何だこの空気は。まず筑紫が思ったのはそれに尽きる。あの任務から帰ってきて午後は休みだったが、いつもなら三人楽しく食事をとったりしているのに今日は無言のまま昼食を取った。緋桜は何かを考え込んでいるようでずっと暗い表情でいるし、カグヤはあれから口をきかずに話を振っても生返事。そして気が付いたら部屋中が埃一つ落ちていないほど綺麗になっていた。


「だからって、これはねぇだろ」


 夕食も重い雰囲気だったので息が詰まった。その息のつまりも今は少し楽だ。昼過ぎからずっとゲームをしているが、今は操作しているキャラクタの動きが滑らかだ。なぜならカグヤが風呂に入っているから。リビングと化しているこの部屋に今は緋桜もいるが、彼女が落ち込んでいるのはそんなに苦にならない。
 テレビ画面を見つめて雑魚キャラを大量にしとめながら、向かいのソファでマニキュアを塗っている緋桜をちらりと見た。小川さんが不機嫌そうに尻尾を揺すっているのをついでに眼に入る。


「ねぇ、カグヤさぁ……」

「ん?」

「ちゃんとパイ作ってたかなぁ」


 なんか真剣な声だからなんだと思ったらそんなことか。思わず筑紫が肩から力を抜いた瞬間、手にしたコントローラーが振動した。攻撃を喰らったのかと軽く舌打ちして反撃。しながらカグヤの今日の行動を思い出して緋桜が部屋にいるときに何かを作っていた気配があったことは思い出す。でもオーブンを使っていた音も匂いもしなかった。


「なんかは作ってたみたいだけど、パイじゃなかったんじゃねぇの?」

「食べたかったのに。今日のカグヤおかしいよね」

「……お前は?」

「え?」


 緋桜がクスッと笑ったのをきいて少し安心した。緋桜は大丈夫そうだ。大丈夫じゃなかったら笑うことができない。どんなに気が強くても緋桜は世間知らずのお嬢様で嘘が上手くつけない。否、嘘は驚くほどに上手いのに、感情を隠すのが下手なのだ。特に気を許した人間に対しては。そんな緋桜に心配されるカグヤの方が今日はどうかしている。
 緋桜は少し驚いたように筑紫を見て、それからテレビの画面に視線を移した。画面はラスボス戦に突入している。敵との間合いを詰めながら、筑紫は何でもないことのように口を開いた。


「今日、何かあった?東宮サンお前のこと知ってたみたいだったけど」

「うーん……まあね」

「言いたくねぇ?」

「ていうか、筑紫に言われるのが変な感じ。小さい頃ね、お会いしたことがあるんだよ」


 若王子は戦前はとても大きな家だった。神は戦前は大層な家柄ではなく、逆に若王子の方が大きな家だったはずだ。祭り上げられたというのが本当に正しく、若王子家は没落した。それを思い出して沈んでいるだけだったようで、緋桜は何の苦もないように話してくれた。触れたくない過去がある。忘れたい思い出がある。けれどそれと忘れてしまいたい苦しい記憶は別物だ。今回が思い出だったことに少し安心した。


「立場的に変だよね」

「まぁな。確かにキツイ」

「じゃが、お前たち無礼にも程があるぞ」

「だーもう!小川さん黙っとけ!」


 小川さんは昼から説教しかしていない。非がなかったはずの筑紫まで少し顔を上げたくらいで文句を言われた。これ以上小言を並べられても億劫なのでラスボスに止めを刺すのと同時くらいに叫んだ。画面の中で敵が悲鳴を上げて霧散した。


「……よく飽きないでゲームでも殺せるよね」

「それはそれ、これはこれ」

「お前も少しは反省したのか!?」

「したしたゴメン、だからもうこの話は終わり!」


 これ以上小言を言わせてなるものかと筑紫は叫び声にも似た声ではっきりと言い、ゲームを切った。これで一周目クリアだから、もう少ししたら二周目をやろうと思う。
 ゲームを終えてそろそろカグヤも風呂から出てくるし自分も入ろうかと準備を開始したら、チャイムが鳴った。誰も来るはずないはずの部屋に来るのは誰だろうか。しかもこの時間に。時計を見ると十時を回った所で、こんな時間に赤部隊の友人たちもこないだろう。だったら誰だ。思わず緋桜と顔を見合わせると、彼女は出る気がないらしくマニキュアを塗る作業を再開させた。


「カグヤ……は風呂か。はいはいっと」


 珍しくカグヤが長風呂なので面倒だが玄関まで行く。あいつ何時間入ってるんだ一体と少し気になってしまうが、中で寝てても起こしてやる気はない。大の男がそんなに心配されても迷惑だろう。深く干渉しない、干渉させない。それが人生上手くいくコツだと思う。
 長年の生活から得たことに苦笑を浮かべながら玄関を何を疑うこともなく開けて、そして筑紫は絶句して固まった。


「筑紫ー?誰?」

「こんばんは、宮守君」


 筑紫にはたとえ目の前に立っているのが敵であっても応戦して即死させる自信もあった。だからってこれはない。これは予想とかもうそんなことじゃない。強いて言うなら遊園地なのに遊具が幼稚園にあるようなものしかないとかそんな類の……よく分からなくなってきた。
 部屋に招き入れるとかこの格好はどうなんだとか、いっそ混乱してきたことを自覚してきた。


「ねー筑紫ってば。誰……」

「お前たち、客人を放っておるな。覚哉がおらんと何もできんのか」

「そんなに驚くことだったみたいだね」


 玄関でにっこりと笑っている井出元真白は、さほど予想外とは思っていないような口ぶりで奥を覗き込んだ。カグヤを探しているのだろう、カグヤが風呂に入っているとどうにか回るようになった口で知らせると、少し不満そうな顔をした。
 とりあえず中に促すことにした。緊張するけど、もう今日はどうにでもなれ。重い雰囲気上等だ。


「ま、とりあえず中にどぞ」

「うん。お邪魔します……なんか、綺麗だね?」

「……カグヤがめっちゃ掃除したもんで」


 リビングで良いかと思ってとりあえずゲームを乱暴に片付けてソファに促した。緋桜はカグヤに報告に風呂場に行ったので今は筑紫と小川さんしかいない。めっちゃ緊張するのは普段触れ合う井出元真白と言う人間を恐れているからだろう。そんなことは筑紫には関係ない。畏れてはいるけれど、敵ではないのだ。今は、だが。
 慣れない手つきでお茶を出して、物珍しそうに部屋中を見回している真白を思わず観察した。部屋が綺麗なのはカグヤが一日かけて掃除したからだが、もしかして今日来ることを知っていたのだろうか。家庭訪問前の母親かあいつは。
 真白の格好はというと、いつもはしっかりした軍服姿なのに対して今はラフにも程がある格好だった。スキニータイプの細身のジーンズにストライプのTシャツ。その上に白いパーカを羽織っている。


「えっと……ご用件は?」

「あぁ、今はプライベートだから敬語じゃなくてもいいよ。宮守君」

「いやでもそういう訳には……」

「気にしない気にしない」


 にこにこした笑顔で言われても、頷けないです。思わず頷きかけて筑紫は思わず首を横に振った。それを見て真白はにこにこしている。いつもの怖い笑みじゃなくて、なんだかほっとするような笑顔だった。


「真白、急にどうした?」

「遅い覚哉」


 風呂上りでほかほかのカグヤが現れて、親しげに言葉を交わした。名前で呼んだことにびっくりしたのは筑紫だけではなく後から来た緋桜も目を大きく見開いていた。カグヤは「呼べば行くのに」と文句を漏らしながら長い髪をタオルで拭いながらキッチンに消えていく。その姿を目で追いながら、真白が子供のように唇を尖らせる。


「アプリコットのパイ、作ったんでしょ?食べに来てあげただけ」

「……悪いけど、作ってない」

「「えぇー!?」」


 真白と緋桜の声が綺麗に重なった。真白は更に「覚哉は家事に逃げると思ったのに!」と続けた。そこで得心がいく。だから今日はこんなに部屋中がピカピカなのか。家事に逃避したらこうなったのか。謎が解けてスッキリしたけれど、でも真白がやってくる理由ではない。そもそも何故彼が知っているのかが不思議だった。けれどカグヤはキッチンで茶を淹れなおしているようでものすごく聞きづらかった。


「覚哉。軍部長とはどういう関係じゃ」

「いとこだよ。小川源五郎左衛門」

「いとこぉ!?」


 思わぬ関係に間の抜けた声を漏らしてしまい、節度に煩い小川さんに睨まれた。カグヤも否定の言葉を口にしないので正解なのだろう。真白が言うには、お互いの父親が兄弟関係にあるらしい。これでカグヤが妙に真白と仲がいいことも軍部長室に入り浸っていることにも合点がいった。
 カグヤがお盆に紅茶のセットとタルトを持って戻ってきたので、やっぱり何か作ったようだった。それをテーブルに並べながら、ちらりと真白を見る。


「別にパイを食べに来ただけじゃないだろう?」

「まあね。覚哉がほら、今日珍しく怒ったから慰めてあげようと思って」

「いるか。レアチーズタルトでいいなら食ってけ」


 適当なサイズを選んだのかタルトを六等分にして、カグヤは三つの更に取り分けた。本人は食べないようだ。緋桜が一番にフォークを握って嬉しそうに笑ったが、真白は少し不満そうに食べている。紅茶を淹れているカグヤは苦笑いしてソファに腰掛けた。それから煙草を探すように手を彷徨わせ、見つからなかったのでテーブルの上の筑紫ので妥協したようだった。


「覚哉、怒ってくれてありがとう」

「……悪かった。勝手なことをした」

「別に困らないよ。おかげで面白いものが出てきたからね」

「面白いもの?」

「やめよう。パブリックな話になっちゃうし」


 軍部長室でみる真白の顔とは全く違い、ほわほわした雰囲気を醸し出している。それは表情かもしれないが、もしかしたら雰囲気かも知れない。威圧感のようなものはなく、ただどこにでもいるぼんやりとした一人の青年が、そこにいた。文句を言いながらも嬉しそうにタルトを食べている。


「ところで、みんな元気?」

「元気ですけど?」

「いや、君たちじゃなくてね。覚哉の家族」

「……まぁ、な」

「曖昧だね。やっぱりダメ?」

「しょうがないだろ。あいつも俺に似て頑固だから」

「似たのはじいさまにでしょうに」


 クスクス笑って、真白は皿を置いた。まだ半分残っているタルトに代わって紅茶に手を伸ばす。
 彼らが何の話をしているのか分からないけれど、筑紫にはこの話に首を突っ込んでいいかまだ分からない。それは緋桜も同じだなのだろう黙って黙々とタルトを食べている。時々紅茶に口を付けながら、幸せそうに口元をほころばせていた。女ってのは美味いもん与えとけば満足なのかね、と思わざるを得ない。


「俺が何を言ったところで聞きゃしない」

「……覚哉が一番辛いね」

「性分だろ」


 カグヤの唇が自嘲気味に引きあがる。掛ける言葉も持たず、筑紫はただ黙って煙草を吸いはじめた。本当は部屋に戻ってもいいけれどここに緋桜を一人残し行く訳にも行かないだろう。逃げたと思われるのも癪だし、カグヤの仲間だという意識はある。
 結局その話はそこで打ち切られ、あとはカグヤが真白とどうでもいい世間話をして十二時近くに真白が帰って行った。真白が来る前とは違う意味で変な雰囲気になってしまい、このタイミングを逃すまいと筑紫は部屋に戻った。眠る気になれずに意味もなく買ったまま読んでいない雑誌を眺めて時間を潰した。緋桜はすぐに寝たようだったが、カグヤが自室に戻ったのは二時を回った頃だった。





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筑紫が読んでる雑誌はエロ本です普通に。