半分雨に濡れてマンションについて傘をたたむと、恵も半分濡れていた。家に帰って半分濡れた恵を親父は風呂に入れたが息子に対して何の謝礼もなかったどころか、「恵ちゃんを濡らすなんて、風邪でも引いたらどうするんだ」と文句を言われた。風邪を引きそうなのはこっちだってのに。
 恵が風呂から出たので入れ違いに風呂に入ることにした。彼女が風呂から出るまで自室でゲームをしていたがあまり気分は乗らなかった。聡子さんが呼びに来てくれたので適当に着替えを持って風呂場に向かう。特に何の意識もしていないで奈央のことを考えながら脱衣所の扉を右手で開けた瞬間、中にいた頭一つ分小さな所に黒い頭があった。


「え!?キャー!!」

「……あー、悪い」


 湯上りと思われる全裸の恵が、そこにいた。思わず目が合って数瞬置いた後、恵はぼっと音でもするんじゃないかと思うくらい体中を真っ赤に染めて体を守るように抱きしめて悲鳴を上げた。女性の体なんて見慣れているので特に動揺していないが恵が半泣きになっているので、手元にあるバスタオルを頭からかけてやって脱衣所の扉を閉めた。
 ガキだと思っていたが本当にガキの体だ。自分の趣味を置いておいて胸は小さいしくびれはないし、何よりも色気が無い。あんな女に惚れるなんてあの男も相当だなと恵の同級生に要らない関心ながら扉の隣に背をつけて待っていると、悲鳴を聞きつけたのか親父と聡子さんがリビングから飛び出してきた。


「何だどうした恵ちゃん大丈夫かい!?克利、お前妹に何をしたんだ!」

「真っ先に息子を疑うのか。あんなガキに何もしてねぇってかできねぇよ」

「妹になんてことを言うんだ!」

「テメェも息子になんてこと言うんだっつの。勃つもん勃たなきゃ何もできねぇだろが」

「克利!」


 そんなに恵が大切なのかしきりに脱衣所に向かって扉越しに「大丈夫かい?」と猫撫で声をかけている親父に聡子さんが「大げさね」と笑っていた。ついでに「恵ったらもう出てるかと思ってたわ」などと大らかに笑ってリビングに戻っていくから逆にこっちが脱力してしまう。親父のようにウザイくらい心配しているのも正直鬱陶しいが、聡子さんほどさっぱりしていても対応に困る。けれど言葉に嘘はないから、そのまま恵が出てくるのを待っているとしばらくしてからパジャマを着た恵がまだ顔を桃色にしながら出てきた。


「恵ちゃん!克利に何もされてないかい!?」

「う、うん……大丈夫」

「だからそんなガキ相手に勃たねぇって」

「あの、お兄ちゃん」

「んーだよ」

「……ごめんなさい」


 恥ずかしそうに恵が言うから返す言葉を失ってとりあえずあまり慣れていない微笑を浮かべてみた。軽く濡れた頭を撫でてみると恵が顔を上げてじっと見てくるので、無視して入れ替わりに脱衣所に身を滑らせた。ピシャンとドアを閉めると、ドアの向こうから親父と恵の足音が遠くなるのが聞こえた。
 煩い親父が去ったことに少し安心しながら何気ない動作でベルトを外して服を脱ぐ。全裸になって浴室の扉に手を掛けたとき、リビングからバタバタと足音が聞こえた。こちらが構える隙もなくドアが容赦なく開いた。


「お兄ちゃんごめん、バスタオル……キャっ!」

「………。どーも」


 飛び込んできた恵はこちらを一目見ただけで短く悲鳴を上げて持ってきたバスタオルを放り出すとリビングに逃げて行ってしまった。さっきはこっちが見てしまったから悲鳴は許容してやったが、見られた上に逃げられると男として若干傷つく。自身の所有物はみすぼらしいモノでも特にでかい訳でもない。
 けれど相手は女子高生、ガキの言動で傷つくことも無いのでまだまだガキだなと思って今度こそ浴室を開けた。恵が使った直後なので中は湯気がもうもうと立ち込めている。ざっとシャワーで体と頭の汚れを落としながら、家の風呂に入ることは実はそうなかったんだなと思い出した。沸かすのも勿体無い気がしてシャワーだけで済ませていたし、湯船に浸かっても彼女と一緒であることがほとんどだった。人ごみが嫌いなわけではないが一人は少し安堵する。だから、一人の入浴は久しぶりにほっとした。


「……はぁ」


 思わず溜め息が出てしまった。原因はたくさんある。新しい彼女のガードが固いとか元彼女がまた接触を図ってきたとか。まず当面の問題は奈央のことで、接したことの無いタイプなのでどう扱うか計りかねていた。そういえば、年下の彼女も始めてだ。
 湯船に浸かりながらほっと一息吐いていると、今度は脱衣所の向こうでノックがした。洗剤やらが脱衣所の物入れに入っているので聡子さんが何かを取りにきたのかと「どーぞ」と軽く言うと小さな人影が近づいてきた。聡子さんではなく恵だったようだ。彼女は浴室のドアの前に立つと、また遠慮がちにノックした。


「お、お兄ちゃん?」

「何だよ」

「あの、あのね……」


 いつもハキハキと喋る恵に珍しくごもごもとハッキリしないので、長期戦の構えで待っていてやる事にする。こんな所まで来て一体何の用だってんだ。
 しばらく待っていると、恵はずるずるとその場にしゃがみこんで浴室のドアに背を付けた。こちらからは背中しか見えないが、多分膝を抱えているのだろうと思われる体勢でしばらく呻いていた恵は意を決したかのように喉を一度嚥下させた。その妙な意気込みがこちらにも伝わってきた。


「……見た?私の……」

「体?安心しとけ。俺、ガキに欲情しねぇから」


 わざと茶化すように言うと恵は怒ったように「もう」と一度言った。けれど体は更に小さく縮こまっているので相当恥ずかしかったのだろう。そういうところだけは妙に大人なんだ、このくらいのガキは。思わず溜め息を吐き出してまだ続きがあるのかと促すと、恵は慌てたように手を一度打ち鳴らした。


「さっき、迎えに来てくれてありがと」

「親父に言われちまったんだから不可抗力だ」

「でね、あの時の彼宮元君っていうんだけど、本当に何でもないから!」


 どうして今その話をするのだろうか。別に興味はないし口を出すつもりも無い。ただ一つ言えるのは「親父に注意」くらいなもので、それ以上は正直係わり合いにすらなりたくない。ガキの恋愛なんて興味の対象外だ。けれど恵はその沈黙を催促と取ったのか口早に事情を話し出した。心底どうでもいい話だ。


「クラスが一緒なんだけどね、男子テニス部で……帰り道が一緒だから」

「俺に何を言って欲しい訳?」

「別になんでもないよ!でも本当に私、彼のこと好きとかじゃないから!」

「もう聞いた。好きな奴いるんだろ、俺には関係ねぇよ」

「お兄ちゃん冷たい……」

「冷たくて結構」

「私の好きな人ね、彼女いるの」

「おい、俺の話聞いてるか?」


 そろそろ切り上げて欲しいと思って言ったのに恵は見事に無視してくれた。いきなり好きな人とやらの話を始めるので思わず突っ込んでしまったけれど全く聞いていないようで完璧にスルーされた。恵の好きな人が年上で彼女がいようと関係ない。恵と特別な関係にいようと興味ない。さっさと行ってくれないかと思っていると、恵は立ち上がって「でも、私がんばるんだ」と宣言してくれた。どうでもいい返事を返して「出るぞ」と言うと、恵は逃げるように脱衣所を出て行った。


「……やっべ」


 頭を拭きながら思わず口から零れた言葉は克利の心情を如実に表してた。けれど聞く人間が本人以外にいないのでその呟きは空気中にとけて消えた。










 明日は授業が実は二限からある。部屋のベッドの上で雑誌を開いていたが何気なく時計に視線を移すと二時を回っていたのでそろそろ寝ようかと布団にもぐりこんだとき、ドアがノックされた。


「……お兄ちゃん?」


 こんな時間になんだと思ったら、恵の声がドアの向こうから聞こえる。現在、克利が自室をそのまま利用していて、親父の部屋だった場所は恵の部屋になっている。荷物置きとして利用していた小さな部屋を夫婦の寝室にしているのだが、手狭な感は掴めなかった。比較的大きな部屋を持っている恵に一体何の用だと扉を開けるように言うと、素直に恵が部屋に入ってきた。


「一緒に寝て、いい?」

「ガキじゃねぇんだ、一人で寝ろよ」

「だってさっき怖い夢見ちゃったんだもん!」

「ガキ」


 泣きそうな声で訴えてくる恵をチラッと見ると自前の枕を抱えていて本気で眠る気のようだ。親父たちの部屋に行けといおうと思ったがそこは狭くて三人も入ることはできない。けれどいい年した男がいくら妹といえど血が繋がっていないつい最近家族になったばかりのガキと同衾していいものだろうか。もちろんこっちから手を出す気はサラサラ無いが。


「ね、お願い!」

「俺が寝るとこねぇじゃんよ」

「一緒に寝ようよ」


 体を起こしてけれど布団から出ずにいうと、恵が問答無用とばかりに布団にもぐりこんできた。冗談じゃないとばかりに布団の真ん中に留まっているけれど、恵は器用に布団を被っている。シングルサイズのベッドには成人男性だけでも少し狭さを感じるというのにそこに女子高生が入ってきたらもう圧迫感で寝れいられない。早々に諦めてベッドから降りると、今度はそれを引き止めるように袖を掴まれた。


「……お前なぁ」

「一緒に寝ようってば」

「この狭いベッドで寝られねぇだろ」

「だって!」


 だってじゃねぇと舌を打ち鳴らし、枕もとに置いてある携帯を指で拾い上げて時間を確認する。もうすぐ二時半になる。さっさと寝ないと明日に響くから、ここは早めにこちらから折れた方が賢明だろう。
 変わらない表情でそう考えて、机の上の煙草を持って恵の手を振り払った。けれど次の瞬間にはまた掴まれている。一体どれだけ怖い夢を見たんだ、こんなに短時間で。呆れ果ててベッドを見ると、恵が目にうっすら涙を溜めていた。正直言って、女のこういうところが鬱陶しい。そしてその姿がなんとなくアズミに重なるから嫌なんだ。


「リビング行くから離せよ」

「やだ」

「やだって幾つだお前。俺にずっと起きてろとでも言うのか?」

「じゃあ手握ってて!」

「はぁ?」

「あたしが寝ちゃったら離していいから、それまでお願い!」


 お願いと言われても……。結局ガキのお守りじゃねぇか。どう考えても自分の睡眠時間を削る行動だと思う。明日の為にできるだけ早く眠りたいのは事実だ。しかも明日は二限授業の後午後から夜までゼミの教授のお手伝い(謝礼つき)だ。ここで提示された選択は二つ。恵を放って置いて愚痴を長々と聞きながら眠るか、少し自己犠牲で睡眠時間を削り早々にリビングのソファで眠りにつく。答えは簡単だ。欲しいものは安眠なのだから。


「すぐ寝ろよ」

「ありがとう、お兄ちゃん!」


 片手の所有権を放棄しベッドを背に座り込んだ。自由になるもう片方の手と唇で煙草を引っ張り出して火を点けようとすると、ベッドの中から「体に悪いから煙草ダメ」と低い声で呟かれた。普段なら意地でも吸ってやろうという気になるが今日は従っておかないとこっちが寝かせてもらえないので大人しくケースに戻した。
 恵の体温は高い。克利が低いのかもしれないが、繋いだ手からは温かい体温が流れてきている。女が高いのか子供が高いのかよく知らないけれど、やはりコイツは女で、女は自分と違うのだと分かりきってることを改めて思い知った。


「お兄ちゃんの手、冷たいね」

「お前が高いんだろ」

「煙草ばっかり吸ってるからだよ。体に悪いんだから」

「悪くても構わねぇよ。どうせ俺の人生だ」


 我ながら喫煙者の常套句だと思う。体に悪くても吸っていて落ち着くほうがいい。短い人生ならそれまでだった。別に思い残すことなんて無いから、死んだところで後悔しない。それは本心だ。恵が何故こんなにも煙草に突っかかってくるかは分からない。聡子さんに煙草がよくなくなる話をしても別に彼女の昔の旦那がヘビースモーカーで肺がんで死んだわけではないからトラウマって訳でもなさそうだ。本当に、意味が分からない。


「あたし、お兄ちゃんには長生きして欲しいもん」

「は?」

「お兄ちゃんだから……ずっと一緒にいたいんだよ」

「………」

「だから、煙草じゃなくて甘い飴にしなよ」

「お前には関係ねぇ。俺の女じゃあるまいし」


 これだからガキは嫌いだ。どこまでが踏み込んでいい場所か分からないからどこまでも土足で踏み込んでくる。ズカズカ踏み込んで踏み荒らしていることを気づかない。最悪の場合はそれがいいことだと思っている節がある。アズミが、そうだった。ただし彼女はガキじゃないから最低ラインの線引きはできていた。ただ、独占欲が強いだけだった。


「……お兄ちゃんの彼女さんって、どんな人?」

「だからお前にゃ関係ねぇ。さっさと寝ろ」

「じゃあ最後、これで最後だから答えて!」

「終わったら寝ろ。俺を寝かせろ」

「うん。お兄ちゃんの、ね?好きなタイプって……どんな人?」


 いい加減鬱陶しいので言い放すと、繋いだ手にギュッと力が入って握り締められた。どうしてそんなに必死になっているかよく分からないけれどとりあえず眠いので本当に最後だと約束させて欠伸を噛み殺した。
 そして飛んできた質問が、これだ。一体何の意味があるのかと問いたい所だけれど、その質問に思わず風呂の中で呟いた独り言が口の中に戻ってきた。こういう勘は、いい方だ。


「ボン・キュ・ボンな年上」


 別に嘘はついていない。スタイルはいいに越したことがないし、今まで付き合った人は浮気も含めて比率的に年上が多い。そして好きなタイプと好きになった人が同じでなくてもいいはずだ。
 折角答えたのに返ってきたのは妙に落ち着いた「……そっか……」という嘆息にも似た呟きだけだった。手を振り払おうとしたけれどがっちりと掴まれていて、まるで自分が捕まった犯人のような気持ちになった。





−続−

まさかのお風呂でばったり!