時間は惨い。つい逃げ回って呑み回っていたら、気が付いたら親父たちが出かける前日にまでなってしまった。日曜日で、出かけることもなく朝方までバイトという最悪のシチュエーションで朝っぱらから親父に捕まって、部屋の大掃除に借り出された。奈央にもずっと避けられているのに、この上なんの厄介ごとがあろうかと少し自暴自棄になってしまう。


「明日から一週間、くれぐれも頼んだぞ」


 夕食の後親父が告げた。まだダイニングでデザートのさくらんぼを食べていた所だった。どう返事をしたものか分からず、口の中のさくらんぼの種を口内で転がした。頼むと言われても家にいる気もないから何をできることもない。ただ掃除は昼間に帰ってきてやってもいいかなとは思う。昔からやっていたことだから今更特に苦にならないし。
 無言で視線を合わせられずにいると、親父がさくらんぼの種を口から出して僅かに目を歪める。それを悟ったのか、聡子さんも頬杖をついてさくらんぼに手を伸ばした。


「恵は料理も何にも出来ないから、本当にお願いね」

「お母さんひどい!あたしだってやれば出来るのに!」

「あんたに何が出来るって言うのよ。お兄ちゃんの言うことちゃんと聞いて迷惑掛けるんじゃないわよ」


 恵が口を尖らせるが聡子さんはしれっと受け流してさくらんぼを口の中に入れた。味の無くなった種に興味をなくして、種を出して代わりに煙草に手を伸ばすとライターが消えていた。ちらりと横を見れば恵が何か言いたげな表情でこっちを見てくるので、小さく嘆息して席を立つ。換気扇を点けるついでに、ガスで火を点けた。


「克利には昔から……苦労をかけたからな」


 親父の呟きが聞こえた。親父なりに幼い頃から一人でいることの多かった息子に罪悪感があるのだろう。炊事洗濯など生活に必要な技術は一通り会得している。別に気にしたことはないが。特に気にしないけれど返す言葉も見つからないので換気扇の下で何も言わずに紫煙を吐き出した。
 じっとこっちを見てきた恵に首を傾げると、何故か頬を染めて部屋を出て行った。その後姿に聡子さんが「お風呂入っちゃいなさい」と声をかける。


「克利、ちょっとこっちいいか?」

「吸ったままでいいなら」

「今更じゃないか」


 親父が薄く笑ってリビングに移動したので、確かに今更かと煙草を銜えたままリビングのソファに体を投げ出した。一人暮らしだったこともあり一人気侭に換気扇を回さずこともせずに煙草を吸うこともしばしばで部屋中が白くなっていた。親父が帰ってきてからは気をつけていたが白かったか壁は少し黄ばんでいる。
 ローテーブルにある灰皿に灰を落として親父が何を言い出すのかと待っていると、聡子さんがパンフレットを持って親父の隣に腰掛けた。綺麗な部屋だが、あまり広くないようだ。


「引越しのこと、考えてるか?」

「あ?まあ……、それなりに」

「私たちも少し調べてみててね、こんなのがいいんじゃないかって思ってるんだけど」


 そう言って聡子さんがテーブルの上にパンフレットを広げた。家賃もそこそこで綺麗ではあるが、立地はここよりも学校からも都心からも遠かった。いい条件の部屋なんて、特に学生の一人暮らしになれば見つかる訳もないだろうが、今の生活水準から落したくないと思うのは普通のことだろう。何となく首を縦に振る気にはなれなかった。紫煙を深く吸い込みながら考え、けれど体のいい言葉なんて出てこない。


「……俺も自分では探してるんだけどさ」

「そうなの?余計なことだったかしら」

「お前は最近、帰って来ないだろう?来たってここで寝てるし。お前の体が心配なんだよ」


 確かに部屋で恵が帰ってくるまで家に帰らないようにと呑み回っている。少しでも酔ってアルコールの力で嫌なことを忘れようとしているのも事実だ。けれど何となく引っ越すとかがリアルに感じられなくて、適当にしか調べていなかった。たぶん親父たちは早めに出て行って欲しいのだろう。


「親父たちが帰ってくるまでには決めとくからさ」

「そうか?」

「行ってるうちはちゃんとやるし」

「……頼んだぞ」


 頼まれてから失敗したかもしれないと思った。けれどもう遅く言葉は撤回できそうに無い。親父は嬉しそうに笑ってテレビを点けるし、聡子さんは片付けを開始するためにか立ち上がった。こうなったら昼間帰ってきて家事をこなすかと考えたけれど、授業もあるからそんな事も言っていられないことは事実だ。バイトも一週間で半分しか入れられなかった。あとはひかりに賭けるしかないが、酒の席の言葉がどこまで信用できるものか分かったものじゃない。
 恵がリビングに戻ってきたのをいい事に部屋に戻って段々と恵の部屋になりつつある自室に戻る。入った瞬間に机の上に転がっている飴玉が眼に入って溜め息を吐いた。その中に埋まるようにライターが置いてある。この部屋ともお別れするのか。ポケットから携帯を出してひかりにメールで確認してみるが、帰って来たのは「最後くらい家族ごっこしてあげなさい」という今聞くには至極辛辣な言葉だった。










 月曜日、連続に同じ教室で授業があったのでそのまま寝ていると、隣にアズミが座った。こいつ、この講義取ってたっけとぼんやり考えるけれどそれきり興味が尽きてまた目を閉じた。


「克利、起きてる?」

「…………」

「引っ越すの?」

「……なんで知ってんだよ」


 何の脈絡も無く言い出すから、思わず目を上げて机に突っ伏したままアズミをじと目で見やった。けれど彼女はきょとんとした目で覗き込み、鞄の中の住宅雑誌を指差す。鎌掛けられたことに気づいたのかそれから数秒後のこと。


「克利って理想高いよね」

「ンなことねーよ」

「そんな事無いわよ」


 笑ってアズミは勝手に取り出した雑誌をパラパラとめくった。折れ目が付いているページに目を走らせて「ほら、やっぱり」と笑う。家賃はどれも高いし都心近郊で、そんなに良い物件無いわよとアズミは言った。そうしている間に教授が来て授業が始まったが、ノートを取る気にはなれなかったからそのまま寝たふりを続けた。


「あの彼女ちゃんとはどう?」

「……どうもしねぇよ」

「相変わらずなの。可哀相、溜まってるでしょ?」

「誰のせいだと思ってんだよ」


 覗きこんできたアズミの顔はいたずらっ子の子供の顔をしていた。誘うように唇を近づけてくるから噛み付くように啄んで、結局流される道を選ぼうとする自分はひどく愚か者だと思う。奈央には相変わらず避けられているけれどメールも電話もこちらからしないし向こうからも来ない。正直な所もう終わりだと思う。いい彼氏にはなれなかったけれど、奈央も良い彼女じゃなかった。彼女の理想がどうかは分からないけど、自分的にはそうだと思いもう執着も無い。


「私?」

「分かってんならこれ以上引っかきまわすな」

「私、最近寛大になったと思ってるの」

「どこがだよ」

「あれからあの子には何もしてないの。ひかりにも釘刺されちゃったしね」

「お前、ひかりと仲いいよな」

「良くないよ。ただあの子って他の子と違うんだもん」


 少し不満そうに顔を歪めたアズミを見て確かにと苦笑が浮かんだ。確かに、ひかりは骨があるというか気風が良いというかどこか普通の女と一線を画しているところがあると思う。だからとっつきやすいし一緒にいて楽なんだと思う。何よりもひかりはアズミに屈服しなかったし逆に攻撃に転じたこともあった。敵わないからアズミとしても友人と言う安全地帯に逃げたのだろう。


「ひかり、なんて言ってた?」

「あんまり虐めたら自殺しちゃうよって言われたわ。あの子は強くないんだって」

「お前、やりすぎ」

「私の知ったことじゃないわよ」


 ふんと顔を逸らしたアズミに僅かに目を眇めてしまった。自分がしていることに罪悪感を感じないのか、この女は。自分と違うものを相容れないのではなく理解しないからこそ、自然と悪意無くやってのける。そしてそれが他でもない自分のために向いていると思うと思うと嬉しいを通り越して寒気がする。どうしてこんな女に好かれちまったんだ。


「お前さ」

「何?」

「俺のどこが好きなの?」

「全部」

「……そうかよ」


 躊躇いも無く即答されて返す言葉を失った。全部とは、惚れこまれたもんだ。盲目なほど惚れられているのだろう。目を逸らして質問を無かったことにしようかと思ったけれど、それを実行する前にアズミの綺麗な手が伸びてきて頬に触れた。ひやりと背中に寒気が走り、アズミの唇が妖艶に歪んで「だからね」と言葉を紡ぐ。


「誰だって、殺しちゃうわよ?」


 何の躊躇いも無く殺すというアズミは狂っている。けれどそれを何の感情も無く受け入れられる自分も狂っているのだろうか。分からなくなってきたから、この話題から意識を逸らすべくアズミから視線を逸らした。携帯を確認して、メールも着信もないことに安堵とも落胆ともつかない溜め息を漏らす。


「また飴が入ってる」

「やるよ」

「彼女にあげなくていいの?」

「今は……やる奴いねぇから」


 鞄の中に突っ込まれた飴もあったのだろうアズミが見つけた。犯人も分かっているので特に何も思わずそのままアズミにあげた。奈央にあげればよかったと後悔したのはまだ最近のことのはずなのに、いつの間にか奈央はその対象から外れていたようだ。もしかしたら始めから好きではなかったのかもしれない。好きになろうとしたけれどどうしても好きになれなかったのは今までだけじゃない。今まで誰と別れたときでもそんなに引きずらずすぐに他の女と付き合えたし、浮気がばれて女の子が泣いても特に愛着は無かったのでそのまま終局を迎えるのがほとんどだった。


「俺、お前のこと好きかも」

「本当?嬉しい!」


 ぽつりと漏らした言葉を聞きとめて、アズミはぱっと表情を緩めて笑った。どうしてそんな事を口に出したのかは分からないが、アズミは他の女と違うと漠然と感じていた。もしかしたら、この狂気的なまでに歪んだ女に落ちたのかもしれない。麻薬のようにじわじわと、神経が侵されていたらもう逃げられもしない。


「ねぇ、克利。何だったら……」

「何だったら?」


 一体何の話を始めたのかと顔をアズミの方に戻すと、綺麗な顔で薄く笑っていた。手には雑誌を持って、その開かれたページには意識しているのか無意識なのかは分からないけれど家賃が少し高いワンルームが載っていた。第一候補だが、家賃の高さに悩まされている部屋だ。つっとアズミの目が細くなり、静かな声で甘美な誘惑を囁いた。


「結婚しましょう?」


 相変わらずのぶっ飛び具合だが、一週間の避難場所としては持って来いではある。先のことは何も考えないで、ただその囁きの魅力にクラクラした。この作用はもしかしたら、アズミのシャンプーの匂いかもしれない。





‐続‐

ぶっ飛びすぎでしょ、結婚て