初めは寒かったが、奥に進むに連れてだんだん暖かくなってきて筑紫はポケットに手を突っ込んだまま気楽に進んだ。煙草を一本吸っている間に氷の壁は地表がむき出しの普通の洞窟になってしまい、光を反射しないおかげで先ほどまでよりも薄暗い。それでも僅かに光が漏れているので辛うじて一メートル向こうくらいは見える。
腰ポーチから小さな懐中電灯を取り出して仄暗い灯りを頼りに進む。たまに横の壁に手で触れるとパサパサの土の感触がした。


「氷って、嘘くさ……」


 思わず呟くと自分の中で確信に変わった。氷壁から土に変わって百メートルも進んでいないのにこんなに水分がなくなるとは思えない。だったらあの氷は何なんだといわれても俺が知るかと躊躇い無く答えるつもりではいるが、憶測はある。多分人工物だ。作り方なんて知ったこっちゃないが、ここは極寒の北区だから作ろうと思えば作れるだろう。ためしに氷との境目まで戻ってみると、思ったとおり氷は薄い。向こう側が透けないようにか光を反射させるためにか知らないが銀色の塗装が施されている。


「手ぇ込んでんなぁ」


 のんきに煙草を銜えながら呟いて、ホルスターから取り出した銃を構えて慣れた仕草でセーフティを外し、一発撃った。少しだけ破片が飛んできて顔を切り裂いたけれど瑣末すぎて無視。銃をホルスターに仕舞いながら穴を検分するに、やはり薄い氷の膜が張っているだけですぐ奥から覗いた土は適度に乾燥していた。かといってこんなことが分かったところで何か利があるだろうかと考えてもあるようには思えない。何の目的でこんな他の地域からも遠いところに住処を構えたのだろう。こんなところよりも戦前自由の国と名高かった第三区でも、暑いが他地区よりも監視の目が届かない第五区でもいいだろうに。むしろ五区にはピラミッドとか隠れるところはたくさんある。あそこはかつての王の墓とかで国家も介入を渋り手をつけていないのだから格好の隠れ家になりそうだが。


「ま、進めば分かるか」


 考えてもテロリストの考えることは分からないとばかりに軽い口調で結論を出して、とりあえず前に進んだ。もちろん引き返すこともできるが、引き返して新しいものを見つける可能性はゼロに近い。だったら振り返らずに前に進む。それは筑紫のスタンスだから崩さない。今までも振り返らずにきたのだから、今更振り返ってなんかいられない。さっき薄い氷の破片によってつけられたかさぶたを掻いて剥がしながら奥へ向かってみると、それが少しずつ下がっていることに気づいた。坂道だと気づいたのは今だが、その前から緩やかにでも下っていたとしたら相当深くまで降りてきている。暖かかった気温も再び冷たくなり始め、ぴりっと変わった空気に無意識のうちに体が臨戦態勢に入っていた。


「階段?」


 一層深い闇が目の前にあると思いながら歩いていたが、近づいてみると更に奥に降りる階段だった。地面を削ってにできているそれは補強こそされていないがもともと頑丈そうだ。それも下に向かうほど幅も狭くなっている。直感的にこの先に何かがあると思った。思って躊躇いなく階段を降りる。左手はいつでも銃を抜けるようにホルスターに入った銃のグリップを握ったまま、右手で壁を確認しながら一歩づつ降りる。下が土だからか音こそ響かないが、足のめり込む感覚がなんとも不快だ。


「これでスイッチでもあったら笑えるし」


 思わず口をついた言葉に自分で笑い、そのまま階段の一番下に降り立った。先は広いドーム型の空間のようだが、真っ暗で何も見えない。ただ時折キラリと何かが反射して光るからもしかしたらスケートリンクみたいになっているかもしれない。警戒を怠らず、そのまま闇の中に一歩足を踏み入れて。

 カチッ。

 変な感触。冗談みたいな軽い音が指先からしたと思ったら、鉄扉でも閉めるような重い音が背後から聞こえ更に足裏に振動を伝えた。


「マジか」


 指が何かに引っかかった感じがしたらこれか。どれだけお約束なんだ俺。  多分自分以外がやったら酷く責めただろうが、ここにいるのは筑紫一人で他に当たる人間もいなければ責任を擦りつける奴もいない。すべて自己責任。浮かんできたのは引きつった笑みだった。


「バッカじゃねーの、俺」


 もともと人が一人分しか通れないスペースしかなかった道だ。扉が閉まるのにさして時間もかからず、呟くと同時にあたりは完全に闇に包まれた。
 手元の懐中電灯の明かりだけを頼りに扉を調べてみると、それも土でできているようだ。けれど土がそんな自動ドアみたいに動いたらたまらないので何か仕掛けがあるんじゃないかと懐中電灯を口に銜えてポーチからジャックナイフをひっぱり出し、躊躇いなく土くれのふりをしているそれに突き立てる。予想通り金属特有の甲高い接触音がして手に反動で衝撃がきた。刃こぼれを心配しながら軽く削って表面を剥ぎだすと、セラミックに更に加工を加えて作られた“セルリート”という素材だった。戦後すぐに作られ、今や特区の建物のほとんどがこれでできているほどに性能には定評がある。


「できたのは最近か」


 ナイフの刃がこぼれていないことを確認してからポーチに戻し、今度は奥に広がっているだろう空間を確認するために辺りを見廻した。真っ暗だが、二キロくらい向こうに僅かに光が差し込んでくる場所がある。そこから漏れる光で地面がたまに反射しているようだ。ここが相当広いのか弱い懐中電灯では向こうの壁が見えなかったので、ここを調べるのをやめてあの光の向こうに行くことにする。随分地下に下がったのに光が漏れているということは、この向こうに道が続いているか少なくとも外に通じているだろう。少なくともここはゴールではない。
 一歩足を出したらピチャンと僅かな水音が鼓膜を打った。


「水? いや、湖か」


 踏み出した左足が軍靴越しに鈍く動き、右よりも明らかに冷気を感じて思わず足を戻し懐中電灯を向けた。淡い光を反射して、澄んだ水が下の何かの結晶を反射している。調べるために腰から折って指を伸ばすと、すぐに下についた。つるつるとした感触と背筋まで凍らせるような冷たさは氷だ。氷の上に水が溜まっている。


「勘弁してくれ……」


 思わず弱音を吐き出してしゃがみ込みたくなったが濡れてしまうのでどうにか留まって、膝に手をついて溜息を吐き出した。寒いのと暑いのは苦手だって言ってるのに、こんな特殊な場所に放り込まれるとか神も仏もあったもんじゃない。溜息を誤魔化すために煙草に火を点ける。肺の奥から空気を吐き出して、湖を横切るために恐る恐る足を水につけた。
 キラキラと光る水面に波紋を起こしながらゆっくりと進む。どうやら深さはそんなにないようで、半分と思しき所まで行ってもまだくるぶし辺りまでしか水に浸かっていない。レザーブーツのおかげで水もそんなに染みてこないのでいい気になって大股で湖を横切る。底が氷でできているおかげで濁ることはないし魚もいない。


「別に期待してるわけじゃねぇけどさ……ぉうわっ!」


 煙草を銜えたまま口を尖らせてつい気を緩めた瞬間に足がツルっと滑った。思わず間抜けな声を出して反射的に両手を突き出し無様に倒れる前に体を支えたがこの体勢もみっともない。ブリッジの要領で湖の底に手をついたので袖は濡れるし手は痛いくらい冷たいし腰は痛いしやってられない。


「マジかよ」


 溜息混じりに呟いた拍子に口の端から煙草が落ちて、ジッとかすかな音を立てて火が消えた。懐中電灯も水の中だ。起き上がるために足に力を入れた拍子にまた滑り、今度は慰めようもないくらい惨めに水中に寝転がった。ついでに頭も打った。踏んだり蹴ったりとはこのことだとばかりにまた深く溜息を吐いて、立ち上がる。ぐっしょりと濡れたので気持ち悪い。
 つーか、こんなこと考えたの二回目じゃね?どんだけ馬鹿なんだ俺と自嘲にも似た笑みを浮かべ、沈黙覚悟で懐中電灯を拾ってホルスターの中の銃を確認。銃はどうにか使えそうだが懐中電灯はお陀仏。残り半分視覚を頼らずに歩いて渡りきろうと決心した、刹那。


「悪魔の子!」

「あ?」


 洞窟の空間いっぱいに子供の悲鳴のような声が広がった。音が乱反射して聞き取りづらいけれど辛うじて聞き取れた言葉に思わず視線を上に向けて、訝しげに眉根を寄せる。
 周りに確かな気配はないが、いつの間にかこの閉鎖された空間に殺気が充満している。射るような殺気ではないので不快だが身の危険はあまり感じないが体がどこからか危険を察知して煩いくらい警鐘を鳴らしている。聴覚がぶっ壊れでもしたように心臓の鼓動が脳に直接響いて、煩い。
 ホルスターに手を添えて辺りを一周見廻すが人の姿は愚か動物も亡霊も見えない。ふと鼻腔がメロンが腐ったような匂いを捉えてひくりと鳴った。


「呪われた子!」


 背後に生まれた殺気に左手が反射的に銃を抜いて振り向きざまに間髪いれず二発撃った。その間に右手もホルスターから銃を抜きさり人差し指に引き金を引っ掛けて半回転させ、背後を見ずに三発ぶっ放す。


「残念、当たらないよ」


 耳元を擽るような囁きに舌を打ち鳴らして気配の方に銃口を向ける。左側だと思ったのに人影はなく、銃口を周囲に廻らせて上下を狙ったが何もない。なんなんだよ、と 悪態を吐いたとたんに足裏に気味の悪い感覚を覚えてその場を飛びのいたが、背後に三歩ほど下がったところでなんのメリットもなく不快感は消え去らなかった。


「どこを見てるの? ちゃんと見て」


 背後に寒気を感じ反射的に振り向こうと思ったけれど、両頬を何か強い力で抑えられて動かすことができなかった。ぬめっとした手に押さえられているような感触に身の毛がよだつ。奥歯を噛み締めて視線だけを背後に向けるが何も見えない。


「だからオカルト系はダメなんだって」


 金縛りにあったというよりも力で無理矢理押さえつけられるような感じに力で抗って、唯一自由に動く指先で器用に銃をひっくり返して引き金を引いたけれど手ごたえはない。


「ほら筑紫、ちゃんと見てよ。忘れてたわけじゃないだろう」


 耳裏を舐められてゾクリと鳥肌が立った。首を下に向けられて動かなくなり、せめてもの抵抗に水面を介して背後を見ると自身の顔の後ろに見覚えのある少年の顔が映った。同時にあの刹那の記憶も蘇ってくる。けれどどうして彼が今更出てくるのだ。死んだ、はずなのに。


「お前……!?」

「筑紫、ほら見てごらん。僕らこのとき以来だよ」


 背後に映った顔に顔色はなく、青白く反射されていた。やはり死んだのだ。彼は昔はもっと頬に赤みが差していた。しかしそれは記憶は間違っていないが過去の罪を肯定する。友達を殺したのだという、罪は生々しく残る。
 ピキピキピキピキと遠くから変な音が聞こえるがそれを確認するために顔を上げることもそこから飛び退いて避けることもできないが、辛うじて眼球は動くのでそれで確認する。もしかしたら背後にいるのは幽霊で、本当に金縛りにあっているのかもしれないと、普段真っ向から完全否定しているくせにそう思ってしまうのはその影に妙にリアリティがあるからだろう。
 どんな原理か知らないが湖の端から表面が白んで凍りつき始めた。徐々に中心に近づいてくるそれに必死に体を捻るけれど背後の締めつけから解放されることはない。


「クッソ、離せよ!」


 湖面が凍り近づいていくるが、どうしてか水中は冷たくなることはなく指先が冷たくなりすぎて痛くなることもなかった。あっという間に足元まで凍りつき固定される。無理を承知でばたつかせるが凍ったのが表面だけのくせに酷く硬く、足首から下が動くことはなかった。一体どうなってるんだと悪態が口を吐くが背後のそれは何も言わずに笑っている。首筋にかかる生ぬるい息が変にリアルで気持ち悪い。
 本来氷は表面がでこぼこしているはずなのに足を固めるそれは僅かに筑紫の顔を歪めただけで鏡のように周りの景色を反射している。


「もう二十年くらい前になるのかな」


 背後から聞こえた空気の震える音は氷の中に消えるように滲んだ。その声に誘発されるように氷に映った自身の顔がぐにゃりと歪んで、背後にいた少年に変わる。その八歳程度の少年が何の邪気もない笑みをにこっと浮かべたと思ったら、周りに映っていた洞窟の天井が真っ青な空にまるで写真に写したように鮮明に変わった。
 あの日も皮肉なくらい晴れていた。足元は荒れ果てて裸の地面、草一本生えていない。いつもの遊び場だった。紫の髪と得意な体質を持って生まれた筑紫に友と呼べる存在は作れなかった。筑紫自身が明るく活発でも、その親が敬遠し子供は親には逆らえない。その中で、唯一できた友達だったのに。


「どうして、どうしてこの子なの!?」


 これは自分が見ていた光景だ。自分が見た決定的な瞬間と、メタメタに傷つけられた瞬間の音声。
 その日、筑紫は友人と遊んでいた。切り立った崖ではあるが、古ぼけた柵があるし大人には内緒の秘密の隠れ家だった。筑紫と遊んでいることがばれると周りがうるさいからと言う子供の浅はかな策だった。そしてその日は、いつもと違い友達と一緒に崖から落ちた。友達は死んだ。筑紫は、死ななかった。


「返して!息子を返してよ!」

「やめないか、子供の前で!」

「悪魔の子よ!この子があの子を殺したの、何で呪われた子が生きてるのよッ!」


 それは、筑紫が初めて人を殺した記憶。筑紫自身が手を下した訳ではないが、結果的に自分が殺したようなものだと思っている。もしかしたら洗脳かもしれないが、そう思っている。友達は死んで、自分は死ねなかったのだから。呪われた子と罵られ、数日後に母は自殺した。


「息子を返して!禁忌の子ぉ!」


 その声の反響が数秒続き、声と映像は一緒にじんわりと滲んで消えた。けれど氷は割れないし足は自由にならない。氷で固まった足以外は動くようになったので体を回して確認しながら素早く周りに視線を飛ばす。誰もいない。


「……なんか、へこむし」


 過去なんて振り返りたいものじゃないのにこんなものを見せられるとは。しかも映像は落ちた崖、友人の潰れて飛び散った醜い死体。なのに音声は葬儀の際の罵り言葉。気分が悪くて吐きそうだ。
 映像を見ているうちに力が抜けたのか落としてしまった銃を拾い上げて軽く確認し、セーフティを外した状態でホルスターに戻した。真実の欠片をいくつか拾って、先を見る。けれど足が動かない。


「それで“真澄の鏡”ってか」


 真実を映すとはよく言ったものだ。これほど人工的に見たくもない過去を映し出すとは粋な計らいすぎて腸が煮えくり返る。どうせこれは何か仕掛けがあるのだろう、湖事態が大きな鏡とは気づかなかった。とりあえずストレス発散ついでにこの氷を粉砕しようとホルスターから改めて銃を抜き出した。


「思い出したかい、呪われた子」

「別に忘れたことはねぇよ」

「たった一人生き残った気分は如何かな。さぞ気持ちいいのだろうね」

「好きで残ったわけじゃねぇよ」


 さっきの声がまだ耳鳴りみたいに響く。そう答えたところで、死にたいのかと問われたところでところで自分の考えは変わらない。生きていたい。どれほどに生きても、きっと渇望するのだろう。限りない、生を。


「これは効くかな、呪われた子!」


 試すような声に呼応するように足元の氷が爆ぜた。下から襲いかかってきた細かい氷の粒子に反射的に腕を顔の前でクロスさせたが、腕を動かす前に喰らってしこたま顔面に衝撃。耐えてしばらくそのままで待っていると、氷の粒は止んだ。腕を外さずに足だけで氷が消えたのを確認し、顔をぞんざいに拭って上を向いた。相変わらず誰もいない。顔全体についた無数の切り傷から滲んでいるはずの血は拭うと袖についただけでもう止まっている。


「首洗って待ってろよ、テロリスト」


 数回その場で跳ねて体のどこにも違和感がないことを確認して、小走りで湖を渡りきった。これ以上こんなところで胸糞悪い思いをするのは真っ平だ。
 僅かに光が漏れているそこは入り口だったところ同様の扉になっているようで、重くて開けられそうにない。ほんの数秒考えるように扉を蹴りつけて停止し、ポケットから煙草を漁り出す。映像を見ている間に服はある程度乾いたが、ケースはぐっしょり濡れていた。舌打ちと一緒に握りつぶして背後に投げ、深く吸った息と一緒に吐き気がする過去を吐き出して、今度はポーチから手榴弾を取り出した。


「俺、天才」


 一人で言って笑って、数歩下がる。湖の縁に僅かに踵が沈みじわりとブーツの中に水が滲んだ。ピンを引っこ抜いたそれを扉ではなくその斜め上に軽く放つと、緩慢とした動作のおかげか壁に当たった瞬間にそれが爆ぜた。密閉された空間で使うと威力が二剰とはよく言ったもので、強すぎる威力に思わず吹っ飛ばされる。砕けた岩と一緒に数メートル後方に吹っ飛ばされ、湖の中に尻餅をつく形で転がり込んだ。全身がまたずぶ濡れになってしまったが、今度は体を濡らすのが水なのか衝撃で受けた自身の血なのか分からない。


「痛てえっつの」


 口の中でぶつくさ文句を言うが、目的は達成できたようだ。入り込んでくる光の量が増え、先を見ると扉を支えているはずの壁が決壊している。怪我のしがいもあるもんだとばかりに口笛を吹き鳴らし、ポケットに手を突っ込むと意気揚々とこの陰湿な洞窟を出た。外は階段になって上に繋がっている。
 アバラが数本折れたようだが、気にしない。





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まさかの筑紫だけ