朝が来た。灰皿は吸殻でいっぱいで、BGM代わりに点けていたテレビはいつの間にか朝の情報番組になっている。さっきまでちょっとえっちい夜の番組をやっていたはずなのに。けれどその時間のおかげでレポートは半分くらい埋まった。


「あら、克利くん早いのね」

「……早いっつーか夜遅いっつーか」

「徹夜?何か食べる?」


 起きてきた聡子さんがエプロンをつけながら入ってきたけれど視線も向けずにパソコンに向き直った。正直な所、今日学校に行っている場合じゃないと思う。朝とか夜とか関係なしに、レポートが終わらない。原因はたぶん眠ってしまったことだと思うけど。
 もう学校に行く気をなくしているので残り少なくなった煙草を吸いながら続けていると、吸い終わる頃に聡子さんがトーストを出してくれた。セットのコーヒーも湯気が立っている。


「どうせ足りないでしょ、おにぎりも作るから待ってて」

「あー、ありがと」

「それからちゃんと学校行きなさいよ」

「今日は休講」


 自主的にだけど、という言葉を飲み込んで、温かいトーストにかぶりついた。確かに足りそうにないが、文句は言っていられない。今までだったら腹減っても自分で作るか買いに行くかしか選択肢はなかったんだから。
 しばらくカタカタやっていると、親父と恵が起きていた。恵は朝練があると七時には家を出なければならないのだそうだ。聡子さんが文句を言いながら弁当を作っている。


「おはよー……お兄ちゃんだ」

「恵、早く着替えてきなさい」

「お兄ちゃん何やってるの?昨日帰ってこなかったよね、あたしメールしたのに」


 パジャマ姿のまま、ソファに飛び乗って画面を覗き込んでくる恵にじろりと視線だけをやって、無視することにして資料に目を通した。この法令の最新版はどこにやっただろうか。
 ひかりと寝たことを知ってから、恵がなんだか積極的にくっついてくる。歩いていて腕を組むのはもちろんのこと、意味のないのに隣に座って寄り掛かってきたり膝枕で寝てみたり。しかもそれが段々エスカレートしている気がするのだ。どうして誰も不審に思わないんだか。


「ねー聞いてる?お兄ちゃん」

「うっせーな、聞いてるよ」

「ていうか煙草!吸いすぎ!」


 銜えていた煙草にいきなり手を伸ばされた。反射的に左手に挟んで距離を取ると、何を狙っているのか胸を押し付けるようにして腕を伸ばしてくる。貧相だと思っていたが、思ったよりもある気がする。なんて思ったところでパソコンの隣に置いておいた携帯が鳴った。この音は大学男友達だ。
 携帯が鳴ったことで恵の興味が携帯に移り、煙草から携帯に伸ばされた。メールだからと煙草を銜えなおしている間に奪われた携帯は、何の許可もなく開かれる。


「お前な!携帯返せ」

「なーんだ、女の人じゃないんだ」

「恵、いい加減にしなさいよ!遅刻する気!?」


 喧嘩をする前に、聡子さんが怒鳴った。実は彼女の怒鳴り声などあまり聞いたことがなかったので少し驚く。その声に恵はピッと固まったかと思うと人の携帯を放り出して部屋に戻ってしまった。ソファに投げ出された携帯を拾って溜め息混じりに確認すると、思ったとおり立川だった。今日の商法小テストやるんだって、商法だけに。意味が分からない上になんで今そういうことを言うか。休もうと思ってたのに。


「つーか小テストの勉強だって何もしてねーっての!」


 メールに怒鳴り返して、学校に行くためにパソコンの電源を切った。この面倒くさいレポートを忘れていた自分も悪いことを分かっていながら、予定をオジャンにしてくれた全てのものが鬱陶しくなった。










 部室に行くと、立川が必死な顔をして勉強していた。こいつもテストは聞いたのかと納得半分、いつものところに荷物を置いて立川の隣に座った。座る前に頭を引っぱたくのを忘れない。素手で叩いたのに、スパンと予想以上にいい音がした。


「何しやがんだ高橋!?」

「何で今日テストなんだよ!」

「俺に文句言うな。教えてやっただけでもありがたく思え」

「で、どこ出んの?」

「先に謝れや」

「ごめん立川、どこ出んの?」


 軽く感謝して教科書を覗き込むと、特に難しいことをやるようではなかった。まぁまだ五月の頭だからそんなにやる事もないだろうが、ゴールデンウィーク明けだからこそ鬼畜な教授は何をするか分からない。レポートの例もあるし。
 レポートのことを気にしつつ、それよりも目の前に迫った小テストの方が気になったので割り切ってテスト勉強していると、ひかりと奈央が一緒になって来た。ひかりも授業一緒だというのに余裕な奴だ。


「おはよー。ひかり、今日商法テストって知ってた?」

「あれ、嘘らしいよ。次の授業でやるテストの範囲配るらしいけど」

「マジかよ!折角来たのに!」

「あんたレポート終わったの?」

「まだ。奈央」


 レポートだって終わってないのにテストが誤情報とか結構冗談じゃない。思わず声を荒げると、奈央が少し驚いたような顔をした。その奈央を手招いて、抱きついた。折角予定して準備もばっちりなのに、予定が狂いっぱなしだ。言いたくないことだけれど早く言わなければいけないのであまり気にしていない風を装って言おうと思ったら、先ににやりと笑ったひかりに声をかけられた。


「そういえば、克利」

「んーだよ」

「ゴム持ってる?貸してあげよっか、今日使う予定でしょ?」


 こいつ、わざとやって楽しんでねーか?正直にそう思った。でなければ奈央が真っ赤になっているのに笑っていられるはずがない。しかもその予定は返上されるというのに。


「いらねーよ。奈央、悪いんだけどさ……レポート終わってなくて、また今度じゃダメ?」

「あんたまだ終わってないの?提出明日だよ?」

「俺だって頑張ってんだよ!昨夜だってずっとやってたんだからな」


 茶々を入れてくるひかりに怒鳴り返して、奈央の顔を見てみた。泣きそうなのが照れなのかドタキャンが原因なのか分からないが、奈央は無理矢理にでも笑って頷いてくれた。ちょっと可哀相なことをしたと思うけれど、しょうがない。奈央だってレポートだと納得してくれるはずだ。


「レポート、頑張ってくださいね。その代わり次は絶対ですよ」

「ホント悪い。レポート終わったら食いに行こうな、そしたら奢るし」

「じゃあ高いもの食べましょう」

「うわ、それが狙いか」


 にこっと笑ってくれた奈央に少し安堵しながら、とりあえず次の授業に出なければテストも受けられないと思いレポートのことは忘れることにした。忘れている訳じゃないが、あの教授がどんな問題を出してくるかが全く分からない。指輪をしているかとかネクタイの柄とかそんな奇異な問題が一問でるはずで、それが解けなければ他の問題が解けたところで点数にはならないのだから。


「高橋さ、あの妹ちゃんとはどうよ」

「は?」

「妹ちゃん。結構可愛かったけど……もしかして!?」

「何がもしかして、だ。溜まったもんじゃねーぞ、うるさくて」

「いいなー妹。可愛いじゃん。家の姉貴と交換しようぜ」

「俺もオネーサマのがいいんだけど」


 立川が振ってきた話題に適当に返していると、ひかりが微妙な表情で見てきた。一体なんだ、と思ったがひかりは全て知っているので何か思うところがあるのだろう。こういうときは何も分からない男よりもかって知ったる女心だ。けれど話題を振る前に顔を逸らされた。


「そういえば高橋バイト探してんだって?」

「何で知ってんだよ」

「結構有名だぜ?いきなりお前付き合い悪くなったって、いいバイト紹介してやろうか」

「マジで?」

「マジで。しかもお前にピッタリ」

「何だよ、もったいぶるなって」

「ホ・ス・ト」

「……バーカ」


 立川の話に真剣になったのが馬鹿だった。ホストなんて怪しげなバイトできるかってんだ、とは思うがしかし確かに金はいいし興味はある。もしかしたら転職かもしれないし、一言で斬り捨てるには心にひっかっかる提案だ。
 立川の言葉が魚の小骨のように胸につっかえる中、チャイムを聞いて部屋にいた学生たちが各々の教室に向かって行った。










 奈央に別れを告げるついでに額に唇を落としてみたりすると、真っ赤になっていた。それを思い出しながら、家に帰って黙々とレポートをする。今日も朝までやれば終わると思うので、そこで一安心。それにしても鬼畜な問題だった。


「お兄ちゃーん、入っていい?」

「ダメ」

「見て見て、ユニフォーム」


 ダメだと言っているのに入ってきた恵は、短いミニスカートを履いていた。テニスのスコートだろう、ミニスカートにも程がある。これを見せに来て何がしたいのかも分からないがあまり興味がない。奈央とかひかりが着てたら確かにイイかもしれないが、妹が着てても何も思わない。


「つまんない反応」

「あのな、つまんないじゃなくて俺今忙しんだよ」

「肩揉んであげようか」

「いらねぇから出てけ」


 レポートの邪魔だとまた視線を画面戻して言うと、背後で詰まらなそうな声がした。そんな声をしても別に気にならないので、レポートに集中。終わらなかったらどうしてくれるんだか、多少いらつきもする。
 部屋を出て行かない恵の気配が気になっていると、急に背中に熱を感じた。肩揉みのつもりなのだろうが、胸が押し付けられている。小さい胸が。


「……何だよ」

「肩揉んであげようかと思って」

「いらねっつの」


 けれど抵抗も面倒なので放っておくことにして煙草に手を伸ばすが、手がケースを掴む前に横から掻っ攫われた。本当に邪魔をしてるのならやめて欲しい。聡子さんに訴えれば早いかと恵の手を振り払った時、ダイニングから聡子さんの「ご飯よー」という声が聞こえた。もうそんな時間かと視線を移すと、確かに八時を回っている。


「飯だと、どけよ」

「お兄ちゃんの馬鹿!鈍感!」

「痛って!?」


 去り際、恵が何か固いものを投げてきた。至近距離から頭に直撃し、思わず頭を抱えるとその隙に逃亡を謀られる。一体何が当たったのかと下を見ると、いつものチュッパチャップスが転がっていた。あの野郎、これ投げてきやがったな。
 文句を言いに行こうと思ったが、聡子さんがまた「ご飯よ」と少し怒ったように言うのでそれを拾い上げてベッドに投げ、ダイニングに向かった。煙草も吸えないでと文句を言いたくなりながらダイニングに行くと、親父が既に席についていた。恵は着替えているのかまだ来ない。


「克利が家にいるなんて珍しいな」

「悪かったな。いいよ、どうせ今夜も寝ねーし」

「……悪いな」

「別に……頂きます」


 恵が来る前に聡子さんも怒っているので箸を取ると、何故か聡子さんが複雑な表情で食事を始めた。親父も何かを言いたそうだ。別に普段の素行に問題があるわけではないだろうに、この問題児を抱えた食卓みたいな雰囲気は何だろう。
 恵が着替えてきた。挑発的な短パンで、少し恥ずかしそうに笑っている。意味が分からずに味噌汁を啜ると恵が詰まらなそうに口を尖らせて席に着く。一体何を見せたかったというんだ、何を。


「ちょっと真面目な話なんだけど、いいか?」

「ん?」

「何?」

「実は来週な、前の仕事場の整理に行かないといけなくなってしまったんだ」


 前の仕事場とは恵たちと前に住んでいたところだろう。知っている限りでは社宅だったそうだ。どうせまだ片付けが終わっていないとかそういう話なのだろう。春の移動にしては急な話だったし、ゴールデンウィークはこっちの仕事の整理で大変そうだった。親父は元々こちら勤務だったからその都合もあったのだろう。


「父さん一人じゃアレだから母さんも一緒に行くことになったんだが、その間二人きりにしても大丈夫かな」

「まっかせてよ。あたしだってもう子供じゃないし」

「でも女の子一人にはちょっと……」

「お兄ちゃんがいるよ?」

「こいつ、帰ってこないかもしれないだろ。克利、来週くらいはちゃんと家にいてくれないか?」


 正直な所、恵と二人の方がよっぽど危ないと思う。けれど聡子さんもそうは思っていないのか、恵に「お兄ちゃんの言うことちゃんと聞いて、自分のことくらいちゃんとしなさい」と行く気満々のことを言っている。いくらなんでも、年頃の男女を同じ家に残して置いて行く親はいないだろう。いて欲しくない。


「克利に任せておけば問題はないと思うから、悪いな」

「……拒否権なしかよ」

「克利だってお兄ちゃんだろー?」

「よろしく、お兄ちゃん」


 拒絶も何もなく言われてしまい、もうどうにでもなれと言いたくなる。たった二日か三日のことだから、いくらなんでも何もないだろうと自分を奮い立たせ、仕方がなしに頷く。ひかりの言葉が浮かんできたが、まさかそこまで流されやすくもあるまい。
 弱冠の不安を抱えつつ、早めに食事を済ませると恵の変な視線を感じながらも部屋に戻ってレポートの続きを始めた。





−続−

急加速して終わりが見えてきました。