意識を失ってしまった巴先輩をしばらく眺めていたけれど結局眠ってしまい、目を覚ましたら昼近くだった。となりでは腫れた瞼をしっかり閉じて子供のように丸くなって巴先輩が眠っている。安心して眠っているようで目尻にくっきりと付いた涙の後が夢の中でも彼女が悲しんでいることを物語っている。
一番とか二番とか、男にとってはあまり関係ない。ただ順位をつけて安心してくれるならそれでいいというくらい意味のないただ羅列された数字でしかない。本気とか本気じゃないとかも、正直分からない。傷ついて眠っている巴先輩をみれば可哀想だと思うけれど、それでもこの理屈は変わらない。
――私が二番目じゃないんだって
本当はよくないくせに。本当は浮気してやろうと思ったんじゃなくて寂しくてたまらなかったくせに。
どうして女はこうも強かに行動するのだろうと思うと、腹が立ってくる。これが本当の可愛さあまって憎さ百倍だなと自分を茶化しながら、ベッドに横たわったまま脱ぎ捨てた自分の服を手繰り寄せて煙草を探した。一服しながら巴先輩を盗み見ていると、小さく身じろぎした躯が寝返りを打って太陽を拒絶するかのように腕を額に当てた。
「たけちゃん?」
「おはよ、巴先輩」
「……かっちゃん。そっか、ごめん」
彼女が望んでいたのは、今までが辛い夢だったのだろう。眼が覚めたらいつものように彼氏が隣にいて笑っていると、そう思いたかったのだろう。けれど現実はそれほど甘くない。やっぱり悲しいのが現実で、隣にいる男の姿で一気に現実に引きずり込まれる。
巴先輩の髪を何となく撫でてやりながら、どうして自分がここにいるのか今更ながらに疑問に思った。彼女にとって都合のいい男だったからか、浮気男に仕立てるためか。別に疑っている訳ではないが、どうして自分はいつもいつも彼女のことを大切にしてあげられないのだろう。
「ごめんね、こんなこと頼んで」
「別にいいっすよ。先輩のためなら、俺なんでもします?」
「でも、彼女さんに悪いじゃない」
「悪いんですかね?」
「悪いよ。それが本当に成り行きだったとしても、すっごい悲しい思いすると思う」
布団を被って、巴先輩はけれど起きる気はないのかそのままでぼそぼそと語った。きっとすごい悲しい思いをして、仕返しだとこんなことをしたのだろう。けれどもっと寂しくなったのだろうか。それとも、少しスッキリしたのだろうか。
今まで何をしても許してくれたアズミに甘えているつもりはないが、それでもやはりどこか寄りかかっていたのだろう。何をしても最後には許してくれると信じているのかもしれない。
「……もしかして俺、酷ぇ男なのかも?」
「かっちゃんてすっごい優しいけど、だからこそ残酷だよ」
「その酷ぇ男に甘えてるくせに」
「甘えさせるから酷いって言ってるの。彼女さんもきっと悲しい思いしてると思うよ」
今までアズミの感情なんて考えたこともなかった。ただ自分のために一生懸命になって、一生懸命愛してくれた。けれど別に感謝なんてしたことはなかったし、過度の愛情表現に辟易して忌避したことすらあった。今まで一番とか二番とか、そんな概念も甘えだと自覚したこともなかった。
これだけ非道な男を愛してくれたアズミがなんだか久しぶりに愛おしく思えた。久しぶりと言う時点で酷いのだとは分かっているが、でもそれが事実だった。
「俺、帰ります」
「うん。ありがとね」
まだ半分しか減っていない煙草を巴先輩の灰皿に押し付けて消して、携帯を確認してからシャワーを浴びた。着信は恵から三十件とアズミから二件だった。恵から電話が来る意味がよく分からないからそのままスルーして、アズミにはかけなおそうと思った。思っただけでまずは着替えを済ませる。
まだベッドの中で丸まっている巴先輩が少し気になったけれど大丈夫だと笑ったので、帰ろうと思った。
「巴!」
ガチャっと玄関が空いた音と、男の大声が一緒に飛び込んできた。バタバタと響く足音はこちらが思考する間を与えず、情けも遠慮も容赦もなく飛び込んできた。一度だけ喫煙スペースで見たことがある、巴先輩の男だ。
「な、何だよ……」
「たけちゃん違うの!あの」
「人の女に手ぇ出してんじゃねぇよ!」
入ってきた時から興奮していたからこうなると思っていた。
思いっきり横っ面を殴られて、武道の心得も護身術も喧嘩慣れもしていないものだから盛大に倒れた。口の中を切ったのか血の味がする。今まで生きてきた中でまともに喧嘩だってしたことがないから、本当に殴られたら口の中が切れるのかとのんきなことを思った。巴先輩の悲鳴がやけに遠くから聞こえる。
「かっちゃん大丈夫!?」
「巴!」
白い肢体を隠しもせずに巴先輩が目の前に現れた。背後に怒った男がいるというのに無視してそっと頬に触れられ、当たり前だが痛かった。
どう見ても間男でしかないのだろう。きっと彼の頭からは自分が浮気したとか彼女を悲しませたとかそんな罪悪感なんてないのだ。ただ彼女が男を連れ込んで裸でベッドにいたことだけが事実になっている。
「赤くなってる。ごめんね、私のせいで」
「大丈夫ッス。俺よりも彼氏さんとよく話し合ってくださいよ」
「でも……」
「じゃ、俺帰ります。なんかスゲー彼女に会いたい気分なんで」
男の怒号と巴先輩の涙声を背に受けながら、でもどちらも気にならずに部屋を出た。一回家に帰って消毒しようか、それともこのまま学校に行こうか。エレベータの中で考えながら鏡に顔を映すと、口の端がみっともなく紫に腫れていた。一回家に帰ることは即決だった。だからポケットから携帯を取り出して、着信履歴から通話ボタンを押す。この時間なら授業中かもしれないが、気にしない。
『もしもし、克利?どうしたの、そっちからかけてくるなんて珍しい』
「なんかすっげーお前の声聞きたくなった」
『会いたくなった、の間違いじゃないの』
「会いたい。これから学校行くし」
『これからって、今どこにいるの?』
「家?」
嘘を言うことに少しだけ心が痛んだけれど、本当のことを言う気にもなれなかった。ほんの少しの嘘でだれも傷つかないならそれが一番いいと思う。だから、これでいい。
歩きながら高い陽射しに目を細め、電話を続けた。駅までの短い道のりの間に、どれだけ今までアズミに嘘を吐き省みなかったかとかどれだけアズミに対して酷いことをしてきたかとか、過去のことばかりが頭を過ぎった。きっと、彼女がおかしいのは自分のせいなのだ。
家に帰ると、当たり前だが誰もいなかった。平日の真昼間に人がいた方が驚きだが、漠然としつつも現実が帰ってきたような気がして少し安堵した。キーケースから家の鍵を出して入り、いつも通り持っていた少ない荷物をリビングのテーブルに乗せて冷蔵庫から水を取り出す。
「……夜からかよ」
ふとシンクを覗けば、水に使っているものの夕食と思われる皿が一枚沈んでいた。その上には朝食と思われる皿が置いてある。ガキじゃねぇんだから自分で洗って欲しい。そのぐらいはできるだろうと溜め息を吐きながら一度リビングに戻って煙草を咥え、戻って皿を洗った。やっぱりどうしてか、こういう作業をしているときが一番落ち着く。
そういえば何も食べてないからとついでにお湯を沸かした。カップラーメンでも良いかと珍しく怠惰の虫が現れたので、煙草を吸いながらついでに掃除まで仕出す。なんだろう、最近火事に飢えているのだろうか。
「つーか不動産屋とかいかねーと」
ふと見つけたチラシからそんなことを思った。早く家を出たいと思いながらも、この家に帰って来てほっとした自分がいたことも事実だ。二十年以上も住んだ家はやっぱり離れがたいものがある。けれど、我儘は言っていられないし現状で我慢ができるかといわれたらできるわけがない。
近いうちにアズミと一緒に行こうかと、心境がだいぶ変化したのかデートしようかみたいなことを考えた。
「……ねむ」
欠伸を噛み殺しながら掃除機をかけていると、玄関チャイムが数度連続して鳴った。この時間に家が無人なことは近所の人はみんな知っているから回覧板の類ではないしそもそも回覧板ならこんなにチャイムを鳴らさずに新聞受にでも入れておいてくれればいい。沸いた湯をカップ麺に注いでからとりあえず玄関まで行ってみる。
「どちらさんですか?」
「私」
「アズミ?」
さっき電話して行くと言ったのにどうしたのだろうと玄関を何の躊躇いもなく開けた。開けてから少し後悔する。怒った顔のアズミが、そこには立っていた。怒っているというよりは泣きそうなのか。泣きそうと言うよりはやはり怒っているようで。総合すると、一歩後ずさった。
「あ、アズミ?どした、これから行くって……」
「寝たの?」
「は?」
「千島先輩と寝たんでしょ!?」
唐突に問い詰められて、言い訳も嘘も出てこなかった。ついさっきのことがどうして知れているか分からないから驚くことしか出来ない。アズミは目にいっぱい涙を溜めていた。今まで見た事がない表情に胸を締め付けられる。詰まる息を吐き出そうと紫煙を吐き出すけれど、上手く吐き出せなかった。煙を吸い込むこともできない。
「なんでそうやって浮気ばっかりするのよ!」
「ちょっ、落ち着けよ」
「私が今までどれだけ我慢してきたか知らないくせに!」
「……我慢?」
さっきまで愛してやろうとか抱きしめたいとかそんな夢みたいに甘いことを思っていたのに、たった一言が癇に障った。カチンと、スイッチのように切り替わった。アズミが今まで我慢したことなんて思い当たらない。いつだって自分の好きなようにやって自分の好きなことをしていたようにしかみえない。だからこそ安心して好き勝手に遊んでいたのかもしれないが、だからといって我慢していたといわれて納得できる訳がない。
イラつきが先にたったら、口から出たのは思ったよりも低い声だった。
「お前、何我慢してたんだよ?」
「……最低!」
パンと軽く渇いた音が右側から聞こえた。音の割りに痛かったのはさっき殴られた上を叩かれたからだろう。踵を返して駆けて行ったアズミの後姿を追いかける気もおきず、食欲も失せてそのままリビングのソファに寝転がった。殴られたところが痛い。叩かれた所が痺れる。けれど治療するのも億劫でそのまま、気づいたら眠っていた。
最低な克利が大好きよと笑っていた彼女の言葉に、きっと何よりも甘えていたのだということにこうなって初めて気づいた。
お兄ちゃん。耳元で叫ばれてたまらず起きた。ぼんやりする視界で辺りを見回せば、窓から差し込む日差しはいつの間にかなくなって四角く切り取られたそこから僅かに覗く空はすでに青を通り越して黒かった。
「お兄ちゃんどうしたの?キッチンのカップ麺、凄いことになってるけど。わ、顔に怪我してる」
「……今何時」
「七時。ね、どうしたのそれ」
「うるせぇよ」
時間を聞いて、けれど言葉もなく煙草を探した。見つからないことに苛々しながら正面に立っている恵を睨みつける。しきりに気にしてくる顔の傷に自分で触れると、今まで夢だと思いたかった現実が一気に吐き気を伴って帰ってきた。
きっと巴先輩もこんな思いだったのだろう。全部たちの悪い夢だったらいいと思いながら希望しながら、けれど帰ってきた現実に目を背けたくなる。けれど今頃、彼女は仲直りしている頃だろう。それなら気づいてしまった自分はどうしよう。
「消毒しなくちゃ。ちょっと待ってて、今救急箱持ってくるね」
パタパタと駆けて行ったその姿に、アズミを重ねた。今何しているだろう。少し気になるけれど電話する気になれなくて、そもそも電話した所で無視されるのが落ちな気がして携帯に手が伸びなかった。けれど燻った胸のうちは一人で抱えているには大きすぎる。
こういうときこそ困ったときのひかり様、だ。彼女にはいやと言うほど情けない部分も悪い部分も見せているので今更だ。アズミでなくひかりに電話を掛けるとなるとすんなり携帯を手にできた。アドレス帳から番号を探して時間を考えずに電話を掛けた。数コールの後、機械音は突然切れる。
『もしもし?あんた今度は何したの』
「開口一番なんだそれ」
『アズミがすっごい荒れてるもの。また他の女と寝たんだって?』
一瞬その場にアズミがいたらと思って口篭ると、それを察したのかひかりは笑って今は屋上で一人だと笑った。どうしてそんなところにいるか分からないが、ひかりは友達が多いくせに一人でいることも多いからなんら不思議ではなかった。
「巴先輩が彼氏と喧嘩したっつーから」
『慰めてあげた訳。馬鹿じゃん』
「しかも彼氏にばれてぶん殴られた」
『うわ、馬鹿でしかない』
「ついでにアズミにも殴られた」
喋るたびに少し痛いのは内緒だ。すると電話の向こうでひかりは溜め息を吐いた。そして、そのまま電話を切った。相当鬱陶しいと思ったのだろうが、こっちはアドバイスとかが欲しくて電話したのに友達外がない女だ。
携帯を戻して顔を上げると、少し離れたところに恵が立っていた。緊張したような強張った顔で近寄ってくると、テーブルに救急箱を置いて震える手を差し出してくる。小さな手の指先が、胸の中央に触れた。
「な、慰めて……あげようか」
「お前が?」
「お兄ちゃんになら何されてもいいもん」
少し怯えたような顔をしている恵の唇にかぶりついた。何を思っていたわけではない。ただ忘れたかった。何もかも忘れてしまいたかった。全てがどうでもよくなって、真っ白になりたかった。
そのままソファに押し倒すと、恵は抵抗もせずに大人しく目を閉じた。カタカタと震えながらも口では大丈夫だと何度も言い、けれどそんな言葉は一切聞かず態度には気づかないふりをしてただ自分が真っ白になるために妹を抱いた。
−続−
EGO一の非力男