朝、ラブホで目を覚ました。隣には普通にアズミが寝ていて、時計を確認したら始発の出る時間。今までならばアズミが起きるのを待って一緒にシャワーを浴びて出て行くのだが、今は付き合っているわけじゃない。そんな気を使う必要もないと判断して、シャワーを浴びた。出る頃にはアズミも起きて少し怒っていたが、気にせずにホテルを出た。
 そして、帰りの始発電車の中で怖ろしいことに気づいた。課題をやっていない。
 一度家に帰って軽く寝てから、一限に授業がないのに間に合うように家を出た。不思議がっていた聡子さんには授業があるとなぜか言い訳した。


「……何してんの、克利」

「見て分かんねぇ?」

「修羅場ってる」


 部室で悪あがきであると分かっていながら六法と判例とを見比べてにらめっこしていると、ひかりが来た。誰もいない空間だっただけに彼女の入って来た音が大きかった。机の上に広げたままの資料と持参したパソコンを見てひかりがとたんに呆れ顔になる。正面に座るので、少しだけ資料をどかしてやった。


「提出いつ?」

「水曜」

「明後日じゃない。そかもそれ、一番面倒な地方自治法?」

「そ。マジで忘れてた」


 カタカタとパソコンのキーボードをたたくけれど思うように進まず、憎々しげにパソコンの隣の煙草を手にして口の端で引っ張り出した。一服つけながら、指だけで六法の条文をポチポチ打っているとひかりが机に頬杖をついて開いていた判例を捲る。


「休みどうだったの?奈央ちゃんとラブラブ?」

「……聞いてくれよぉ」

「何、情けない声だして」


 ゴールデンウィーク中のことなんて思い出しただけで涙が出てくる。思わずひかりに愚痴をこぼしたくてレポートを保存してパソコンを切った。資料を一気に端に寄せて、机に項垂れる。咥えたままの煙草を唇で上下に動かして火種を目で追いながら、休み中の生活を語った。ひかりに対してだから、恵に映画に付き合わされたこともアズミを抱いてしまったことも全て話した。


「だから結局、奈央とは寝るどころか会ってもいねーの」

「自業自得よ」

「……流されてんのかなぁ」

「どう見てもそうよ。馬鹿ね、しかもまたアズミ?」

「しょうがねーだろ……」

「上手く別れられないあんたが馬鹿なの」


 馬鹿を連呼されて流石に凹んできた。確かにアズミと上手く別れられないのが悪いかもしれない。百歩譲ってアズミと奈央のことは目を瞑れる。瞑れるが、一番凹むのは恵のことだ。これは友達ではひかりしか知らないことなので誰かいるところでは相談できない。今はタイミング的にも一番ありがたい。その話をすると、ひかりは呆れるよりも険しい顔つきになった。何だその顔。


「……あんた、女運ないのね」

「そういう問題じゃねぇだろ」

「家族ごっこ、ちゃんとやってあげなさい」

「やってるよ。だから映画も行ったんだし」

「あんた、いくら押しに弱いからって妹と寝るんじゃないわよ」

「寝ねぇよ」


 嘘、とひかりの口が面白そうに動いた。面白くねぇよと口の中で吐き出して、煙草を空き缶の口に押し付ける。
 本当に嫌になるが、今日も家に帰ったら恵にしつこく昨夜のことを聞かれた。別にお前に関係ないと言えば妹だから関係ないわけがないと怒る。そもそも部屋に戻ったら布団の上に寝ていたところがありえない。人の布団に寝るなと踏み起こせば、何故か知らないがキャミソール姿。年頃の娘がそんな格好で男のベッドにもぐりこむなと文句を言うと、お兄ちゃんだから男じゃないと言い頬を染めやがった。本当に家に帰りたくなくなる。
 寝ないといったが、このままだったら寝てしまってもおかしくないと思う自分もいる。面倒ごとはもう十分だ。


「あ、おはようございます……」

「あら奈央ちゃん、おはよ」

「奈央……」


 入ってきたのは奈央だった。いつも早いなと感心半分、居心地悪いのが半分で思わず視線を逸らして意味もなく六法を捲ってみる。奈央は奈央で、気まずいのか必要な教科書を危なっかしい手つきで鞄に突っ込んで、まだ授業まで時間があるのに部屋を出て行こうとした。


「まだ早いだろ、ちょっと話さねぇ?」

「でも、友達と約束が……」

「奈央ちゃん、この馬鹿の言い訳聞いてあげて?聞いたら落ち込んでるの馬鹿らしくなるよ」

「奈央、マジで頼む」

「……はい」


 真剣に頼むと、奈央は俯き加減に頷いた。けれど隣に座るのではないし距離を開けるのではなく、ひかりの隣に座った。泣きそうな、少し不安そうな顔をしているのにこちらを見ず、ひかりの手元ばかり見つめている。
 少し言いにくいというのもあるが、奈央の警戒心が痛い。警戒されることをやっていないのにも関わらず、痛い。


「あの映画館の前で一緒にいたの、妹だから。お前が心配する関係じゃない」

「……はい」

「アズミに何言われたかしらねぇけど、それは気にすんな。ほぼ全部嘘だ」


 言い訳にならないかもしれないが、言うことだけは言った。それから数言もごもごと付け足しをしていると、正面でひかりに笑われた。場違いみたいな笑みを睨んで黙らせようと思ったがひかりの方が一枚上手だ。今の会話で首が回らなくなるのはこっちだ。


「本当に……、先輩のこと信じていいんですか?」

「信じてくれるか?」

「……ご飯おごってくれたら、信じます」


 少し涙声になりながら、奈央は頷いた。学食で良いかと聞けば頷く。今にも泣き出しそうな顔を我慢してい頷いたのだろうそこから顔が上がらない。ひかりが奈央の頭をぽんぽんと叩いて甘やかそうとするので、それでは彼氏様の面目がないと彼女の後ろに回りこむと腕の中に納めてきゅっと抱きしめた。
 僅かに緊張した反応が可愛らしいと場違いなことを考えていると、となりのひかりが意味深な笑みを浮かべていた。


「じゃあ仲直り。明日飯食いに行こっか」

「明日なんですか?」

「どうせ今日は打ち上げでみんなで呑みに行くだろうしな。旅行いけなかった分そのくらいは行かねーと」


 ぎゅーっと奈央を抱きしめると、腕の中で悲鳴にも似た声が上がった。新鮮な反応にまた笑っていると、どやどやと人が流れ込んできた。元気に入ってきた立川が「課題終わったー!?」とか言い出しやがるから、目の前の課題の山を思い出して思わず硬直した。










 予想通り呑んで、日付が変わるくらいに帰るともうみんな寝ていると思ったのに親父と聡子さんが起きていた。こっちは気分よく酔っ払ってきたというのに、なんだか薄暗い部屋でいるから気まずい。こんなことなら、自制せずにひかりとホテルに行くんだった。奈央に言った手前、昨日の今日でひかりと寝るのもどうかと思ってやめて奈央を途中まで送って帰ってきたのだが、こんな気まずいことになるとは思っていなかった。


「ただい、ま?」

「お帰りなさい」

「……克利、ちょっと」


 荷物を投げ出してソファに座ると、真剣な顔をした聡子さんと親父が沈んだ声を出した。雰囲気的に真面目にしなければと分かるが酔っていて上手く回らない頭では判断しかねる。とりあえず、一服してニコチンで頭をスッキリさせるしかないと思って一服。


「帰ってきてすぐで悪いんだけどな、引っ越そうと思ってるんだ」

「ここだと四人はちょっと手狭なのよね」


 聡子さんは心底申し分けなさそうな顔をしていた。確かに今は親父と聡子さんが一部屋で、恵が克利の部屋を使っている。けれど克利がいるときはリビングで寝たりしているらしく、部屋が足りないのは絶対的だ。一人暮もしくは親父との二人暮らし、もし母親が生きていたら三人になっても部屋の数は足りる。だから感じなかったが、やはりそういう結論になったか。結構前からそんな気がしていたから家を出る準備をしていたというのに、それでは意味がない。


「克利、お前はどうする?」

「どうって?」

「お前はここに残ってもいいと思ってる。長年住んでた家だし、お前もいい年だ。いつかお嬢さんと一緒になったらここに住めばいい」


 示された選択肢が意外だったので思わず思考が止まった。確かにここは長年どころか生まれてかれずっと住んでいる家だし一人には慣れている。もともと一人暮らしを始めようと思っていたところだから問題はないが、ここは親父が買ったマンションだ。それを無条件に貰い受けるいわれは息子といえどない。
 しばらく考えながら先端の火種を見つめていた。どうするかなんて具体的には分からないが、それは親父たちだって同じことだ。


「つーか俺が出てくし」

「は?」

「俺が出てけば問題ねぇっしょ?」

「私は、できれば克利くんも一緒にって思って……」

「ありがたいんだけどさ、やっぱ一人の方が楽だから」


 四人で引っ越すのは辞退したい。これ以上恵と一緒にいるのは息が詰まってしょうがないのだ。だから自分がここから出て行くので丸く収まる。収まらないのは金だけだ。すぐに出て行けといわれたらひかりの家にでも厄介になろうと思う。一月くらいなら友達先輩と泊まる家はごまんとある。引き換えの条件は家事だから心苦しくもない。


「お前はそれでいいのか?」

「俺は全然構わないから言ってんの」

「分かった。その方向で話を進めるようにする」

「俺のことはお構いなく。シャワー浴びてくる」


 たぶん部屋には恵が寝ているだろうから、シャワーを浴びている間に親父たちは寝ていてくれるとありがたい。そう思って煙草を灰皿でもみ消して風呂場に向かった。聡子さんはひどく気にしているようだが、親父が上手く言いくるめるだろう。なんだかんだ言って放任な親父だ。本人は信用していると言っているが、どうみてもただ放し飼いにしているようにしか見えない。だからこんな風に育ってしまったのかもしれない。何にも真剣になれず、何にも集中できず。それはひどく楽で、それでいてひどく淋しい。


「……課題、終わってねぇし」


 熱いシャワーを浴びていて気づいたが、まだ課題が終わっていない。提出は日付が変わったから明日。これはまずい。しかも明日は奈央と夕食を食べる約束をしているので帰りが遅くなる。それどころか仲直りと称して初エッチを目論んでいるので更に遅くなるだろう。なればいい。ならば課題をやるのは今夜しかない。
 酔った頭をしゃっきりさせ、荷物は持ってきたので、これから課題をやるのかと思うと多少げんなりした。





−続−

最終回はどこでしょうか……