目を覚ましたら見覚えのない天井だった。まだ仄暗い空間をぼーっと見やりながら現状を理解しようと努めてみる。昨日は呑み会で教授にからかわれて呑まされて、巴先輩に甘えて抱きついたことまでは覚えている。けど、そこからの記憶がない。ただ現状は自分は裸で、しかも誰もいないし。
 部屋を見回して時計を探すと、壁に小さいながらも可愛い時計が掛けられている。針は八時過ぎを指していて、もうそんな時間かと思いながらももう一眠りとばかりに寝返りを打った。


「かっちゃん、おはよう」

「……巴先輩?」

「今日授業は?あ、朝ご飯食べる?」


 シャワーを浴びてきたのか髪が濡れている巴先輩が入って来て、思わず体を起こして彼女を凝視してしまった。ということはここは巴先輩の家か。多分、昨夜酔って巴先輩に連れて帰ってもらってそのまま寝たのだろう。彼女ができたのに速攻浮気か。自分で自分に呆れてしまうけれど、現実は変えられそうになかった。


「……俺、もしかして先輩とやっちゃった?」

「なに、その過ちみたいな言い方。私はちゃんと許容したんだから」

「んー、そういうんでなくて」

「浮気の心配?心配すんな、私も彼氏いるから」


 巴先輩の言い草に思わず苦笑して、ぐらぐらする頭をかき回しながらベッドから降りた。ベッドの周りに散乱した服をかき集めて身に着けながら、化粧を始めた巴先輩を見た。今日は授業がお昼前後に入っているからそのために学校に行かないといけない。正直面倒でこのままここでのんびりしていたいけれど、今出て行かなければ帰れなくなる気がした。


「彼氏いんのに男連れ込んじゃダメっスよ」

「じゃあかっちゃんあのまま路上放置がよかった?」

「それはちょっと……」


 路上放置されていたのか。完全に意識を失ったことを後悔しながら、先輩の準備ができるのを待っている。不思議と二日酔いの症状はないが、変わりに体がとてもだるかった。先輩に聞いたらこれから学校に行くというので、一緒に行くことにした。
 この時間になってやっと昨夜家に連絡を入れていないことに気づいた。今更ながら連絡を入れようかと携帯を探して煙草と一緒に引き寄せる。一服しながら携帯を開くと、着信が五十件を超えていた。メールは五件。なんだこれ、悪戯か。初め二軒は自宅から、多分聡子さんだろう。それから四十八件、恵からの着信だった。一体いつ番号を交換したんだ。全く記憶にねぇぞ。


「かっちゃん?携帯見て固まってどうしたの?」

「……別になんでもないっス」

「彼女に浮気ばれた?」

「それ、笑い事じゃねぇし」


 付き合いだして一週間くらいしか経ってないのにと一応笑うが、実際この状況は笑い事ではない。メールも一件が聡子さんで「連絡が欲しい」というもので交換した記憶もある。一件はひかりから短い謝罪。そして、残りの四件が恵からだった。聡子さんにでも聞いたのだろうか。それだったらまだ許せるが勝手に赤外線交換とかされてたらどうしよう。


「かっちゃんは今日学校行く?」

「行く。授業二限からだし」


 テキパキと準備している巴先輩を傍目に、とりあえず頭を起こそうとマイペースにシャワーを借りることにした。本当にこの着信数は冗談じゃない。どこの箱入り娘が陥る状況だろうか。今まで自由気侭な一人暮らしを満喫してきた側としては心底鬱陶しい。そもそも親からは一件しか連絡がないのに妹から四十数件ておかしくないか。
 おかしさを紋々を考えながら、しかし表面的には誰にも悟られないように笑った。誰にも気づかれないうちに、首の周りに糸が張り巡らされている。それに気づいているのは克利しかいない。










 家に連絡して聞いてみたけれど聡子さんは恵にアドレスを教えてはいないらしい。だったらどこから漏れたのか。やっぱ勝手に赤外線で通信されたかな。ちょっと凹みつつ部室で駅でもらったバイトの情報誌を読みながら、ひかりの膝に頭を預けていた。ひかりはゼミのレポートがあるのだとかで黙々と本を読んでいる。


「煙草」

「人の膝の上で煙草を吸うな」

「……お前一々細けぇよな」

「それが普通。克利が我儘すぎ」

「セックスんときもあれすんなこれすんなって」

「ムードを大事にしないからでしょ。女の子はそういうのに敏感なの」


 昨日の涙が嘘のように変わらない関係を続けている。煙草か膝かと言われれば躊躇うことなく煙草なので、腹筋だけで体を起こして机の上の煙草に手を伸ばした。手の感覚だけで火を点けて口元に運びながら情報誌のページを捲る。珍しいことにこの部室に一服する息の音とページを繰る音しか聞こえなくなった。


「克利バイト探してるの?」

「おー。何か割りいいのねぇかなと思って」

「今のバイトは?」

「続けるけど」

「ふーん」


 興味なさそうにひかりは頷いてまた本に視線を戻してしまった。こちらもそれ以上会話を続ける気はないので打ち切り、真剣に雑誌を繰る。できるだけ時給が高いものがいい。少しくらい辛くても我慢できるししなければならない。正直来年になれば就活も始まってそれを機会に一人暮らしできるけれど、それまで我慢できそうにない。
 煙草をふかしながらいまいち決め手がないまま眺めていると、トントンと誰かが階段を上がってきてドアを開けた。


「おはようございまーす」

「あれ、高橋とひかりだけ?奈央ちゃん、浮気かもよ〜?」

「立川!テメ余計なこと言ってんじゃねぇよ」

「ンな怒んなよ。それともあれか、図星?」

「な訳ねぇだろ。俺、今一番奈央が可愛いし」


 奈央と一緒に入ってきたのが立川だったことに多少驚きながらも煙草を灰皿に押し付けて、立っている奈央を手招いた。昨日のことは自分の中では浮気じゃない。彼女よりも好きだと思えたら浮気であって、意識のないところでのセックスなんて浮気じゃない。無意識の迷いだ。
 寄ってきた奈央を座らせてすっとそこに寝転がった。驚いている奈央を尻目に目を閉じて、漸く一息吐き出した気になった。


「せ、先輩?」

「眠い」

「え、えぇ?」

「奈央さ、俺にできるバイトって何か思いつく?」

「お前今カラオケだろ?」

「立川には訊いてねぇだろ」

「うわ、うぜー。何、酔ってんの?」


 目を白黒させている奈央の髪を重い腕を持ち上げて撫でながら、見つからないバイトに溜め息を零してしまう。確かに高望みしているのは分かるが、高望みでもしなけりゃ一人暮らしなんて相当向こうになってしまう。それまで、持ちこたえられそうにない。


「克利、アズミ」

「は?」


 急にひかりが言うものだから何事かと思って思わず体を起こした。何で今その名前を出すんだ不吉な、と思いひかりを見るが彼女は全く動揺せずに顎でドアの方を指し示した。それに従って視線を移して、驚いた。


「アズミ来てる」

「なん!?」


 確かにアズミが立っていた。どうしてドアを開けっぱなしなんだとか膝枕が見られたかとか気になることはたくさんあったけれど、まず目が合ったときにアズミがにっこりと可愛らしい笑みを浮かべてくれたから思わず背筋が粟立った。笑顔に恐怖を感じるとか、とても久しぶりだ。


「お、おぅ……どうした?」

「克利、昨日ゼミ呑みがあったでしょ」

「何でお前が知ってんだよ」

「友達が教えてくれた。千島先輩と寝たってホント!?」


 どうしてよりにもよってこのタイミングでばらすんだ。アズミが興奮したように近づいてくるし奈央は顔色を失って目を大きく見開いているし、ひかりなんて呆れた顔で本を読み続けているし立川は笑いをこらえるような顔をしているし。何なんだこの状況は。
 こうなりゃ一つずつ解決していくしかないとばかりにまずアズミの誤解を解くために煙草を灰皿に置いて気を落ち着かせるために息を深く吐き出した。極力感情を押し殺した声で言う。


「お前には関係ねぇだろ。いつまで俺の彼女面する気だよ」

「……そんなつもりじゃないわよ!」

「だったら一々文句つけんな。俺の勝手だ」


 もう怒られる筋合いはない。付き合っていた頃は誰と寝ただの誰と仲良くしただの煩く言ってきたが、もうその権利はアズミにはない。あるとしたら奈央だが、彼女は文句を言っては来ない。
 関係ないともう一度言うと、アズミは悔しそうに顔を歪めて踵を返した。一度ちらりと奈央を見て、カツカツとヒールを鳴らして部室を出て行く。奈央を見たときに彼女の唇が僅かに笑んだのは気のせいと言うことにしたい。


「ひかりも立川も笑ってんじゃねぇ」

「私は笑ってないわよ?」

「笑ってんじゃねぇか。奈央、気にすんな?」

「……はい」

「あーもう。可愛い顔してんじゃねぇよ」


 本当は後ろめたいことがある。だからこそ奈央をぎゅっと抱きしめた。別に巴先輩と寝たからといって後悔している訳じゃない。だって覚えてないし。けれど一つだけ気になるのはさっき見たような気がしたアズミの顔だ。今まで浮気を幾度となく繰り返し、そのたびにあの顔を見た。あの顔に何人もの女が泣かされた。ある種こっちにもトラウマがある笑みだ。
 あの顔は気のせいだと思いこみたかったが、そう都合よくいかないようだった。ひかりがドアを見ながら不吉な言葉をポツリと呟いた。


「アズミ、笑ってたね」

「………」

「私もあの顔、見たことあるし」

「………」

「奈央ちゃんが彼女ってばれたんじゃないの?」

「お前は!人の不安ばっかり煽ってんじゃねぇ」


 やっぱり見間違いではないらしく、ひかりの言葉に思わず声を荒げた。奈央の肩をぐっと掴んで、小さな彼女のために少しだけ屈んで視線を合わせた。奈央の瞳の中に自分のえらく真面目な顔が映って少し滑稽だった。けれどその真剣な顔に何かを感じ取ったのか、奈央は少し不安そうな顔をした。


「何か身の回りで変なことあったら絶対にすぐに俺に言えよ?」

「私の時にはなかったなぁ、その言葉」

「お前守られるほど弱かねぇだろ」

「弱い弱い」


 たちが悪い女に捕まったとは思うが、不思議と嫌いにはなれなかった。けれど今の守るべき彼女は奈央だ。ひかりは浮気だったけれど相当なことをやられ、それでも気丈に仕返しできる強い女だった。さっぱりした性格だからこそ長く関係を続けられているのだろう。
 不安そうな顔の奈央に安心させるように笑って頭をなでてやろるけれど不安そうに訳が分からないと奈央はひかりに助けを求めた。


「江川先輩、どういうことですかぁ?」

「アズミはね、克利のこと大好きだから浮気相手は徹底的に潰すのよ」

「え……?」

「大丈夫大丈夫、もう別れてるはずだから」

「ひかり、不安煽るようなこと言うなよ」

「でも上手く別れられない克利がバカなんじゃない」

「うるせぇ、どうせ俺はバカだっつーの」


 上手く別れられなかったのは確かなことだから否定する気はない。けれど今、深刻な問題が山積みなのだ。けれどアズミの問題もその一つかもしれないが、もう頭も身動きも回らない状況にまで追い込まれている気がしてならない。まるで気づいたら雁字搦めに蜘蛛の糸に絡めとられてしまったかのようだ。
 好意を寄せられることは正直嬉しい。嬉しいけれど、こうなってしまうと世界で一人だけになりたいと思ってしまう。これは矛盾した思いなのか今はまだ分からない。





−続−

ひかりさんに恋しそう。