奈央があまり遅くなれないというのでそのまますぐに駅で別れた。いつもだったらラブホに行くにも早い時間だ。他の連中と呑みなおそうかと立川にメールしてみるけれど空振りで、ひかりに電話したら「今デート中」とか言われた。どいつもこいつも友達がいがない。返ってこない立川のメールを待ちながらブラブラしていると、突然に電話が鳴った。立川だろうと予想してポケットから携帯を取り出すと、案の定立川だった。
「おっせぇよ」
『緊急だっていうから電話てやったのになんて言い草だ!』
「緊急なんて言ったっけ?」
『書いてあったっつの、バーカ!』
ついさっき出したばっかりのメールの内容を覚えていないってのは結構重症だ。酔ってないように思えてだいぶ酔っているのかもしれない。たったあれだけの量で酔うなんておかしい。それともそれ以上に呑んだのか。考えても覚えていないので、思い出すことを放棄して電話に意識を戻した。立川は自宅にいるようで、電話口から聞こえてくる音は少なかった。
「今暇かなって思っただけだけど、いいや」
『は?お前奈央ちゃんとデートじゃねーの?』
「奈央が帰っちまったから誘ってんだよ」
『お前には家に帰るという選択肢がないのか』
「あぁ。帰るわ、悪いな」
『バーカ』
軽く笑って罵るのがムカついたので、返事もせずに電話を切った。家に帰っても誰もいなかった今までとは違い、今は帰ったら家の電気は点いている。別に今までが淋しかった訳ではないけれど、それは意外に嬉しいことだった。
携帯をポケットにねじ込んで、手をポケットに突っ込んで慣れた家路に着く。まだ電車の多い時間、帰りのラッシュに久しぶりに巻き込まれて最寄り駅に着く頃にはだいぶ体力を使っていた。酒の力も手伝って体が気だるい。いつも夜遅くまで呑んでいたりセックスしていたり。だから電車は座れる。無茶な生活と通勤ラッシュ、辛いのはどちらだろうか。
春とはいえまだ冷たい風が肌を刺し、火照った体には丁度いいけれどいささか寒く上着を掻き合せて思わず身を縮ませた。足早に歩き、いつもなら十五分の道を十分で歩ききった。雨でも降りそうに空が暗くなってきている。振り出す前に帰れたことに安堵しながらエレベータに乗ると、五のボタンを押して詰めていた息をふっと吐き出した。暖かい空気の中で、やっと肺の奥まで空気を詰め込める。煙草が吸いたくなってポケットから煙草を取り出して口の端で引っ張り出した。けれどここで火を点けると探知機が作動するので銜えただけで留めていると、三階で例の男性が乗ってきた。銜えた煙草にだろう、顔をしかめている。五階で早々にエレベータを降りて肩の力を抜いて、何度思ったか分からないけれどあの男は一体どこにいくのだろうかと疑問を思い浮かべた。
「……ヤりてー」
火を点けながら思わず呟いた自身の言葉に驚いた。酒を呑んだらセックスという図式が成り立ってでもいるのだろうか。パブロフの犬並に単純だ。己の馬鹿さを嘲りながら、けれど立川たちと呑んでもそんな欲求は起こらないことも思い出す。ならば相手が女だったからだろうか。できれば、奈央だったからだという理由であってほしい。こじつけるようだけれど、そうであれば彼女を愛していると思える。
つい癖で玄関に鍵を差し込み、回す前にもう家に誰かがいることを思い出した。聡子さんは鍵を掛ける癖がない。改めて鍵を抜いて、玄関のドアを開けると音に反応したのだろう親父が飛んできた。
「おかえり!……なんだ、克利か」
「何だって何だよ」
食事中だったのだろう左手に茶碗を持って右手に箸を構えて迎えに来た親父に思わず顔をしかめる。息子が帰って来たくらいでこんな大騒ぎをされるくらいなら早いところバイトでもして金溜めて、家を出たい。
けれど親父の目的は違ったようで、ものすごくしょんぼりしてとぼとぼとダイニングに戻っていった。その後姿は落ち込んでいると語りかけてくるが、煩いので無視することにする。親父と入れ違いに、今度は聡子さんが玄関までやってきた。
「お帰りなさい、克利くん。遅かったのね」
「ただいま。悪ぃ、飯食ってきちゃった」
「あら、そうなの?今度から連絡してね」
さらっと言って迎え入れてくれた聡子さんの後に続いてダイニングに行くと、親父と聡子さんしかいないようだった。恵の姿が見えないことに多少安堵を覚えつつ、荷物を自室に放り込んでもう一度ダイニングに戻る。食事を済ませてきたと言っても折角作ってくれた食事を食べないのも申し訳ない。長年自炊生活が長かったからか、そんなところにばかり敏感になってしまった。同時に、家で一人食事を取る空しさも知っている。
「おかずだけ食うわ」
「あら、無理しないでいいのよ」
「折角作ってくれたんだし、食べる」
「……二人とも、仲良くなったな」
何故か落ち込んで食事をしている親父に言われ、思わず聡子さんと顔を見合わせた。仲良くなった訳ではないけれど、子供のように少し膨れた親父に笑ってしまう。けれど親父はそれが良い事だとばかりに頷いて、溜め息を吐き出した。喜んでいるのか落ち込んでいるのか、どっちかにして欲しい。
「恵ちゃん、帰ってくるの遅いね」
「アイツ、帰ってないのか」
親父の話では、部活で遅くなるそうだ。そんな心配することでもないと聡子さんも笑っているが、親父は心配でしょうがないらしくさっきから鬱陶しいくらい溜め息を吐いている。運動部に所属する高校生の帰りなんてこんな時間だ。高校時代は帰宅部だったため詳しくは知らないが、運動部所属の友人が大会前はいつもぼやいていた。恵だってテニス部だといっていたのだから、気にすることはないだろう。けれど親父は真剣に時計を見つめていた。まだ、八時だ。むしろ自分がこんなに早く返ってきたことに驚きだ。
「克利、食事を済ませてきたんなら駅まで恵ちゃんの迎えに行って来い。腹ごなしになっていいだろう?」
「面倒くせぇ」
「お前は妹が心配じゃないのか!?」
「……別に」
「恵ちゃんにもしものことがあったらどうする気だ!」
興奮した親父は高校生の「男女交際反対」とまで言い出した。本人も何を言っているか分かっていないのだろう。これ以上言われても敵わないので、「気にしなくていいのに」と笑う聡子さんに苦笑して携帯と煙草だけポケットに突っ込んで玄関にまた戻った。あんな奴いない方が静かで清々するのに。煙草が行方不明になることもないし。
これを口に出すと親父に何を言われるか分かったもんじゃないので何も言わず、履きつぶしたスニーカーを足に引っ掛けた。
上着を羽織ってくるのを忘れて思わず冷たい空気に体を縮こまらせて、駅までの道を急いだ。どう急いだって十五分、出会うのは帰宅するサラリーマンと塾帰りだと思われる小学生くらいの子供だった。まだそんな時間なのに過保護だと思いながら、そんな時間に家にいる自分に笑えてくる。さきほどの欲求がくすぶっていたようで、思わず歩きながらひかりに電話を掛けた。けれど出てくれないので、しょうがなく伝言メッセージに「今度また呑みに行こう」と残しておく。語尾に「期待してる」というのを入れるのを忘れずに、電話を切った。
「……コンビニ」
駅に着いたはいいけれど寒いのでコンビニにでも入ろうかと一瞬思案するが、コンビニに入ったら駅から出てきた恵の姿も見えないだろう。諦めて改札前の柱に寄りかかって待つことにする。
ぼんやりと煙草をふかしながら待っていると、重かった空からとうとう雨粒が落ちてきた。慌てていて傘を持っていないし上着すら着ていない。寒くて敵わないからさっさと帰ろうかと思ったとき、電車が到着したようでサラリーマンが大量に吐き出された。
「高橋さん、家まで送っていくよ」
「い、いいよ……。そんなに距離あるわけじゃないし」
家路を急ぎ雨に気づいて屋根がなくなるところギリギリで立ち止まってしまったサラリーマンをぼんやりと眺めていると、人がまばらになった頃煩い声が聞こえてきた。幼さから言って高校生くらいだろう。一つは聞き覚えのある少女のもの、もう一つは知らない男子のものだった。
そちらに視線を移せば、案の定セーラー服姿の恵が立っていた。となりには、眼鏡を掛けた地味な男。学ランを来て大きなバッグを持っているからテニス部の友人だろうか。
「でも女の子一人じゃ危ないよ」
「大丈夫だよ。それよりも、そっちが帰るの遅くなっちゃうし」
「いいから送って行かせてよ」
改札の中でなにやらやっている声に視線を向けると、恵が困惑をあからさまに表情に浮かべていた。相手が少々強引なのか、対処しきれていないようだ。待っている間に短くなった煙草を灰皿に押し付けて消してから、改札に近づいた。けれどあっち側は気づいていない。
「おい、帰んぞ」
「え、お兄ちゃん!?」
声を掛けると、恵がこちらを振り向いて目を大きく見開いた。驚きと歓喜が入り混じっているような表情をしてこちらを見てくるので、どう反応していいかも分からず相手の男子の顔を見てみた。相手はたじろいだように一歩後ずさると、何故だかギンと睨みつけてきた。何に敵意を抱いているのかと一瞬勘ぐり、すぐに恵のことが好きなのだと悟った。兄である人間に嫉妬するのもどうかと思うが、それが高校生の心理なのだろう。今まで誰一人執着したことがないので全く分からないが。
そうしているうちに恵は改札を抜け、こちら側に回りこんでいた。がっちりと腕を掴まれて、改札向こうの男子に手を振った。
「お兄ちゃんと帰るから、バイバイ」
「う、うん。高橋さん気をつけて……」
恵の行動の早さにだろうぽかんとした表情の彼からすぐに視線を逸らし、恵に腕を掴まれたまま引っ張られた。少年がむすっとしているのを端目で捉えるが何も言わず、ただ恵に引っ張られる。数歩バランスを崩したがすぐに建て直し、恵が雨に気づいて立ち止まる時には余裕でポケットに手を突っ込んで歩いていた。
「雨だ」
「傘持って迎えに来た訳じゃねぇからな」
「あたし、傘持ってるもん。お兄ちゃん入る?」
「入るに決まってんだろ」
流石に濡れて帰るわけには行かないのでそう言うと、恵は自慢気に鞄から折りたたみの傘を取り出した。流石に小さいのではないかと思うが、半分でも入れることに感謝だ。……でも恵を迎えに来るはめにならなかったらやっぱり濡れなかったので、やっぱり恵が悪い。
恵が出した傘に入ると、やはり肩が半分くらい出てしまった。これはちょっと寒いし濡れると思って思案していると、腕を引っ張られて体が密着した。
「もっとこっち寄らないと濡れちゃうよ?」
「……おぅ」
腕を絡ませてきた恵の体温が思ったよりも高くて、変な気分になってきた。けれど流石に妹には欲情しない。というか、年下に惚れることは滅多にないのでひかりからの返信が待ち遠しい。少し照れたような恵が表情が、妙におかしかった。
「あ、のね……お兄ちゃん」
「………」
「さっきの男の子、ただの部活仲間でなんでもないから!」
何の主張かわからないけれどいきなり弁解し始めた恵に返す言葉を思い浮かべることは出来なかった。ただ、お兄ちゃんと呼ばれることには少し慣れたと思う。初めて呼ばれたときは寒気がしたものだ。もし本物の血が繋がった妹がいればそうでもないのだろうか。
立川は姉がいるんだよな、いつも妹が欲しいって騒いでる。どうでもいい事を思い出しながら煙草を吸おうと取り出すと、恵に睨まれた。ここで傘に入れてもらえないと寒いので、マンションまでは我慢することにしてポケットに戻す。
「煙草は体に悪いんだからね」
「関係ねぇだろ」
「関係なくないよ!……い、妹だから」
「いや、関係ねぇだろ。そういう心配は彼氏にしてやれ。さっきの奴とか」
「だから、さっきのは違うんだってば!あたし、好きな人いるし……」
顔を赤くして剥きになっているので妙なところにこだわるのだろう。そう合点して、思わず恵を見てニヤついてしまった。恵が誰と付き合おうと誰が好きだろうと、知ったこっちゃない他人事だから楽しいといえば楽しい。からかってやろうかと思ったら、携帯が振動して邪魔された。
「親父たちには内緒に……誰だ?もしもし」
『もしもし?何、さっきの』
ディスプレイを確認せずに開くと、相手はひかりだった。確かに待っていたけれどもう出かける気もないので、今更と言う感じだ。まぁ、性欲の方は未だくすぶってはいるのだけれど。携帯を濡れない方の耳に押し付けると、恵がじとりとした目で見てきた。電話も駄目なのか?と睨み返すとぱっと視線を離されたから、そういう訳でもないらしい。
「ちょっと付きあわねぇかと思ったんだけど急がしそうじゃん」
『まーね。あんたこそ彼女はどうしたのよ』
「その彼女が俺を煽るだけだから抜かせろって」
『さいってー。明日ね、私今忙しいから』
「おぉ。じゃーな」
取り込み中らしく、ひかりは少し早口だった。今日はこのまま自分で抜くしかないようだと諦めながら電話をポケットに仕舞いこんでいると、隣から恵の視線を感じて視界を下ろした。けれど恵はすぐに顔を逸らしてしまう。さっきまで向けられていると思った妙な視線が気になりはしたが、どうせ大したことじゃないとそのまま黙って歩き続けた。
-続-
聡子さんが好みのタイプです。