時計が、午後になったことを告げている。青年が濡れた手を拭きながらキッチンから出てきた青年が音もなく時を刻む其れに視線をやって、一つ溜息をついてドアに視線を送った。誰の気配もないことに又溜息をついて、ソファに深く座り込む。何気なくテレビを点けるが見るわけでもなくテーブルに置きっぱなしにしてあった煙草に手を伸ばした。
大倭軍第一部隊の住居として宛がわれたこのフロアは、其れとは思えないほど静かだった。液晶の向こう側とこちら側の温度差にも気を取られず、長髪の彼は煙草を銜えるとライターを探して視線をめぐらせた。整った顔立ちをした、どちらかと言えば綺麗と評される青年の髪は漆黒で闇の色さえも思わせる。切れ長の涼やかな目は今は穏やかに目的のものを探している。
彼が自分の物ではないライターを見つけて火を点けほっと一息ついた時、廊下をペタペタだるそうに歩いてくる音が聞こえ次いで欠伸交じりの声が時間の間違った挨拶をかました。
「……おはよ、カグヤ……」
「もう昼を回ってるぞ」
普段は大きな二重の目を眠そうに細めて紫がかった髪をかみ上げ、宮守筑紫は呆れた声にゆっくりと顔を上げる。そんなに驚くことなのか、とカグヤと呼ばれた男が筑紫を見るが筑紫が発したのはそんなこととは全く関係ない言葉だった。
「今日って何月だっけ」
「顔を洗って頭を醒まして来い」
何を答えればいいか分からない質問に答えかね、カグヤはおそらく正解であろう事をやや強めの口調で告げた。すると筑紫は何も言わずにそのまま踵を返して洗面所に相変わらずだるそうに歩いていく。その後姿を見送って、カグヤは苦笑して立ち上がると空気清浄機のスイッチを入れに行った。
機械のスイッチを入れて動き出したのを確認してカグヤが煙草を銜えたまま台所に入って筑紫の朝食兼昼食の用意をしてやろうとする。きっと入ってくるなり喚くのだから。そう思っていると、ちょうどまだ何処かだるそうに筑紫が戻ってきた。
「カグヤぁ、飯!」
「………」
思ったとおりの言葉にカグヤが苦笑したら良いのか呆れたら良いのか分からずに、カグヤは曖昧に笑みを浮かべてブルーベリーパイを切り分けた。まだ3分の2程残っている其れを半分を残して更に移し、小さな銀のフォークと一緒に運んでいくとソファに座って筑紫が詰まらなそうにチャンネルを回していた。
「面白いのやってねーな」
「何時だと思ってるんだ、お前は」
「だって昨日遅かったんだもんよ」
カグヤが溜息混じりにテーブルに皿を置きながら言うと、筑紫が小言が飛んでくるのかと慌てて耳に手で蓋をした。その光景に彼がが紫煙を吐き出してソファに沈み込んで眼を細めると、筑紫は何故か憤懣したように顔を歪めてフォークに手を伸ばす。
カグヤの紫煙が清浄機に吸い込まれていくのを端目で捉えながら、いつもどおりに美味なパイをつつき筑紫が言う。
「カグヤ、コーヒー」
「欲しければ自分でやれ。残念ながらはいってないぞ」
「ケーチ」
しらっとカグヤが言って筑紫からリモコンを奪ってドロドロの昼ドラからワイドショーに替えた。筑紫はチッと口の中で舌を打ち鳴らすとフォークを銜えたまま面倒くさそうに立ち上がって台所にコーヒーを淹れに行く。いつもならカグヤが作って置いてくれるのだが、今日はないらしいので自分の分だけをインスタントで作る。お湯を注いで銜えていたフォークでかき回しながら戻ると、カグヤが何時の間に出したのか、銃を分解していた。
その光景に何か違和感を覚えて筑紫が微かに首を捻る。あぁ、いつもいるはずの白い狼が今はいないんだ。
「小川さんはー?」
「今日はメンテナンスの日だろ」
「そっか。んじゃあサクは?」
「まだ寝てるんじゃないか?」
ふーんと気のない返事をして、筑紫は薄いコーヒーを啜った。それからちらりと緋桜の部屋のあるほうに視線を移す。
昨日のパーティの後から緋桜の様子がおかしいのは気付いていた。多分深海化学長とあってからだが、いつもは煩いくらいの緋桜が何も話さなかったから訊くのがはばかられてしまった。そもそもそんなに子供じゃないのだから、自分で如何にかできるだろう。
まだ起きてくる気配を見せない部屋から視線を剥がして、筑紫はソファに沈んで朝食の続きのを始めた。ちらりと見たらカグヤも何処か心配そうな顔で緋桜の部屋のほうに視線を送っている。口の中のパイを飲み込んでから、筑紫は口を開いた。やはり、サクがいないと何処か淋しい。
「小川さんのメンテってさ、何してんの?」
月に一度、小川さんと呼ばされいる日本狼はメンテナンスだと言って勝手にどこかに行ってしまう。あの口調からボケ老人の徘徊ではないかと初めは疑ったが、午前中に出て行っていつも昼過ぎには帰ってくるので本当にメンテナンスらしいが、何のメンテナンスかは分からない。というか、聞いた事がある気がするが思い出せない。
緋桜の話で何となく空気が重くなってしまって筑紫が話題を変えようかと声のトーンを無理矢理引き上げて問うと、意外にもカグヤが真面目な顔で微かに困惑を浮かべていた。まるで子供に簡単すぎることを訊かれて説明に困っている親のようで、筑紫はつい真剣にカグヤを見つめてしまった。
「………け、毛並みとか?」
真顔で言われ、筑紫はつい想像してしまった。大倭軍第一部隊の守護獣が優雅にペットショップで洗ってもらっている所を………。
筑紫のフォークを持っている手がカタカタと震え、すぐに其れを放り出して腹を抱えて笑い出す。
「其れはないだろ!ありえねぇ!!」
「だよな」
苦笑してカグヤが頷きながらさり気なくフォークを取ってパイをつついた。其れを見た筑紫が笑いすぎて湿り気を帯びた瞳でカグヤを見つめて肩を叩く。言葉を発そうにも笑いが収まらず、笑いながら首を横に振るとカグヤがすぐにフォークを置いた。
「いいだろう、俺が作ったんだから」
「俺の、飯っ……だっつの!」
笑いをとめようと乱れた呼吸を整えながら筑紫がカグヤを睨みつけると、カグヤは分かったと言いながら煙草をふかす。2つしか違わないのになんだか子ども扱いされているようで、筑紫はカグヤから皿を護るように抱えるとがつがつと食べ始めた。
筑紫の姿を何とはなしに見ながら、カグヤは微かに眼を細めた。自分がこうして何に臆すこともなく生活している間に、残してきた妹弟たちはどうしているだろうか。そんな取り留めのないことを考えていると、視線に気付いた筑紫が不思議そうに首を傾げた。口の中にパイが詰め込まれているので、声はくぐもった音になる。
「はひ、ほっはも?」
「飲み込んでからしゃべれ」
口を開かないように気を使っているらしく、筑紫が腹話術士にでもなりたいのか口元を軽くもごもごさせたが彼は腹話術士でもエスパーでもないのでカグヤには聞き取れなかった。呆れたようにカグヤが紫煙を筑紫に向かって吐き出すと、筑紫は顔をしかめながら頑張ってパイを飲み込んだ。喉に詰まって数回胸を叩き体を折って酸素を取り込んで、さらに紫煙にむせそうになってカグヤをじとっとみやる。
「ナニすんだよ」
「躾」
ふっとカグヤが微笑んで、背もたれに体重を掛けた。ギシッとスプリングが軋む音がして、一瞬だけ沈黙が落ちる。
空気清浄機の無機質な音と温度の違う液晶画面の向こうの笑い声が、妙に滑稽に聞こえた。カグヤが長い足を組んで灰皿を引き寄せ、短くなった煙草を押し付ける。其れから直ぐにもう一本取り出して銜えた。火をつけようとライターを探し、さっき使った筑紫のライターもないのでキッチンまで行こうかと一瞬考えたが面倒くさいのでやめることにする。
「筑紫、火」
「おかわり」
銜えた煙草を右手に挟んで視線だけを向けて言うと、筑紫が挑戦的な視線で見上げてきた。フォークを銜えながら皿を差し出すがカグヤは一瞬だけ面倒くさいと思った。一つ溜息をつくと、カグヤは煙草をケースに戻した。筑紫が不思議そうにカグヤを見ると、リビングの扉が開いて眠そうに眼を擦りながら緋桜が入ってくる。
「おはよぉ、カグヤ」
「おはよう、サク。良く眠れたか?」
「おいこら!何だこの対応の違いは!?贔屓かこの野郎!!」
「……筑紫いたのぉ?」
寝ぼけているのか緋桜が舌ったらずな声で言って彼らが座っているのとはテーブルを挟んで反対側に設置してあるソファに飛び込んだ。ボスっと音を立ててそのまま寝転がり、また眠ってしまいそうなトロンとして目でカグヤを捉える。
「ごはんは?」
「………。ブルーベリーパイがあるぞ」
緋桜は女なんだから少しは自分でやったら如何だ。いつも言っているその言葉を、カグヤは飲み込んで頷いた。いつも笑っている緋桜の瞼が腫れぼったくなっているように思えたから、今日くらいは優しくしてあげよう。彼女は禄に寝ていないのだろうから。
ついでに筑紫の皿も持って、カグヤはキッチンへ向かった。半分残っているブルーベリーパイを3等分して、各々の皿に載せてやる。残りの一つは後で小川さんが帰ってきたら食べさせてやろう。
「あれ、小川さんは?」
「メンテの日だってよ」
「ふーん。カグヤぁ」
リビングから名前を呼ばれ、カグヤは皿を2つ持ってリビングに戻った。緋桜は目が覚めたのか、瞳に映る光がはっきりしている。カグヤが彼女に問い返すが、彼女は前に置かれたパイに夢中で起き上がってにぱっと笑みを浮かべる。
「いただきまーす」
一口食べて、嬉しそうに口元をほころばせる。いつもと変わらない彼女の様子にカグヤは安堵したように眼を細め、其れに気付いて緋桜がきょとんと首を傾げた。筑紫と同じように息で問いかけてくるので、何でもないと笑ってカグヤは手持ち無沙汰になって煙草に手を伸ばす。しかしその手は唇に触れる前に緋桜に叩き落とされる。
「匂いつくじゃん」
「はいはい」
苦笑してまたケースに戻し、カグヤは暇そうに宙を仰いだ。
昨夜、帰宅したのは深夜だった。それから直ぐに各自自室に戻って寝たのだが、緋桜の部屋の戸が良く開いたのをカグヤは知っている。初めはトイレかと思ったが30分おきくらいで聞こえてくる足音はリビングに向かっていた。きっと、緋桜は眠れなかったのだろう。それでも誰も頼ろうとしないで一人で泣いて、気付かれないように笑っている。頼ってくれても良いのに、そのための仲間なのに。
そんなことを考えていると、玄関から物音が聞こえて次いでのそっと白い狼が現れた。紫の眼を持つ狼が、部屋を見回してしわがれた声で言う。
「なんじゃ、こんな時間にだらだらしおって」
「小川さんおかえりー」
ゆったりと眼を細めて室内を見回して、小川さんが溜息のようなものを吐く。自然な動きで緋桜の隣に寝そべって小川さんが眼を閉じると、筑紫が小声でおじいちゃんはお疲れか、と呟いた。彼を不機嫌に
細目を開けて睨みやり、小川さんが眼を閉じなおす。まるで、夏休みに子供が煩いおじちゃんのようだ。その様子を見ながら、カグヤが口を開いた。
「小川さんさぁ」
「なんじゃ、覚哉。お前が昼間にのんびりしているとは珍しい」
「俺だって休みたいですよ。久しぶりの休みだし」
まるでカグヤがいつも勤勉なような言い方だと筑紫は思って眉間に皺を寄せた。いつもは任務があるせいか昼間は皆出払っているが、特に任務のない日などはカグヤは午後はゆったりと過ごしている。ワイドショーをつけながらおやつを作ったり、洗濯物を畳んだり。たまに寝てみたり。まるで専業主婦のような生活を送っている。
筑紫が考えながらパイを頬張っていると、正面で緋桜が身じろいだ。
「カグヤぁ?」
「おかわりならないぞ」
「ちっがうよ!お買い物行ってもいい?」
何処か居心地悪そうに緋桜が言うと、カグヤは一瞬考えるように視線を宙に投げた。本当は一人で出歩かせたくはない。
大倭軍人には巨大な建物が軍部として与えられていて、その大半が住居になっている。10階建ての建物は上から順に第一部隊からの住居スペースになっているが、2、3階にはジムや武器庫、資料館があり、1階は玄関になっていて食堂や簡単な買い物も出来るようになっている。
軍部内ならばまだ出かけるのも良いだろうが、外に出すのは気が進まない。しかし、彼女にも気分転換は必要だろう。眠れなくなるほど、苦しい思いを吐き出せずにいるのだからせめて、一時忘れるくらいはさせてやりたい。そう思って、カグヤが頷こうとしたら電話が鳴った。
「カグヤ、電話ー」
「偶にはお前が出ても良いんだぞ」
まるで電話を取るのはカグヤの仕事だとでも言うように動かない筑紫にカグヤは呆れたように溜息を吐いて立ち上がった。無機質な機械音は、軍部の内線の音。たまに外線を繋いできた連絡に使われるが、生憎紫部隊の面々に外部から連絡を取る人間はいない。つまり電話が鳴る事はそのまま任務を意味した。
折角の休日だと思ったのに予想外に鳴った電話に緋桜が口を尖らせてフォークを銜えたままソファの上に寝転がった。
「久しぶりに買い物行こうと思ってたのにぃ」
「今行ったらばれねぇんじゃん?」
「何を言っとるか、筑紫」
元は休日の予定だったのだからいなくても不思議はないだろうと筑紫が言うと、緋桜はまたかと苦笑する。何か任務が入るたびに筑紫は必ず一言嫌がって逃げたいような事を言う。そんな事を言っても結局は誰よりも頑張って任務をこなすのだから、きっと言わなければ気が済まない癖のようなものなのだろう。しかしそんな筑紫を小川さんは本気で怒ったように睨みつけた。いつもなら笑って済ませる冗談なのに鋭い視線で睨みつけられ、筑紫は肩を竦めた。
「冗談だって。いつものことじゃん?」
「………そうじゃったかの」
「小川さん?」
困惑したように眉を寄せた小川さんを見て、筑紫はいぶかしんで眼を細めた。口調がジジ臭いのでボケちゃったかなと本気で考えてしまったが、もしかしたらそうかもしれない。
面白半分に言及しようと身を乗り出した時、カグヤが受話器を置いて溜息を吐き出してこちらを向いた。其れに気付いてしまって視線を合わせると、カグヤは肩を竦めて苦笑する。
「任務だそうだ。直ぐに出るぞ」
「えぇ〜」
「文句を言うな緋桜。何のための軍じゃと思うとる」
「分かってる、行くよぅ」
真面目に説教されそうになって緋桜は慌てて体を起こすとパタパタと着替えに自室に戻っていった。いつもの彼女らしく見えるようになった緋桜に苦笑して、カグヤはテーブルの上に置きっぱなしにされた皿を持ってキッチンに戻る。
どうせ緋桜の準備は時間が掛かるのだから、皿を洗う時間ぐらいあるだろう。そう思って、ソファでうだうだしている筑紫に声をかけた。
「着替えてからのんびりしろよ」
「へいへい」
せめて任務で緋桜の気持ちが一時でも楽になれば良いと思いながら、カグヤは手馴れた手つきで皿を洗い始めた。
-next-
カグヤがお兄ちゃんというよりもお母さんかしてるんですけど。