翌朝目を覚ましたら、恵が頭が痛いと文句を言っていた。朝から授業があるわけではないが家にいて文句を言われるのはごめんなのでとっとと家を出る。電車の中で恵の方が先に行くんだからあのまま寝てれば文句も言われないのだと思い当たったが、後の祭りだった。
 電車に乗ってから引き返すのも馬鹿らしいので、結局いつも通り部室に顔を出すと珍しく人が多かった。その中で固定ポジションはしっかりと空いている。


「高橋、今日は早ぇじゃん。いつもギリギリのくせに」

「まーたまには。奈央、おはよ」

「おはようございます」


 挨拶がてら雑誌から顔を上げた奈央を後ろから抱きしめると、奈央は固まった。初々しい反応に喉で笑って彼女を解放し、空いている指定席に荷物を置いて腰掛ける。後ろのポケットから煙草をライターを取り出すことも忘れずにテーブルの上に出しておく。そうしている間にも立川が楽しそうに見ていた雑誌を広げて見せてきた。


「なな、もうすぐゴールデンウィークだけどさ、どこ行く?」

「行く前提かよ」

「やっぱ今年はちょっと遠出するか」

「悪ぃけど、俺パス」

「は!?何で!いつもなら一番ノってくるくせに!!」


 少し考えてからそういうと、立川はものすごく驚いた顔をした。呑みサーと名高いボーリングサークルはやっぱり遊びのサークルで、長期の休みには合宿と称して泊りがけで遊びに行くし、このくらいの休暇でも遊びに行く。もちろん毎年毎回参加するのが当たり前のような恒例行事だが、今回ばかりはそういうわけにはいかない。
 何でとこの場で言われてもあまり言いたくないのが本当の所で、しかも本当のことを言ったところで信じてもらえそうにもない。考える時間を稼ぐために煙草に手を伸ばして火を点ける間にひかりが来た。


「珍しい、人がいっぱいいるわ」

「おはよーひかり。聞いてくれよ、高橋遊びに行かないっつーんだけど!」

「ゴールデンの?あっそ」

「あっそって何!?ひかり冷てぇよ!」


 意味深にひかりが僅かに口の端を引き上げるのを見て、ばつが悪くなり顔を逸らした。立川が騒いでいるけれど無視して紫煙を吐き出す。確かに遊びに行きたいし、今バイトしているのだってそのためではあった。けれど目的ができて、そのためにバイトを増やした。だから余計なことを使わずにその目的の為に使うべきだと思う。多少の余暇を覗いてだが、毎回遊びに行くといつものことながら金がなくなるので本末転倒。
 ひかりは立川になんて全く取り合わずに「私もパス」と冷たく言ってやっぱり開いている座った。後輩には先輩たちの席と言うのは固定されているようだ。本人たちは別にどこでも構わないのに。


「腹括ったっていうか、思いきったっていうか。逃げ出したっていうか」

「うっせぇよ。その代わり奈央とデートしまくんの」


 ひかりはどうせ全て察しているだろうから必要以上に言葉を紡がず、周りの目を考えて話を受け流した。奈央にうまい事振ってみるけれど驚いたように目を見開いてこっちを凝視してきただけだった。あれ、もしかして都合が悪いのか。


「奈央?もしかして無理?」

「そんなことないですよ。ただちょっとびっくりしちゃって……」

「まだ昼間遊びに行ったこともねぇしさ。行きたいとこ考えとけな」

「私、映画行きたいです!」


 「ついでに今日飯行ける?」と訊けば「今から家に連絡すれば大丈夫です」と笑顔で返ってきた。何度も食事はしているけれどまだそれだけで、手くらいは繋ぐけれどセックスは愚かキスだってしていない。異例の遅さと言ってもいい。今までが早かったのかもしれないが、全てが例外ならそれはもう例外じゃない。
 結局行かないことを決定しても恒例行事が中止になるわけではないので話し合いは続行されていた。特に参加する意味もないし水を差すのも悪いので、同じく参加する気がないひかりと外に出て屋上に登った。予想通り誰もいない。


「家族ごっこ、ちゃんとやってる?」

「……関係ねぇだろ。お前こそ、失恋の痛手はもういいのか?」

「吹っ切ったわよ。別に関係ないけどね、ちょっと気になって」


 ひかりの言葉は軽いけれど妙に引っかかった。どうせもうすぐ家を出るつもりだからそんなに家族ごっこが有効だとは思えないが、とりあえず実践はしている。しているが、結果は芳しくない。
 煙草を吸いながらなので会話はそう続かない。ぽつりぽつりと話しながら時間を潰しているようなものだ。


「高橋先輩、ひかり先輩、私も仲間に入れてもらっていいですか?」

「奈央」


 屋上にひょっこりと顔を覗かせた奈央に意外そうな声が出てしまい、それを察したのか彼女は「私も参加しませんから」と笑っていった。咥えていた煙草を下に落として靴で踏みつけ、蹴っ飛ばしてから奈央を隣に来るように促した。小柄な肩を抱き寄せて、溜め息を一つ。


「行かねぇの?」

「先輩がいないと楽しくないですから」

「あら、克利ったら色男」

「ちゃちゃ入れんな!マジでいいのか?」

「はい。その代わりいっぱいデートしてくれるんですよね?」


 少し不安そうな顔で奈央が言うので、思わず抱きしめたくなって小柄な体を腕の中に閉じ込めた。ちょうど当たる頭頂部に頬を摺り寄せると抱きしめた体がすぐに上がる。こういう反応がまた可愛い。どうせひかりなんて抱きしめても鬱陶しいくらいにしか思わないだろう。セックスの時だってそんなもんだから、楽ではあるが付き合うんだったら可愛い方が断然いい。


「好きなとこ連れてってやるよ。あんま金ねぇけど」

「先輩といられたらどこでもいいです」

「うっわ、ひかり聞いたか?超可愛い」

「私だったらアメリカとかいうけどね」

「お前最悪」


 やっぱりひかりなんて彼女にしないほうがいい。こっちの方が毟り取られる。改めて今の関係に感謝しつつ、また煙草に手を伸ばした。奈央を解放して煙草に火を点けると、ひかりが眉を寄せてそれを見ている。


「何だよ」

「最近、本数増えたわよね」

「そっか?」

「いい加減にしときなさいよ」


 考えてみて、確かに煙草の減りが早いことに気づかされた。今まで一日一箱くらいだったのに三日で二箱くらいは消費している。やっぱストレスか。でもアズミと付き合ってたときは一日に半分減ればいい方だった。だったら単純に量が増えているだけか。だとしても減らさないと金銭面がキツイ。


「あ、そろそろチャイム鳴りますね。私授業あるんで、失礼します」

「おう、頑張ってな」


 腕時計を確認して奈央が言うのでへらりと笑って別れた。彼女が階段を降りていく音を聞きながら何気なく時計を確認すると、まだ授業が終わる五分も前だった。相変わらず勤勉だ。
 しばらくお互いに黙っていたが、煙草を吸い終わる頃になってひかりがぽつりと呟いた。


「まだ寝てないんだって?」

「それどころかちゅーもしてねぇよ」

「最長記録じゃない。大事にしなさいよ」

「目標は連休明けまでに一発」

「やっぱあんたって最低の男だわ」


 ひかりはそう言って笑うから「上等」と返してポケットに手を突っ込んだ。次もまだ授業はない。授業はないが、ここにいてもつまらないし、どうせなら部室で騒いでいた方がいい。
 ひかりはまだここにいる気のようで動く気配がないから黙って行こうとしたらまた下から今度はヒールでたたくような音がする。部室では白熱した争いをしていたから他のサークルだろうか。どうせ関係ないと思い階段ですれ違うのもまずいので階段の前で待っていると、上がってきたのはアズミだった。


「ここにいたの」

「……何か用かよ」

「冷たいわね。もうちょっと仲良くしてくれてもいいのに」

「あんまくっつくのやめてくんねーかな……」

「でも振りほどかない克利が好きよ?」


 にこにこと微笑みながら当然のように腕にしがみついてきたアズミをけれど無理矢理引き離すこともできずに、そのままその場で小柄な体を見下ろした。相変わらずの格好に相変わらずの態度。それに辟易するはずが別に嫌じゃないのはどうしてだろうか。


「克利にね、お願いがあるの」

「お願い?」

「寄り戻して」


 ここは、無理だと即答する所だ。相変わらずの表情で強請るように、けれど瞳はお願いじゃなくて強制しているような色で見上げてくる。それに抵抗できたのは何度だろう。思いあたらなと言うことはないのかあるいはあったとしてもほんの瑣末なことでカウントに入らないのか。でも今回ばかりは拒まなければならない。ここでケリをつけなければ結局ずっとアズミの言いなりになるしかない。だから努めて冷たい声を作った。


「今、彼女いるって知ってんだよな?」

「知ってるわよ。でも私のほうが克利のこと好きだもの」

「それは関係ねぇだろ。お前とやり直すのは無理。いい加減にしろよ」

「……そう。分かったわ」


 意外にも簡単に引き下がってくれた。もっとしつこく来るだろうと思っていたのであまりにも意外だったので本当に良いのかと言う気になってしまう。けれどアズミはにっこりと笑っただけで簡単に腕も解放して踵を返した。来た時と同じようにカンカンと階段を踏み鳴らして降りて行く。一体なんだったのか、思わずポカンと見送る。


「克利ってずるいよね」

「……なんだよ」

「好きじゃないって、言わないもの」


 本当は口にしなければならなかったのはアズミに対しての否定の言葉。お前なんか好きじゃない、今は奈央が好きなんだと言わなければならなかった。けれどなぜかその言葉は全く浮かんでこなかった。それどころかその感情すら浮いていない。自分の性格に嫌気が射す。


「はっきりしないからアズミも諦めないのよ」


 ひかりの言葉に簡単に捕まる。確かに今まで何度浮気してもアズミに言わなかった言葉がある。相手のほうがお前より好きだからとか、お前に飽きたとか、ただの一度も言っていないし別れの際にすら口にしていない。自分の好悪をただの一度も伝えていない。アズミにはただ好きだとしか言わなかった。否、好きだといったかどうかの記憶さえ曖昧だ。


「あんた、本当に奈央ちゃんのこと好きなわけ?」

「…………」

「あの子、危ないわよ」


 アズミが何をする気か分からないけれど何かをしでかすことは簡単に想像できる。当たり前の因果関係にぞっとしないまでも漠然と危機感は抱いた。自分のせいで誰かが傷つくからとか訳の分からない感情が渦巻く自身を持て余し、誤魔化して吐き出すために煙草に火を点けた。





−続−

かっちゃんはどこに行きたいんだろう。