氷の通路はすぐに消え、代わりに壁が石造りになって続く。寒さもだいぶ和らいでいるが指先はどんなに擦っても暖かくならなかった。
「大体、覚哉も覚哉じゃ」
歩きながら何度目になるか数えるのも馬鹿らしくなるくらい同じ言葉を小川さんのしわがれ声で聞かされて、それと同じ数だけ溜息を吐き出す。どうやら昨日のカグヤの態度も話も気に入らないようで、分かれてからずっと文句を言っている。適当に相槌を打ちながら、緋桜は冷えた指を擦り合わせながら正面を見た。随分遠くがぽっかりと黒く開いていて行き止まりなのかどこかに続いているのか分からないが何かがある。
「緋桜もそう思うじゃろ?」
「わかんない」
「そもそも緋桜は女なんじゃから少しは覚哉の手伝いをせい」
「……ゴメンナサイ」
怒りの矛先がこちらを向いてきたので、とりあえず謝った。これ以上文句を言われるのはごめんだ。けれど謝り方が気に食わなかったのか小川さんはまだぶつぶつ文句を言っている。それを聞こえないふりして足早に先に進んだ。
何となくここは嫌。何が嫌と言うのははっきりしないけれどこの先に何かが待っているような気がする。踵を返したくなるのをどうにか堪えると、逆に早く不安を取り除こうとするのか足が速くなった。
「緋桜よ、聞いておるのか」
「はいはい、聞いてますぅ」
「はいは一度じゃと覚哉に言われるじゃろうが」
「言われないよ」
小川さんがカグヤをどういう認識で見ているのか少し分からない。時にはカグヤに向かって怒る時もあるのに、今は明らかに教育係と言うか世話係と言うか、母親ポジションと言うか。しかも筑紫がいないときに怒られるものだから対称が反れない。
話を切って、小川さんの物言いたげな視線を交わしつつ何か別の話題でも提供して誤魔化そうかと思ったが、その必要はなかった。いつの間にか石畳は終わって、目の前にはぽっかりと空いた神殿のような空間があった。
「何、ここ……」
一歩中に入ると、薄暗かった空間内の燭台にぽぽぽと明かりが灯る。しかし人の姿はない。戦前からあるように古ぼけた雰囲気だが当時の荘厳さは残っているようで何でもないのに緊張した。目の前に数段高くなっているのは祭壇だろうか、緋桜にも見覚えのない女性の像が壁に埋め込まれてあり、その前には何かを奉るためにかベッドのような大きさの台がある。更にその前には供物でも置くのか小ぶりのテーブルがあり、その上に乗っている何かが明かりを反射して赤く輝いていた。
もう一歩踏み込んで辺りを見廻すけれど人影がないので、少し安心する。
「緋桜、用心せい」
「……鏡?」
祭壇に続く階段の前まで来てようやく反射しているそれの正体に気づいた。青銅で縁取られた古めかしい鏡だ。大昔、儀式用に用いられたと何かで読んだ。
少し曇っているそれに視線をやると、そこには緋桜ではない何かが映っていた。小さな点のようなものがうじゃうじゃと集まっては散り、また集まる。惹かれるように階段を上がり鏡を覗き込むと、それは人だった。
「なに、これ」
鏡の中の映像が徐々にズームしてきて、次第に顔が鮮明に見えるようになる。初めは点のように見えていたそれは段々と表情が見えるほどまで近づき、近づくにつれ緋桜の体からは力が抜けそうになる。鏡の向こう側の人たちは皆一様に体中から血を流していた。青白い顔の穴と言う穴から血を垂れ流し、目は焦点を失って宙に投げ出されている。
ギギギとでも音がするんじゃないかと思うほどぎこちない動きで男の首がこちらを向いた。緋桜を見てニィと笑うから思わず短い悲鳴を上げて尻餅をついた。
「人殺し!」
鏡の中から声が聞こえた気がした。まるで阿鼻叫喚、地獄絵図のような世界が鏡の中に広がっている。この光景を見たことはないが、緋桜が悪いのだと言われているようだ。人を殺したことはないが、人殺しと言う言葉は緋桜の中に上手く染み込む。
「人殺し! 人非人!」
鏡の中から聞こえている声はどこから聞こえてきたのだろうか。壁に反射してひどく聞き取りづらい。鏡に一番大きく映る血まみれの男の口がパクパクと動くたびに一拍遅れてそれが音になっているので、きっとその男の声帯から発せられているのだろう。脳を直接揺さぶるようで気分が悪くなる。
「お前のせいでみんな死んだ!」
「私じゃ、ない……」
鏡から目を逸らして足元に転がっている小石を見ているはずなのに、視界に映るのはあの男の恨みがましい瞳。体中から血を流し苦しみに歪んだ顔が彼の周りにたくさんあった。実際に見たことはない、生まれるずっと前に終わった光景のはずだが、自分がその場で立っていたような気がしてきた。
何度も繰り返される憎悪の言葉は自分で否定しようと思ってもいつの間にか真実にすり替わりそうだ。
「緋桜? どうした、大丈夫か?」
「私じゃないもん!」
叫んで、立ち上がった。小川さんの咎める声も聞かずにホルスターから銃を取り出し、慣れぬ手つきでセーフティを外す。まだ映像を流しているそれに狙いを点けて、引き金を引く震える指に力をこめた。
「緋桜やめんか!」
「やめない!」
癇癪を起こした子供のようにそう叫んで引き金を絞ったが、震える銃口が捉えたのは遥か離れたあの女性の像の隣だった。反動でまた尻餅をつき、今度は銃を取り落とす。鏡から一メートルも離れていないのに当てることができないなんて。
緋桜は普段、銃を使わない。銃は真っ直ぐに自分が殺したと分かるから極力使わずに守られている。きっとそれをカグヤも筑紫も知っている。
「誰かと思えば若王子のお嬢さんか」
「何奴!」
「ほう、色持ち……しかも最高位の紫部隊か」
背後から悲鳴の間を縫ってコツコツと硬質な足音が聞こえ一瞬カグヤか筑紫かと思ったが、かけられた声で違うと判断し緋桜が振り向く前に小川さんが吠えた。意外そうな知らない声を聞きながら振り返ると、声どおりに知らない男がゆったりとこちらに歩いて来ている。顔の半分が包帯で覆われている男は鏡と緋桜を見比べ、こちらの背筋が冷たくなるほどの微笑を薄く唇に乗せた。
「何を見たのか、教えてくれるかな」
「誰よあんた」
「君が殺し損ねた人間だよ、以後よろしく」
男は笑顔のまま慇懃に頭を下げるが、緋桜はそれを見てはいなかった。悔しそうに奥歯を噛み締め、必死に泣き出すまいと手をきつく握る。悲鳴が事実を肯定する耳鳴りみたいに煩い。
緋桜には人を殺した経験なんて数えるほどしかない。いつもいつも守られてばかりだったから、カグヤや筑紫のように引き金を引くことに躊躇いがないわけがない。先程だってそれを証明するかのように見事に外していた。けれど男の言葉を緋桜は否定しない。
「何者じゃお主は!」
「獣には関係ないことだよ。ぼくはそこの殺人兵器に用があるんだ。まぁ、君が来るなんて予想外だったけどね。嬉しい誤算だ」
「緋桜!」
「おっと、邪魔しないでよね」
「何じゃ貴様!」
緋桜に近づく男を牽制するために小川さんが咆哮する先に少年が立った。ぴこんと獣耳を立て、それが忙しなく動いている。彼は予告なく小川さんに向かって駆け出して距離を詰め、鋭い爪のついた腕を振り下ろした。それを避けるために再びひらりと飛び退る。その短い間に包帯男が緋桜の真横に来て彼女の首に手を伸ばした。
「お前のせいで、こんなことになったんだよ!」
「グッ……」
心の底から憎悪をこめた言葉と一緒にひんやりした大きな手に喉を掴まれ、無理矢理立たされた。呼吸が詰まり酸素を取り込もうと喘ぎながら男を見ると、彼の瞳に映った自分が全てを諦めている顔をしていた。死にたくないと思っているのに、反射した顔は殺されてもしょうがないと納得して諦めている。カグヤにも筑紫にも助けに来て欲しいとは思わない。きっと自業自得だから助けてくれなくて構わないとすら思う。
だって、私は殺人兵器なんだから。
「緋桜!」
小川さんの声はするけれど姿を見つけることはできない。緋桜の目に映っているのは、反射した自分の泣き顔。
――ガンッ
突然渇いた発砲音がいつまでも響き渡る悲鳴をかき消したかと思ったら、男の顔が歪んだ。当然瞳の中の緋桜もぐにゃりと歪んで不意に視界が石造りのドーム状の天井を映す。
「なぁにやってんだよ、ウチの色気担当に向かって」
「き、貴様どこから!?」
重力に従って体を地面に打ちつけて、思わず小さく呻き体を起こす。男が向ける視線の方を見ると、筑紫が銃を構えて祭壇の裏から出てきた。軍服のあちこちが破れていてそこに血のようなどす黒い染みがついているけれど全く気にしていないようで緋桜に向かって笑いかける。
「生きてっか、サクちゃん?」
「筑紫……」
なんでここにいるのという敵と同じ言葉は、喉に引っかかって音にならなかった。辛うじて彼の名前だけが出た。視界の端に獣耳の少年が筑紫を狙って駆けていったのを捕らえる。彼の爪は本物の獣のように鋭く伸びていた。
「邪魔するな!」
「ぅおっと」
薙がれた鋭い爪を軽く避け、筑紫はステップを踏みながらちらちらとこちらの様子を窺ってくる。それに気づいていながら緋桜は動けずにいた。今どこに動いても目の前の包帯男に捕まる。そんな確信があった。
「いつまで遊んでおるつもりじゃ!」
小川さんが叫だが、筑紫は舌を打ち鳴らしただけで返事をしなかった。けれどその声は相手の注意を引いた。筑紫が一瞬生まれた隙に飛び込んで相手の鳩尾に強烈な蹴りを放つ。吹っ飛んだ相手を見やって完全に伸びたのを確認するとゆっくりと視線を緋桜に向け、薄く笑う。
「筑紫、後ろ!」
気恥ずかしくて逸らした視線が捕らえたのは小石を伴って落下してくる女性の像で、思わず悲鳴を上げた。さほど大きくないそれが寸分違わず筑紫の上に降ってくる。
筑紫が悲鳴を上げたのか分からない。上げたとしてもその声は轟音に掻き消された。鼓膜を揺さぶられて目眩を起こし、爆発にも似た塵芥が押し寄せてくる。聴覚が戻っても、もうもうと砂埃が上がり視界は遮られたまま。
「筑紫!」
泣き声にも聞こえる声で呼んだけれど、返事は返ってこなかった。新手の敵があれを落としたのだろうか。だが至近距離にいる男も呆然とした顔で砂埃が収まるのを待ってるのでそうとは思えない。だったら誰が。ぽっかり開いた穴を凝視しているとそこから人影が覗いた。まだ黒い影のそれは、場違いなほどのんきな声を上げた。
「あ、開いた」
「うわービックリした死ぬかと思ったマジで!」
それに被さるようにして筑紫の大声が響き渡る。辛うじて避けたようだが砂埃が収まって現れた姿は血みどろで酷いものだった。だらだら流れて視界を塞ぐ血を袖で乱暴に拭いながら上を仰ぎ、そこにいた人物に声を張る。けれど決して本気で怒っているような声ではない。
「テメっ、カグヤ! 殺す気か!」
「筑紫か? 悪い、気づかなかった」
ひらりと飛び降りてきたカグヤも傷だらけで、着地の衝撃に僅かに顔を歪めた。けれどそれも一瞬で何事もなかったかのように辺りを見廻すとホルスターから銃を抜き出す。けれど向けられる銃口を意にも介さず男は筑紫に向かって腕を広げた。
「我が同胞の禁忌の者よ。こちらへ来たまえ」
「何のことだよ」
唸った刹那、筑紫の視界の端に獣少年が横切ってしゃがみこんでいる緋桜の元に駆け寄るのが映る。しかし辿り着く前にカグヤの抜き放った銃が足を打ち抜いてその場に転がした。
緋桜の無事を確認しながらも筑紫の意識は包帯男に集中する。するりと解かれた包帯の下から現れたのは青く輝く鱗。緋桜の元に駆け出すカグヤがぎょっと目を剥くが筑紫は至極冷静だった。銃口をその男に向ける。
「やっぱり特別変異か」
「我々は運が良い。貴様はこちらと同類、そしてこの女はあの殺戮兵器だ。ぼくたちをこんなにした、あの兵器だ!」
憎々しく男が吐き出し、銃口を緋桜に向ける。その瞬間に筑紫は駆け出していた。彼の指に力が篭っても止まらない。緋桜が大戦時に使われた生物兵器のわけがない。若王子は大戦には関わっていないはずだ。しかしもし、関わってたとしたら。ウィルスを生成するプログラムを遺伝子に打ち込まれる生物兵器だとは聞いていたが、もしも緋桜がそれだったら筑紫の体質の原因でもある。だからもしかしたら本当に緋桜は生物兵器で直接の加害者だったかもしれない。戦争時には大量の人を殺し、それ以降も影響を与え続けるウィルスを体内に飼っているなんてそれだけで罪だ。そしてそのウィルスは大戦の前から軍は開発をしていたらしい。筑紫の体質もそこに所以する。
けれど筑紫は躊躇いなく先に緋桜を庇ったカグヤも突き飛ばして銃口の前に躍り出た。体に衝撃が数度襲い、そのたびに不快感が体の中を突き抜ける。内蔵に傷でもついたのか、血が競りあがってきた。
「筑紫!」
「……関係ねぇよ」
口内に溜まった血を軽く咳き込みながら吐き出して、不機嫌に唸る。貫かれたのは三箇所だろうか、燃えるように熱い。根こそぎ体力を持っていかれるようで足元がふらつき、支えを探して手を出すと隣からカグヤが肩を貸してくれた。彼は何かを言おうとしていたが、筑紫の目を見て開きかけた口を閉じる。
「な、何故だ! なぜ特別変異のお前が!」
「関係ねぇっつってんだよ。俺ら、仲間だし」
確かに特別変異は忌み嫌われる。それでどれだけ幼い頃に辛い思いをしてきたか分からない。昔は誰かのせいにしたこともあったけれど、今は緋桜は自分の大切な仲間。数少ない、大切なものだ。
「サクが俺に自分の意志で直接なんかしたか? してねぇだろが。こいつが俺のこと嫌いならそれでいいけどよ、俺が勝手に恨んでキレる何てお門違いって門だろ」
焼けるように熱い傷口に顔を歪め、それでも平気なふりをして銃を抜き放った。引き金に力の入らない指をかけるが、まだ回復に時間がかかるようで絞れない。威嚇で持ち上げているだけで精一杯だ。ふわりと、甘い香りがした。引き金にそえられた指に冷たい何かが被さり視線を落とすと細い指が被さっている。
「私が手伝ってあげるんだから、感謝しなさいよ」
ぎこちない笑みを浮かべた緋桜に軽く目を瞠るが、殺気を感じてすぐさま鱗の男に視線を戻した。緋桜の指にぐっと力が篭り、それが引き金を引く前に気力を振り絞って撃鉄を自力で落す。何となく緋桜に直接人を殺して欲しくなかった。パンと思ったよりも軽い音がして、男の体が吹っ飛んだ。狙った左目は陥没し、どす黒い血がぶくぶくと溢れてくる。
「……死んだ?」
「それより筑紫! なんて無茶するんだ!?」
緊張の糸が切れてその場にへたり込んだ筑紫はポケットを漁って煙草を探した。けれどさっきなくなったからケースも棄ててきたのだと思い出す。ヤニ切れで回復力も遅くなっているに違いないと思うが、ニコチンにそんな効果はない。血を大量に吸ってボロボロの軍服を無理矢理脱がしたカグヤがポカンとしている。
「傷は?」
「ぼちぼち」
「ぼちぼちってお前……」
「俺、死なねぇから」
筑紫の体の細かい傷は一つもなく、風穴はふさがり既に三箇所にかさぶたみたいな血の塊がこびりついていた。緋桜が絶妙に微妙な顔をしていたが、筑紫は気にせずに笑って立ち上がった。血が足りないのか少しふらつく。
「肩、貸してあげるわよ」
「さんきゅ」
貸してくれるというので遠慮なく体重をかけると重いと悲鳴を上げられた。貧血もすぐに回復するので冗談半分に肩を組んで出口に向かう。なんとなく緋桜を真ん中に挟むと小川さんが文句あり気に足元をグルグルと回るが、軽く無視して隣で煙草を吸い始めたカグヤに向かって手を出した。
「一本」
「ん」
いつもと違う銘柄の煙草を一本受け取って、ポケットの中のライターで火を点ける。慣れない味に一瞬だけ眉を寄せるが文句を言っていられないので何も言わずに紫煙を吐き出した。隣で緋桜が文句を言ったけれど、煙草も捨てる気はない。何も捨てることができない貧乏性だから。
−next−
カグヤだけが普通の人間です