朝目を覚ましたら九時過ぎていて、自分がベッドに寄りかかったまま眠っていたことに気づいた。腰と肩が妙に痛いのは座って変な方向に固まってしまったのだろう、恵のせいだ。けれど彼女の姿は家の中になく、聡子さんに聞いたら「もう学校に行ったわよ」と笑われた。起きた時間から完全に遅刻だったのだが寝直す気にはなれずのろのろと身支度をして、遅刻は嫌だったので部室に顔を出すとひかりしかいなかった。


「何だ、ひかりだけかよ」

「何よ、悪い?」

「別に」


 思わず驚きを顔に出して問うてしまい、ひかりの機嫌を損ねたようだった。ポケットから煙草とライターを引っ張り出して机の上に置き、いつのも席ではなくてひかりの隣に腰を下ろした。いぶかしむような彼女の視線を無視して腰に腕を回して顔を寄せる。別に理由があったわけじゃない。ただひかりと二人きりでそんな気分になった、それだけ。


「キスしよーぜ」

「……あんた彼女いるんじゃないの?」

「ばれなきゃ浮気じゃねぇの」


 「最低」と言ったわりにはひかりは体を委ねてきた。これ幸いと腰に回した腕を離して彼女の首に回し強引にこちらを向かせて噛み付くように口付けた。ひかりとのキスは気持ちいい。お互いに勝手が分かっているし変に固執したりしない。濃厚に唾液を絡め合うくせにどこか淡白で、どこにも感情は落ちていない。
 存分にお互いに貪っているとひかりの目尻からぽろりと涙が一粒落ちた。生理的に落ちる涙はいつものことなので気にならないが、それはなんだか妙に心をかき乱した。指で涙を拭ってやり唇を離すと、ひかりは動揺したようにぱっと顔を逸らした。これでは「この間の続きしようぜ」とか言えないので、思わず舌打ちを漏らしたくなったがひかりの様子はそれが気にならなくなるほどおかしかった。


「どうした?何かあったか?」

「……だから克利嫌いなのよ」

「お前は嫌いな奴とも寝んのかよ」

「……優しいんだもん……」


 ひかりが震える声で呟いたと思ったらぽろぽろと涙をこぼし始めた。少なからずぎょっとしてしまったが、すぐに隠そうと顔を逸らしたひかりの頭をぐっと引き寄せると顔が見えないように胸に押し付けた。開いている片手でひかりの腰を引き寄せれば、嗚咽の間にひかりが彼女らしい憎まれ口を叩いた。


「彼女、泣かすなよ」

「黙って泣いてろ」


 泣いている女を放っておけない訳ではない。こんなシーンを奈央に見られたら確かに付き合い始めなのに浮気と誤解されてしまうだろう。けれど目の前で人が弱っているのを見ていられない。自分が如何にかできるのだったら如何にかしたかった。
 遠くからカンカンと階段を上ってくる音が聞こえる。部室棟の階段は音がよく響く為他のサークルの人間であろうとも出入りがよく分かる。特に軽音のでかい楽器を持っている足音は違う。けれどこの足音はとても軽快だった。授業が終わるまでまだ十分程度あるがどこの遅刻者だろうかと自分を棚に上げて思っていると、あろうことかここの扉が開いた。


「おはようござい、ます……」

「……おはよ」


 更に悪いことに、入ってきたのは奈央だった。どうしてこのタイミングでと呪ってみるけれどだからどうなる訳でもない。ただ泣いていたひかりだけが瞼を赤くして体を起こすと、「ごめん」と克利にだけ聞こえるようにごく小さな声で囁いて奈央に顔を見せないようにして走って部屋を出て行った。
 奈央と二人きりになって妙な沈黙が残ってしまい、とりあえず煙草に手を伸ばして彼女の顔を見た。泣きそうなどこか失望したようなそんな顔をしている。その顔は何度も見たことがあり、その度にもうやめようと思うのに酒と一緒で結果としてやめられない。


「あーっと、あのな?今のは……」

「私、何も見てないですよ」

「は?」

「何も見てないです」


 泣きそうに顔を歪めているくせに何も見ていないと言い張って無理矢理奈央は笑った。その表情が痛々しくて煙草に火を吐けることも忘れて思わず肺の中から息を全て吐き出すほど深い溜め息をついた。その中にたった一つの囁きを乗せたが、奈央は返事をくれなかった。


「……言い訳くらいさせろよ」


 ただ俯いてしまった奈央の表情に戸惑い、落ち着こうと煙草に改めて火を点ける。その手はらしくないほどに震えていた。今まで浮気がばれても開き直った気でいたのに、浮気じゃない今日こんなに緊張するってどういうことだ。
 一度紫煙を深く吐き出して、視線をそっぽ向かせてぼそぼそと言い訳がましい言葉を紡いだが自分自身信じてもらえるとは思えなかった。


「ひかりが泣き出したから、別にやましい気持ちがあった訳じゃねぇけどほら、やっぱ心配っつーか慰めねぇとっつーか……」


 半分が嘘で半分が本当だが、普段の行いから鑑みるに全て嘘と思われてもしょうがない。もちろんやましい気持ちはあった、けれど慰めようとも思った。言い訳が言い訳にすらならなくて黙り込んでしまうと、奈央はおもむろにバッグから弁当を取り出した。完全になかったことにしてしまう気でいるようだが、泣きそうな顔は変わっていなかった。


「私、本当に気にしてないですよ」

「……そっか」


 気にしていないと言い張る彼女によそよそしくするのもおかしいと思って席を立つといつもの席に座りなおした。その隣には奈央が座っているが、二人の距離は微妙に開いている。やはりぎこちなさが生まれてしまうのはしょうがないのだろうか。


「先輩、午後の授業はあるんですか?」

「午後から晩までゼミの手伝い。遊んでやれなくてごめんな」

「しょうがないですよ。頑張ってくださいね!……先輩、ご飯は?」

「あー、後で食う」


 ぎこちないながらも会話をしているとチャイムが鳴りそれを合図にしたかのようにどやどや人がやってきてすぐにさっきの静けさが嘘のように騒がしくなる。短くなった煙草を消したときに後輩が「先輩、手作り弁当ですか!?」と冷やかしてきたので思わず笑って奈央の肩に腕を回した。


「いいなぁ、高橋先輩は!」

「羨ましくてもやらねぇぞ。奈央、一口頂戴」


 さっきのぎこちなさが本当に消滅してしまったようで、顔を寄せて口を開くと奈央が笑ってフォークに刺さった卵焼きを口に入れてくれた。こういう甘いことをしたかったんだと自己確認して噛み締めていると、後ろから立川の失笑も聞こえた。思わず振り返ると立川が唇だけで「このドリーマーが」と言った。


「卵うま」

「……私が作ったんじゃないです」

「奈央の母さん?めちゃ美味い」


 周りの人のおかげで払拭できた空気だが、やはり接していると違和感を感じざるを得ない。けれどそれは自分の罪悪感が引き起こしているのだと自分に言い聞かせて、奈央の頭に唇を一度押し付けて午後からの手伝いに参加するために煙草をポケットに戻して教授の研究室に向かった。










 手伝いとは名ばかりで、数人が授業のテスト監督に借り出され残る人数は研究室の大掃除をさせられた。そいつらがまた掃除作法を弁えていないものだから、結局克利の指示の下日が暮れた頃になって大量のごみと一緒に掃除が終わった。指示しても実行に移されないので途中でキレかけて結局ほとんど自分で動いてしまったので疲れ方は半端じゃない。


「どうした高橋!呑んでるかー?」

「呑んでます呑んでます。あんだけ働いてこれってちょっとケチくさいっスよ」


 片付けが終わってから全員で居酒屋に繰り出して、既に出来上がっている教授に絡まれて心底ウザそうに瞳を眇めて手元のグラスを煽って空にした。するとそれを待ち構えていたように並々注がれて、自棄でそれを一気に流し込んだ。一気に回ってきたアルコールに頭の中に渦巻いていた悩みなんかがちっぽけに思えた。
 酒の力はやっぱり強くそして簡単で、全てを忘れさせてくれる。それがたとえ刹那のことでも酒がなければやっていられない。そう思えるくらい最近は問題が山積している。


「ちりも積もれば山となる、だ!奢ってもらえるだけありがたく思え」

「センセ、誰のおかげで論文間に合うと思ってんですかぁ?」

「千島、それを言ってくれるなよ」


 ケラケラ笑って会話に混ざってきた女性は酒に弱いようでウーロン茶を飲んでいた。四年の千島巴は魅力的な短いスカートを履いていて、そこから覗く足は白く適度に細かった。酒は見境も罪悪感もなくす。自身で酔ってきたと自覚しながら彼女にもたれかかると驚いたふうでもなくまるで子供を見る母のような眼で見られた。


「巴せんぱーい」

「どしたのかっちゃん。完全に酔っちゃった?」

「先輩俺のこと買って。俺超サービスするから」


 本当に酒はたちが悪い。しかも後でしっかり覚えているタイプなので後悔することこの上ないのに、この時だけは頭の芯がぼーっとして正常な判断ができなくなって口から酸素よりも軽い言葉がポンポンと飛び出してくる。
 甘えるようにひっついて膝の上に倒れこむと、先輩はクスクス笑ってけれど拒絶はしなかった。巴先輩と寝たことは何度かある。ひかりのようにさっぱりとした関係ではなく何となくこちらが抱かれているような気になる、そんな人だった。ただ、その感覚は嫌いじゃない。


「どうした高橋!?売春は犯罪だぞ。俺が起訴してやろうか」

「売春防止法第五条!」

「だれか高橋連れて帰る奴いないかー?」

「先生!俺金欲しいんですよ」

「働きなさいよ」


 完全に酔っている。意識はあるのにどこか他人事のように自分の醜態を見ても動揺なんてしなかった。まるでそれが自分ではないような感覚で、まるでプラスチックの板一枚を隔てたような感覚だ。
 先輩の膝に頭を乗せて寝転がりながら挙手して「金!」と言うと周りから「お前バイトはどうしたんだ」と訊かれた。今まで週三程度入っていたが、それだけでは足りないのでもう一つ掛け持ちしようかと考えている。けれど中々求める求人がみつけられない。今の所だってそこそこいいのだが、目的が変わった。


「いっそ先生俺のことやとって月給二十万くらいくれ」

「そんな金あったらお前なんかにやらずに自分でキャバクラにでも通い詰めるわ」

「先生!今度キャバクラ行きましょ、男だけで!」

「お前らと行っても俺はつまらん」


 座の入り乱れた呑み会で一対一の会話は成立しない。少しでも興味ある会話があると混じってくるのが常だ。他の奴等と会話を始めてしまったので起き上がって、小腹も減ったことだしとテーブルの上の料理に手を伸ばしてもそもそと食べていると先輩が酒を注いでくれた。


「かっちゃんがお金欲しいなんて珍しいね」

「今超飢えてるんスよ」

「あれ、でも彼女できたんでしょ?」

「なんだ、みんな知ってんの?そー、可愛いのができました」


 注いでくれたので礼儀として呑まなければならないと思ってグラスを呷り、一気し終わった瞬間に固まった。それを不思議に思った先輩が「かっちゃん?」と問いかけれくれたけれど答えを返す余裕がなくグラスをテーブルにたたきつけて箸が手から零れ落ちた。


「……気持ち悪ぃ」


 そう呟くと本当に胃の中身が逆流してきそうだったので慌てて席を立って手洗いに駆け込んだ。安い居酒屋なので男女兼用だが気にしている場合ではないのでそのまま突っ込み便座と対面する。もしかしたら酔っ払って吐くのは久しぶりなのではないかと口内に苦いものを感じながら冷静な頭で思った。
 だいぶ楽になったけれどすぐにあの喧騒の中に戻る気は起きなくて、外に風を浴びに行こうかと煙草を確認したが、ポケットには入っていなかった。そういえば癖でテーブルの上にライターとセットで置きっぱなしだ。相当切羽詰ってた自分に苦笑して諦めて部屋に戻ろうとすると、ふと足元に影が落ちた。誰かと思うと、教授だった。彼はニヒルに笑うと煙草を手渡してくれる。


「一服付き合わないか?」

「ライターなかったら付き合わざるを得ないじゃないスか」

「ばれたか」


 お茶目なのか分からないが彼は笑った。
 無言で一緒に外に行くと、まだ春とは思えないほど外気は冷たかった。けれど火照った身体にはそれが心地よく、煙草を口の端で引き出すとライターを待って一つのライターに顔を寄せて火をもらった。大の男が二人顔を寄せて火をつけているなんて見た目綺麗じゃないよなと公道で思うけれど、煙草が吸いたい欲求はそんな陳家な考えを簡単に吹っ飛ばしてくれた。
 一度紫煙を同時に吐き出して一息吐く。煙草はお互いに無言だったとしても間を持たせてくれる。自分の頭の中を整理するにもいい時間だと思って黙っていると、教授から思いもよらず真面目な声を掛けられた。


「高橋。お前、金が欲しいってどういうことだ?」

「どういうことも何もそのまんまの意味っスよ」

「今だってバイトしてんだろ?それで足りないのか?」

「遊ぶには十分なんですけど、独り暮らししようかと思って」


 もとから大学の友人には独り暮らしだと思われているので当然教授は不思議そうな顔をしたので、簡単に事情を説明してやる。親父が転勤族で地方にいたが帰ってきたので一緒に暮らすようになったが再婚していて、それがいい機会だから家を出ようと思った、と。なぜだか恵のことは話そうと思わなかった。


「新婚家庭はい辛いな。お前もいっそ結婚しちまえ」

「そんなん先に結婚してから言って下さいよ」


 だいぶ冷静になった頭で考えずに言って、紫煙を吐き出した。まだ半分くらいある煙草を灰皿に押し付けて、「戻ります」と踵を返す。
 本当はいい機会だからとか新婚家庭がい辛いとかではない。ただこれ以上一緒にいると嵌ってしまいそうだったのだ。今だって毎日があり地獄に足を取られたように動けなくなり沈んでいることを少なからず自覚しているのだから。早くしないと、逃げられなくなる。彼女から。





−続−

先生は39歳独身です。