全力疾走で部屋に戻ってみると、緋桜が何か言いたげに顔を歪めて出迎えてくれた。そもそも迎えてくれること事態が珍しく、緊急事態なのも忘れて思わず足を止めてマジマジと緋桜を見つめてしまった。足元に小川さんの姿が見えないからどうせ大したことはないのだろうが、カグヤがいて何かあったのだろうか。


「何、だよ?どうした?」

「カグヤがご飯作ってくれないの。何か掃除始めた」

「…………」


 超現実逃避してんじゃん。そう口に出したかったけれどどうにか呑み込んで、とりあえず部屋に入った。時計を確認すれば、もう七時を回っている。軍部長室で意外にも時間を潰してきたらしい。テレビはまだテロの中継をしていて、画面の中では住宅街に大隊が押し寄せてはいるけれど行動が起こせないようだった。
 何の匂いもしないどころかどこか塩素臭いキッチンを覗くと、カグヤが一心不乱に床を磨いていた。シンクがピカピカになっている。真白が言っていたがカグヤは嫌なことや考え事があると掃除に逃げるらしい。そのおかげかは知らないが、この部屋はいつも綺麗だ。


「カグヤぁ?」

「……。あ、どうした?」

「や、これから任務だと。着替えて現場直行」

「何の連絡もないぞ?」


 顔を上げたカグヤが何かを隠すように微笑して立ち上がり、雑巾を絞った。言っていいのか言わない方がいいのか判断に困り、筑紫は思わず振り返ってテレビに視線を移す。カグヤはそもそも筑紫が軍部長室に行ったことすら知らないかもしれない。それならそれで良いけれど、カグヤにとってこの任務はどんな意味を持つのだろう。
 沈黙した空気に耐えられないと判断したのか、緋桜は早々に着替えに行ったようだった。黙ったままの筑紫の視線に気付き、カグヤが「あぁ」と小さく呟いて手を拭きながら台所から出てきた。言うのは現場に向かってからで良いかと先送りにし、筑紫も自分の部屋に着替えに行った。


「詳細は後で小川さんに来るって」

「そうか」


 カグヤはいつもと変わらないようにみせて実際は心此処にあらずの生返事をして部屋に入って行った。それを見送ってから筑紫も部屋に入り、着ているものを全てベッドの上に脱ぎ捨てるとクローゼットからシャツとレザーパンツを引っ張り出して袖を通し、軍服のジャケットに煙草とライターをねじ込んだ。ホルスターを巻いてポーチの中身を軽く確認し、ものの数分でジャケットを指に引っ掛けて部屋を出た。
 バルコニーの近くで煙草に火を点けてとりあえず一服しながら、真白の話を総合して頭を整理した。つまり、カグヤは家族のために働いて仕送りまでしているけれどその家族はカグヤが軍で働くことを良く思っていないその理由は不明。さっきの話しそのまんまだ。


「なんじゃ、覚哉はまだか」

「サク早ぇじゃん」

「だって何か、カグヤ怖いって言うか……」

「ま、しゃーねーな。ピリピリって言うか一人重いっつーか」

「任務ってあれ?」


 緋桜が話題を逸らしたかったのかテレビに視線を移した。まだやっているテロの中継だ。さっきから自体は膠着しているようで、これはさっさと行かないと本当に解決しそうにない。だいたい大隊で何やってんだと毒づきたくなる。


「そ、あれ。大隊でどうにもなんないんだって」

「何時だっけ、三時くらいからやってるよね」

「それでお前たちが呼ばれたんじゃろう。時に筑紫、その話は誰から聞いたんじゃ」

「小川さん、そこストップ。つっこまんで。サク、俺がいない間さ、カグヤの様子どうだった?」

「だんまりでずっとキッチンに篭ってた。変わんない」


 小川さんの言葉を無理矢理終わらせて、話題を転換させた。やはりカグヤはあの美咲とか言う妹を気にしているのだろう。真面目だから変なところで鬱陶しいもんだ。カグヤは筑紫の方が厄介な問題を抱えて心配だと言うが、筑紫に言わせればカグヤの方が危なっかしい。
 紫煙を吐き出しながら、緋桜にだけは伝えておこうと思い口を開く。カグヤが部屋から出てきたことに口惜しいが気づかなかった。


「あの現場さ、カグヤの家なんだって」

「え?」

「現場。特区住宅区三、カグヤの家」


 刹那、ガタンと音がした。反射的に顔を上げてそちらを見ると、カグヤが蒼白な顔をして立っている。きっちりと軍服を身に纏い、何のやる気も感じられない雰囲気で立っていた。筑紫の情報が信じられないとでも言いたいのか唇を震わせ、けれど言葉を発することは出来そうにない。


「お、準備できた?んじゃ行くか」

「……筑紫。お前、住所どこって言った?」

「だからお前ん家。ボサッとしてんなよ、行こうぜリーダー」


 煙草を灰皿に放り込んで、筑紫は何でもないことのように笑った。いつも通りの任務だから何でもないことなのはある種正しい。玄関に向かう為にリビングを横切るけれどカグヤが動く気配はなかった。筑紫は気づかないふりをしたけれど、緋桜が心配そうな顔でおずおずと近づく。カグヤは俯いていて表情が窺えなかったけれど、体がカタカタと震えていた。


「カグヤ?」

「……家には、三人ともいたはず……」

「カグヤ?ねぇ……」

「何でこんな……!」


 ぶつぶつと怒りをどこに向けていいのか分からないように呟くカグヤには緋桜の声は聞こえていないらしい。初めて見るカグヤの姿に緋桜はおろおろと筑紫に視線をやるが、筑紫の表情はひどく億劫そうなそれだった。無言でスタスタとキッチンに入っていくとコップに水を汲んで、カグヤの前に立つ。


「筑紫?」

「筑紫、何をする気じゃ?」


 緋桜も小川さんも無視して、筑紫は思い切りカグヤに水をぶっ掛けた。たったコップ一杯分の水を見事に被り、その途端カグヤは呆然と口を閉じた。ゆっくり上がった顔は不安だらけのいつもとま全く違うカグヤのものだった。それを無表情で見て、筑紫は肩で息を吐き出す。


「バッカじゃねーの」

「か、カグヤ大丈夫?」

「筑紫!貴様は何をしとるか!」


 濡れたカグヤを心配する緋桜はまだしもこっちに向かって説教をかましてくれそうな小川さんが面白くないので、筑紫は「ふん」と息を吐き出してまだキッチンにコップを戻しに行った。緋桜がパタパタとタオルを取りに行くのを見送って、筑紫はつけっぱなしのテレビを漸く消す。それからまだ何も言わないカグヤに視線をやって笑った。けれど眼が笑っていないのは自覚している。


「心配してんなら助けに行けば?」


 筑紫の言葉にカグヤは焦った。確かにその通りで、今までの動揺が恥ずかしい。今は助けに行く力も持っている。新鮮な驚きに似た色を映しているカグヤを見て、筑紫は素直に「バカじゃん」と思ったけれど口にしなかった。筑紫にはカグヤの気持ちは分からないから、この反応をバカにできるものじゃない。
 戻ってきた緋桜が、慌てて玄関に向かうカグヤを見て慌ててタオルをその場に落として追いかけた。けれど筑紫はその場を動かず、少し声を張る。


「カグヤ!んな焦んなよ」

「バカ言ってる場合か!早く行かないと……」

「だから武器。どこ行く気だお前」


 慌てるのは分かるけれど、手ぶらでどうやって助ける気だと笑うとカグヤは今気付きましたとばかりにホルスターに手をやった。空っぽのそれに大きく目を見開いている。武器を忘れるとかどれだけおっちょこちょいなんだか。いつもでは絶対にありえない失態で駆け戻っていくカグヤを見送って入れ違いに玄関に向かい、筑紫は肩を竦めた。けれど緋桜はそうではないようで心配そうな顔でカグヤを見送っている。


「私、ちょっとカグヤの気持ちわかるかも」

「ん?」

「私もきっと家族が巻き込まれたら、パニックになると思う、から……」

「分かんないのは俺だけかぁ」


 緋桜の家族も特区で生活している。温かい家庭ではなく、一週間顔を合わせないこともしばしばだったというけれど家族と言うだけで執着はあるのだろう。どこか願いでも篭っているような緋桜の横顔を見て筑紫は思わず苦笑いを浮かべる。家族を失ってその温かみさえよく知らない自分には縁のない環境だろう。別に後悔も嘱望もしていないけれどほんの少しだけ羨ましいと思った自分がおかしかった。










 現場に向かう車の中で冷静さを取り戻したカグヤは、黙って煙草を吸っていた。今日ばかりは小川さんも緋桜もも文句を言わないので筑紫もついでに吸っていたら、そっちは文句を言われた。贔屓だ。
 現場に到着すると、大隊の兵隊たちでごった返していた。問題の家も見えない状況にまで人がいてどうするんだと呆れ半分、車から降りて準備運動代わりに背を伸ばす。


「天下の色持ち、紫様の到着だ!道空けろぉ」


 声を張り上げると、振り向いた顔が恐怖と憧れを綯い交ぜにしたような顔をしてさーっと左右に割れ道を作った。それに気をよくして堂々と連れ立って歩き、大隊の指揮者の元まで最短距離でつく。前線でどうするか手を出しこまねいていたようで、三人の姿を見ると安堵の表情を浮かべた。ずっとホルスターに触っているカグヤには気づいていたが、気づかないふりを続ける。


「紫部隊の皆様、お待ちしておりました」

「どーも。俺らが来たからにはもう安心っすよ」

「期待しております」


 にこにこと笑いだした責任者に筑紫は内心使えない奴だと毒づいて、ポケットから煙草を取り出した。火を点けながら作戦会議としゃれ込む為に現場である家を視界に納める。さっきからカグヤが家を見ていたことには気づいていた。あの妹の様子からすればずっと家には帰っていないのだろう、こんな形の帰宅は決して良いものではないかもしれないがいいきっかけではあるだろう。
 不意にカグヤが、視線を逸らすこともなく口を開いた。思ったよりもしっかりしたいつもの声だった。


「大隊は周りを包囲していてください。俺たちだけでどうにかします」

「カグヤ、お前家の間取り描けよ。それから、犯人てどこに立て籠もってんですか?」


 カグヤがゆったりとした動作で煙草を出すのを見てから、筑紫は家を見ながら犯人の姿が見えないか目を凝らした。けれど二階のベランダ窓にも見えないし、どこにいるのか見当もつかない。すると責任者は「一階のリビングにいるのだと言った。そこに目を凝らしてみると、確かに人の影がいくつか見えた。


「人数は五人で、人質は三人います。いずれも子供です」

「まだ全員無事ですね?」

「はい。こちらから刺激もしていませんし中から銃声も聞こえていません」


 冷静なカグヤの声に胸を撫で下ろしつつ、けれどそわそわと指輪動いているのに気づいているから筑紫は軽く肩を竦めると大振りのナイフを二丁腰から抜いた。今日は室内戦を想定してナイフ二丁とトカレフ一挺、随所に隠しナイフを所持している。ナイフの刃を煌かせながら、筑紫は緋桜を見た。


「んじゃあ俺とサクが外から堂々行くから、カグヤが裏から人質の救出な」

「筑紫……」

「頼んだぜ、リーダー?」


 からかい混じりに言って、三人は拳を合わせた。カグヤもすっかり切り替えられたらしく何の不安も焦りもその表情には浮かんでいなかった。ここに来て開き直れたのか守れるのが自分しかいないのだと自覚したのかは知らないが、いいことだ。
 三人揃って一歩踏み出した所で、外から女の悲鳴のような喚き声とざわめきが起こった。


「うっわ、やる気削がれんだけど」

「……咲!」


 止める兵たちを押しのけてやってきたのは、さっき帰ったはずのカグヤの妹だった。車で来た紫部隊よりも遅くなったのは当然だが、この状況を見て錯乱しているようだった。兵士の制止を振り切って、金切り声で自分の家なのだと叫んでいる。
 その存在に気づいたカグヤが躊躇いもなく駆け出した。彼女の肩をグイッと掴んで振り向かせると、強い口調で彼女を見下ろした。


「咲!お前は無事だったか」

「離して!あの子達が留守番してるの!唯!直!景!」

「落ち着け、咲!」


 パンっと、銃声にも似た渇いた音が辺りに響き渡った。顔を張られ、彼女は呆然と自身の兄を見るけれどカグヤは何の罪悪感を感じることもないようで揺るがぬ瞳ではっきりと彼女の目を見て、不意に微笑を浮かべた。


「兄ちゃんがどうにかするから、お前はここで待ってろ」


 彼女が何かを言おうと口を開く前にカグヤは妹を近くの兵に預けるとポーチから何かを取り出そうとしてなかったのか、筑紫に向かって手を出して「ナイフ」と言った。どうせ慌てて忘れてきたのだろう。此処に来て冷静だからいいようなものの、と文句を言いたくもなったが結局何も言わずに筑紫は仕込んだナイフを二本カグヤに渡す。


「行くぞ」


 カグヤの号令の元、筑紫と緋桜は一緒に隠れることなど考えもしないで正々堂々、玄関の前まで足を進めた。誰もが見守る中、緋桜の放った銃声が引き金のように鳴り響く。





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今回はカグヤはおかんでなくお兄ちゃんです