これは夢だ。母さんは克利が四つのときに死んでしまったから、ここにいるのは四つになる前の俺のはず。温かく懐かしい香りに包まれて心地よく、どこよりもここが安全なのだと信じた。友達は母性に飢えてるとか言うけれど、それはきっと違う。女友達はこんなに安堵感を与えてくれないのだから。


「克利」


 呼び声が心地よく、けれど視界はただ真っ暗だ。次第に体を揺すられるような不快感を覚えて思わず眉を寄せた。うっすらと世界が明るくなった気がしたけれど向こう側が見えるほどでもなく、ただ鋭い光が差し込んできた。思わず目を強く瞑って寝返りを打つ。さっきまで真空に浮かんでいたような感覚を覚えていたのにも拘らず寝返りを打った感触がちゃんとあり違和感を覚えたけれど、考える前に思考を阻むような鼓膜を揺さぶるけたたましい音に邪魔された。


「…う……」

「克利!」

「……うるせぇ……」


 枕に顔を埋めたまま頭の上から聞こえてくる親父の声に不機嫌な声を上げて布団にもぐりこんだ。けたたましく鳴り響いている目覚ましを停めようと思って手を伸ばしたが、この部屋に目覚ましなんかない。そういえば親父が帰ってきたんだと改めて思い返して、携帯を探って時間を確認した。ディスプレイには七時と表示してあるし、着ていたメールを開いてみるとひかりからの恨み言が連なっていて今度埋め合わせしねぇとなとぼんやりした頭で考える。
 布団にもぐったまま昨日の一部始終を考えていたら苛々してきて、携帯の隣に腕を伸ばして煙草を探ったけれど見つからなかった。いつもと違う場所に置くわけがないからパタパタと手だけで探っていると、布団を引っぺがされた。


「……何すんだよ」

「もう七時だぞ、起きた起きた。朝ごはん冷めちゃうぞ」


 いろいろとつっこみたいところがあるが低血圧の回らない頭では反論できず、布団を奪い返すのも億劫なのでのろのろと体を起こした。こんな時間に起きたのは久しぶりで世界が違うように見える。たぶん気のせいだ。ベッドから降りて親父の顔を見て、やっぱり昨日のことは夢じゃなかったんだと思い直す。その証拠に、机にはチュッパチャップスが鎮座している。
 少し伸びた髪をかき回しながら欠伸を噛み殺してリビングに行く途中から食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきて、何だかくすぐったいような変な感じがした。リビングに入ると、聡子さんが長い髪を一つに結わいて、エプロン姿で忙しく動き回っている。リビングのテーブルではセーラー服姿の少女がトーストにかじりついていた。リビングのドアにいる人物に気づいて、聡子さんが少しぎこちない笑顔を浮かべた。


「おはよう、克利くん。朝ごはんはトーストでいいかしら?」

「……コーヒーで」

「克利、ちゃんとご飯食べなきゃダメだぞ」


 昨日までダイニングの椅子は二つしかなかったのを今恵が使っている。向かいには一人分の食事が用意されている。聡子さんはそこに座って欲しいようだが、普段から不規則な生活を送っている上に低血圧で寝起きに食欲はない。気だるい体でキッチンに行って、聡子さんが動いている間から自分のマグを取ってインスタントのコーヒーを淹れそれだけを持ってリビングのソファに移動した。一度マグをテーブルに置いてテレビを点けて、久しぶりに見る朝の情報番組に軽く驚きつつそのままソファに沈み込んだ。


「克利、学校何時からだ?」

「午後」


 ずずっとコーヒーを啜ったら、お湯が熱かったので口の中を火傷した。おかげで目は覚めたけれど、口の中がひりひりする。しょうがないので息を吹きかけてコーヒーを覚ましながらちびちび飲むことにする。ぼんやりテレビを見ながらふと隣を見ると、学生鞄と大きなバッグが置いてある。そう言えば恵は高校生だったと思い出し、ならばこちらの大きな方は部活の道具か何かだろうか。


「お兄ちゃん、おはよう」

「………」

「克利!挨拶」

「……はよ」


 ちょんと近づいてきて後ろからかけられた声を面倒くさくて無視すると、更に後ろから親父の怒鳴り声が聞こえてきた。「ごめんねぇ、恵ちゃん」などと猫撫で声を出すものだから舌打ちでも漏らしたくなって、呟くよりも小さな声で返事を返す。それを聞いて恵が満足そうに息を吐き出すのが聞こえて深い溜め息を零したくなったけれど、又文句が飛んできそうだったのでコーヒーをすすって誤魔化した。
 もう学校に行く時間だろうか、恵が荷物を持ち上げた。慣れた仕草で学生鞄と大きな鞄を肩に背負った。


「……お前、何それ」

「どれ?」

「そのでかいやつ」

「これ、テニスバッグ。あたしテニス部なの」

「……早く行けば」


 ものを知ってしまえば特に気になることもない。コーヒーをすすりながらそう言ってやると、恵はあからさまに詰まらなそうな顔をした。すとんと隣に座って何かを話し出そうとしたけれど、その前に聡子さんに「恵、遅刻するわよ!」と叫んだので出端を挫かれて悔しげに口を結んだ。


「行ってきます」

「待って恵ちゃん。お父さんも出るから一緒に駅まで行こう!」


 バタバタと騒がしく家を出て行った恵と親父に手を振るのも億劫で、立ち上がってダイニングのテーブルの上に律儀に置いてある新聞を広げてさっきまで恵が座っていた椅子にそのまま腰を下ろした。左手でマグの取っ手を持ち、記事を目で追っていく。今までと同じ行動にやっと安堵感を覚え、段々目が覚めてきた気がした。スポーツ面から社会面にめくりながら、ふと台所から食器のぶつかる音が聞こえてきて妙な気持ちがした。朝はお袋の夢を見るし、母親と言う存在に妙に期待しているのだろうか。柄でもねぇ。けれど友達がそこで洗い物をしていてもこんな気にはならない。それが少し不思議だ。


「ごめんなさいね、克利くん」

「……何が?」


 聡子さんの声が洗い物の音に混じって聞こえてきて、その意味を理解してから聞き返した。新聞から顔を上げると、申し訳無さそうで少し疲れた顔をした聡子さんの横顔が見えた。彼女は洗い物の手を止めると朝食の乗った皿を持って来て向かいの椅子に座った。皿を目の前に置いてくれたので申し訳なくて、トーストを手にしてみる。少し俯いて沈黙した聡子さんは、新聞を畳んで一口食べた時に小さく呟いた。


「いきなり来てお母さんだなんて、怒って当然よね」


 昨日から見ていた聡子の申し訳なさそうな顔を見て、彼女の心情を推し量って思わず呻いてしまった。昨日から不機嫌を貫いていたのが悪かったけれど、純粋に彼女を嫌悪する気持ちなどは持ち合わせていない。それどころか好意を寄せているといってもいい。けれど彼女は気にしているのだろう。きっとこちらに来る前から不安に思っていたに違いない。二十を超えた男がいきなり息子になって同居することになったのだから。しかも場所は、旦那が死んだ妻と息子と住んでいた家でありその息子にとっては親子三人の家なのだから。何の連絡もなく再婚し、一年も勝手に夫婦をやっている女が気に食わないだろうと考えているのだろう。


「……もしかしたら誤解してるかもしれないけど、俺いつもこんなだから。別に聡子さんが気に食わないとかじゃねぇし、朝から物食えないだけだし、いつもこんな生活だし」

「恵も迷惑じゃない?」

「別に。俺構われるのってあんまり得意じゃなくて」


 言葉を探すためにコーヒーを啜りながらゆっくり言うので聡子さんの表情の変化は簡単に読み取れた。言葉が進むにつれ安堵感に表情が和らいでいる。一杯のコーヒーを飲み終わることにはさっぱりとした顔になっていた。本来サバサバしている性格なのだろう、快活な表情が似合いそうだった。八時を過ぎて、学校に行くには早いが寝なおすにも遅すぎる中途半端な時間になっていることに気づき、空になったマグを置いて立ち上がった。


「俺、基本学校午後からだからほっといてくれると嬉しい」

「わかったわ」

「でも聡子さんのこと結構好き。あ、それ取っといてくれれば後で食うから」


 ハッキリしてきた頭でそう告げて、自室に戻った。久しぶりに早めに学校に行って、部室でのんびりとしているのもいい。今からメールすればたぶんひかりにも連絡が取れるから、機能の埋め合わせも出来る。
 考えながら部屋に入って、埋め合わせを本当にする必要があるのかと思い当たった。昨日は奢ってやってホテルに入って、何度かセックスして九時に分かれた。十分じゃねぇか?女心なんてわかんねぇなと内心で呟いて、ふと机の上のチュッパチャップスに気づいてポケットに詰め込んだ。










 昼前に学校についてボーリングサークルの部室にまず顔を出した。四年は授業がないし就活もあるからあまり学校に来ないので部室は三年の天下だ。実際はサークル内は仲が良いので天下も何もないのだけれど。顔を出すと、さっきメールをしたひかり以外にも数人の学生がだらだらしていた。


「高橋、珍しく早ぇーじゃん」

「まぁな。お前こそこんな時間に何してんだ?」

「俺は朝からいましたよ」

「朝帰りで直かよ」


 七時には学校に来ていたと頭を抑えた友人に笑って荷物を置いて空いている席に腰を下ろす。友人は昨日飲んでそのまま酔いつぶれてそのまま学校に来たようだ。昨夜の呑み会に誘われたが、ひかりと約束があって断ったので、多少居心地が悪かった。けれどそれ以上に居心地が悪いのは、ひかりが正面でにっこりと笑っている。


「克利、おはよう」

「……おはよ」


 思わず顔を逸らしてしまいその場にいた後輩も友人も揃って首を傾げたけれど、理由を話す気にもなれなかったので無視してポケットから煙草を引っ張り出してテーブルに出した。ついでにチュッパチャップスもひっぱりだして、思わずひかりの顔と見比べた。その行動に訝しんだひかりが「克利?」と呼ぶので、それを無造作に放ってやった。慌ててキャッチしたのを見てから、煙草を一本引っ張り出して火を点ける。


「やるよ」

「何、どうしたの?」

「貰った」

「それだけで埋め合わせたつもりなんだ」


 「ふーん」とつまらなそうに口を尖らせるひかりにムカついてキスしてやろうかと思ったけれど動くのも億劫なのでそのまま口の中で聞こえないように数言呟いた。俺、お前に埋め合わせする義理あったっけ。
 二人のやり取りを不思議そうに見ていた友人の立川が昼食のパンの中身を掘りながら口元を歪めて顔を近づけてきた。嫌な予感がしたので無視したかったけれどこいつは簡単にあしらえる奴じゃないのは友達を三年もやっていれば分かる。ポケットから財布を取り出して、隣に座っている後輩に渡した。


「何か適当に飯買ってきて」

「何系食べたいですか?」

「んー、米。あとコーヒー」


 後輩は「はい」と頷くと部室を出て行き、紫煙を吐き出しながらちらりと立川を見たらにやにや笑っていた。扉が開く音と同時に詰め寄ってくるつもりだろう、別に隠すつもりもないけれどあまり気分の良いものではない。というのも、もともと自分の話しをするのがあまり好きではない。人の話を聞くのもあまり好きではないので、もしかしたら人間が好きではないのかもしれない。けれど人間と関わろうとはしている。矛盾だ、なぜだろう。


「高橋とひかりって付き合ってんの?」

「あってないよ」

「いっそ付き合っちまうか。したら埋め合わせる理由も出来る」


 彼女じゃないから理由がないのだから、付き合ったら理屈は通る。嬉しいことにお互いに特定の恋人はいないし、身体の相性も良い。灰を灰皿に落としながらそう提案したら立川は「そうだよな」と簡単に肯定した。けれどひかりがにっこりと笑顔を浮かべてさっき渡した飴を投げ返してきた。


「絶対にイヤ」

「何でだよ。昨日だってでけぇ声だしてたくせに」

「私、彼氏にするんなら身体触らせないから。克利とはエッチした時点でカレカノにはなれないの」

「わかんねぇ理屈」


 女ってわかんねぇ。でもこれ以上言われても更に分からなくなるだけなのでそれ以上追求せずに煙草を灰皿で押しつぶした。分からないのだったら相応に接していけばいいのだから難しいことはない。
 返された飴をどうしようかと思いながら手の中で弄んでいると、買い物に行かせた後輩が戻ってきた。学食でテイクアウトしてきたあのパックはカツ丼か。漂ってきた匂いに空腹感を刺激されて良い感じだ。



「ただいまですー。カツ丼でよかったですか?」

「おぉ、サンキュ」

「それから先輩。坂口先輩が来てます」

「アズミ?」


 蓋を開けると、見事なカツ丼が湯気の中から現れた。割り箸を割りながらドアの所を見るとアズミが立っている。入ってくるように目で促して、昼食にありつくことにした。来る前にトーストを食べた割には上手く口の中に吸い込まれる。
 入ってきたアズミは躊躇いなく隣に腰を下ろして、じっと見てきた。一口欲しいのだろうか。つやつやと光る米を口元に運んでやったけれどアズミは口を開かなかった。不意に思い立ってテーブルの上のチュッパチャップスをアズミの目の前に出した。


「やるよ」

「……あめ?」

「俺甘いのあんま好きじゃねぇし」

「……ありがと」


 嬉しそうに微笑んだアズミの顔が思ったよりも幼くて、妙に可愛く見えた。となりで立川が「何で高橋別れちゃったわけ?」と言うが無視して缶コーヒーに手を伸ばした。確かに顔はいいしセンスも良いし、普段はとても良い女だと思う。けれどたまに、困った癖が出るのだ。それに嫌気が差して別れた。身体の相性もそれほど良かったと思わないので特に後悔していないけれど、アズミは納得していない。


「そだ、高橋今夜空いてる?男同士で呑みいかね?」

「パス。気分じゃない」

「克利は今日私と付き合ってくれるんでしょ?」

「は?お前何言ってんだよ」

「付き合ってよ!」

「分かった、分かったから落ち着け。立川、呑みいこう」


 俺たちもう別れただろとかお前と行く義理はないとか、そんな言葉を挟むのは得策とは言えなかった。彼女の華奢な肩に手を置いて立川の方を向いて了承の意を示し、アズミにはまた今度時間があるときにと頭を下げた。何か代わりとなるものを与えようとしたけれどそんなもの持っているわけもなく、一瞬固まってしまう。けれど珍しくアズミは「飴貰ったから許してあげる」と微笑んだ。この微笑みは可愛いんだけどな。
 後輩が「もうすぐ授業はじまりますよ」などと言ってくれるから、一緒に座ろうというアズミを先に行かせて後輩が慌てて出て行くのを尻目に残りのカツ丼をゆっくりと咀嚼した。





-続-

低血圧のご飯は液体です。