第三区から帰ってきて数日が過ぎた。今までもあれ以降も、他の部隊から若王子緋桜を狙っているという報告は入らない。軍部長室からの帰り道を歩きながら、カグヤは僅かに目を眇めた。相手が緋桜を狙っているのは明らかだが、秘密裏に物事を進めたいのだろうか。でなければ軍部に「若王子緋桜を渡せ」と言ってきてもいいだろう、テロリストとはそういう連中だ。
部屋に戻りながらふと、冷蔵庫にパイを作る生地は残っていただろうかと考える。たしか杏の缶詰はあったはずだが、ブルーベリーはあっただろうか。
「カグヤ?」
鍵のかかっていない部屋に戻りリビングを覗くと、ソファでクッションを抱えてテレビを見ていた緋桜が顔を上げてきょとんと首を傾げた。折角の休日に軍服姿だからだろうか、緋桜の視線からは隠すことなく不満感が溢れている。軍服と言ってもブレザーは着ていないしホルスターも下げていない。ネクタイをしているだけで。ワンピース姿の緋桜から視線を逸らして他のメンバーを探すけれど、筑紫の姿は見当たらなかった。
「サクだけか?筑紫と小川さんは?」
「筑紫は赤と呑みに行って、小川さんはバルコニーで毛繕いしてる。カグヤどこ行ってたの?」
「ちょっと軍部長室に、な」
「働き者だねぇ」
カグヤはネクタイを緩めながらキッチンに入っていくと、冷蔵庫の中を確認した。生クリームはあるけれどジャムも何も、強いて言えば夕食の材料もなかった。冷凍庫にもパイ生地は入っていない。ただ、杏の缶詰は思ったとおりあった。
どうしようかとその場で思案していると、後ろから緋桜が寄って来た気配がした。無視して買い物に行かなければならないけれど行きたくないと考えていると、ぴたりと背中にくっつかれた。当たる二十cmほども小さな彼女の頬が柔らかい。
「サク?」
「カグヤ、これから予定ある?」
「……。特にないかな」
甘えるように擦り寄ってくる緋桜の意図をすぐに理解して、カグヤはやや沈黙したけれどすぐに首を横に振った。どうでもいいけれどいい大人なんだから胸を押し付けてくるのはやめて欲しい。特に動揺するという訳でもないけれど、緋桜にとって良くないだろう。襲ってくれと言ってるようなものだ。
カグヤは小さく溜め息を吐くと緋桜の頭を軽く小突いて離れさせ、けれど不思議そうな可愛い顔に何も言えなくなってしまった。
「ま、いいか。サクは可愛いから」
「変なカグヤ。お買い物付き合って?」
「はいはい、お姫様の仰せのままに」
紫部隊の紅一点お姫様。カグヤも筑紫も、彼女の笑顔には敵わない。特に予定もないし出かけるのならばついでに材料も買えるし。リビングの机の上に筑紫宛に「サクと買い物行ってくる」とメモを残し、緋桜が「着替えてくるねぇ」と言ったのを聞きながらバルコニーまで行って毛繕い中の小川さんに留守番を頼んだ。もしかしたら、真白から何かしら連絡が来るかもしれない。一応窓の鍵を閉めてガスの元栓を閉めて、カグヤも自室に着替えに向かった。
国の主要施設がある特区には数々の施設がありまるでそこだけ別世界のようである。他地区では、特区を新世界と言う者もいる。未だ各地で戦争の爪痕が深く残っている中、特区だけは戦争などなかったかのように煌びやかなのだ、いっそ清清しいくらいに。他地区でプライベートで外に出るのなら特に筑紫は多少の変装が必要になってくるが、ここではそのようなことはない。何せみんなが大倭軍を受け入れ、敬意を示しているのだ。
ショッピング街を歩きながら、カグヤは場違いに感じて居心地悪そうに目を伏せた。
「やっぱりカグヤと買い物行くのが一番いいわ。見られて気分も良いし」
「……そうか?」
にこにこと小さなバッグ一つを持っている緋桜にカグヤは小さく呟いた。さっきからすれ違う女性たちにはちらちら見られるし緋桜の荷物は重いし、近づいてくる男が気になるしで落ち着かない。そもそも緋桜はどれほど買い物したら気が済むのか、流石のカグヤでも両腕が一杯になっている。
けれど緋桜は上機嫌でカグヤの腕に絡み付いてくる。いきなり腕を引っ張られ危うくバランスを崩して荷物を落す所だった。
「だぁってカグヤ、みんなカグヤのこと見てるんだよ?そんな良い男連れてる私も自慢げ」
「俺はお前が見られてることに冷や冷やだ」
「固いなぁ、カグヤは。筑紫ならノリノリで腰に腕回してくれるよ?」
筑紫と一緒にされてカグヤは少しむっとした。緋桜はふわふわのワンピースを腰のところで絞っている。長い足を強調するように膝丈よりも上のブーツのヒールは高く、カグヤには道行く男がみんな緋桜の足を見ているようにしか感じられず落ち着かない。大事なお姫様は自分のことに無頓着だ。それに対してカグヤは軍服のズボンから細身の黒いパンツに変えただけだ。ネクタイも取ったけれど、あまり変わりがない。
筑紫のことを怒ろうか緋桜の格好を注意しようかとも思ったけれど、そのまえにこちらに向かって歩いてくる男に見覚えがあって足を止めた。相手も気づいたようで、頭の上の帽子をとって頭皮が露出した頭を下げた。
「杭之瀬部隊長、お久しぶりです。お元気でしたかな?」
「おかげさまで、生きてます。大臣もお元気そうで何よりです」
正直言って、相手が誰か分からなかった。けれど大臣であった気がするので当たり障りのない事を言ってみた。こういうことはよくある。ここ特区には行政の長がその家族と共に住んでいるので、人口の半分が政治家などの権力者だ。彼はぴったりとカグヤの腕についている緋桜に気づくとカグヤに対して行ったよりも丁寧に頭を下げた。
「若王子の姫君もご健勝でありますこと、お慶び申し上げます」
「どーいたしまして」
プンと顔を逸らして呟くと、緋桜は黙ってカグヤの腕に頬を摺り寄せた。カグヤが「サク」と嗜めるが、緋桜が岩より頑固なのは誰よりも知っている。カグヤが代わりに謝ってその場で別れた。彼が行ってしまうまでカグヤと緋桜はずっとその場に立ち竦んでいた。
カグヤの腕が痺れてきた頃、ようやく緋桜はカグヤから離れて数歩歩き出す。柔らかい素材のスカートが風に舞い、カグヤは何となく緋桜が哀しく思っていることを感じた。
「カグヤと歩くとあんなのばっかりだねぇ」
「悪いな」
「いいよ。天下の隊長だしね」
言いながら帰り道を歩き出す。緋桜のブーツのヒールがコツコツとタイルを踏む音を聞きながら、カグヤは荷物を持ち直した。緋桜はあのような人間に会いたくないのだろう。家族を思い出して辛いのか家名の重さと無意味さが苦しいのか、どちらも持っていないカグヤには分からないけれど、緋桜の微笑みが憂いを含んでいるのだけは分かった。そして、それが癒せぬものだということも。
「サク、夕飯何食べたい?好きなもの作ってやるぞ」
「ホント?じゃあね、カルボナーラ」
「よし、じゃあ買い物からだな。材料がない」
自分に出来るのは緋桜の好きな料理を作って少しでも笑ってもらうこと。そのためには築地にだって行くことも厭わない。
材料がないと笑顔で告げると、緋桜はあからさまに嫌な顔をした。女の子の癖に買い物が嫌いなのだ。スーパーの混んでいる所が嫌いとか寒いのが嫌とかいろいろ文句をつけるけれど、本当の理由は時間がかかるところが嫌なのだろう。カグヤはスーパーに入ったら長い。
「でもさ、筑紫と歩くと凄いよ?変な男ばっかり寄ってくるの」
「筑紫自身がそういうのを呼んでるんだろ?」
「この間もね、体に爆弾くっつけた男が飛び出してきたの」
緋桜の言うこの間を思い出して、カグヤは記憶を巡った。確か三区に行く前の休みの時に緋桜と筑紫に買出しを頼んだことがあったのだが、その日に夕食を食べながらそんな話を聞いた。「俺と心中しようってキトクな男がいてさ俺ってモテモテ〜」などと筑紫が笑っていたので大事ではなかったと思っていたのだが、筑紫が軽すぎるだけか。
「『死ね紫!』って。爆発する前に筑紫が撃ち殺しちゃったんだけどね」
「そういうのは逐一報告する義務があるんだぞ。やっぱり今度からお前等には小川さんの見張りを付けるか」
一体どこで何をやっているのかわかりゃしない。溜め息と共に吐き出すと、緋桜は「やだぁ」と頬を膨らませた。
緋桜の重い荷物を持ってスーパーに入り、カグヤは買う予定のもののリストを頭の中に思い浮かべた。
食後、カグヤは洗濯物を畳みながらテレビを見ていた。この時間のバラエティーはあまり面白くないのでちょくちょくチャンネルを変えつつ、キッチンではパイを焼いている。緋桜は部屋で買ってきたものの整理をしているし、筑紫はまだ帰ってきていない。
「サクー!洗濯物畳んでるから持って行けよ!」
「……すっかり母親じゃな、覚哉」
「慣れって奴だよ、小川さん」
優しげな微笑を浮かべたカグヤの顔に小川さんは僅かに眉を寄せた。
カグヤは大戦で両親を失った。大戦が始まる前からカグヤの両親は政治活動のため家にはあまり寄り付かず、カグヤと四人の弟妹は祖父に育てられた。その祖父も大戦終了時のゲバで亡くなり現在カグヤは四人の弟妹を養っている。幼い頃からこのようなことはしてきたのだろう、彼の表情はひどく穏やかだ。
「緋桜も女なんじゃから少しはやらせぃ」
「いいんだ、お姫様は」
けたたましくアラームがなり、カグヤは慌てて立ち上がって風呂場に向かった。その後ろをゆったりとついていきながら小川さんは真っ白な尻尾で空を撫でた。お湯を止めて温度を確認しているカグヤは弟妹と暮らそうとは思わないのだろうか。家族と住んでいる軍人も多いと言うのにカグヤはそんな素振りを見せない。もちろんカグヤの家族のことを知っているのが小川さんだけだからだろう。彼は仲間に打ち明けることを酷くためらっている。
「覚哉」
「ん?サク、風呂沸いたぞ!」
「……家族はどうなっておる」
緋桜の部屋のほうに叫んだカグヤが煙草に火を点けながらリビングに戻る後についていきながら訪ねると、カグヤはただ笑った。その笑みは肯定とも否定ともつかづ曖昧に濁された答えに小川さんはもう一度後ろから「覚哉」と嗜める。すると漸くカグヤは億劫そうに振り返って小川さんを見下ろして、キッチンに入っていった。パイの焼き具合を見てから、水をやかんに入れて火にかけた。
「どうもしてないよ。定期的に送金してる。みんな順調に育ってるみたいだし」
「そんなことを聞いとるんじゃない。特区におるんじゃう?」
シンクにもたれかかって紫煙を吐き出し、カグヤは指に挟んだ煙草をそのままおろしてぼんやりと宙を見やった。何となく、カグヤの腕が酷く重そうに感じた。
廊下ではパタパタと緋桜の部屋から風呂場へ向かう足音がして、カグヤの視線が一瞬だけそちらに移動する。もう一度煙草を口元にやりヤニを深く体内に取り込んで、白煙と共に言葉を吐き出した。その言葉は一緒に空気に溶けてしまいそうだった。
「いるけど、そっとしておいて欲しいって。送ってる金も使ってないみたいなんだよね、相変わらず」
「……兄弟じゃろうが」
「うん。俺、汚いから」
そう言ってカグヤは灰をシンクの中に落とした。銜えなおしてオーブンの前にしゃがみ込み中を覗いて眉を顰める。
小川さんにはカグヤの言った意味がとりかねた。家族の為に日々送金して自分は必要なもの以外買わないで、平気な顔をしている。きっと今までもそうだったに違いない。それなのに全てをあきらめた顔をして笑っているのだから。否、だからこそ紫部隊の部隊長になれたのかもしれない。生きることすら諦めているような空気を、彼からは感じ取れた。
「覚哉」
「んー?」
「ワシの傍で煙草を吸うでない」
だから話を打ち切るために飛び出した小川さんの言葉に、カグヤは薄く笑って「じゃあこっちこなきゃいいじゃん」と言った。頭上でシュンシュンいっているやかんのお湯をポットに移し変えながら、カグヤはふと思いついたことがあった。
「これ、頭からかけたら酔いも醒めるだろうな」
「エースを使えなくするつもりか」
「冗談だよ」
「お前では冗談に聞こえん」
尻尾を振る小川さんに意外そうな顔で「筑紫のほうがやりそうじゃん」と言うけれど、小川さんは呆れた顔をしてリビングに行ってしまった。それを見送ってカグヤはまだ半分ほどの長さが残っている煙草をシンクの中に捨てた。じゅっと小さな音を立てて消えた火種を見て、じわじわと沁みこんでくる水分に吐き気を覚えた。
「……俺たちの共通点は、汚れてる所かもしれないな……」
消えそうな呟きを聞いているものはおらず、人知れず消えていった。
頭を冷やそうと冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶をとりだしてコップに注いで一気に呷った時、緋桜がバスルームから出る音と玄関のチャイムが鳴った。小川さんが「客じゃ」と言う声と緋桜の「カグヤー」という声は同時で、カグヤはパタパタと玄関に駆けていく。ここに来る知り合いなんていないはずだが。
玄関に行くと、すでに緋桜が湯上りのバスローブで立っていた。視線を上げると、完全に酔いつぶれた筑紫が奥に担がれて伸びている。彼の肩に赤部隊隊長の速水も乗っかっている所を見ると、呑み比べでもしたのだろう。
「サク、風邪引くから中入ってな」
「はーい」
「うちの馬鹿が迷惑を掛けたようで申し訳ない」
一度頭を下げて、カグヤは筑紫をその場に転がしてもらった。奥は「こちらこそ隊長につき合わせて」と申し訳無さそうにしていたがどう見ても悪いのは筑紫だ。自己管理も仕事のうちだと何度言えば気が済むのだろう。カグヤは一度筑紫の体を蹴って丁重に礼を言って玄関を閉めた。
「……気持ち悪い」
「待ってろ、今水持ってくるから」
「悪いなぁ、ハニー」
「今すぐ風呂にぶち込んで溺死させてやろうか」
「ここで待ってます」
筑紫の為に水を汲みに行くカグヤを見て、小川さんは「やっぱり母親じゃよ」と小さく呟いた。聞こえてしまったのかカグヤに不機嫌な顔で見下ろされ、小川さんは緋桜の部屋に姿を消した。
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料理自慢なお母さん万歳。