何かの意図があってのことだろうか、仄暗い部屋には光を灯すものは中央の天井に据えてある三つの電燈しかなかった。それすらもセピアに似た色をしていて、仄暗さを強調している。嘗ては首相官邸と呼ばれた建物は大戦後、主に会議室として使われている。
 比較的小さな部屋で、目の前で沈痛な表情を作ってみせている年寄りどもに大倭軍を統括する地位にある井出元真白は誰にも分からないように目を眇めた。


「井出元軍部長」


 名前を呼ばれて、真白は静かに微笑んで初老の男を見た。沈黙を破ったのは、聖域の責任者である狩谷ジンだった。今この部屋には護衛と言う名称でいる大倭軍近衛部隊の二名と真白と狩谷、それから数名の年嵩の権力者達だけだ。彼らにしても大倭軍が聖域で戦闘を行ったという事実は避けたいことなのだ。これは国全体のスキャンダルになりかねない。
 相手の一挙手一投足から心理を計るような彼ら政治家が真白は嫌いだ。彼自身にもそういうところが少なからずあるが、少なくとも本人は気づいていない。真白は決して表情を読むことができない笑みを浮かべた。


「なんですか。こんなところに呼び出して」

「大倭軍が聖域で血を流しましたな。この責任はどう取ってくださるお積りですか」

「僕が責任を負わなければならないと仰るんですか?」


 まるで子供のように純粋に疑問を表情に浮かべた真白に狩谷は一瞬目を剥いた。もちろん真白は馬鹿ではない。考えている事がこんなに純粋である訳がない。彼が軍部大臣になったのは二年前、二十六のときだ。それから政治に食い込み、今では政界でもかなりの発言力を手に入れることができた。そんな男が、簡単に真の姿を現す訳がない。けれど可愛らしい顔に騙されてしまい、人は真白の言葉の裏に隠された意味を知ることなく闇に葬られてしまう事になる。
 今回も同じなのだろうか。真白はそう内心で呟いて、肩を軽く竦めた。その動作に軽く見られたと思ったのか、狩谷は激昂する。


「聖域を血で穢したのは貴方だ!」

「その血は、誰の血ですか?」


 この場にいる政治家は軍人も、力に物を言わせて政界でも力を得た真白も快く思っていない人間ばかりだ。だから上手くいけば真白をこの世界から追放すらできた。しかし彼は、余りにも簡単に真白の挑発に乗ってしまった。相手の浅はかさに真白はにっこりと笑い、口元で手を組んだ。


「確かに聖域を血で穢したかも知れない。でも僕の部下は怪我をしていないんです。流れた血は、誰の血ですか」


 絶対の力を持ち神の庭と考えてもいい聖域で確かに戦闘はした。そう認めた真白に狩谷は一瞬高ぶって笑い声を上げようとしたけれど、その瞬間に己の失態に気づいた。一瞬息を詰めた彼に真白がにっこりと口の端を引き上げて笑う。聖域を穢した血は、テロリストのものだ。そしてそのテロリストはどこにいて、何をしていたのか。それを面と向かって訊かれたら狩谷に勝ち目は無かった。国家の敵であるテロリストを倒したのは軍であり、真白にとってそれはプラスになりはするがマイナスにはならない。追い詰められたのは、狩谷の方だ。


「聖域を穢す血を流したのは、テロリスト達です」

「だが!やり方というものがあったはずだ!」

「そうですね」


 簡単に真白は肯定して、笑みを崩さないでいた。たじろぐと思っていた狩谷は奥歯を噛むが、真白とて上手い言い訳がある訳ではない。ついさっき帰ってきたという紫部隊の任務の結果次第だが、首尾が良くない旨の短い連絡が来ていた。けれど、ここで弱みを見せる訳には行かなかった。真白には、ここで立ち止まっている時間はない。


「その件につきましては、先日の会議でもお伝えしました。またぶり返されるんですか?」

「何度でも言う!君たちは聖域を穢したんだ」

「その聖域に悪党を飼っていたのはどこのどいつですか」


 いい加減に聞き飽きた話に真白は溜め息に似た思いで言葉を吐き出した。紫部隊を聖域に向かわせた直後に会議が行われ、そこでも真白は同じ事を言われた。そのときはまさか手榴弾をぶっ放すとは思わず、帰ってきたカグヤに相当文句を言ってしまった。その時にカグヤに言われた言葉だ。真白はどこのどいつとは言い辛かったけれど、この方が何となく言葉に勢いがある気がする。この言葉に気分を害したのか、狩谷は顔を真っ赤にして立ち上がった。ガタンと椅子が耳障りな音を立てて床をずった。


「飼っていただと!?失礼も大概にしろ、若造!」

「失礼しました。ただ、そう言われたんですよ」


 自らの部下を簡単に売って、真白は微笑んだ。真白にとって今大事なのは部下を守ることではなく、自身に有利な話をすることだ。真白の笑顔に毒気を抜かれたのか、何かを言いかけた狩谷だが引っかかるような息を吐き出して、体を投げ出すように椅子に座りなおした。


「でも聖域を管理する者が侵入者に気づかないのは、神への冒涜以外何物でもないと僕は思います」

「っ!」

「この話は終わりにしますか。お互いに、傷付きたくはないでしょう?」


 今度は真白が席を立つ番だった。にっこりと邪気のない笑みを浮かべるが、セピア色の光の下ではその笑みが底知れぬ何かを持っていて背筋を不快感が駆け上ってくるようだ。言葉を失ってしまった。狩谷に軽く目礼して、真白は彼に背を向けた。近衛兵の一人が真白の後ろを付いてくる。
 部屋を出て軽く息を吐き出して、真白は体の力を抜くように軽く腕を回した。ゴリゴリと体内で音がして、凝っているのかと軍部長室に向かって歩き出しながら苦笑する。軽く自分で揉みながら、一歩後ろを歩く近衛兵の一人に問いかけた。


「紫部隊からの報告は」

「はっ、まだです」

「そう」


 短く答えて、真白は不機嫌に笑顔を剥ぎ取った。このいらつきが何を表しているのか、真白にも判断が付きかねた。










 軍部長室に入って、まず真白は執務机に深く沈み込むとデスクの上の電話を乱暴に持ち上げた。一と言う数字を押して、いつもの優しげな声でニッコリと笑う。この電話は電話ではなく、各部隊の守護獣に繋がる直通通信だ。普段の連絡は秘書を通して館内放送を入れるが、真白本人が使うのはこれが一番多い。


「紫部隊諸君。疲れているところ悪いけれど、まだ任務は終了じゃないんじゃないかな」


 受話器を置いてから、真白は自分がイラついていることに気づいた。さっきの会話にイラついているのかそれ以外なのかは分からないけれど、確かに御しがたい感情があった。真白は感情も吐き出すように深い溜め息を吐いて、背もたれに体重を掛けた。
 感情なんて捨てたはずだった。この国でのし上がる為に全てを捨てて、ただ力だけを求めていこうとしていた。それが自分はできる人間だと思っていた、けれど、人とはとても弱い。あの時の決心が簡単に揺らいだ。こんな事ではいけないと思いつつも、何も出来ないでいた。ついついイライラして、手近にあったハサミを掴んでストレスを発散するように思い切り投げてみる。


「ぅわ!?」

「……あ」

「カグヤ!」


 ハサミがドアに当たる瞬間にノックとほぼ同時に扉が開いた。中に入ろうとしたカグヤの額に当たりそうになって、思わず声を漏らす。慌てていても避ける訳でもなくカグヤは簡単にそれを掴んだ。一度ギロリと睨まれて、真白が曖昧な笑みを浮かべる。まさかこんなに早く来るとは思っていなかったので言葉もなくいると、カグヤ以下紫部隊の三名と一匹が入ってきた。どうにか言いつくろってなかった事にしようと思ったけれど、真白が口を開く前にカグヤがツカツカと歩み寄ってきて机の上に乱暴にハサミを置いた。


「井出元部長。物に当たらないと何度申し上げたらお分かりになるんですか」

「……お帰り、紫部隊諸君」


 正面に立ったカグヤから顔を逸らして、真白はいつものにっこりとした笑みで後ろの二人を見た。カグヤが溜め息混じりに「また誤魔化して」と呟くが無視して、手を組んで無事に帰還した部下に笑顔を向ける。


「まず、無事に任務を完遂してくれたことをうれしく思うよ。宮守君はぼろぼろだけど大丈夫かな?」

「かすり傷ばっかりなんで、問題ないっす」

「そう。それでは、報告を」


 真白の言葉でようやくカグヤは姿勢を正して真白の前に立った。先ほどの素とは違う、紫部隊の部隊長の顔だ。
 第三区に巣食う「エントドッグ」と名乗ったテロリストチームとの戦闘とそのときに出してもらったヘリのことを簡潔に話し、粗方報告し終わるとカグヤはここで口を噤んだ。裏切りの可能性がある第三大隊のことと富士少佐の言葉にはまだ触れていない。カグヤの意図を察して、真白は軽く頷いた。


「続けて」

「………」

「紫全員の言葉が欲しいんだ」


 言葉を続けられないカグヤに真白が声を落として言うと、カグヤは少し沈黙した後第三大隊について話し出した。
 普段、重要なことを話すときは各部隊長だけがこの部屋に残る。だから色持ち部隊の隊長は大佐の地位を頂いている。その他二名の隊員は中佐だが、大倭軍第一部隊は三人とも大佐の位についている。それだけ危険な仕事が多い反面、上部との信頼も必要になる。普段はカグヤだけが真白と話をしているが、この問題はそんなに小さな問題ではない。
 黙ってカグヤの言葉を聴いていた真白は、彼が言葉を切った後数秒沈黙して深いため息を吐きだした。


「関係者はほぼ全滅か……」

「申し訳ありません」

「第三大隊を徹底的に調べ上げよう。悪い虫を体内に飼っていることほど気持ち悪いことはないからね」


 にっこりと笑った真白に向かってカグヤは申し訳なさそうに頭を下げた。彼の謝罪に二種類の意味が含まれていることを真白は知らない。一つは証人を生かしておくことができなかったこと。もう一つは、報告しない事実があること。


「君たちはどう思う?」

「……軍内部にはスキャーブよりも大きいものが巣食っているのではないかと」

「もしくは、軍事自体が腐敗してる」

「筑紫!」


 過ぎる言葉を諌めるようにカグヤが鋭い言葉を投げなけるけれど、彼はいつものようにへらへらとしているだけだった。けれど真白に向けられる瞳だけが、銃口のように澄んでいる。見た目とは裏腹にひどく真剣な筑紫の姿にカグヤはこれ以上の言葉を紡ぎだすことができずに沈黙した。
 変わらない笑みを浮かべて、真白は筑紫を見やった。表情とは反対に、その声は背筋が震えるほど冷たかった。


「僕のものに勝手に変わられたら、困るんだよ」


 ぞくりと背筋が冷えて、筑紫は息を呑んだ。さっきから何も発言しない緋桜の方に体を寄せて、少し安堵して肩から力を抜く。カグヤはいつもこんなに息の詰まる思いをしているのかと尊敬の念を抱いて仲間の背を見ると、リラックスしていた。


「聖域からの長期任務ご苦労様。ゆっくり休んで」


 誰にも気づかれないほど僅かに真白は表情に影を落としながら笑った。気づいたカグヤは心配そうに眉を寄せたが、そのことに真白は気づかなかった。










 軍部長室を出て、暇になったのでカグヤは久しぶりに三階にあるジムに汗を流しに行った。任務直後にそんなことをしたくないと言った緋桜は部屋で勝手気ままにすごしている。カグヤ自身体を鍛えたい訳ではない。ただ、考え事をしたかったのだ。


「それにしても真白チャン、今日怖かったなぁ。俺、お前を尊敬する」


 筑紫が隣のランニングマシーンで走っているのを端目で見て、カグヤは腕に力を入れて鉄アレイを持ち上げた。筑紫は真白の事をチャン付けして呼んでいる。初めのうちは諫めていたカグヤだが、本人の前で呼ぶわけでもないのでもうやめていた。筑紫の訳の分からない尊敬を受けて、カグヤは僅かに眉を寄せる。けれどそれは困惑なのか鉄アレイのおかげなのか分からなくて筑紫は何も言わなかった。


「サクの事をまだ言うべきじゃないと俺は思う」

「だな。何されっか分かんねぇし」


 カグヤとしてはこれ以上真白の心労を増やしたくない意で言った言葉だが、筑紫には違って伝わったようだ。ただこれは、井出元真白という人物に対する評価の違いだとカグヤは思う。だからあえて何も言わずに、鉄アレイを降ろして一息ついた。浮かんだ汗をタオルで拭って、無意識に煙草を探す。筑紫もそれに気づいたのか豪快に汗をシャツで拭ってそばのベンチの上に置いておいたライターを手の中で転がした。


「一服?」

「あぁ」


 頷いて、荷物を持って立ち上がる。ジム内は隊員の健康を気遣って禁煙だが、傍に喫煙室が設けられている。喫煙者達にしてみれば一種の差別なんじゃないかと思えるけれど、それは至極当然の事だろう。
 反倭派の人間が緋桜を狙っている事実に対して、カグヤは意見を決めかねていた。もしかしたら緋桜が紫部隊に入ったのは守られるべきだったのかもしれない。ならばすぐに報告した方がいい。けれどもしそれが偶然と言う名を借りた運命だというのならば、周りに漏らさぬように筑紫と守り抜かねばならない。どっちにしろ、真白に報告はする必要はあるだろうか。それすらも、分からない。


「実際分からない事だらけだよな」

「まぁな。ただ一つ確かなのは、サクは俺たちの仲間だってことだ」


 紫煙と共に吐き出された筑紫の言葉にカグヤは頷いて煙草を引っ張り出して銜えた。もう少し勝手に探ってみるべきだろうかとも考えて、自分の考えているまとまらない事を筑紫に話して見る。すると筑紫が答えを探すように目を閉じて黙りこくってしまい、煙草の焼ける匂いだけが妙に澄まされた感覚を刺激した。カグヤが美味そうに紫煙を吐き出しながら待っていると、やっと筑紫は答えを出したのか煙草を指の間に挟んで口を開いた。


「もうちょっと待ってみるべきだと思う。サクは若王子だし、分からない事が多すぎる」

「まるでパズルだな」

「それも牛乳パズルみたいな」


 カグヤが吐き出した溜め息みたいな言葉に筑紫はにやりと笑んで煙草を銜えなおした。ピースも見つからない。嵌める検討もつかない。ただ分かっているのは、それが真実の欠片である事だけ。確かにその通りだと思ってカグヤは紫煙を肺一杯に吸い込む。
 一本目の煙草を吸い終わった時、わらわらと人が入ってきた。部隊色は紅。第三部隊だ。


「よお、紫」

「今帰りか?」


 気安く声をかけてきた彼らに筑紫が煙草を灰皿に押し付けながら笑顔で返した。第三部隊は男性だけで構成された部隊で、珍しく筑紫に対して親しく接している。逆にカグヤのほうが敬遠されているようだ。筑紫は本来明るくて人を惹きつける力があるので彼らは見た目の差別を気にしないのだろう。隊長である速水英士がきょろきょろと何かを探すように周りを見回した。


「お姫さんは?」

「取り溜めた連ドラ見てる」

「なぁんだ、じゃあ用ねぇわ」

「速水、そんな言い方しない」


 筑紫が二本目に火を点けながら答えると、英士はつまらなそうに顔を歪めてさっさと背を向けてしまった。彼らの目的はサクか、と呆れてしまう。
 さっさと帰ろうとしている隊長に、黒人の男が厳しい口調で彼を非難した。その言葉にも英士は適当に手を振って、歩いて行ってしまう。彼の名前を奥周一と言う。出身は第五地区。旧名称アフリカだ。大戦終了の際に創氏改名させられ名を改めたが、彼と親しい人間はボブという彼の昔から名前で呼んでいる。筑紫もその一人だった。


「ボブ!時間あったら呑みいこーぜ。英士にも言っといて」

「OK」


 流暢な英語が彼の唇から紡がれて、カグヤは僅かに目を眇めた。それを誤魔化すように煙草の先を噛み潰す。英語は今では使われていない。僅かに残ってはいるが、それは俗語などの言葉でしかない。そしてその言葉を反倭派が好んで使う。今使われると、誰が敵で味方か分からなくなるようだった。


「なぁに難しい顔してんだよ、カグヤ」

「地顔だ馬鹿」


 余計な悪態をつけたのは、少しでもこの鬱々とした気分を打ち払いたいからだ。筑紫はツンと顔を逸らして煙草を吹かしている仲間に苦笑すると、自分もまだ長い煙草の白煙がファンに吸い込まれていくのを見た。





-next-

真白ちゃんは気が短いようです。