朝日が眩しくて目を覚ましていつものように一服しようとしたら、枕元に置いておいたはずの煙草がなかった。枕に顔を埋めたまま昨夜おいたはずの場所に手を探らせるけれど、一緒に置いた携帯とライターがあるだけで肝心の煙草はなかった。携帯で時間を確認すると十二時になる頃で、あと五分もすれば目覚まし機能も働くだろう。その前にベッドから降りて、机の引き出しに放り込んだ新しい煙草をあけた。


「……飴」


 煙草に火を点けて確認するようにベッドに視線を移すと、携帯とライター、そしてチュッパチャップスがあった。派手なピンクの包みが部屋の中で異色を放っていて、克利の持ち物でない事を主張している。やっぱり煙草はなくなっていたんじゃなくて盗まれたのかと紫煙を吐き出しながら舌を打ち、着替えてからリビングに向かった。
 平日なので親父も恵も出かけたのだろう、聡子さんがリビングで昼食の準備をしているようだった。そういえば、この時間までぐっすり眠れたということは掃除機をかけていないのだろうか。こちらに気づいた聡子さんは微笑むけれど、それが妙にばつが悪くて思わず目を逸らしてしまう。


「おはよう、克利くん」

「おはよ。……あのさ、煙草知らねぇ?」

「え?やだ、また恵かしら。ごめんね、克利くん」

「……あのさ、掃除機かけた?」


 ダイニングの椅子を引きながら訊くと、聡子さんはただ笑って料理を持ってきた。昼食を作る手間は相当だっただろうに、きっちりとご飯と味噌汁、おかずが揃っている。ありがたくいただきながら、後ろのポケットに突っ込んだ飴のおかげで座り心地が悪い。ふと、自分は上手く家族がやれているのだと思った。


「いただきます。別に俺に気ぃ使わないでいいのに。飯も残り物とかで全然いいし」

「そう?でもちゃんとご飯は食べないと」

「世の主婦は忙しいっしょ。これでも昔は俺が親父に飯作ってたんだぜ?」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 笑った聡子さんに思わず胸がきゅんとしてしまった。もしも母親が生きていればこんな感じだったのだろうか。絶対に叶う訳がないし母親の記憶なんてほとんどないけれど、何となく懐かしい気がした。けれど絶対に聡子さんに甘えることは出来ないんだろうなと漠然と思う。いつだったか立川が言っていた『母性に飢えてる』というのは案外当たっているのかもしれない。


「克利くん、好きな料理とかある?」

「何で?」

「やっぱり今度は克利くんの好きなものを作りたいもの」


 思わず「食えるもの」と答えかけて慌てて言葉を飲み込んだ。以前、アズミが料理をするというのでカレーを注文してみたら、驚くことにに磯臭い物体が出てきた。一体何がどうなったかは分からないけれど、あれは強烈だった。今の好きなものを考えても、卵焼きとかやきそばとか簡単に作れるものしか浮かばなかった。


「……カレイの煮付け」

「お煮つけ?お父さんと同じこというのね」

「親父が好きなものだから」


 親父が好きだった料理だから、当然カレイの煮付けは得意料理だ。最近は惣菜で済ますことが多いけれど、高校までは料理をしていたので親父の好みも手際も良い。だから他人に料理を頼んでも、あんまり手間の掛かるようなものは申し訳なく感じてしまう。
 変な空気になってしまったので話を逸らしたくなって、時計に視線を移す。意外に時計の針は進んでいた。一人で食事をしていると時間なんてのろのろと進むけれど、人がいると時計の針は変化する。


「やっべ、もう行かないと。ごちそうさま」

「行ってらっしゃい」


 バタバタと残りを掻き込んで席を立って食器を流しにつけ、洗面台で軽く身だしなみを整えて自室に荷物を取りに行く。一瞬ポケットの中の飴を出していこうかと思ったけれどそれも億劫で、そのままにしてライターを捻りこみながら部屋をでた。










 珍しく授業開始五分前に教室に行くと、横からいきなり腕を取られた。一体何事かと思ってみるとアズミがにこにこして腕に絡み付いていて、有無を言わさない勢いであらかじめ取っていたのだろう席に引っ張って行かれた。


「おい、何だよ!」

「この間約束破ったもの。今日は付き合ってよ」


 この間の約束、と数度口の中で繰り返すと先日確かに大教室の一番後ろの席で一緒に授業を受けようと約束した気がする。いや、アレは約束ではなく一方的な言葉だった。だから守ってやる必要はない、はずだ。
 今更動いても席は前のほうしか開いていないし、その前に掴まれた腕が異常に痛い。爪が食い込んでいるのが服の上から見ただけで分かって、「分かったから」と腕を振った。


「付き合う、今日は付き合う」

「ふふ、優しい克利大好きよ」

「そいつはどーも」


 思わず溜め息混じりに言うと、アズミは嬉しそうに笑った。付き合っていた頃と全然変わらない笑顔であるけれど、それだけに薄ら寒さを感じた。けれど、教授が入ってきたのでもう逃げられないし煙草も吸えない。大人しく覚悟を決めて、机の上に申し訳ばかりに筆記具だけを出した。


「克利は優しいよね」

「……優しかったらあんな振り方しねぇだろ」


 呟くと、アズミは首を横に振った。アズミとは二回別れた。一回目は付き合い始めて三ヶ月後、浮気が原因だった。アズミは可愛いけれど身持ちが硬く、軽い気持ちで先輩と寝たのがばれてアズミを泣かせ、振られた。けれど一ヵ月後には元鞘に収まって付き合いだし、二ヵ月ほど前アズミの性格に疲れ果てて別れを切り出した。理由は好きな奴ができたから。その嘘を、まだアズミは信じているのだろうか。


「優しいから、私のこと嫌いって言わないんでしょう?」

「別に、嫌いって訳じゃねぇし」

「そうなの?でも彼女の方が好きなんだ」


 嘘をついているわけではない。別にアズミが嫌いな訳ではないのだ。ただ、この強すぎる性格についていくのに疲れただけ。言い換えればヤキモチ焼きなのかもしれないけれど、度が過ぎた。あるとき浮気相手を脅しているのをみたときから、距離を置いていたのだろう。
 アズミの顔にふと寒気がするものが浮かんで、思わずアズミを抱きしめて「お前が好きだ」と言ってしまいたかった。それを口にするだけでアズミは満足して何もしないけれど、今ならばナイフを振り回してもおかしくない。もしも奈央と付き合っていると知ったらどうするだろう。彼女に危険が及ぶだろうか。そう思ったら本当にそう思えてきて、ポケットから携帯を引っ張り出して奈央にメールを送ろうとした。けれど何と送って良いか分からず結局やめてポケットに仕舞う。手に、飴の固い感触がした。


「飴、好きか?」

「あめ?」

「やるよ」

「最近よくあめ持ってるよね。彼女?」

「違ぇよ。いらねぇのか?」

「いるいる、ありがと」


 本当に迷惑な奴だと思う。人の煙草を勝手にどこかにやった挙句に犯行声明のようにチュッパチャップスを置いていく。せめて辛いものだったらいいのにどうして甘いものを選ぶのかが理解できない。きっと思考がガキなんだ。アズミに問い詰められてもどうしてか本当の事を言う気になれず、話をごまかす形になってしまった。けれど何となく親父の再婚なんて気恥ずかしいし、妹が出来たことも言いづらかった。


「お前、細いよな」

「だって克利が細い方が好きって言ってたから」

「俺のせいかよ」

「そうよ。私を調教したのは克利よ?」

「調教って……」


 「俺はどこぞのクラブの変態か」と苦笑すると、アズミが甘えるように体を寄せてきた。もう腕を回す資格がないもは分かっているので、ポケットに手を突っ込んだままで何もしない。確かにアズミの処女を奪ったのは自分だし、細い女が好きと言ったのもセックスに対して何も知らないアズミに趣味を押し付けたのもそうかもしれない。けれど調教といわれるほど何もしていない。


「お前がもっと反抗すりゃよかったんだよ」

「人のせいにしないでくださーい」


 隣でにこにこと笑うアズミはやっぱり可愛いと思う。顔も雰囲気も体も好みだ。けれどどうしても一つだけ受け入れられない。彼女の、狂気染みた愛情表現を。
 何だか無性に、煙草が吸いたくなった。










 授業終了後、今日は親に許可を取ってきたと笑った奈央と居酒屋に行った。いつもならここで軽く呑んで酔ったままホテルに行くのだが、今日は奈央が八時までだと言うのでその辺は諦めて強かに酔わせることにした。呑み放題で奢ると言って、とりあえずじゃんじゃん呑ませると奈央はすぐに赤くなった。


「お前、弱いなぁ」

「だぁってあんまり呑む機会もありませんでしたもん」

「赤くなって可愛い」

「からかわないでくださいよぉ」

「可愛いから食っちゃいたくなる」


 隣で赤くなっている赤い頬をつつくと、奈央は熱っぽく潤んだ瞳で見上げてきた。一瞬これは誘っているのかと思ったけれど奈央に限ってそんなことはないだろう。酒の力で濡れているだけだ。興奮しかけた自分を落ち着かせて、酒を煽る。


「奈央ってさ、処女?」

「なんでそんなにはっきり訊くんですか……」

「気になったから。何、恥ずかしい?」


 顔を覗いて訊くと、奈央は顔を真っ赤にして頷いた。恥ずかしいから頷いたのか処女なのかと言う質問に頷いたか判断は出来ないけれど、多分どっちもだろう。細く震える肩は男女交際が初めてだと語っているようで、壊れそうだけれどそっと抱き寄せた。付き合い始めたときのアズミみたいだ。また、同じ事を繰り返してはいけない。


「大丈夫、俺上手いから」

「そ、そういう問題じゃ……」

「優しいし」

「……先輩、イジワルですよ」


 蚊のなくような声で呟いた奈央の頭に一度唇を落とし、肩を放した。奈央には危険を伝えておかなければならない気がした。危険が降りかかるのは彼女のみであって、アズミは新しい彼女の存在を疑っているのだから。
 頭の中を整理する意味で煙草を吸おうと口に銜え、火を点けてから奈央に煙草が平気か訊くべきだったと思い当たった。おそばせながら口に出してみる。


「今更だけど吸っていい?」

「構いませんよ」

「それから、甘いもん好き?」

「好き、ですけど……」


 突然の質問に意図が分からないのか奈央はきょとんとした顔をしていた。ただ何のことはない、飴をあげるべきなのはアズミでなく奈央なのではないかと思った。彼女が好きならば喜んだ顔が見れるのだから、彼女にあげるべきだ。けれど、彼女の喜ぶ顔を見ても特に何も思わないのも事実だ。


「奈央」

「はい?」

「何か変わったこととかあったらすぐ言えよ」


 真剣な声音を奈央も察したのだろう僅かに首を傾げた。少しだけ考えて、伝える。身の回りで妙なことが置き始めたらすぐに言ってもらわないと、対処できない場合がある。今までの経験上、女性が対処しようとして成功したためしがない。みんな一様に、見も心もぼろぼろになってしまう。
 けれど奈央は意味が分かっていないようで、不思議そうな顔をしたまま頷いた。ちゃんと理由を言わなければならないとは思っているけれど、まだ何も起きていないのにアズミを悪く言いたくはなかった。だからただ、頭をなでるだけにする。


「よし、ご褒美にちゅうしてやろう」


 ちゅっと頬に口付けただけで真っ赤になる奈央は可愛い。もちろんひかりと飯食ってセックスするのは楽しいし気持ちいい。処女と寝るのは少し面倒くさい。けれど奈央といると心がほんわか温まるようなそんな気持ちになる。アズミと付き合い始めたときと同じ気分だとは、認めたくない。





-続-

カッちゃんは甘いものが大嫌いだけど、苦いものも嫌いです。