ゴールデンウィークに入る少し前から、奈央と連絡がつかなくなった。避けられているようには感じないが、向けられる笑顔に力がなくてよそよそしい。学校があってそれで、夕食を一緒に食べに行くことも皆無になった。そして黄金連休。メールでデートに誘ってみても、予定があるからと避けられる。
 嫌な予感がしていたばかりに、その的中に寒気がした。


「克利くん、デートとかしないの?」

「……まぁ、ちょっと」


 ゴールデンウィークに入った途端にサークル仲間は揃って遊びに行ってしまい、逐一メールが写真つきで送られてきた。ウザイので返信はしていないが、楽しそうだ。ひかりが参加していないはずだが、連絡を取る気にもなれずにここ数日バイト先と家を往復する日々だ。
 夕方に家を出てバイトに勤しみ、朝帰宅。そのまま寝て昼過ぎに起きるという生活サイクルだから、休みに入ってから親父の顔を見ていない。


「毎日毎日、バイトご苦労様ね」

「……なんか引っかかり感じる言い方なんだけど」

「あら、そ?別に何でもないわよ」


 昼過ぎに起きてリビングにいると、聡子さんがテレビを見ていた。なるほど主婦が家事から解放される時間だ。こんな時間に食事を用意してくれる気はないのか、ソファから立ち上がる素振りを見せない。別に文句はないし今までやってきたことだから構わないが自分でキッチンに行ってとりあえず冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出す。コップに注いで、その辺にある菓子パンを一つ持ってリビングに戻った。
 聡子さんの向かいのソファに体を投げ出してパンの袋を破ると、彼女は文句あり気にこちらを見てきた。目が合うと、ふいとそれを離す。


「何?」

「何が?」

「こっち見てるから」


 何の意図があったのかとパンをかじりながら問うと、彼女は何の気もないような口調でテレビから視線を逸らさずに何かを言おうとした。けれどその言葉は玄関の方から聞こえた騒がしい足音と声に掻き消されて耳に届く前に消滅する。


「ただいまー。あ、お兄ちゃんおはよ」

「どこ行ってたんだ?お前」

「部活。シャワー浴びてくるね」


 背中のテニスバッグを揺らしてリビングを出て行った恵の背中に「洗濯物出しときなさいよ」と声をかけて、聡子さんはまた意味ありげにこちらを見た。恵が風呂場に消えた音がしてから、ようやく彼女の視線の意味を理解する。もう何日も洗ってないスウェットか。基本昼間寝ているものだから、洗濯に出す時間とあわないからしょうがないと諦めていたが、そろそろジャージに変えるべきか。


「今から洗濯機回していい?」

「何で?別にいいわよ。私はただ克利くんって今時の男の子なんだなって思っただけだから」

「今時?」


 その言葉の古めかしさに軽く一笑。
 確かに髪は控えめだけれど茶色に染めて、今は何のことはないグレーのスウェット。携帯はさっきから鳴りっぱなしでメールが来るし、適度にサボるし適度に遊びに行く。けれど今時と言う言葉のおかしさにはまだ妙な感覚がつきまとった。あれか、性の乱れってやつのことを言っているのか。


「あの彼女、本当に恋人じゃないの?」

「彼女じゃないし、彼女になる予定もないし」

「避妊はちゃんとしなさいね」


 それだけ言うと、聡子さんは満足したのかもう何も言わないでテレビに視線を移した。
 子供を作る行為だと知っているけれど実感がない快楽だけのセックスには避妊具なんて野暮なものは要らないと思っている。思ってはいるけれどそれは男だけの感覚らしく、女は口うるさいほどにゴムをつけろと言う。こっちが盛り上がって突っ込む寸前だというのに、集中してねぇんじゃねえかってほどはっきりと確認する。だから結局、あいつと寝る時はひかりが持っている。
 自分の財布の中に一枚くらい入っているかと思い出しながらまた着信を告げた携帯を開く。立川から、猿の写真。こいつら一体どこにいるんだか。


「お兄ちゃん、今日も夜バイト?」

「今日はねぇけど」


 シャワーを浴びてきた恵が、リビングに入ってくるなり訊いてきた。洗ったばかりの髪をバスタオルで拭きながらキッチンに行って何かを探している。腹が減っているらしく冷蔵庫の中を眺めるが、生憎食事になるほどのもの入っていない。


「お母さん、ごはんは?」

「自分で作りなさいよ、いい歳なんだから。もちろん克利君も」

「お兄ちゃんもご飯食べてないの?」

「お兄ちゃんも起きてきた所ですから」


 聡子さんの機嫌が悪い。何でだ。意味は分からないけれどかなりイライラしている。これはさっさとしないとヤバイ。別に母親という生物がそうだと思っているわけではないし、過去の経験と言うにはたった四年しかない母親は少なすぎる。ただ何となく女はそんなもんだと思っている。
 昼食を取る気はなかったが食べないとそれだけでも文句を言われそうで、億劫だけれど立ち上がってキッチンに向かったが、出てきた恵のおかげでキッチンに入れない。


「じゃあさ、ちょっと付き合って?」

「は?」

「ご飯ついでにデートしよ」

「……。さ、飯作るか」

「いいじゃん!買い物付き合ってよ!」


 妹にデートに付き合わされるとかありえない。本物の彼女ともデートしてないのに。けれど立川に聞いた話ではあいつも姉の買い物に付き合わされているとか。だったらこれも兄妹ごっこの一因になるのだろうか。
 特に予定もないし、最近バイト以外どこにも行っていないから買い物も少ししたい。けれどコイツと出かけるのは躊躇う。けれどそんな躊躇いを蹴散らすような一言が、ソファから聞こえてきた。


「いってらっしゃい。二人ともいなくなったら楽でいいわ」


 初めは母親と言う立場になった他人くらいにしか思っていなかったし、相手も息子になった男くらいにしか認識していなくて妙に緊張とかしていたのに、最近ではめっきりそんな事もなくなったようだ。はっきり言われて、昼間家にいるから彼女も息が詰まるのだろうと思い当たり出かけることにした。たまには付き合ってやるのも、悪くない。










 ただ飯食って買い物して帰るだけだったはずなのに。新宿まで来て、ファーストフードの店に入ったまではよかった。何故今映画館の前にいるんだ。アルタあたりで買い物して帰ると思っていたのに、なぜ今映画を選んでいるんだ。謎過ぎてもう展開についていけない。


「これ見たかったんだよね。これにしよ?」

「誰が映画見るなんて……」

「いいからいいから」


 全然よくねぇと思うのに、恵は強引に映画館に引っ張っていこうとする。そういえばこの映画はアズミが好きそうなベタベタの恋愛ものだ。こういうものを見た後は、決まってそれに似たことをしたがって面倒だった。
 別に見たくはないけれどもうここまできたら見てやるかと半ば諦めかけた時、視界の端を知っている姿がちらついた。もしかしたら見落としていたかもしれないそれを見つけられたのは、視界に入った瞬間にその場から動かなくなったから。視線を僅かに動かしてそれを中心にいれると、奈央が目を大きくして固まっていた。


「奈央」

「……あ、あの、すみません!」

「は!?おい!」


 硬直した後に怯えるような顔をして、真っ青な顔のまま踵を返す。反射的に手を出したが奈央の腕は捕まらなかった。走り去る小柄な体を追いかけるが、片腕を恵に掴れているので走り出すことすら叶わなかった。離せと腕を振り回したところで、更に強く掴れる。


「離せよ!」

「あたしが先に約束したんだもん!」


 信じられない理屈はアズミに似ている。彼女だったら許せる台詞はこいつだから許せないのかただただ立場上許せないのか。
 完全に視界から消えてしまった奈央の姿を探すのを諦め、手早く携帯を開いて番号を探し出す。着信履歴で簡単に見つかったそれにあわせてボタンを押すとコール音が耳に当てた受話器から聞こえてきた。けれど出る気配はない。


「映画早くしないと始まっちゃうもん」


 妙な理屈を捏ねている恵にもう逆らう気力も起きなくて、ひっぱられるままに映画館に連れ込まれた。放映時間ギリギリだったようで、中は中々の人の入りだった。席に着けばすぐに暗くなる。
 さっきは映画でアズミを思い出したが、本来は奈央を思い出さなければならなかった。確かに一緒に映画を見た思い出なんてないけれど、これは奈央が見たいといっていた映画だ。原作が有名な少女漫画で原作も大好きなのだと嬉しそうに言っていた。正直興味はないけれど一緒に見に行こうかと思っていた。思っていたのに、今隣にいるのが妹とか、ありえない。


「お兄ちゃん」

「……んだよ」

「さっきの、彼女さん?」

「関係ねぇだろ」

「あんまり綺麗じゃないね」


 視線の先で巨大なスクリーンが注意事項を促していた。それを見ながら襲ってくる睡眠欲に簡単に身を委ねようとする。
 確かに奈央は綺麗じゃない。ひかりなんかと比べたら大人と子供みたいな差があるけれどしっかりしているしそれなりに可愛い。別に顔が好みで選んだ訳でもないから何を言われてもいいが、さっきの奈央の態度が気になった。何かに怯えたようなあの表情。たまに女と一緒にいてもひかりと浮気まがいの現場を目撃してもあんな顔をしなかった奈央の、怯えたような顔。またアズミが何かをしたのだろうか。それが妙に気になった。けれど意識は、暗闇の中簡単に闇に溶け込んでしまった。










 奈央と完全に連絡が取れなくなった。メールしても電話をしても出てくれない。気にはなったけれど変に心配になったわけでもなくまた休みが明けて学校にいったら会えるのだと軽く考えていた。連絡が取れないまま、連休も最後の日。昼過ぎに、携帯が鳴った。ちょうど部屋でそろそろ起きようかどうしようかと悩んでいた所だったから誰からの着信なのか、確認しないで出てしまった。


「……もしもーし」

『あれ、寝てた?』

「アズミ……」


 普段なら確認して、アズミならもう少し気をつけて冷たい声を作るのに全く油断していた。電話口から聞こえるのは変わらないアズミの少し笑みを含んだ甘い声。その声が、全てを見透かしたように「まだベッドの中?」と笑った。


「何の用」

『これから予定ある?ちょっと話あるんだけど』

「無理。バイト」

『嘘。克利休みの最後の日ってバイト入れないじゃない』

「知ってんなら満喫させろよ」

『可愛い彼女の話、聞きたくない?渋谷のいつものところで待ってるから』

「は!?おいアズミ!」


 言いたい事を言って満足なのか、電話が切れた。やっぱり奈央に何かしやがったのかと憤りよりも先に呆れが浮かんできて、けれどこれは会わなければ解決されないと身を持って知っているので飛び起きて着替える。慌てていたからかバタバタしていたからか、その音を聞きつけてリビングにいた恵と聡子さんが部屋を覗きに来たが、構っている暇はない。


「何バタバタやってるの?」

「ちょい出かける。たぶん夕食もいらね」

「そう」

「お兄ちゃんどこ行くの?」

「ただの呼び出し」


 頭を軽くセットしてポケットに携帯と財布、煙草を突っ込んで小走りに玄関で靴を引っ掛けた。できるだけ急がないと、遅れた分だけアズミは文句をつけて高いものを要求する。今は買ってやる義理もないと思うが、最早癖だ。
 足早に駅まで行って、電車に乗ってやっと一息ついた。窓を鏡代わりにして髪を改めて確認する。たぶん、奈央のあの表情の原因はアズミだと思う。いつものことではあるが、アズミの嫌がらせだ。そこに知らない女と腕を組んでいるところをみたら破滅的だ。半分自分のせいの癖に全てアズミが悪い気が知るのは責任転嫁だろうか。いや、アズミが余計な事を言わなければあの時ちゃんと説明できたはずだからやっぱりアズミが悪い。
 渋谷まで電車で約十分。その間に今どこにいるだのと細かく来るアズミのメールに返信して時間を潰した。


「……つーか、流されてね?」


 アズミの思うとおりに流されている気がしなくもない。それは昔からかと少し納得しかけ、そんなんじゃダメだと自覚。駅のホームに滑り込んだ電車のドアが開き、たくさんの人と一緒に吐き出されて改札を抜け迷わずいつもアズミと待ち合わせしていたカフェに向かった。
 案の定、アズミはそこで紅茶を飲んでいる。店内からこちらの姿を見つけたのか嬉しそうに笑って手を振った後伝票を持ってレジに向かうので、タイミングを合わせて中に入った。


「早かったのね、克利」

「お前が急がせるから必死だっつの」


 自然に腕に絡み付いてきたアズミを引き剥がす前に会計を済ます。当たり前のように金を払っている時点で負けているのか癖なのか、自分で情けなくなる。今回は紅茶だけのようで安く済んだが、付き合っていた頃に寝坊して二時間待たせたときにはパフェとか食べて千円を越えていた。
 店を出て、腕にくっつくアズミに少しだけ引っ張られるように自然に店に入る。こんな店でも躊躇いは別にない。やらしい気持ちはあるがやましい気持ちがあるわけではないし、女と一緒だし。


「ね、これ可愛くない?」

「話って何だよ」

「あーでもこっちも可愛い。克利、どっちがいい?」

「話は?」

「買い物が終わったらね」


 甘えるように上目遣いで見上げてくるので、溜め息を一つ。店に入ることを気にしないとは言っても周りの目は多少気になるわけで、ランジェリーショップに男がそんなにいるわけじゃないから目立つ。何度付き合っても少し落ち着かない。付き合っているときでさえそうだったのだから、付き合ってもいない今は尚更だ。


「克利、黒よりも白の方が好きよね。あ、でもピンク可愛い」

「……これかな」

「やっぱり?ちょっと待ってて、試着してくる」


 思わずアズミの持っていた白のブラを指差すと、アズミが分かっていたとでも言うように微笑んだ。それ以外は棚に戻して、腕からもするりと離れて店員に声をかけている。こんなところに一人で置いて行くなとばかりに付いていけば、店員に案内されて試着室に入るところだった。可愛らしく小首を傾げて、唇に白い指を押し当てる。


「そこで待っててね」


 試着室に入って待つこと数分。選んだ下着を着けたアズミが少し恥ずかしそうにはにかんで目の前に立つ。思ったとおり好みのとおり、思わず生唾を飲むほどにイイ。俺の眼に狂いはないとばかりに唇を引き上げると、彼女も恥ずかしそうに試着室に戻った。
 あれを買う気らしく、さっさと会計を済ませる。もしかして下着を買うのにつき合わされただけではないのかと僅かに疑問が浮かぶ。確かにアズミの下着も服も、克利の好みで選んだものだが付き合ってもいないのにそれはどうだろう。


「俺、下着買うのに付き合わされたわけ?」

「そんな訳ないじゃない。行きましょ」


 腕を取られて、極自然に道を歩いた。何度も一緒に歩いた道だ、どこに向かっているのかも分かっているが、彼女が積極的にこちらに歩いたことはなかった。時には嫌がる素振りを見せ、時には恥ずかしそうな素振りも見せた。ラブホテル街へと続く道。
 何を考えているのか分からない。分からないけれどこのまま流されたらいけないと思う。けれどアズミを相手にしたら流されてしまってもしょうがないのか。女を相手にしていないこの生活が悪いのか。迷いなくアズミは一軒のホテルに入り、さっさと部屋に入った。そこまできて、まだ流される覚悟が決まらない。


「ねぇ、克利?」


 ラブホテル独特のでかいベッドに腰掛けて煙草を吸おうかと手を後ろに回す。火を点けるために視線を下げている間にアズミは服を脱いだようだ。少しの衣擦れの音がしたと思って紫煙を吐き出しながら視線を上げれば、すぐ近くに下着姿のアズミが微笑んでいた。ベッドの上に黒の妖艶な下着姿で太ももを跨ぐように上がり、押し倒すかのように胸に手を置いて顔を近づける。甘い香りが、鼻をついた。


「私たち、やり直しましょう?」


 咥えていた煙草を奪われ、ほぼ同時にベッドに押し倒された。もうこうなりゃ流されるしかないと覚悟して極自然に彼女のむき出しの背中に手を回して下着のホックに指を滑り込ませてプチンと外した。
 きっとこの甘い匂いにやられて流された。





−続−

最近アズミが可愛い。