天井に上っていく紫煙を何とはなしに目で追いながら、気だるさを訴える腕を難儀しながら持ち上げて時計を確認すると九時を過ぎていた。特に意味を持たせて時計を見たわけではなかったのでパタリと手を落として更に紫煙を生み出した。九時になろうが朝帰りになろうが文句を言われないのが一人暮らしのいいところだ。


「そう言えばさ、アズミと別れたって本当?」

「いつの話だよ、それ。随分前だぞ」


 体を寄せながら問われて、何を今更と軽く目を見開いて彼女を見ると「だって克利っていつも遊んでくれるから本命といつ遊んでるか分かんないもん」と言われた。人を遊び人みたいに言うなと言いたい所だが他人から見れば遊び人そのものの行動でしかないので反論せずに、代わりに半分ほどになった煙草をベッドサイドに備え付けてある灰皿に置いてさっきまで猥らに交わっていた腰をぐっと引き寄せた。「きゃっ」と悲鳴を上げるけれどその声には僅かに笑みが含まれている。


「ちゃんとコミュニケーションとれよぉ。そんなんだから本命に逃げられるんだぞ」

「うっせ。ちゃんとこうして取ってるじゃねぇか」

「さいってー」


 抵抗しない体をつかんで重い自分の体を持ち上げた所で、灰皿の隣に置いてある携帯が振動した。これからがいいところなのにと思い切り不機嫌に顔をしかめるとそれは下のひかりも同じことのようで、うつ伏せに腰を上げたままこちらを睨んでいる。メールかと思ったら携帯は着信の色に光っている。こんな時間に一体誰だと携帯に腕を伸ばすと、ディスプレイには『親父』という文字が刻まれていた。珍しい。


「もしもし?」

『克利か?久しぶりだなぁ。父さん今東京駅にいるから早く帰って来いよ』

「はぁ!?東京駅ってどういうことだよ」

『お前にプレゼントもあるから楽しみにしてろよ。じゃ、ばいちゃ』


 ぷつっと切れた電話に思わず呆然とする。ばいちゃってなんだ、ばいちゃって。いい年こいた親父がぶってんじゃねぇ。父親のおかしい言動に固まっていたのかひかりに不機嫌に名前を呼ばれて自分が置かれた現状を思い出した。目の前の状況は美味しいけれど、今はそれだけじゃない気がするので体を起こして脱ぎ捨てたシャツを拾い上げて慌てて袖を通す。


「ちょっと、克利?」

「悪い、今日帰るわ。お前ここ泊まってもいいし」


 慌ててサイドテーブルの携帯と煙草をポケットに突っ込んで鞄を引っ掴み、着替えもそこそこにひかりの怒った声を聞きながらホテルを出た。このホテルから家までは歩いて十五分、東京駅からどんなに乗継が良くても二十分はかかるはずだ。余裕で帰れると確信しながらそれでも早足で歩きなれた帰路を進む。
 高橋克利二十一歳。現役で中堅レベルの大学に合格し順調に現在三年。四つの頃に母親と死別し、それ以降父と二人で生活していた。大学入学と同時に父が地方に転勤となり、克利だけが家に残って優雅に一人暮らしを満喫している。仕事で忙しい父は正月以外帰ってこないし連絡もくれないが、慣れてしまえば何のことはなかった。今は彼女はいないけれどセフレの女の子はたくさんいる。暗くはないけれど刺激もない、そんな日々が一生続くと思っているしそれでいいと思っている。
 一人暮らしするには少し敷居が高そうな駅からそこそこ離れたマンションに入ろうとしてたところで人影を見つけて、思わず目を眇めた。こんな時間に制服を来た少女がこの辺をうろついているなんて妙だと思いながらも関わる気はないので気づかれる前に視線を逸らす。同じタイミングで少女の視線を感じて、教科書やらが入ったプラスチックケースを抱えなおしながら目が合わないように足早にマンションの自動ドアを潜って郵便受けを確認する。ピザの割引券がついたチラシと宗教勧誘のチラシを取り出してポケットに突っ込みながら奥のエレベータを目指すとさっきの少女が付いてくるのが見えた。別にストーカーとか自意識過剰なことは思わないでこっちの用があるだけなんだと思うことにして、チンと降りてきたエレベータに乗り込んで五のボタンを押す。乗り合わせた少女はにこにこ笑って黙っていた。妙な気分になって無意識にポケットに突っ込んだ煙草を取り出すけれど、エレベータなんて密室で吸えるわけもないので大人しく左のポケットに移動させるだけに留めた。
 息苦しくなった頃漸く五階にエレベータが止まる。いつも三階から乗ってくる男性はいつも苦手だったが今日はいて欲しかったと心底思った。足早に降りて自分の部屋に向かうけれど、何故だか少女も付いてくる。本当にストーカーじゃねぇの、俺こんなガキになんかしたっけ。思い当たることを探してもある訳がなくて首を捻りながら『TAKAHASHI』と書いてある誇り塗れの銀のプレートを端目で確認して鍵を差し込む。鍵が開いていた。親父のほうが先に帰って来たのかと苦々しい顔をして玄関を開けると、まず目に飛び込んできたのはダンボールの山だった。何、これ。


「克利?それとも恵ちゃん?」


 誰だよ、めぐみちゃんて。中から聞こえてきた親父の声に首を傾げ、履き潰したスニーカーを脱ぎ捨ててダンボールを避けて上がろうとするとストーカー少女が当たり前の顔で玄関のドアを閉めて入り込んでいた。


「おまっ!?不法侵入!」

「おー克利、恵ちゃんもお帰り」


 親父が奥からひょっこり顔を出した。この不法侵入少女が『めぐみちゃん』らしいけれど、名前が分かった所で誰かは分からないので問題の解決ではない。短い廊下に並べられている明らかに親父の荷物では多すぎる量のダンボールをどうにか乗り越えてリビングに辿りつくと、親父だけではなく一人の女性もいた。こちらに軽く頭を下げるので、状況を理解していないながらも頭だけは一応下げる。


「恵ちゃん、克利の迎えご苦労さん」

「ただいま」


 混乱している息子を無視して後ろから現れた女子高生に笑いかける親父に掴みかかりたくなったけれどどうにか抑えて、目眩を抑えるように米神に手をやった。本当に倒れてしまいたい。何、この状況。けれど親父は息子の混乱を完全に無視してソファに促すと女性の斜め前に座らせた。ずっと持っていたケースを隣に放り出して隣に座る親父を睨むと、何故か照れたような笑みを浮かべやがった。うざい。
 ストーカー少女改め恵が女性の隣に周り、克利の正面に座った。にこにこと見つめてくるので無意識に体が引いて背もたれに阻まれるのでせめてもの抵抗に視線を逸らしてみる。


「克利、紹介するよ。お前の父さんは俺」

「知ってる」


 何を当たり前の事を言い始めちゃってるんだこの親父。イラッときて吐き捨てるように言ってポケットから煙草とライターを引っ張り出した。イライラと口の端で引っ張り出しながら礼儀的に目の前の女性(と不法侵入少女)に吸ってもいいか聞くべきかとも思ったが自分の家なのでやっぱりやめて紫煙を肺一杯に吸い込んで気を落ち着けようとした。


「こっちは聡子さん、お前の母さんだ」

「………は?」


 たっぷり数秒、一度息を吸い込んで吐き出すまでの時間で考えてやっぱり理解できずに間抜けな声を漏らしてしまった。怪訝そうな顔に親父は不思議そうに「お前の母親だよ」と繰り返した。分かってねぇのはそこじゃないと叫ぼうとしたけれどもう近所迷惑になる時間なので代わりに紫煙を吐き出して、もう一度頭の中を整理する。「新しいお母さんよ」と言うのは父子家庭のドラマとかではよくある話だ。つまり、親父はこの聡子さんとやらと再婚したいと言う事なんだろう。なんなく正解を導き出して、分からせるように数度頷いて灰皿を引き寄せて早々に短くなった灰を落とした。


「分かった、つまり親父は再婚したいってことだろ?」

「いや、もうしてるんだ」

「は!?」

「一年ほど前に籍を入れたんだ。あっちで出会ってな」


  「別に言い出しにくかったとか、克利が反対するとか思ってたわけじゃないんだけど〜」と子供が言い訳するように口を尖らせた親父にイラッときた。こっちが「新しいお母さんなんて要らない」とでも言うと思っていたのだろうか。別に反対する理由なんてないし今までお互いに自由にやってきたんだからそれを貫けばいい。けれど結婚を事後承諾ってなんだ、しかも息子に。
 思わず口の中の煙草を噛み潰してしまい、口内に苦味が広がって眉を寄せる。と言うことは、もしかしてこっちの不法侵入少女は……。


「でな、こっちが恵ちゃん。お前の妹だぞ」

「恵です。高校二年、十六歳です!」


 何が嬉しいのかにこにこと自己紹介してくれた不法侵入少女――恵に思わず自分も名乗らなければならないのかと思ったけれど、口から出たのは「ども」という何の感情も篭っていなければ関心もない台詞だった。僅かに淋しそうな顔を始めて会った母親だという女性がしたような気がしたが、フォローする気も起きなくて短くなった煙草を揉み消して欠伸を一つ。


「でな、父さんこっちに戻れることになったんだ」

「ふーん」

「だから四人でここに住むことにした。仲良くするんだぞ」

「………」


 にかっと笑った親父が何を期待しているのか全く分からず、沈黙して誤魔化す為にもう一本煙草を引きだす。銜えてからテーブルの上のライターに手を伸ばしたけれど触れる前に何故かライターが消えた。さっと伸びてきた手を辿って視線を流せば、恵がライターを守るように胸の前で握っていた。


「何。返せよ」

「アメ食べる?」

「いるか。ライター返せ」


 制服のポケットからザラッと苺ミルクのアメを恵が取り出したけれどそれに目もくれずライターを睨みつけるような格好で唸った。聡子さんの「恵!お兄ちゃんに返しなさい!」と「克利、睨んでやるなよ」と親父の声が聞こえたけれどどちらも体勢を崩さない。長く感じたけれど実際は数秒にらみ合って、これ以上は埒が明かないのでチッと舌を打って隣に放り出したケースを抱えて自室に向かう。部屋になら使いかけのライターがあるのだから。
 部屋に戻って自分のベッドに倒れこんで机の上のライターに手を伸ばして握りこみ、火を点けてから安堵の息を一つ。何だか今日はどっと疲れた気がした。










 高橋家の間取りは二LDKであり、今までは克利の部屋と(数年使っていなかったけれど)親父の部屋に分かれていた。けれど今日は流石に親父がベッドの横に布団を持ってきた。部屋の電気を消して横になって特に積もる会話もなく黙っていると、不意に親父が口を開いた。


「克利、……起きてるか?」

「ん」

「怒ってないか?勝手に再婚とかして……」

「別に。ただ事後承諾はやめろよ」


 気のない声でそう言うと、親父は心底安心したように息を吐き出した。きっと親父にも色々あったんだろうなと思いながら思っただけで特に感心する訳もなく親父に背を向けるように寝返りを打つ。


「お前には小さい頃から淋しい思いをさせてしまったからな」

「………」

「恵ちゃんはお兄ちゃんが出来たことが嬉しいんだ。仲良くしてやってくれ」

「………」

「……寝ちゃったか」


 起きていたけれど変事をする気にもなれずに黙っていた。あの不法侵入少女はまず第一印象が怪しかったし、第二印象もライターを頑としても返さなかったことで最悪に近い。もともと人に気を使うタイプじゃないし仲良くするのは難しいだろう。ライターは聡子さんが恵が風呂に入っているうちに取り上げてとてもすまなそうな顔で部屋まで持ってきてくれたけれど、その後で風呂上りのあいつがチュッパチャップスをベッドで雑誌を読む頭に投げつけたので何一つプラスにはなっていない。
 そう言えば明日は午後からの授業なのになんでこんな早くに寝てるんだろうと類を見ない自分の行動を今更ながら訝しんで、けれど起きるのも億劫なのでそのまま目を閉じた。





-続-

どーしてうちの息子達はニコチンで解決しようとする?