たった一度。ひかりと交わるには少ない数で一息ついて、ベッドの上で煙草を一本吸った。ひかりはというとまだベッドでぼんやりしてシーツに包まっている。何だか強姦した後みたいだとやったこともないのに変なことを思いながら、吸い終わった煙草をサイドラックの灰皿に押し付けた。そしてようやく灰皿がいっぱいだったことに気づく。


「克利君、そろそろご飯になるんだけどー?」


 ドアの向こうよりも少し遠い所から聡子さんの声が聞こえてきて条件反射のように時計を見ると、そろそろ八時になるところだった。ドアの向こうには恵がいるはずだったがいつの間にか忘れてしまった。
 慌てたように体を起こして、少しだるそうに散乱した衣服を身に着けているひかりを見ながら彼女がどうしてこんなに急いでいるのか分からなくなってボーとしていると脱ぎ捨てた下着を顔面に投げつけられた。一瞬覆われた視界をすぐに障害物を取っ払って開かせ思わず体を起こした。


「何しゃがんだ!」

「私、帰るね。夕食なんでしょ?早く行きなさいよ」

「あ、あー……」


 妙に脳内で錯誤があったようだ。ひかりと寝たらそこはホテル以外ではない気がしていたが、ここは自宅で自分の部屋だ。だから聡子さんの声が聞こえたのかと自分で納得して、ひかり同様に脱ぎ捨てた服を集めて怪しまれないように急いで身に付ける。


「で、スッキリした訳?」

「まあね。何か吹っ切れたわ」


 ドアの向こうから聡子さんの恵を呼ぶ声がして、ドアのすぐ近くで立ち上がる気配がした。やっぱりずっといたのか。別に困りはしないが何のつもりでいたのか、その答えに予想がつくからできれば想像しないでいたい。適当に髪を整えてベッドから降りそれからようやく今夜の寝床をどうしようかと思い当たった。ひかりのためか自分の為か、執拗な行為で残念ながら今夜眠れるような状態ではない。ひかりが準備し終わるまでどうしようか考えたがいい案など浮かばなかった。


「もう克利気軽に誘えなくなっちゃったね」

「何で?」

「だって一人じゃないからご飯食べに行けないじゃん。作ってくれてるのに申し訳ないし」

「別に、朝食ってもいいし」


 一人暮らしじゃなくなって家族ができたといってもそれは戸籍上のことで、すぐに一人暮らしに戻るつもりなので気楽に誘ってもらっても構わない。そもそもこの家で異質なのはこっちの方だ。相手は一年も一緒に暮らしていたから、親父と克利よりもお互いを知っているはずだ。そして何も知らないのはたった一人。それだけではないけれど出て行きたい理由はある。
 ひかりと一緒に部屋を出て玄関に行こうとリビングの前を通るとタイミングを計ったかのように聡子さんが顔を覗かせた。


「お邪魔しました。すみません、お食事時に」

「あら、帰っちゃうの?お夕食食べていかない?」

「そんな、お邪魔ですから」

「お家でお母さんがご飯作ってるかしら?もし一人だったら遠慮しないで」

「そうですか?」

「えぇ。実はね、作りすぎちゃったの」

「じゃあ……お言葉に甘えて」


 聡子さんの力押しと言う感じがしなくもないが、ひかりは申し訳無さそうに彼女の申し出を受けた。聡子さんは嬉しそうに笑うとさっさと台所に戻って準備を始めてしまう。どうやら彼女は料理も誰かに振舞うのも好きなタイプのようだ。社交的なのだろう。何となく今彼女の性格を分析しながらひかりをダイニングに促した。今日は親父がまだ帰ってきていないから親父の席に座らせればいいだろう。そう思ったらすでに親父の席にひかりの分が準備してあった。初めからそのつもりだったのか。


「恵ー!何してるの?」

「はぁーい」

「……何してんだ、あいつ」


 ひかりを席に付けてから台所から二人分の茶碗を持って戻る。まだ恵が来ていないようで茶碗を置きながら呟くとひかりのもの言いたげな視線と目が合ってしまった。この目はこっちが責められていい思いをした記憶がないから、何か言われる前に慌てて逸らした。
 席について手を合わせていると、恵がパタパタ走ってきて席に着いた。克利の正面、聡子の隣だ。いつものこの席が今日は妙に居心地が悪かった。


「ちょっと、あんたまだ制服なの?」

「あとで着替える。いただきます」


 聡子さんは厳しい。帰ってきて相当な時間が経っているのにまだ制服でいる娘に一通り小言を言い終えると、まだ満足いっていないようだが渋々と食事を始める。彼女の隣に座るひかりはというと、何だか緊張したように大人しい。こんなひかりは普段を見慣れているせいで気持ち悪い。もちろん猫被っている姿は寒気がするほどだ。


「克利君にこんなに綺麗な彼女さんがいたなんてね。隅に置けないわぁ」

「こいつ彼女じゃねぇよ」

「あら、そうなの?」

「ともだちです、ただの」


 だたのって言い方はないだろ。思わずでかかった言葉だがこの場は飲み込んだ。お互いにただの友達でいい。セックスもするし腹を割って本音で話せるけれどそれだけ。ただの、友達。きっとこの形が一番しっくりいっているのだろう。
 柔らかいロールキャベツを箸で割っていると、目の前から視線を感じてそっと眼球だけ動かしてそれをみた。見たけれどすぐに視線を戻す。女の視線てのは厄介だ。それが妹であろうと元カノであろうと、それは後ろめたいことがある身には恐怖の対象になる。そんな目をされるいわれはないはずなのに。


「それに克利には奈央ちゃんがいるもんね」

「あー、うん」

「うわ、生返事。奈央ちゃんかわいそー」

「別に可哀相じゃねぇよ。俺のが可哀相だっつの」

「どこがよ。アンタ最低すぎんのよ」

「優しい俺に向かってなんつーこと言うんだテメェ」

「優しい?どこが?優しい奴があんなにしつこくスルか!?」

「慰めてやったんだろ!?文句言うなっつの」


 いつものように、言い争い。それもとても下らないこと。それが心地いいからつい逃げてしまう。ひかりにしても今日はそうだったんだろう。楽な方に逃げて、現実逃避。でも分かっているからそれは有限で終わりはすぐにやってくる。だからこの関係は終わらない。何も始まっていないから、終わりもしない。


「……やっぱ、ラクでいいわ」

「うるせぇ」


 確かに会話は軽くて雰囲気もらくちんで。だけどそれは表面上のことでありお互いのことだけに関してだ。今この場の雰囲気は聡子さんのおかげで明るいが、その隣からものすごい雰囲気をかもし出されている。強いて例えるのならば、アズミに浮気がばれた時みたいな重圧だ。妹なのに。


「克利君が何だか楽しそうでよかったわ」

「え?こいついつも楽しそうじゃないんですか?」

「人をノー天気みたいに言うな」

「いつもそうね、何だか大変そうだから」

「……最近忙しかったからなぁ」

「自業自得」

「半分はお前と立川のせいだ」


 さも当たり前のように言ってロールキャベツを口に放り込んだひかりの足を隣から蹴っ飛ばし、最後の飯を掻き込んだ。最近、変なことがいっぱいあってそれを増徴させるようにひかりと立川が騒ぐから更に悪化して。一人だったらもうちょっと上手く立ち回っていたはずだ。なのにこの現状は、やっぱりこいつらのせいにしないとちょっと辛い。


「あんたも大変ね。いつでも慰めてあげるから、期待しなさい」

「おぅ、超期待してる」


 ひかりが何かを悟ったように視線を向けてきた。こいつもまたあの目だ。けれどこの呆れたような目は正直嫌いじゃない。もう事態が進行するところまで進行してしまったような、そんな目だったから。
 しばらく聡子さんを交えてひかりが上手く話し笑い声が生まれていたが、その中で恵は一度として会話に加わりはしなかった。










 ご丁寧にデザートまででてきてそれを食べた後、一人で帰ると言ったひかりに聡子さんが危ないから駅まで送ってあげたらどうかというので送ってやる事にした。別にそんなに寒くないので上着を羽織らなかったら少し肌寒かった。
 マンションの玄関エントランスまでは終始無言でおり、外でて駅まで約十五分お互いに話題も触れるべきこともなくただ黙っていた。他の人間と歩くと苦痛の距離であっていつもならば無理矢理にでも話題を作るが、ひかりとは別にこの沈黙も嫌いじゃない。ただ、路上喫煙が禁止なところだけが不満点だろうか。お互いに無言で駅まで来て、改札の前で漸くひかりが振り返って口を開いた。


「今日はごめんね」

「別に構わねぇよ。俺も暇だし」

「あんた、気をつけなさいよ」


 思わずドキッとした。アズミと別れる前に二股かけていると言ったら、あのときもひかりは「気をつけなさいよ」と言った。まるで不幸の予言のようだ。あの時はこちらの不注意だとは思わないがアズミにばれてひどい目に遭った。相手は自殺を図るしアズミは半狂乱になってはさみ持って暴れるし。あんな事態は勘弁して欲しい。けれど決して今のこの危なっかしい状況に気づいているわけではないだろう。普通の発想にはない事態だ。いくらこちらに前科がいろいろあるとしても、ありえない事態だから。だから誤魔化すように笑ったけれどひかりは険しい表情を崩しはしなかった。代わりに、留めの一言。


「あの妹さん。あんたのこと好きよ」

「……知ってる」


 言い当てられてしまった。自分でも気づかないふりをしていたのに。知らないふりをしていたのに。けれど口から出た音は自分でビックリするほど軽い音だった。もっと重々しいかと思っていたが意外にも軽くて自分でもビックリした。
 恵の一挙手一足投から嫉妬とかそういう憎悪にも思慕にも似た感情が伝わってくる。言動が、恋する幼い女のそれでしかない。そしてそれは全て自分に向けられている。そんなこと、知っていた。だから、だったらどうすればいいのか教えてくれ。


「お兄ちゃん、やってれば?あの年頃は恋に恋するお年頃って奴なんだから。アンタもてるんだから諦めなさいよ」

「……簡単に言うなよ」

「言うわよ、簡単だもの。少しは家族ごっこしてあげなさい。じゃあね」


 呻くみたいな変事を返す前にひかりはひらりと手をふって改札を抜けてしまった。人通りが多い時間のためすぐに見失ってしまい、言葉を投げかけることはできなくてそれは呑み込んで処理した。けれど自分自身で彼女になんて返事をするつもりか分からなかった。


「克利?何だ、父さんの迎えか!?」

「ンな訳ねぇだろ。偶然」

「丁度いい、一緒に帰るか」


 どうしてこんな時に親父に会ってしまうんだか。一人で考え事しながら帰ろうかと思ったのに。だけどひかりの言うとおり家族ごっこにも少し参加してもいいかもしれない。いや、するべきだ。でないと、あとで取り返しがつかないんだ。そうなってからじゃあ遅い。
 今まで全く意識がなかった。家族と言う形に少しだけでも近づけなければならない。ひかりの言葉を噛み砕きながら、久しぶりに親父と並んで家に帰った。話題はずっと、恵のこと。親父がずっと喋っていた。





−続−

とうとうバレた!