結婚の意味を考えて、気が付いたら部室で煙草を吸っていた。午後の授業に出る気がなくなってしまったので自主休講は構わないのだが、何でか部室に誰もいない。午後一の授業なのに珍しいと、漸く周りに意識が回った。
 世間一般的に言う結婚は結構夢とロマンに満ちていて、玄関までお出迎えだとか裸エプロンだとか、とにかくふわふわ甘いイメージがある。立川に言わせればそれが妄想かもしれないが、でもどうしても譲れない位置にそのイメージは鎮座している。イメージはあるけれど決してそれを自分でしたいかと言うと、上手く想像できない。


「メール?」


 考えていると、ポケットの中の携帯が振動した。腰を浮かして引っ張り出して開くと、恵が今日の夕食はカレーを作ると息巻いていた。これは報告することなのか。返信しなければならないのかとも疑問を覚えたが、あまり働かない頭は無意識のうちに返事を打っていた。煙草が机の上に乗っていることといい、人間の無意識の行動と言うものは変わらないらしい。
 一応返事を送って、まだ誰も戻ってこないことに溜め息を漏らす。考えたくないことなのに考えさせるようなこの沈黙を早く誰か破れと他力本願に思った。


「あれ、誰もいないの……」

「奈央」


 不意にドアが開き、不思議そうな声が飛び込んできた。いつも煩いのに誰の声も聞こえなかったから不在かと勘違いしたのだろう。けれど思わず名前を呼んでしまうとこちらに気づき、大きく目を瞬かせた。一瞬だけ視線が交差し、しかしすぐに視線をそらされてしまう。沈黙が怖くて、お互いに気まずいのが嫌で、先手を打ったのは奈央だった。


「わ、私図書館行ってきます」

「まっ……!」


 くるりと踵を返した奈央を半分裏返った声で呼びとめ、少しだけ立ち上がった格好で続く言葉を選んだが結局すぐには見つからずに紫煙を吐き出すことで誤魔化した。
 訪れてしまった沈黙に奈央は出て行くような行かないような、中途半端な位置にいるしこちらも立つんだか座るんだか分からない体勢だしで、とりあえず煙草を灰皿に押し付けて今度は冷静な声を繕った。


「ちょっと話あんだけど、いい?」

「……はい」


 自分の正面を指して、今度こそ腰を下ろす。奈央が座って俯いた後に煙草の火を消すことで時間を稼ぎつつ、話の内容をまとめようとした。
 何度か考えたことではあるが、率直な言葉で言えば飽きた。けれどそれをそのまま伝えるには自分は彼女にひどいことをしてきた自覚はある。オブラートに包むのが得意ではないので、結局物の言い方はぶっきら棒になってしまうのはある程度仕方ないと自己を慰めるが、それは一時の感情以下でしかない。ただの自己憐憫だ。


「もう終わろうぜ」

「……はい」


 自分の台詞ながら中々面白い。終わるも何も何も始まっていなかったし、始まる要素もなかった。なのに終わるという言葉を選んだのには何か意味があったのかと問えば、ただ別れるという言葉を使うには発展した間柄ではなかったということだ。だからこの曖昧な関係と言う意味も篭っているのかもしれない。
 奈央もその言葉を予想していたのか、冷静な声でただ呟いただけだった。


「ごめんな。俺、こんな駄目な奴で」

「……一つ訊いていいですか」

「おう」

「私のこと、嫌いですか?」


 冷静だと思っていた声は、まとまった量になると湿り気を帯びていた。本当は奈央はとても辛かったのだろう。泣きそうになりながらそれを我慢して、けれど何故と理由を問うてくる。そういえば、アズミと別れた時はヒステリーを起こされて大変だった。
 別れ話など振られる側も振る側も何度も体験している。奈央の質問に比較的楽に答えながら、煙草に手を伸ばした。


「好きだぜ。でもそれ以上じゃねぇ」


 確かに好きになれたかもしれない。ただそれは今となっては過去の可能性の話であってそれ以上好きになることはないだろう。そもそも愛してるだとか好きになるとか、その類の感情が自分は欠落しているのかあまり実感がわかない。過去彼女と別れたときも、同情はあっても悲しいと思ったことはなかった。別れるだけ、それだけだった。
 平素と変わらぬ声で発された答えを噛み締めるように奈央は数秒俯いていたが、やがて涙を一杯に溜めた目を上げた。


「先輩はひどい……」

「ごめん」

「最低です」


 言い捨てるように吐き出すと、奈央は立ち上がって部室を出て行ってしまった。
 そんな事知っている。過去何度も最低だと言われ、最後に叩きつけられてきた。浮気することが最低、本気になってくれないのが最低。けれど言われなくても、そんなことは初めから知っていた。
 奈央を見送らずに煙草を吸っていると、開け放たれたはずのドアが静かに閉まった。立て付けが悪くてしっかりと閉まらないのに不思議だと顔を上げれば、アズミがにっこりと笑って立っていた。


「入っていいかしら?」

「もう入ってるじゃねぇかよ」


 にっこりと笑って小首を傾げる彼女に苦笑して、紫煙を吐き出す。耳のどこかでカチャリと鍵が掛かる音がしたけれど特に気にかけない。今は何に対しても興味がなかった。だから自分は流されるくらいがお似合いなんだと、自嘲にも似た思いが胸に去来しても気づかないふりをして紫煙で誤魔化す。


「私の話、覚えてる?」

「結婚はしねぇぞ」

「そうじゃなくって」


 コツコツと、アズミがヒールを鳴らしてゆっくりと近づいてくる。声に混じる甘さを確実に聞き取って、それが流されることだと知りながらもまだ長い煙草を灰皿で消した。それを待っていたようなタイミングで後ろからスルリと首筋に細い腕が絡みつき、顔を上げればアズミがうっすらと笑っていた。
 まるで誘い込むような艶美な声で、唇を動かす。


「やり直しましょう、私たち」


 返事の変わりに、その厚ぼったい唇に誘われるように吸い付いた。「最低な克利が好きよ」と囁くその唇は、甘い。
 この場でアズミを抱きながら、さっきの鍵は答えを確信して掛けたものなのかと思ったら行動が読まれている自分が情けなく、けれど流されている現状がどうにも心地よかった。










 家に帰ると、嫌な匂いがした。鍋で何かを焦がした匂いを嗅いだのは久しぶりだが経験が全くないわけではなく、慌てて靴を脱いで荷物をほっぽり出すと、キッチンに駆け込んだ。一番濃く焦げた匂いがする中心で、恵が振り返って笑った。


「おかえりお兄ちゃん!」

「……お帰りじゃねぇよ」


 エプロンを着けて何事もないように笑った恵に脱力して、その場にしゃがみ込む。どうしたの、何て顔を覗き込まれたけれど呆れて言葉もなかった。高校生にもなって飯の一つも作れないとは、最近のガキはいい根性している。
 呆れていても現状は良くならないので、気合を入れて恵を睨みつけた。その眼に恵が数歩下がる。


「出てけ!」


 低く唸ると、恵は「ごめんなさいっ!」と泣きそうに叫んでキッチンを出た。立ち上がって、体中に入った力を抜く為に一度肩を上下させてシンクの中を覗きこむと真っ黒に鍋が焦げていた。匂いの原因はこれだが、一体どうやったら焦がせるのかが分からない。底が焦げ付いてるとか可愛いものではなく、焦げているのだ。黒こげ。


「お、お兄ちゃん?」

「二度と俺の城に入んじゃねぇぞ」

「はい!」

「ったく、何やったらこうなるんだか」


 長いこと台所に立ち特技に料理を上げる克利にとってキッチンは自分の城のようなものでどこに何があるか完全に把握している。聡子さんが来てからは譲っていたが、つまみや昼食を作るためにまだ入ることも多かった。
 キッチンを覗き込んでいる恵を無視して焦げ付いた鍋に水を入れて火にかけながら、夕食に何を作れるかと冷蔵庫を開ける。面白いことに豊富な材料が揃っていた。


「カレー作るとか言ってたっけか」

「お兄ちゃぁん」

「んー?お、いける」

「あたしも手伝う」

「…………」


 手伝うと言っても何もできないだろうと掛ける言葉もなく思わず沈黙を守ってしまった。数秒後に言葉がなければ態度で示せかと思い当たり、冷蔵庫の中からカレーの材料を取り出して調理代の上に並べた。焦げ付いた鍋の処理もしながら、カレー用の肉を探すが見つからない。


「もしかしてカレー用の肉焦がしたのか?」

「うん……」

「キロ九十八円で買って来い」

「どこに売ってんの!?」

「お前は買い物にも行けねぇのか!」


 ちょっと最近のガキはどうなっているんだと本気で思った。捨てられそうな子犬みたいな顔をしているが恵を一人でスーパーに行かせるのも怖ろしいので、諦めてこいつを置いてさっさと買いに行くかと火を消してキッチンを出た。恵を置いていこうとも火の番は頼めない。
 財布の中身を確認して、携帯と一緒にポケットに突っ込むと、恵がエプロンを脱いでいく気満々で笑った。


「お肉買いに行くの?一緒に行く」

「いい、留守番してろ。洗濯物取り込むとかやることあんだろ」

「いいじゃん買い物くらい。帰ってきたらやってあげるから」

「……しょうがねぇな」


 やってあげるという偉そうな言い方が気になったがあえて突っ込まずに、着いてくるなら勝手にしろと部屋を出た。スーパーはマンションから徒歩十分以内なので財布一つ持てば十分だとサンダルを突っかけてきたが、恵はご機嫌に制服で妙に気合の入った服装だった。ミニスカートに胸が大きく開いたTシャツ。ひかり辺りが着たら相当クルだろうが、胸のないこいつが着てもグっと来るものはなかった。


「何か新婚さんみたいだねー」

「……どこが?」


 新鮮にどこがと思って訊くけれど、恵はにこにこ笑って「一緒にお買い物」と言った。買い物如きで新婚気分とは安いものだ。うんざりしながら歩いていると、恵が腕を絡めてくるので一度振り払ってみたが諦めずにくっついてくるので二度目からは諦めた。
 スーパーが見えてきたところで、恵が小首を傾げて足を止めた。一体何事だと視線の先に目をやれば、制服姿の男子が立っていた。


「宮元君だ」

「あのメガネ君か」


 見つけたのは恵の部活仲間だというメガネの男子高校生だった。彼も恵の姿を見つけたのか小走りで駆けてきた。途中恵の隣をみて不審そうな顔をするけれど、それだけで何も言わなかった。彼は恵を真っ直ぐ見て、笑いかけた。


「高橋さん、買い物?」

「う、うん。宮元君は?家この辺じゃないよね?」

「僕も買い物を頼まれてさ。ここなら、高橋さんにあえるかなって思って」


 ちらりと少年は恵の隣の姿を見たが無視して進めることにしたらしい。けれど恵は何かに怯えるように絡めた腕にぎゅっと力を入れて胸を押し付けてくる。これがひかりかアズミだったら気持ちいいだろうが、まな板を押さえつけられても欲情の仕様がない。


「そ、そっか……」

「本当に会えるなんて、運命感じちゃうな」


 この少年は恵に惚れているのか。初めて見たときから分かっていたが、この台詞はどうなんだ。呆れるやら感心するやらでどうにもここから去りたくなったが、恵の腕がそれを許してくれそうになかった。ならば煙草が吸いたくなるが、徒歩十分に普段してリビングのテーブルの上だ。


「せっかくだから、いいかな。ちょっとお茶でもしない?」

「これから夕食作んなきゃだし、ね、お兄ちゃん」

「勝手にしろよ。んで俺を解放しろ」


 ガキの恋愛ごっこに付き合ってられるかと至極どうでもよさそうに言うと、恵はショックを顔に表した。本当に面倒くさくて、つか肉を買いに行きたいしこれ以上遅れると洗濯物が冷たくなる。鍋の焦げも落さなきゃいけないしと頭の中でいろいろと考えている間に少年はしきりに恵に会話を持ちかけていた。
 どこからどう見ても恵に気があることはあからさまなんだからさっさとすりゃぁいいのにと思うが、他人事なので口にしない。


「今好きな人とか、いる?」

「うん……」

「何で俺見んだよ。言っとくが俺は元カノとより戻してラブラブだからな」

「僕と付き合ってよ」


 何か言いたげに見上げてきた恵の意図を分かっていながらあえて無視して話をずらすと、それに便乗したのか少年がいきなり告った。しかも、こっちを見て。一瞬自分が告白されたのかと思ったがそんな訳もなく、彼の口は挑発的に歪んでいた。


「で、でもあたし好きな人が……」

「希望ないんでしょ?だったら僕と付き合ってよ」

「……そんなこと、できないよ」


 痛いところを突かれてか恵が驚いた顔をしたけれど、畳み掛けるように少年は言葉を重ねた。
 ガキの修羅場だと少し楽しくなるが、それよりもそろそろタイムサービスの時間だった。ラッキーなような、それすら逃してしまいそうな不安のような妙な気持ちが混ざり合って余計に早く行きたくなった。もしかしたら、その予感は先に出てくるだろう台詞を予感したのかもしれない。


「だって、好きだもん……」


 だから付き合えないのだと恵は小さい声で言うが、少年は「でも」と更に言い募った。余りにも頑張るので応援したくなる。自分に向けられるよりよっぽど応援したい。けれど、言い募る少年に恵はついに決定的な言葉を叩きつけるように吐き出した。


「あたし、お兄ちゃんが好きなんだもん!」


 分かっていた事実を口に出されただけだ。溜め息に似た重いものを吐き出して、震える恵の頭を見下ろした。そこまで本気で人を好きになったことがないから分からないのか、ただこの年下の女に興味がないからかは分からないが何の感想も浮かんでこない。
 ただ、この言葉をきっかけに先の見えない穴に落っこちたようだった。
 すぐ近くから、タイムサービス開始の鐘が鳴った。





−続−

より戻っちゃったよ。