながら机の隣のテニスバッグを漁ると、当たり前のように自分の財布が見つかった。ポロボロの指定鞄から借りたままの律の財布に自分のから四百五十円探して移し、同じタイミングで椅子ごと体を回した律に投げる。律はキャッチしてから充の格好に眉を寄せる。


「せめてなんか着ろよ」

「暑ぃじゃん」


 言いながら充はペットボトルを何気ない動作で潰す。いつものことなので律も気が済んでそれ以上何も言わないで開いていた教科書を閉じた。ついでに充に文句でも言ってやろうと口を開くが、声がでる前に部屋のドアが開いて母親が顔をだした。


「律、お風呂入っちゃって。充!ちゃんと服着なさい!」

「へーへー」

「そうだ、俺明日出掛けるから」

「あー、俺も。夕飯いらねぇ」


 真面目な顔をした長男と正反対でだらしない次男は現在試験前で部活がない。そして明日は土曜日。母は思いがけず目を輝かせた。いつも部活だなんだと言っている息子たちだが、お年頃なんだから。気ばかりがはやり、まえのめりにならん勢いで双子を見比べる。


「もしかして、デート!?」

「「違う」」


 けれどステレオで否定された。つまらないので母は口を尖らせて息子たちに背を向けて「早くお風呂入っちゃいなさい」と言い残して部屋をあとにした。きっとリビングで旦那に文句いうだろうことが簡単に分かって双子は揃ってそっくりな苦々しい顔を作った。


「律どこ行くん?」

「ファミレスで勉強」

「うわ、がり勉。頭おかしくなりそう」

「テスト前だけどな。お前は?」

「ゲーセンとか」


 律が入浴の準備をしているのを端目に捉えながら充は自分のベットに寝転がった。買ったときに父親が付けたスタンドを付け、片手で携帯を開く。双子の寝床は例に漏れず二段ベットだ。もちろん律が上で充が下。もう何年も変わらない位置で充はふと律を見てぽろりと零した。


「垣之内とデートしたいかも」

「絶対無理だな。諦めろ」

「俺が千影デート誘うからお前垣之内誘えよ」


 充の提案に律は固まった。それは良いかも知れない。優しくて真面目で常識もあると思われがちな律だが、根底には充と同じ意識がある。面白そうなことも悪戯も意外に好きだ。律は充とそっくりな笑みを浮かべると振り返った。充がおんなじ顔をして笑っている。


「乗った」



 千影は隣に住む幼なじみなんだから自分で誘えばいいなんて簡単なことは珍しく律の頭から抜けていた。





×××





 普段のテスト前は律は部屋で一人で勉強している。ちなみに充はここぞとばかりに遊び回っている。しかし今日は明石と一緒に勉強する約束をしたので必要な道具を持っていつも打ち上げなどに使うファミレスに行った。


「一つ聞いていいかい?」


 ドリンクバーだけで長時間居座るのは悪いので各々頼んだ軽食に手を伸ばしていた時、いつものように微笑んだ明石が僅かに首を傾けた。律が口内のサンドイッチのために一つ頷くと明石はひどく真剣な顔をした。


「相馬弟はお弁当がないのかい?」

「は?」

「昨日財布を借りに来ただろう」


 一度ポカンと正面に座ってポテトを摘んでいる明石を見て、律は数秒考えてやっと言葉の意味を理解した。昨日充が財布を借りに来たことを言っているのだろう。いくら何でも双子の片方だけが弁当で片方自費で購買ということはないだろう。というか、そんなの嫌だ。律は苦笑を浮かべるとコーラでサンドウィッチを飲み下した。


「充も弁当持ってるけど、昼の前に食べちゃうんだ」

「燃費が悪いんだね。あの崎沼と親しいんだろう?」

「それはあいつの勝手だから」


 明石の表情に僅かに侮蔑めいた色が浮かんだのが見て取れて、律は無意識に表情を険しくした。その顔を見て取って、明石はクスクスと声を隠すことなく笑う。その顔に更に律が不機嫌になると、明石は更に面白そうに笑って宥めるように手を軽く上下させた。自身を落ち着かせるようにコーヒーを一口飲んでからゆっくりと息を吐き出して笑みの形に唇を歪めた。


「相馬兄弟は仲が良いんだなって思っただけだよ」


 いつもは喧嘩も多いけれど、どんな兄弟よりも深く分かり合っている。それは彼らと、片方と接している中でさえ一月もすると容易に感じ取れる。もどかしいのは本人が理解していないことだろうか。きっと心の底では分かっているのだろうけれど、表面では気づいていない。それが双子の心理というものかなとは思うけれど、一人っ子の明石にとって羨ましいこの上ないことだった。だから、そのことに甘えている充に厳しい感情を感じている。


「あれ、相馬兄じゃない?」


 ふと声が聞こえてその声のほうを振り返ると、噂をしていたからか充と澄那、そして少女が一人が並んで立っていた。充がひらひらと手を振るのに返そうか迷っていると、隣から澄那に頭を叩かれていた。それを見て少女は笑っている。
 こちらに向かってくる充を端目で見ながらサンドウィッチに手を出していると、充はにかりといつものように笑った。


「オベンキョーご苦労さん。…げ、明石じゃん」

「充気づかなかったの?ホントお兄ちゃん子なんだから」

「なんだそれ!?マジうぜぇ」

「ひどいなぁ。図星指されたからって」


 明石の姿に気付いたのか充は一瞬嫌そうな顔をして思わず呟いた。聞こえてしまったかと律は「バカ」と弟を嗜めようと思ったがその前に澄那がにこにこ笑って充の頬をつついた。充の意識はそちらに行ってしまったので律は何も言うことができず明石を窺ってみると、聞こえていたはずなのにいつもと変わらない笑みを浮かべていた。安堵しながら充にあっちに行けとばかりに手を振ると、充はさっさと踵を返す。澄那も苦笑して充について行った。


「ちゃんと友達、いるんだね」


 澄那の声が飛び込んできて、律は軽く瞠目した。けれど澄那は充に呼ばれて行ってしまい、その意味を問いただすことはできなかった。ただ、そう言えば充が似たようなことを言っていたことを思い出す。親友だと言える深い友達はいない。それはきっと充も一緒だろう。澄那と一緒にいるところをよく見るが、そう感じる。
 今はそんなことを考えていてもしょうがないと思って気を取り直して明石に向き直ると、彼は微笑んでコーヒーカップを少し傾けて波紋を生み出した。


「やっぱり相馬弟には嫌われてるね」

「そういう訳じゃないと思うけど、あいつバカだから頭いい奴嫌いだし」


 誤魔化すように笑って見たけれど、律にもそれは不思議だった。普段の充は澄那と付き合っていることから分かるとおり物怖じしないし、誰かの良いところを見つけるのが上手かった。誰からも好かれる充。それは少し律も羨ましかった。けれど明石にだけは少し態度が違う。明石の方が充を苦手だと思っている節があると思っている律はそのせいだと思ったけれど明石から見れば原因は違うらしく、苦笑に似た笑みを浮かべてそっと手を伸ばして綺麗な指で律の頬に触れた。


「大好きなお兄ちゃんを取られたと思ってやきもち妬いてるんじゃないかな」

「……ありえない」

「僕は相馬君が好きだよ」


 すっと触れた指の感触に背筋が粟だって、律は僅かに顔を強張らせて「ありがとう」と小さな声で礼を言った。まだ言葉を待っているように微笑んでいる彼に「俺も好きだよ」と言うと明石は今度こそ満足そうに笑って律から手を離した。






-END-

明石竜之介(あかし りゅうのすけ)

律の友情話でした。
明石君は眼鏡が良く似合います。