そろそろ各家庭から夕食の匂いがしてきそうな時間、浅井千影は予想外の事態に襲われた。予備校帰りの空腹な状態で、家の鍵が見つからない。チャイムを鳴らしても出ないどころか、外灯すら点いていない。よく見ると家の中も電気も点いていなかった。
 そう言えば今日は誰も家にいないことを思い出した。そして、朝母に言われたこともついでに思い出す。


『悪いけど、相馬さん家にお世話になってね』


 申し訳無さそうに言った母の言葉に頷いたのは自分だ。そう千影は思い出して重い足取りでお隣に向かった。
 お隣の相馬さんとは親しく、千影にとっても相馬律・充は弟のような存在だ。年頃になった今でも関係に変化は無い。いや、ほんの少しだけあった。けれど幼い頃から泊まることも多く、何の気兼ねも要らないのは真実だからそこはありがたかった。変化があっても、幼馴染だから。しかし、と思いながら千影は相馬家の玄関チャイムを押した。母は自分の事をいくつの子供だと思っているのだろう。


「こんばんわ、千影です」


 インターフォンが持ち上げられた音がしたのでそう言うと、向こう側で少年達の僅かな声が聞こえた。どうしたんだろうと待っていると、ガチャリとドアが開いて黒髪の少年がジャージ姿でにっこりと笑って出迎えてくれた。


「いらっしゃい、千影」


 出迎えてくれた律は、学校から帰ってきたからだろう下はジャージだが上はワイシャツだった。いつもはママさんが出てくるのに珍しいなと思いながら千影は促されるままに玄関に上がった。玄関を上がってすぐのリビングに顔を覗かせると、茶髪の少年がソファに寝転がって雑誌を広げていた。こちらは着替えたのか、下は律と同じジャージだが上はカラフルなパーカーを着ている。


「あれ、おばさんは?」

「千影、何も聞いてない?」


 千影が荷物を降ろしながら訊くと、律が困ったように少し眉を下げて笑った。千影が充の頭があるソファに背を預けるように床にじかに座ると、充は漸く雑誌から顔を上げたようでばさりと紙の擦れる背後で音がした。顔を上げれば充は眠そうな顔のままがりがりと頭を掻きつつ体を起こしている。
 律がデリバリーのチラシの束を出してテーブルに広げながらつい一時間ほど前の事を話した。何でも、テスト期間中で暇な兄弟がいるこの時期に友人たちと急遽旅行に行く事になったらしい。昔から自由奔放な母親だ。


『律。律はお兄ちゃんだから充に優しくしてあげてね』

『………』

『充。充は男の子だから迷惑掛けちゃ駄目よ?』

『………』

『それから、今夜は浅井さん家ご夫婦でお出掛けの用事があるんですって。いいわね。だから千影ちゃんがお泊りに来るそうよ。二人とも、仲良くね』

『『俺らのこと幾つに見えんの?』』


 十年前と同じことを繰り返す母親にうんざりして双子が同時に返すと、母は嬉しそうに笑って更に『女の子には優しくね』とか『千影ちゃんの言う事良く聞くのよ』とか子供に言い聞かせるように言って出かけてしまった。
 事情を話し終わると、律は少し疲れたように笑ってうどん屋やらすし屋やらのチラシの中からピザとファーストフードを選び出した。千影の後ろから充の腕が重そうに伸ばされ、その中からピザを引き抜く。それから、億劫そうな声で低く呟いた。


「どれがいい?」

「ていうか千影、ピザでいい?」


 自然な流れで双子が夕食を選んでいるようだったが、弟からはピザの選択権を貰った。兄からはメニューの選択肢を改めて渡される。どっちも中途半端な優しさをくれるところは昔から変わっていない。千影は律に頷きで返して充からチラシを受け取った。どれにしようかと選びながら、ふと律は自分のことが好きなんだと思い出した。そして自分は充が好き。一緒にいるのがあたりまえすぎたけれど、ここは親のいない家なのだ。そして自分たちはもう年頃を迎えている。
 何となく緊張してきて、千影は僅かに体を硬くした。それには二人とも気づかなかったようで、視線は付けっぱなしのテレビに向いていた。


「つか、おばさんたちはどこ行った訳?」

「家はお葬式。お父さんとお母さんの高校時代の恩師の先生が亡くなったんだって」

「ふーん」

「あんたたち、どのくらい食べるの?」


 千影は一人っ子なので、食べ盛りの男の子達がどのくらい食べるのか知らないし予想もできない。考えるようにしばし沈黙が落ちた後、千影の前後でステレオで答えが返ってきた。


「「三枚くらい?」」

「一人で!?」

「「三人で」」


 揃った言葉の後に充が「バーカ」と付け足す。その言葉に当たり前だと自分でも思いなおして千影は少し恥ずかしくなって自分の荷物を引っ掴むとそれで充をバンバン殴った。今日は辞書が入っていて結構重い。充が声を上げながら慌てて避けるのを見て笑うと、律も軽く笑って注文しに行った。


「何が入ってんだよ、このバッグ!?」

「英和と古典の辞書」

「ざっけんな!」


 千影とてこれを持ち歩くのは大変だった。リュックでなければ途中で切れていたかもしれない。けれど今日は古典と英語の授業があったのだからしょうがない。これが受験生の辛さなのだと思い、そしてふと律充も受験生だったと思い出した。こんなにのんびりしていて良いのだろうか。まぁ、まだ五月だけど。


「充、あんたたちも受験でしょ。こんなにのんびりしてていいの?」

「俺千影ほど馬鹿じゃねーもん」

「悪かったわね!馬鹿で!」

「まぁ冗談として、まだ考えてねぇ」

「個人面談もあるでしょ」

「千影と同じ大学受けるつもりだよ。一緒のキャンパスライフ送ろうね」


 突然充と似ているけれど柔らかい口調が混じってきて、千影は目を見開いた。律が電話を終えて会話に混じってくるのは別に問題ないのだが、今なんと言った?自分と同じ大学を受けるつもり?冗談じゃない。けれど、律も冗談で言っているつもりではないだろう。千影には一年だけだけれど二人の『お姉さんである』という意識がある。昔からずっと言われていた事だから刷り込みのように刻まれた言葉だ。それなのに同じ大学になんて行ったらもしかしたら勉強を教えてもらうとかいう事態になり兼ねない。それは何があっても避けたい。千影の『お姉さん』というプライドが許さなかった。


「絶対嫌」

「一緒がいい」

「ぜぇったい嫌」


 千影が断固拒否すると律は子供のように肩を落として口を尖らせた。まだ文句があるけれど呑み込んでいるような、そんな表情だ。子供の頃から変わらない表情が思いのほか可愛くて千影が慰めるようにそっと律の頭を撫でると、後ろで充が「ふられんぼー」と笑い声を立てた。
 千影がいくらなんでも可哀相だと注意しようと思って振り返った時、撫でていた手を強い力で掴まれた。いつの間にか大きくなってしまった幼馴染の手と強くなった力に驚いて視線を律に戻すと、いつも優しく笑うはずの双子の片方はもう片方とそっくりの意地の悪い笑みを浮かべていた。


「千影って、今流行のツンデレ?」


 やっぱりこいつらは兄弟なんだなと改めて思い知らされた。双子でそっくりで他人どころか親にも見分けがつかなくても千影には見分けがついていたし彼らが似ていると思ったことはあまりない。性格はそう思わせるには十分なほど正反対だった。けれどたまに、こいつらは遺伝子の状態がそっくり同じ双子なんだと思い知らされる。こんな、そっくりな表情を浮かべる所とか。それと同時に彼らは『男』なんだと気づいた。千影が知っている『幼馴染の男の子』ではなく『男』なのだ。そして自分は、『女』しかも、充にとっては『自分の事を好きな奴』。律にとっては『自分の好きな人』。親と言うストッパーの無い状況に千影は初めて恐怖を覚えた。もしかしたら、気づいたらいけないことだったのかもしれない。


「ンな事どうでもいいけど、お前どこに寝んの?」


 充のそんなこと発言に律は一瞬頬を引きつらせたが、すぐに表情筋を元戻すと考えるように少し視線を上に上げた。
 二人に挟まれた状態で千影は固まってしまった。確かに今まで漠然と充が好きで、いつかは経験をして大人の女になって結婚して子供を生んで、と考えていた。けれど全ては漠然としていたし、そのときはまだ先だと思っていた。けれど今目の前には健全な男子高校生。後ろにも健全な男子高校生。しかも片方は自分の事が好きで、片方は自分の好きな人。充とならそうなっても良いと心のどこかで思うけれど、この兄弟は似すぎている。前門の虎後門の狼とはこのことだろうか。


「三人で寝ようか、久しぶりに」

「俺たちの部屋に布団入んねぇだろ」

「客間は?」


 ちょっとやばいなと千影は思った。何だか普通に一緒に寝る方向に話が進んでいる。確かに幼い頃は律と充の部屋に布団を敷いて寝ていた。双子が二段ベッドだったので床に布団を一枚敷いて、それに双子が寝た。二段ベッドの下の充が寝ているところは千影の寝床に変わる。お姫様ポジションだった。けれどこの歳になっては遠慮したい。


「一人で寝るからご心配なく」

「折角来たのにつまんないじゃん」

「寝るに楽しいもつまんないも無いでしょうが」

「千影と手、繋いで寝たい」

「いいんじゃねぇの。客間で」


 充がまた雑誌を広げながら適当に答えた。待ってましたとばかりに律が「じゃあ客間に布団しかなきゃ」と言い出して立ち上がる。その後姿を千影は不安そうに見送った。律の足音を聞きながら千影は落ち着くようにゆっくりと息を吐き出す。それを端目で見て、充が笑みを噛み殺したような声で問いかけた。


「お前、何緊張してんの?」

「べ、別に緊張なんてしてないよ」

「やらしいことでも考えてんじゃねーの」

「考えてないよ!」


 いや、少し考えてたけど。心の中で訂正して千影は僅かに頬を染めた。それをみて充が笑い声を上げる。
 充にならいいと少し思っていた。けれど実際その問題が身近に迫ってくると逆に考えられなくなった。けれど年頃なのだ、考えてしまうのは当たり前だろう。だって自分は女で、彼らは男なのだ。
 恥ずかしくなって深く俯いた千影は、頭に大きな手が置かれた。乱暴に頭をかき回すそれは、さっき掴まれた律の手と同じだった。充は言葉を探すようにゆっくりと口を開く。充にとっても千影は優歌とは別の意味で大切な女の子だ。


「男ってのはさ、確かに女より性欲に正直だとは思う。けど、好きとか…そういう感情がすぐに体に向く訳じゃないと、俺は思う」

「………」

「確かに、そういうことシたいと思うけど……ちゃんと相手も俺の事好きで、シたいって思って、心を繋げる手段の一つだと思う」

「………」


 千影の沈黙に一生懸命ない脳みそを絞っていた充は流石にヤバイと思った。なにかまずいことを言ったかと思って自分の言ったことを頭の中で繰り返すが、特に思い当たらない。けれど自分は女の気持ちなんて分からないから、何が千影を傷つけたか分からない。とりあえず、頭を撫で続けた。


「一緒に居るとか手を繋ぐとか、そういうのと同じところにセックスってのもあると、思う……」

「……一緒に寝ようか、三人で」


 黙っていた千影が顔を上げてまだ赤い顔に笑みを浮かべた。千影には充の言葉は律の言葉でもあると分かっているし、幼馴染の言葉は何でも信じられた。律は優しさが真っ直ぐ伝わってきたけれど充は少し屈折していたけれど心に響いた。それは昔から変わっていないことだ。昔から変わらないものに安堵して千影が「手繋いで寝ようね」と言うと充はいつものようにカラッとした笑みを浮かべた。


「二人して仲良く喋ってないで少しは手伝ってよ。充の分は敷いてないからな」

「ひでぇ」

「自分の分は自分で敷け」


 面倒くさそうにだが広げていた雑誌をソファの上に放り出して充が立ち上がって布団を下ろす為に階段を上がっていった。その音を聞きながら目を細めると、律が千影の前にお茶を置いて彼女の正面に腰を下ろした。


「充と何の話してたの?」

「別に何でもないよ」

「千影ってひどいよね。俺が好きだって言ってるのに」


 しゅんとした律は本当にどこか淋しそうで、千影は律を手招いて自分の隣に促すようにポンポンと叩いた。すると律はにこっと笑って立ち上がる。千影の横に座りなおすとさも当然と言うように千影の肩に腕を回し、体を寄せてきた。けれど千影が驚きもしないので、律は予想ハズレのようで口の中で舌を打ち鳴らした。


「もうちょっと意識してよ」

「律だって、無理矢理女の子襲わないでしょ?」

「何、充とそんな話してたの?」

「してたの。だから今日は手繋いで寝ようね」

「今日はそのくらいで勘弁してあげるよ」


 にこにこ笑って律が言うので、千影は悪戯半分に律の頬をギューッと抓った。これから夕食をとって風呂に入ってテレビを見て、眠りにつく。けれどそれは今までと同じで楽しいもので、どこにも不安はなかった。昔から変わらないことのようだった。そして実際、何も変わっていないのだろう。
 充が布団を敷き終えて戻ってきた時、玄関のチャイムが夕食の到着を告げた。





-END-

こんな純粋な少年達に癒されます。