いつの間にか外にいても寒くない時期になってきて、浅井千影は目に痛い新緑を見上げて目を細めた。五月。幼馴染の相馬兄弟は高校三年に進級した。千影は近くの予備校に入学し、大学を目指す。入った頃はまだ外にいるのは寒かったけれど、最近では息が詰まると屋上に出るようになった。太陽に晒されて痛む目を右手で押さえて、晴れ渡った青い空にバカ野郎と叫びたくなったけれど深く息を吐き出すだけにどうにか留めた。


「……もう勉強したくない……」
 

 ぼそりと本音を呟いて、けれどそうは言っていられないので大きく伸びをしてその考えを頭から振り払った。勉強したくないけれど、勉強しなければならない。それが浪人生の辛い所だ。特にやりたい事があるわけではないが、大学くらいは出ていたいし就職には有利だ。祖母も祖父も「女の子なんだから結婚してしまえばいい」と言っているが、そんなこと言っても相手がいないしOLもやってみたい。
 さてそろそろ戻ろうかと屋上のフェンスから離れて踵を返した時、屋上の扉が開いて人が入ってきた。一度ぱたりと足を止め、やってきた人物が知り合いだったことに千影は目を瞬かせた。


「石上くん」

「あ、浅井さん……。浅井さんも休憩?」


 やってきたのは石上くんだった。千影は下の名前は覚えていないけれど、去年通っていた予備校で一緒だった。ここであって、お互い「がんばろうね」と渇いた笑いを交わした覚えがある。あの時はとっても心地悪かったと少し渋い顔を造り、石上くんにつられてまたフェンスに寄りかかった。


「浅井さんって、狙ってる大学とかあるの?」

「ん?特にはないんだけどさ。一個下の幼馴染がいるのね、私。そいつらが一緒の大学行こうって言うのよ。同級生になっちゃうじゃん?だから目標はあいつらがこれない所」


 どうしょうもないでしょう。と笑ったけれど、石上くんはただ首を横に振ったので何だか肩透かしを食らってそれ以上笑えなくなった。
 千影が浪人すると決まった時、律が爽やかなはずの笑顔で「じゃあ、一緒の大学行こう。大丈夫、俺勉強教えるし」とか言ったのだ。千影にとって律も充も弟のようなところがあり、絶対に優位に立っていたい。勉強なんて教わっている場合じゃない。あの律の笑顔が悔しくて、それが千影の原動力になっている。その問題の受験生になった幼馴染は、まだ部活に精を出している。


「石上くんは?やっぱ目標とかってあるの?」

「僕は……、僕もないかな」

「そっか」


沈黙が生まれてしまった。けれど石上くんと共通の話題もなく、とにかくどうしようかと考えをめぐらせて千影は思いつくままに喋ろうとした。普段、律や充といるときはさほど気にならないが、特に親しくもない人間といる時の沈黙ほど耐え難いものはないのだ。


「この間さ、その幼馴染が喧嘩したの。原因なんだと思う?教科書の落書き。バッカじゃないのって話でしょ」

「……浅井さんて、よくその幼馴染の話をするよね」

「そ、そうかな。……不快に思ったらごめん」


 なにせそのくらいしか娯楽がないから。口を付きそうになった言葉を千影は慌てて噤んだ。けれど本当に相馬兄弟のことくらいしか日々楽しいことがない。毎日予備校と家の往復なのだから。それに、こんな話をするのは石上くんがいる時だけだ。話題に困るから。だから一番に浮かんだ充のことを話そうとすると律もついでについてくる。双子だからそれはしょうがないけれど、端的に言えば居心地悪いこの空気が悪いんじゃないだろうか。


「浅井さん、いつも楽しそうに話すね」

「ごめん。うるさくて」

「ううん。そういうところ、とっても素敵だと思う」

「あ、ありがと」

「そんなところが、すごく好きなんだ」

「……あ、りがと?」


 何だか話が変な方向に向かっていないか?何で石上くん顔を逸らしてちょっと赤くなってんの?
 湧き上がる疑問で頭が混乱しているのを見計らったかのように石上くんはぽつりと呟いてくれた。千影の頭はフル回転するがその意図を図れず、思わずぽかんとした顔で彼を見つめてしまった。


「好きなんだ、君のこと。ごめん、こんなこと言って!」


 千影がようやく意味を取った時には石上くんは踵を返して、屋上のドアの向こうに消える所だった。こういう場合、律だったらどうすればよかったか知っていただろうか。充だったら対応できただろうか。初めての告白というイベントに千影はただ呆然としているしかなかった。










 一日中石上くんの言葉が頭から離れず、千影はいい加減イライラしてきた。勉強も手につかずそれがイライラの原因を作っているのだろうと分かっているけれど、このイライラを誰に当てればいいのか分からない。ていうか、告っといてなんで逃げていくんだ石上くん。湯上りのほかほかした体で髪の水気を取りながらベッドの上でぼんやりと考えていると、廊下から足音が聞こえてきた。


「千影ー。律君と充君よ」

「こんな時間にぃ?」


 こんな時間と言ってもまだ九時を少し過ぎた所だ。今日は勉強が手につかなすぎて諦めてお風呂で丹念にケアしてしまった。
 ノックも何もなく部屋のドアが開いたと思ったら、同じ顔が二つ似たようなジャージ姿で入ってきた。物心つく頃から一緒の幼馴染だから文句を言うつもりもないけれど、いい加減年頃なので何か言った方がいいのだろうか。


「女の子の部屋にはノックして入ってくださいー」

「千影荒れてるね。何かあった?」

「べっつに」

「甘いもん食いすぎて太ったとか?」


 ジャージに手を突っ込んで髪が茶色い弟が机の上を漁りながら言うので、丁度手元にあったドライヤーを投げつけてやった。けれど狙いは頭を外れて背中に当たる。その瞬間本気で当てる気がなかった千影はやばいと思ったけれど、すぐ隣で黒髪の兄が「ざまぁみろ」と言った。兄弟喧嘩でもしているのだろうか。けれどそんな様子もなく二人は入ってきたので違うのだろう。


「痛ってぇな!」

「あんたね、もっとデリカシーとかって言葉を覚えなさいよ!」

「もっと女らしくなってから言えよ」


 にやっと笑った充の顔を見て、千影はふと思い出した。もう半年ほど前になるだろうか、十一月だ。この兄弟に告白された。確かあの時も少しだけ心を乱された。じゃあ去年の受験失敗はこいつらのおかげかなと責任転嫁してみたけれどそんなの気休めで、現在の問題に全く関係ない。


「……私って、意外にもてるんだ?」

「「もしかして、告白された?」」

「ハモんな!」


 見事に正解をハモってくれた兄弟を怒鳴りつけて、千影は口を噤んだ。そういえば律って私のこと好きなんだよなと思って顔を見たら、なぜか爽やかに微笑まれた。慌てて顔を逸らすと、同じ顔がにやにやと同じとは言えない笑みを浮かべている。なんだか追い詰められている気がするのは何故だろう。何故か律が顔を近づけてきて思わず体をそらすと、挟むように充が座っていた。三人の体重にベッドが重そうに軋み嫌な音を立てる。


「ちょっと、ベッド……」

「誰?誰に告られたの?」

「何、律しつこい」

「教えてくれれば代わりに返事してやるよ」

「「『千影は俺が好きだからお前のものにはならねぇよ』って」」


 左右から交互に言われ、最後はステレオで囁かれるように言われて千影は僅かに顔を染めた。学校内でもてもて兄弟と言うのは嘘ではないので、もちろん顔はいい。幼馴染にそんな芸は聞かないと怒鳴ってやりたい所だが、それを理解しているこいつらはずるい。それに、いろいろと間違っている台詞だ。
 逃げるように千影はベッドからズルズルと滑り降りて机の椅子に座りなおし、ベッドで肩を寄せ合っている双子を睨み据えた。


「余計なお世話よ!そもそも私は律のこと好きじゃないってば」

「……千影さ、年頃の女の子としてどうなの?自分のこと好きだって言ってる男に向かって言うこと?」

「俺は間違ってるって言わねぇんだ」

「あんたは心にもないこと言わないの!ともかく、私の問題なんだから口に出さないの!」


 確かにちょっと悩んでいたけれど、こいつらをみていたら馬鹿らしくなった。何だか吹っ切れた気持ちになって千影は大きく数度頷いた。目の前の双子がそっくりに不機嫌な顔をして口を尖らせるが、これは不満なんじゃなくて「つまんねぇの」と言う顔だ。


「千影、一つだけ!オーケーするの?」

「しないよ」

「ま、俺より格好良くなかったってことか」

「つまり俺よりも格好良くないってことだろ?」


 充のにやりとした笑みに対して律が爽やかに笑った。はずなのに、その顔に浮かんだ表情はそっくり同じだった。違うといってやろうかと思ったけれど、これ以上言っても無駄だし埒が明かないのでやめてベッドに座る双子を交互に見た。充の茶髪がプリンになりかかっている。


「充、プリンだよ?つーかあんたたち何しに来たの?」

「「別に。ひまだったから」」

「……だから?」

「「千影と遊ぼうと思って」」

「あんたたちも受験生でしょ!?帰って勉強しろ!!」


 受験生の癖に余裕をこいているのか自覚がないのはしれっとハモって言ってくれた幼馴染に千影はイラッときて机の上のテキストやら筆記用具やらを手当たり次第に投げつけた。咄嗟に双子はベッドの上のクッションを楯にして、「また明日」と帰って行った。明日も来る気か。ばたんと閉まったドアにおまけとばかりにぬいぐるみを投げつけて、千影は肩で息を吐き出した。あのぬいぐるみは初めて律と充が誕生日にくれたものだ。


「……ごめん、イヌゴン」


 投げつけたぬいぐるみを拾って謝って、ふとベッドの上を見るとごちゃごちゃ散らかっている。自分でやったとはいえこれはちょっと面倒くさい。なんてことをさせたんだと幼馴染に責任転嫁して、千影はのろのろとテキストを片付け始めた。










 最後の授業が終わってから石上くんを屋上に呼び出した。ここならば人に聞かれる心配もないし誰かが来る心配もない。本当は二人きりになるもの気まずいかなと思ったのだけれど、初めから気まずいのでこれ以上悪くなることはないだろう。
 少し長引いた授業の後に屋上に小走り気味で行くと、もう石上くんは待っていた。五月はまだ日は長くなく、屋上は見事にオレンジ色に染まっていた。


「遅くなってごめん。呼び出しておいて最低だね」

「僕も来たばかりだから気にしないで」


 なんだか優しいので、ちょっと心が揺らいでしまった。普段なら「遅ぇ、何か奢れ」とか「遅いから迎えに来ちゃった」とか言ってくれるものだから、優しく接されるとどうしていいか分からないのが正直なところだ。そもそも、何であんな奴好きになっちゃったんだろう。


「あのさ、昨日の話なんだけど……」

「うん」

「私、好きな人いるんだ。だから……ごめん」

「僕のほうこそ、いきなりごめんね」

「……でも、ありがとう」

「こちらこそ、真剣に考えてくれてありがとう。もう暗くなるし送ってくよ」

「だ、大丈夫だよ」

「女の子なんだから気をつけないと。行こう」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 別にいいかなと思って千影は頷いた。さっきまでオレンジだったのに、あっという間に暗くなってきている。空に一番星を見つけた。千影は歩きながらポケットに手を突っ込んで、とりあえず居心地が悪いからまた口を開いた。口を開いて出てきたのは、やっぱり幼馴染の双子のことだった。


「そうそう、昨日ね。幼馴染が夜来たの。何しに来たと思う?」

「たしか一つ下だよね?勉強教えてもらいにとか?」

「暇だからだって!」


 階段を下りて、並んで歩く。そう言えば最近人と歩くことなんてめっきり少なくなったから随分と久しぶりだ。高校の頃は友達と毎日帰っていたけれど、予備校じゃ帰る友達もいない。でも石上くんと友人感覚はまずいかな。ちらりと見ても、石上くんは笑っているだけだった。階段を下りて校舎を出ると、車はライトを点けて走っていた。


「この暇人がって感じ!」

「わぁるかったな」

「折角迎えに来てあげたのに」


 校舎を出てすぐに、千影の言葉に呼応する声が二つあった。もちろん石上くんじゃない。まさかこんな所にいるとは思わなくてぎょっとして声がした方を見ると、同じ顔をした双子が校舎の壁にもたれかかっていた。一方の茶髪は不機嫌にポケットに手を突っ込んで。一方の黒髪はにこにことポケットに手を突っ込んで。


「な、何であんたたちがここにいんのよ!?」

「俺の千影に告った命知らずを見ておこうと思って」

「「暇だったし」」

「……変なところでハモんな」


 双子は興味深そうな同じ顔をして石上くんを下から順に眺め、にやにやと数度頷いた。本当にそっくりな奴等に呆れを通り越して苦笑を浮かべ、千影は腕を伸ばして高い所にある二つの頭を一緒になでた。終わる時間も教えていないのに心配して見に来てくれたのだろう。不器用な兄弟だ。


「あの、浅井さん。この人たちが……?」

「うん、幼馴染……」

「「悪いけど、俺たちが一緒に帰るから。バイバイ?」」


 困惑を瞳の奥に覗かせる石上くんにそっくりの意地悪な笑みを浮かべて、律と充が同時に言った。髪の色が違わなければ見分けが付かないだろう。充が千影の持ってる鞄を強引に奪い取り、律が千影の手をポケットから無理矢理出して繋いだ。千影が「あんたたちね……」と怒った声を出すけれど千影に負ける訳がない。聞かなかったことにして歩き出した。手を繋がれているので千影も足を進めなければならず、申し訳無さそうに眉を寄せて石上くんに別れを告げた。


「また明日ね、石上くん」

「うん、また明日……」

「「千影、明日遊び行こ」」

「馬鹿じゃないの!つーかあんたたち終わる時間誰に聞いたの?」

「「おばさんが迎えに行くって言ったら喜んで教えてくれた。それから、今夜はうちですきやき」」


 池上くんみたいな無条件の優しさにも少し憧れるけれど、やっぱり慣れたこの不器用な優しさが一番心地いいのだと気づき、千影は微笑んで律の手をぎゅっと握って充の手て無理矢理繋いだ。





-END-

律が段々充に似てきた……?