日曜日の朝、学生、バイトなし。その条件が揃えばおのずと起床時間は限られてくる。即ち、昼過ぎ。こんな贅沢をできるのは学生のうちだと分かっているからまだ学生だというその恵まれた身分にふんぞり返って、体を揺すられて二時だよと言われて漸く意識が覚醒した。


「お兄ちゃん、起きないなら……キスするよ!」

「……するなよ」


 体を揺さぶられて、もう少し惰眠を貪っていたいと顔を枕に埋めようとしたがどういうわけか阻まれた。それでも眠っていたいと抵抗するために顔を横にして、上から降ってきた不穏な発言と共に拒絶するように頑なに目を閉じる。しかし口ではしっかりと否定して。顔に何か当たってくすぐったい感触がした。嫌な予感がして目を開けると、恵が目を閉じて顔を近づけてきていた。慌てて両手を挟んで死守。


「ちょっ」

「おはよ、お兄ちゃん。お母さんたち帰って来たよ」


 とにかくこれ以上罪を重ねてはならないとどうにか自分の顔を腕で覆って隠しながら顔を押し返すと、恵が不満そうな顔をして体を起こした。諦めたことに安堵して、机の上に置いておいた煙草に手を伸ばす。昼まで寝て、寝起きの一服。最高に煙草が美味い瞬間の一つだと思う。
 恵はつまらなそうに「おはようのちゅー」とか言ったけれど、冗談じゃなかった。深く紫煙を吐き出して目を覚ましながら、自分が下着で下半身を隠しただけの格好で寝ていたことに後悔した。これじゃあ襲われても文句が言えない。


「恵ちゃーん!克利の奴は起きたか?」

「あ?」


 バタバタと廊下から足音が聞えた。確かに今恵が帰って来たと言っていたなとベッドの上で煙草を吸いながら思ったが、この場から動こうとは思わなかった。投げやりな訳ではないがこの状況を見られたところで何の誤解を受けることもないだろう。
 案の定駆け込んできた親父はベッドの上に下着一枚で胡坐をかいて煙草を吸っている息子とそのベッドに腰掛けている娘を見てものすごい形相をしたが、ただそれだけで恵の腕を引っ張って立たせ自分の背の後ろに隠すようにした。


「恵ちゃん、こんなケダモノの近くに寄ったら危ないよ。克利も、女の子がいるって言ってるじゃないか!」

「どうせもうすぐいなくなるんだろうが」


 知ったこっちゃないとばかりに紫煙を吐き出せば、親父は嫌そうに顔を歪める。だったらさっさと部屋を出て行けばいいのに、と思って顔を逸らす。カーテン越しに見た窓の外は、曇っていた。黙っていると親父は困ったように顔を歪ませ、恵にリビングに行っているように言った。


「いっぱいお土産買ってきたからね」

「うん、ありがとう」


   ぱっと顔を輝かせて恵みは踵を返してリビングに行ってしまった。その足音がリビングの中に入るのを待って、親父が意味深な溜め息を吐き出す。それを無視して煙草を吸っていると、親父は場所を探していたのか机の椅子を引いて座った。それを視線だけで追いかける。親父の顔が、疲れているように見えた。
 今まで一人暮らしをしていて、たまに親父が帰って来たところで取り立てて話すことなんてないからいつも通りの生活を送っていた。改まって話すのが恥ずかしいのか億劫なのか分からないけれど、これがひかりの言うコミュニケーション不足というものだろうか。


「……克利」

「ん」

「引越しのことだがな」

「あぁ。今週中に出てく」


 今週だってもつか分からない。親父たちが帰って来たのにキスしようとしてきたり、恵が何をするか分からないから罪が露見する前に家を出たい。ただ、家が見つからない。自分でも無謀だと思っているけれど、それを知っている親父はそれ以上に深刻な顔をしていた。


「そんなに無理しなくても……」

「無理って言われても出てくし」

「あっちで話したんだがな、やっぱり父さんたちが出て行こうかと思うんだ」

「いや、いい」


 どうせ出て行くのなら恵に何も知らせない。どこに引っ越したのかも教えずに、姿を消したい。きっとそれは罪が露見するのが怖いから。自分が罪を犯したことは自分自身が一番知っている、そう言っていたのは誰だったのかどの授業だったのか。よく覚えていないけれど、この罪は二人のものだから逃げ出したいのだろう。客観的に知っている人間からばれることを恐れている。自分が感じる罪の意識などいつものことだから、もうなれた。
 短くなりすぎた煙草を灰皿に押し付けて、ベッドの上に投げっぱなしのスウェットを身につけた。いつもなら上半身は何もいらないけれど、流石に遠慮してクローゼットからシャツを適当に出して被った。


「克利」

「……土産、あるんだろ?」


 話がまだ途中だとばかりに咎める親父に顔を向けずに会話終了を告げた。これ以上向き合っていたら逃げ出した自分に吐き気がしそうだった。
 煙草だけ持ってリビングに行くと、テーブルの上にはいくつか長方形の平べったい箱が置いてあった。土産と言っても旅行に行った訳ではないのだから当たり前だが、これならすぐに身の置き場所がなくなるだろう。憂鬱だ。


「克利くん、おはよう」

「おはよ。つか、おかえり」

「ただいま。これお土産」


 ソファに背中で座って土産の箱に視線を向ける。カラフルな箱に動物の絵が描いてあるクッキーなんてどこにでもあるから見覚えがあるのだろう。それとも誰かの土産で貰ったのだろうか。部室の机の上で見たことがあった気がした。
 どうでもいいことを考えながら無意識に煙草を口の端でひっぱり出す。火を点けようとすると、どこからかやってきた恵が隣にピッタリと座ってライターを持った右手を両手で包み込むようにして握った。一瞬、心臓が跳ねた。


「煙草、体に悪いんだってば」

「だから、お前には関係ないだろっての」


 決してときめいた訳ではなく寒気がした。親の前でこんなにも堂々とくっついてくるなんて正気の沙汰じゃあない。拒絶の色を強く反射的に恵の手を振り払って火を点けると、一瞬硬直した恵だがすぐに身を乗り出してライターを奪いに来た。もう火を点けていたから危ないと煙草を挟んだ右手を下に降ろして、片手で抵抗する。小さな胸が押し付けられる。むき出しの太股が寄せられる。特に欲情はしなかったが。


「ダメったらダメ!」

「恵、いいかげんにしないさいよ。克利くんも、みんながいるところでは控えてくれる?」


 煙草を吸う人間の最低限のマナーは周りに迷惑を掛けないこと。それは了解しているからバイトでは外に行って吸うし学校では喫煙スペースに行っている。けれど家は今までどこでも吸っていたし、其れを恵のためにやめるのが癪だった。
 苛だたし紛れに火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付けて、足を組む。煙草の代わりになるものを視線で探し、見つからないのが口惜しくて舌を一度打ち鳴らす。


「別に、もうすぐ出てくんだから関係ねぇじゃん」

「お兄ちゃん出てくの!?」


 苦々しく呟いた一言を拾って恵が大きな目を皿に大きく開いた。ぴたりと寄り添って「なんで」と何度も問いかけてくる。妹と言うポジションからしたら異常なほどだと、そう思える。やっぱり、煙草がほしい。言葉に窮しながら、結局はひどい言葉を投げかけることしか知らない。


「お前がいるから」


 恵の傷ついた顔を見たかったわけではない。けれど結果として恵は傷ついた。泣きそうな顔をして、そして着替えたばかりのシャツにしがみ付いてくる。傷つけたことに後悔はしていないけれど、自分の言動にげんなりした。こうなったら、こいつの口から何が出てくるか分からない。案の定恵は、視線を聡子さんに移して叫んだ。


「あたし、お兄ちゃんと結婚する!」


 たった一言叫んで泣き出した恵に正直呆れた。けれど一番狼狽したのは聡子さんだったろう。取り乱して泣き出した娘を見て、初めは驚いていたが幼子にするように恵の肩に手を置き引き寄せる。自分の腕に抱きこもうとしたが、恵は嫌がって離れない。耳元で煩い。
 わんわん声を上げて泣く恵の背に手を置いて、聡子さんは家が狭くなったからと理由を話す。けれど恵はそれを聞こうとしないでひたすらに泣いて拒絶するように頭を左右に振っていた。


「お兄ちゃんと結婚するんだもん!」

「誰が結婚するとか言ったよ。俺ガキやだって言ったし」

「結婚してくれないの!?」


 恵の中ではいつの間にか結婚するような流れができていたらしい。その原因になんとなく思い当たるから嫌な予感がする。それが露見する前に、逃げるように席を立った。馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ、と吐き捨てて部屋に戻った。手早く着替えを済ませて必要最低限の煙草と財布、携帯だけを持って何も言わずに家を出た。携帯を確認してもアズミからの連絡はなかったが、逃げ込む場所はあそこしかない。










 アズミのマンションに行ったが、留守だった。携帯に連絡を入れても出ないのでもしかしたらいないかもと思ったが、このタイミングでそれが当たるとは思いたくなかった。明日学校があるからどうせ夜には帰ってくるかと高を括って玄関の前にしゃがんで帰ってくるのを待つ。
 結局流されるか逃げることしかできない自分に気づいてどんどん落ち込む。思い返せば、今までずっとそうだった。流されて、流されてここまで来た。だから後悔もできないのだろう。


「克利?」


 しゃがみこんで煙草を銜えたまま火も点けずに俯いていると、見慣れたサンダルが目の前に現れた。聞こえた声は久しぶりに聞くのに怒っているような色は全く含まれていない。顔を上げると、アズミが微笑んで立っている。思わず腕を伸ばして抱きしめた。


「ごめん」


 結局逃げる所はここしかない。全てを笑って、最低な男でもいいと許してくれるアズミに自分は甘えていた。胸の中に押し込めた小さな体は、可笑しそうにクスクス笑って弱々しい腕を抱き返してくれた。これももしかしたら逃避かもしれない。でも、それなら今は流されていたい。


「そういうと思ったわ。結局克利は、私のところに帰ってくるんだもの」

「……本当、ごめん」

「みっともない克利が大好きよ」


 子供にするようにアズミが背に回した腕で撫でてくる。子供ではないけれど、それでひどく安心した。
 入りましょう、と促され、何度も泊まった部屋に足を踏み入れる。最後に来たのはだいぶ前だが、家具の配置も小物の場所も何も変わってはいなかった。それだけで安心できて、やっと銜えていた煙草に火を点ける。


「それで?何かあったの」

「怒んないで聞いてくれるなら話す」

「浮気の一つや二つで本気で怒らないわよ」


 キッチンでコーヒーを入れてアズミが持ってきてくれる。本人は吸わないのにテーブルの上に置いてある灰皿を引き寄せて、深く紫煙を吐き出した。ようやく心底落ち着いたという感じで隣に座ったアズミの腰を抱いて細い肩に寄りかかる。


「マジで怒んない?」

「怒らない」


 煙草を灰皿に置いて、アズミの首筋に鼻先を埋める。甘えるように腰に巻きつけた腕の力を強くすると、アズミは甘やかしてくれた。クスクス笑って誘うように項から首筋を細い指でゆっくりとなぞる。その見えない仕草にゾクゾクした。
 アズミの家は資産家で、一人暮らしのマンションもそれなりの広さがある。バイトもしていないのに良い身分だと常々思っていたが、今日はそれがありがたかった。


「妹と寝た」

「そう」

「だってお前怒らせたと思ってすっげへこんでたんだぜ?」

「今は?」

「お前だけでいい」

「嬉しいわ。結婚してくれる気になった?」

「なった」


 そのまま床に強引にアズミを押し倒した。アズミの細い指がジーパンのラインをなぞってベルトのバックルをカチャカチャと外す。流している。流されている。けれどこれが心地いい。アズミとならば結婚したって構わないと、初めて思った。流されているのだとしても逃げているのだとしても、かまわない。





−続−

かっちゃんて恵まれてる男だと思う。