相馬兄弟の家は極普通の建売一軒家で、住宅街の中にある。だからそんなに広いわけではないが特に狭い訳でもないという典型的な家庭だった。だから、相馬家の次男・充は隣に立って興味深そうに家を見上げる友人が不思議でならなかった。
「これ、何人住んでんの?」
「四人だけど……」
すごいね、と半ば本気で言っている澄那を、充は追い返そうかと思った。雨で部活がなくなり、どうしようかと帰りのHRのときに呟いたらそれを聡く聞きつけた澄那が家に遊びに来たいと言い出した。別に拒絶する理由もないので了承したが、こんな反応をされるんだったら拒絶した方がよかったかもしれない。
あまり外観だけで驚かれてもあれなので、充はさっさと家の中に促すことにした。中なら近所の人に見られる心配もない。とっととステップに上がって傘を閉じ、玄関のノブを捻った。危ないから鍵は掛けておけと言われているのに、今日も開いている。
「ただいまー」
「律?充?おかえりなさーい」
「お邪魔します」
リビングから姿も見せず、母親は声でも息子の判別ができないのでとりあえずおかえりとだけ言った。昔は自己主張で自分の名前を叫び返すのだが、中学に上がってからはどうでもよくなって返事をしていない。玄関にも驚いている澄那をさっさと上げて、充は傘立に傘を突っ込んで靴を脱ぎ捨てた。
玄関から入ってすぐ横にある階段にさっさと澄那の背中を押して促すが、澄那は几帳面に「お母さんにご挨拶は」とか言ってくれた。見た目がチャラくて不良代表の癖に、どうしてこいつは変なところが几帳面なのだろう。
「つーか俺、手土産も持ってないしね」
「いーよ、いらねーよ。いいから上行け上!」
「二人で何騒いでるの?あら、お友達?」
澄那の背を押して階段を上っていると、双子が騒いでいると思った母親が煎餅持って出てきた。けれどすでに充は階段を半分ほど登っていて、彼女に見えたのは二人分の背中だけだっただろう。けれど双子の見分けは付かなくとも流石に息子と息子の友人の見分けはつくのか、彼女は目をぱちくりさせた。
母親の様子を端目で一瞥したが何も言わず、充は自分たちの部屋に澄那を押し入れた。バタンとドアを閉めて、やっと一息入れる。荷物をその場に下ろして座り込むが、澄那は立ったまま物珍しそうに部屋を見回していた。別に物珍しいものはないはずなのだが、一体何が澄那の気を引くのだろう。
「え、ここ兄と一緒なの?」
「そうだけど」
「狭いね」
「余計なお世話だ」
「だって天井低いよ?」
「何と比較してんだテメェ」
すごいすごいと連呼する澄那に声を低く唸り、兎に角澄那を座らせた。座ってもまだ興味深そうに部屋を見回す澄那の気が知れない。もう勝手にさせておくとして黙っていると、階段をトントンと上がってくる音が聞こえた。待たずにドアが勝手に開き、文句を言おうと開いた口は、言葉を発する前に母の声に掻き消された。
「いらっしゃい。ごめんねぇ、汚い部屋で」
「お邪魔してます。充の友人の崎沼と言います」
「いつも馬鹿な息子が迷惑かけるでしょ?」
「いいえ、馬鹿な子ほど可愛いといいますし」
「テメェ何失礼なこと言ってんだよ!」
「だって本当のことだし。悪態吐くくらい好きだよ?」
「気持ち悪いっつの!」
お茶とお菓子を充の今にも雪崩が起きそうな机ではなく綺麗な律の机に置いて、母は邪魔だと判断して笑いながら立ち上がった。時計を見てそろそろ夕食の準備でもしようかなと思い立ち、ついでに思いついてまだ言葉を交わしている息子たちに声を掛けた。
「崎沼くん、よければうちで夕食食べていかない?」
「え?」
「ねぇ充、いいわよね?」
「いいんじゃねぇの。いつもこいつコンビニ飯ばっかりだし」
サラッと充は言って困惑気味の澄那を見た。朝食はろくに食べないし昼はコンビニだったり外食で、夕食も似たようなものらしい。話に聞いただけだから真実かどうかは知らないけれど、どうせ暇だから別に。澄那が困っている姿を見たかったというのもあるが、充が賛成した途端に「それじゃあ」なんて笑ったので少しあてが外れた。
それじゃあご飯にするわねーと言って部屋を出て行った母に溜め息を吐いて、充はごろりと寝転がった。相変わらず澄那は物珍しそうに部屋を見回し、充の机に向かうと上に乗っている本を持ち上げたり物珍しそうにしている。
「お前、どんな家住んでんだよ」
「え?」
「別にこんな部屋、普通じゃん」
机もベッドも本棚も天井の高さだって普通の家庭と同じはずだから澄那が何を羨ましがっているか分からない。それとも充には普通のことだけれど澄那には違うのだろうか。そういえば昔、律とひどく喧嘩して一人部屋が欲しいとごねたことがあった。それと同じことなのだろうか。
「あったかいよ」
「は?」
「雰囲気がさ、あったかい」
「意味わかんねぇ」
「いいよ、分からなくて。俺の感想だし。さて、充のエロ本でも探そうかね」
「やめろ!」
「そういう本も共用なの?」
いそいそと本棚の前にしゃがみ込んだ澄那に近くにあったクッションを投げつけて充は叫んだ。確かにお年頃だしそういうものに興味がないわけじゃあない。けれど友達に漁られて楽しい訳がない。せっかく必死に隠しているのに。馬鹿じゃあねぇのと悪態を吐いてそっぽを向くけれど、澄那は「充真っ赤〜」と笑った。
「もう寝る!」
「膝貸してあげよっか」
「いらねぇよ!」
照れ隠しにその場に充が寝転がると、澄那は探す手を止めて充を上から覗き込んだ。怒鳴るみたいに澄那を睨みつけて目を閉じてしまった充に苦笑し、勝手に膝の上に乗せた。それでも充が文句を言わないので、そのままにしてさっき本棚から勝手に取った漫画をパラパラと開く。
下から足音が聞えてきた。重さから澄那は兄が帰って来たかなと辺りをつけたが、本から目を離しはしなかった。すぐにドアが開いて、膝の上に乗っているのと同じ顔が不機嫌を形作って覗いた。
「こんにちは〜」
「…………」
「お邪魔してます」
「……ごゆっくり」
律は澄那の膝の上の充をちらりと見て目を眇め、短くいうと荷物を置いただけで部屋を出て行ってしまった。澄那は嫌われているなぁと思う。学校で友達が充くらいしかいない人間には兄もそんな態度だろうと分かるから傷つきはしないけれど苦笑が浮かんでくる。
だから、澄那は充が羨ましくてたまらない。こういう暖かい空間が自分でも欲しくてしようがない。手に入らないと、知っていながら。
下から「ご飯よー」という声が聞こえて、澄那は充を起こしてダイニングへ行った。いつの間にか着替えたのかジャージ姿の兄は既に席に着いていて、男性の姿は見えないので父親は不在なのだろう。多分澄那の示された席はその父親の居場所だ。リビングとダイニングを見回しても、澄那には羨ましいと思った。家族がいるという確かな温度が、この空間にはある。
食卓には湯気を立てる煮物ととんかつが乗っていた。運ばれてくるご飯と味噌汁は食欲を誘う匂いだった。
「「いただきます」」
「いただきます」
手を合わせるのもそこそこに声を合せて同じモーションで箸を持った双子に思わず澄那は吹き出しそうになった。席の関係上双子が揃って目の前にいるのでよく見える。同じ動きで同じものに箸を伸ばす仕草なんて、打ち合わせでもしているんじゃあないかと思えるほどだがこの家では普通なのだろう。
こういう雰囲気が澄那は羨ましいと思う。家族がいて当たり前のように一緒に食卓を囲み、他愛ない会話ができることが自分にはもうできないから羨ましい。けれどきっとそれに充も律も気づいていないのだろう。だからこれが普通といわれる所以だろう。
「律」
「ん」
充がご飯の詰まった声で律を呼んだ。いつもの澄那なら口にもの入れたまま喋らないと一言言ったけれど、ここは充の家なので今日は何も言わないでおく。ただ名前を呼んだだけなのに律は何も言わずに自分の近くにあったソースを充に手渡した。それを充も無言で使う。こういうやり取りが双子なのだろう。以心伝心とはこういうことだろうし、実行されているのは澄那が見たのはほぼ初めてだった。
「……すごいですね」
「双子だからねぇ。昔からこんな感じよ?」
「なんか羨ましいです。ご飯もおいしいし」
「本当?お口にあってよかった」
にこっと笑う友人の母に澄那は笑いかけた。こんな母親だったら自分ももう少し充みたいに明るくなれただろうか。否、兄を見ているとそんなことはないだろう。一人で完結して澄那は黙ってご飯を口に運んだ。ゆっくり食べていると、目の前の充の箸がひょいと動いた。隣の皿からトンカツの真ん中を器用に摘み上げて、自分の皿に移そうとする。
「真ん中もーらい!」
「させるかバカ充!」
しかし一度持ち上げたところで律の箸が動いて取り返した。更に充の皿から端っこを一枚奪い、口に放り込もうとする。それを今度は充が止めるために律の腕を掴んで無理矢理自分の口に入れた。微妙な力の攻防が目の前で繰り返されているが、これが日常らしくとなりの彼女は動じなかった。
「充、俺のあげるからやめなって」
「放っておいていいわよ。いつものことなんだから」
「でも……」
「ただのじゃれあいよ」
澄那が上げるからと言っても充は完全に聞いていなかった。高速で箸とトンカツの応酬が行われているのを見ながら澄那はこれが家庭と言うものかと自分を納得させた。兄弟の無邪気なじゃれあいがこれなのだとしたら、見ているだけでいいかもしれない。
しばらく待っていると本当に決着がついたのか、結局トンカツは元に戻っていた。いつの間に食べていたのか澄那は気づかなかったけれど二人の食事は進んでいた。やっぱり澄那にはこういうのは似合わないから、見ているだけでいい。
「男の兄弟ってこんなもんなんですかねぇ」
「そうなんじゃないかしら。昔っからこんな調子だもの」
「にぎやかでいいですね」
「うるさいわよぉ。崎沼君は兄弟とかいるの?」
「一応弟が一人。でもこんなに兄弟仲良くないですし」
「「良くねぇ!」」
世間話がてら澄那が笑うと、正面からステレオで怒鳴られた。びっくりしているところに母親の叱る声が聞こえたが二人は全く聞いていないようだった。澄那はにらみ合っている同じ姿かたちの友人たちを見て、笑って味噌汁を飲んだ。出汁が良く取れていて美味しい。
「うん、兄はこっちの方が素なんだ」
「「は?」」
「学校で聞いたことない言葉遣いとか、充にだけしか見せない面?あるでしょ」
「べ、別に……」
「充はいつでも一緒だけどね」
家でだけ出せる面があるというのは羨ましいけれど、多分普通のことだ。誰にでもあるはずのこの普通のものが充にないのは本来無邪気な性格だからだろう。兄も弟も同じように羨ましい。ただ今日はずっと澄那はこの羨ましいという感情を持て余している。
食事を終えて、澄那は手を合せた。それを待っていたかのように今度は大皿に盛られた林檎が出てくる。刺さっている楊枝にまず手を伸ばしたのは、目の前の兄弟二人分。
「今日は面白いものみれたわ」
「「は?」」
「素の相馬兄」
見る間に減っていく林檎を一つとって、澄那は笑った。兄弟仲がいいからなのか二人は食べる早さも競っているようにすごい勢いで林檎を食べている。普段からのうのうと一人自分勝手に生きている澄那には分からないけれど、兄弟とはこういうものなのだろうか。ただこれが普通の家庭なのだろう。胸にほんわかくすぐったくなるような、そんな感覚を今日何度味わっただろう。
「いいなぁ、やっぱり」
「澄那、お前明日学校来る?」
「ん?分かんない」
「来たら数学テストだって」
「あら充、ちゃんと勉強しなさいよ。あんた律より頭悪いんだから」
「数学は俺のがいい!」
「理系科目だけだろ!ほかは俺のがいい!」
いきなり喧嘩を始めてしまった兄弟に澄那は笑った。何がきっかけになるか分からない口喧嘩は見ていて楽しいものなのだと今気付いた。言葉に遠慮がないけれど裏もなく、兄弟にはただのじゃれ合いなのだろう。
携帯がポケットの中で振るえ、澄那は無造作に取り出してフリップを開いた。着信したメールを確認して、珍しく弟からのメールでビックリした。
「澄那?」
「悪い、帰るわ」
「遅くまで呼び止めちゃってごめんね」
「いえ。ごちそうさまでした、美味しかったです」
「またいつでも遊びに来てね」
後片付けを始めた母親に挨拶して、澄那は携帯をポケットに突っ込んで玄関に向かった。見送りにきた充がポケットに手を突っ込んで、玄関の外にまで出て来てくれる。その充に澄那は手を振った。けれどなぜか充は不機嫌な顔をしている。
「じゃね、充。何その不満そうな顔。俺に帰って欲しくないわけ?」
「林檎律のが一個多く食ったんだよ。さっさと帰れ」
「うん、おやすみ。またね」
ぱっと笑って澄那は充に背を向けた。後ろで充の「千影ー!」という大声が聞えたけれど振り返らない。弟から来たメールは父が珍しく帰宅したから返って来て欲しいというメールだがそれに従う気はサラサラない。やっぱり暖かい家族は自分に縁がなく、たまに触れれば羨ましく思うけれどどうやら傍観者でいたいようだ。だったらきっと、いつまでも充は澄那の憧れなのかもしれない。
さて、これからどこにいこうか。
−END−
兄弟喧嘩の原因は大抵不明。