そのままアズミの部屋に居候という形で目の前の問題から逃げることができた。結婚すると一言言ったらさっそく翌日にアズミの実家に挨拶に行くことになり、それはそれは緊張した。したけれど、アズミの両親は快諾してくれた。ただ一点、一人娘が嫁に行ったら跡継ぎがというので、婿入りするとさらりと言ったら大歓迎された。彼女がどのように自分の男のことを語っていたのか、自分のことを最低だと認めている分克利には疑問でしかなかった。
アズミと話し合って籍を入れるのは大学を卒業してからにしてもらったが、その前に両親の承諾を得るために日曜日にアズミと一緒に荷物を取りがてら家に戻った。二人で住むにはアズミのマンションでは少し狭いので、引越しのための荷造りでもある。日曜にしたのは親父がいるからだし、親の目があれば恵も何もしてこないだろう。あれから恵から着信が百件を越え、携帯を買い換えた。
「おかえり、お兄ちゃん」
チャイムも押さずにいつものくせで玄関を開けると、恵が出てきた。一瞬ギクっとなった肩を恵の目に見透かされた気がする。それでも興味ないふりをして靴を脱ぎ捨てて家に上がりこんだ。アズミと一緒にリビングに行ったが誰もいないので、先に荷造りでもしようと自室に入った。すでにそこは恵の部屋になっているようで机に高校の教科書やらが並んでいるが、それ以外の変化は全くなかった。
何かに怯えている。罪の露見に怯えているのだろう。しかしそれは自分だけのようで恵には何の罪悪感も、もしかしたら後悔すらもないのではないだろうか。
「克利」
「ん?」
どこから手をつけようか。持って行くものと持って行かないものを分けるところから始めようかと考えながらポケットから煙草を引っ張り出そうと視線を落としたとき、アズミに袖を引かれた。彼女の低い声に耳を寄せるように少し膝を曲げる。アズミが口を寄せ、極小さな声で早口に囁いた。
「あの子、危ないわよ」
「危ない?何が……」
危ないのは重々承知で何を今更、と思って顔をアズミの方に向けて思わず大きめの声を上げた。きつくアズミに睨まれたが、その理由を問う前に恵が楽しそうに笑って部屋に入ってきた。一瞬咎めようと思ったけれどここが既に恵の部屋ならば咎める理由もないと半分開いた唇に代わりに煙草をつめる。ポケットの中をまさぐってライターを引っ張り出し、しかし火を点ける前に恵が楽しそうに笑ったのが目に入った。いつの間にか、下着姿になっている。一瞬見間違いかと思ったが隣でアズミが剣呑な目をしていたので気のせいではないのだろう。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「……アズミ、引越しっていつだっけ」
「もう一回、えっちしてよ」
彼女は知っている。それが悪いことだと知って、それを利用している。だからこれは脅迫だ。屈する必要なんてないが、大抵の人間は脅迫に屈する。持ち出された事柄が露見したくないからだ。だからこの場合、従うべきか。今日は日曜日で親父も聡子さんもいて、屈する必要はない。しかしどうして、今いない。もう一度抱けば露見しない罪かもしれないのに。一度と二度に、どんな差がある。
これが、犯罪者の心理か。犯罪心理学の授業なんかを聞き流して理解したつもりになっていたけれど、今やっとその心理を理解したかもしれない。人はこうして、堕ちていく。
「……いっ」
「私が許す訳ないでしょう?」
一回だけでいいんだな。そう屈するつもりだった。しかしその言葉は発した瞬間に頭以外が存在を否定される。流されて落とされた男の隣で、自らが狂気に落ちた女がはっきりとその穴を否定した。本人以外にこの場で唯一真実を知る女は、落ちることなく屈することを良しとしなかった。その顔にはうっすらと微笑だけが映っている。
「お父さんもお母さんももうすぐ帰ってくるよ。なのに私がお兄ちゃんのベッドの上で下着でいたら、どうだろうね?」
「可哀相な子。私がいるのよ?貴女の方がまずい思いをするんじゃあないの?」
アズミは正論だ。確かにこの状況ならば、誰もがアズミを信じるだろう。部外者が何を言っても信じない。だからそれは安心かもしれない。
現実が遠くに見えるようだった。アズミが守ってくれると安易にその場に浮かび、のろのろとした動作で中心にいるはずなのに部外者を装って煙草に火を点ける。何だか口の中が苦かった。こういう場合にアズミが負けたことはないから、だから安心できるのだろう。
この部屋で煙草を吸うのも最後になるのかと何となく感慨深い思いに浸りながらゆったりと紫煙を吹かしていると、玄関から音が聞こえた。親父か聡子さんか両方か、帰って来たのだろう。恵の名前を呼んでいるのは親父で、足音が二人分。一緒に帰って来たのか。
「私には証拠があるもの。お腹の中にね、お兄ちゃんの赤ちゃんがいるの」
近づいていた足音が二つ分、止まった。そういえば玄関に二人分の靴が増えていたから、部屋にいるのは容易に想像がつくな。今更ながらにそう思った。ただ、機械的に紫煙を吸って肺に溶かして廃棄物として吐き出して。それを繰り返す。
中途半端に開いていたドアが開いたことを現すように、空気が動いた。足元を浚ったわずかな空気の動きが今まで感じたこともないのに妙にはっきり感じられた。きっと聡子さんと親父が立っている。けれど、振り返れなかった。
「恵……それ、どういうこと」
「おかえりなさい」
「どういうことか説明しなさい!」
聡子さんの悲鳴のような声に現実に戻ってこれた。相変わらず緩慢な動作で振り返ると、顔を青くして今にも倒れそうな聡子さんが真っ直ぐにベッドの上の恵を睨んでいる。どうして自分を素通りしているのか気にはならなかったけれど、聡子さんの体を支える親父の厳しい視線には気付くことができた。
親父がリビングに移動しようと提案し、二人と一緒にリビングに戻った。聡子さんと親父が並んで座り、その向かいにアズミを横にして座る。アズミが不安そうな目で見上げてくるので、それが彼女らしくなくて面白かった。銜えていたその一本を灰皿に押し付けたとき、服を着た恵がやってきて場所を選んだ後、親父たちの正面のソファに腰を降ろした。アズミと反対のその場所に、ピッタリと寄りそうように座るので、少し腰を浮かして逃げた。
「さっきのは、どういうことなの?」
「赤ちゃんができたの。あたしとお兄ちゃんの子供だよ」
説明を、と言われて恵は嬉しそうに笑ってそう言った。けれど否定する言葉を誰ももてない。家族中が知っている性癖ならば、血の繋がっていない妹をたらしこんでも大丈夫だとそう思ってもしょうがない。そしてそれは半分事実である。いくら妊娠は絶対にさせていないと言いきることができようと、その工程を否定はできない。それはアズミだって知っている。
厳しい視線を親父に向けられて、無意識に逃げるように視線を逸らした。人は目を見られると心を見透かされるのではないかと怯える。だから、目を逸らす。それは真実だ。
「……やっぱり、二人きりになんてするんじゃあなかった」
「妊娠は、させてないから」
自分の一言に、落ちるところまで落ちたと思った。自己申告の罪、自分から落ちた穴。火を点けた煙草のようにもう手遅れだ。戻れない。這い上がることすらできない無限の穴に、自ら飛び込んだ。だからせめてそこが穴の中ではないことを夢想するために、煙草に火を点ける。
「逃げるためにお前は、家を出ると言ったのか?」
「そういう訳じゃあねーけど、成り行きで。俺、結婚する」
「克、利……」
「もう全部、終わりだから」
「逃げるために結婚するとでもいうのか!?」
アズミと結婚して、全部全部流されて落ちつくしてそこで立ち上る白煙を見上げよう。そう思ったのは諦めでも逃避でもない。自分自身がそれでいいと感じたからだ。だから決して、流された訳でも落ちた訳でもない。
親父が激昂する意味は分からないでもない。もしも逃げただけの結果がアズミとの結婚だったらアズミが可哀相だと思う。けれど、その認識は間違っている。逃げて、その向こうでアズミが腕を広げて待っていたくれたからその胸に飛び込んだだけだ。きっとそれをアズミも分かっている。そして一緒になるというのだから誰も可愛そうじゃあない。
「その報告だけしに来たから。荷物は今日適当に持ってくし」
一本煙草を口に銜えて火を点けてからケースとライターをテーブルの放り出して、立ち上がった。戸惑っているアズミに挨拶でも一応しとけばと笑って、かつての自室に足を運ぶ。生まれて育った家はマンションだと言っても名残惜しいものだ。ここでゆっくりと一服したら、帰ろう。どうせ落ちるなら最後まで。流されるなら、楽な方へ。白煙が風に乗るのと同じで、自然と慣性に従って。そして、辿りついた場所を都にできたらいい。
ゆっくりと一本吸い終わって、適当な袋にガサガサと灰皿から始まる小物を放り入れる。服だとかを持参したダンボールに詰めて、宛名はアズミの実家。これを引越しの当日まで保管してもらうことで話はついている。
綺麗に笑ったアズミが「帰りましょう」と声を掛けてくるまで、自分が何をしていたのか分からない。ただ、煙草とライターは餞別代りに置いていこうと思っていた。
三十路記念同窓会。その連絡が回ってきたのは一週間前のことだった。主催者は立川あたりだからその計画の杜撰さが窺える。日曜に設定したのはみんなが休みだと思ったのだろう、学生じゃあるまいし。しかし偶然にも休みだったので文句は言えまい。
会場となったのはどうやって押さえたのか大学の講堂だった。立川だとかひかりだとかは卒業して八年経っているにも関わらずまだ頻繁に会っているから懐かしくはないけれど、こうしてみると懐かしく感じるのはどうしてだろう。半分以上は見たことのない同級生だったりしているのに。
「高橋……や、坂口さん?」
「いいよ、無理して呼ばなくても」
久しぶりに会った友人は、戸惑ったようにその名前を口にする。別に名前に拘るつもりはないからどうでもいいと流すけれど、アズミが聞いたらちゃんとしてと怒るのだろう。当のアズミは、トイレに行くと言ってなかなか帰ってこない。もしかしたら途中で友達でも見つけたのだろう。だからって子供を両方置いていくことはないだろうに。
「で?これがかっちゃんの子?」
「あぁ。克成、純一、挨拶」
立食パーティーなんて大人は楽しいかもしれないが子供には辛いだけだろう。つまらなそうに足をブラブラさせている息子二人に挨拶をさせると、なるほど自分の子だと納得できるほどふてぶてしく「こんばんわ」と声を揃えて挨拶した。これが教授相手だったら笑えないが羽野でよかった。
「可愛くねぇなー、高橋そっくり」
「それ、ひかりも言ってた」
「双子だっけ?」
「正確には克成が四月で純一が二月だから双子じゃねんだけど、学年一緒だから双子扱い?」
「へぇ。面白いことしたな」
アズミが何かを拘って、双子が欲しいと言っていた。けれど生まれた子は一人で、それが四月だったのでそのあとすぐにもう一人作った。正確には双子じゃあないが、似たようなものだ。だから周りには適当に双子っぽい感じと言っているが、実際の所はどういう扱いになるのだろうか。まだ幼稚園だから特に気にならないが、小学校に入ったらどうなるのか気になるところだ。
羽野が無造作に煙草を出して吸い始めた。あれ、お前吸ってたっけというと、彼女の影響で吸い始めたと言った。こっちはものすごく苦労して禁煙したというのに、いい身分だ。
「いる?」
「俺は煙草やめたんだよ」
「あっそう」
「……でもま、たまにはな」
「悪い男だなぁ」
アズミにばれる前に羽野から一本貰って火を点ける。久しぶりの煙草の味は昔吸っていたのと同じ銘柄のはずなのに濃くて、苦かった。紫煙を肺まで吸い込んで、吐き出して。ニコチンが肺の中にしみこんでいくのがありありと分かる。
足元では来年小学校に上がる息子二人が退屈を極めたのか座り始めたので、銜え煙草で両手を空け二人を引っ張り立たせた。
「あきたなら遊んできていいからさ、座るなよ」
「おかーさんは?」
「どっかにいるだろ。克成は純一の面倒ちゃんと見るんだぞ」
「はぁーい」
パタパタとすぐに人ごみに紛れてしまった息子には携帯を持たせているので大丈夫だろう。あのくらいなら男同士が手をつないでいても可愛らしいものだ。さっさと短くなってしまった煙草を灰皿に押し付けて、代わりにアルコールのグラスに手を伸ばす。急ごしらえにしては上等の準備だ。
何かを確認するようにして羽野は視線を巡らせた。それから顔を寄せてくる。野郎と顔を付き合わせる趣味はなかったが、何となく重大な話だと分かった。
「あれから、妹ちゃんは?」
「知らなかったっけ?想像妊娠」
「それは聞いた。それからどうしてるかって話」
「さぁ、知らねぇよ」
「知らないって……」
「連絡も何も一切消息不明。もう一本貰っていい?」
大学卒業を機に一切の連絡を絶った。別に今までが似たようなものだったから淋しいだとかそういった感情はなかったけれど周りはそうは思っていなかったようで、アズミの両親にも何だかんだと世話を焼いてもらった。あちらに本物の親以上に構ってもらえるから実際に淋しくないのだ。それを分かっているのはきっと誰もいないだろう。落ちた人間は、それ以上落ちることを知らないと言う事を誰も知らない。ただ穴から覗く光に空を空想していると思っている。
「あー、克利約束破ったわね」
「……ばれたか」
「もう、禁煙するって言ったのに」
アズミが二人の息子と手をつないで戻ってきた。どういうわけかひかりと立川も一緒だ。二人とは仕事帰りだとかには会っているが、アズミは久しぶりだったろうか。立川はともかくひかりとはあっているようだが、詳しいことは知らない。
子供が生まれたら煙草をやめる、という約束だったが、こっそり破ったのがばれた。でもまだ銜えただけで火を点けていなかったので、丁寧に辞して羽野の口許に差し出した。ものすごい嫌な顔をされた。
「まだ未遂、返す」
「いらねぇよ、間接ちゅーなんて」
「んじゃ、ひかり」
「私吸わないけど」
「じゃあやっぱ俺が吸お」
結局口に戻して羽野から火を貰った。それを見てアズミがこれ見よがしに溜め息を吐くが、たまには息抜きし立ってばちは当たらないだろう。なのにアズミはまだ膨らんでいない腹をさすって首を緩く横に振る。悪かったな、嘘つきで。
「この子が生まれるまでにはまた苦労の禁煙生活かな?」
「今日だけだって」
「何、あんたたちまた作ったの?」
呆れたようにひかりが言った。けれどその一言はなかなか聞き捨てならない。この少子化の時代にストップをかけているのにまるで呆れたことをしでかしたみたいな言い方はよろしくない。別に少子化を杞憂して作った訳ではないが。ひかりの視線にもアズミはにっこりと微笑んだ。
「だって克利が女の子が欲しいっていうんだもの」
「よく付き合うわね、あんたも」
呆れた言い方だけれど、ひかりは笑った。この煙草を一本吸い終わるまではまだ落ちる前のあの時代に返れるだろうか。いつまで、浮上したつもりでいられるだろうか。落ちきっていると知っているから、ほんの僅かな浮遊は不安定でしょうがない。
きっとこの煙草を一本吸い終わればまた落ちるだろう。それはたった一本分の夢。飴玉のようにすぐに消える思い出。
また明日から、落ちきった現実が続く。それまで、たった一本分でも現実から逃げ出そう。
−終−
長きにわたるお付き合い、ありがとうございました。
思い起こせば、短編と言いながら一年でした。
エゴ一非力で適当で最低な男は、そこそこ幸せになりました。
夢も希望も落下した物語でしたが、これも一つの物語です。