建物の外で人々が騒いでいる。窓から下を覗けば明かりに照らし出された群集が読んでも分からない字が書かれた看板を手に聞いても分からない言葉を発している。高いフロアにいるおかげで何も聞えはしないが、さっき玄関ホールの前を通ったときに偶然聞いてしまった。戦後創氏改名及び言語統一が行われたといっても、三年ではまだ徹底されていないようだ。
 まだ少年だった『心臓』は健康そうとは言えないながらも浅黒い肌をし、やせ細っていても目だけは大きく開かれて生きていた。それを連れて帰って来いというのか。まだ生きている少年の心臓を繰り抜くために連れて帰るのが正義のヒーローのやる事か。


「一旦落ち着くんじゃ、覚哉」


 同じ部屋で黙っていた小川さんがいらついた様子のカグヤを諫めたけれど、珍しくその言葉を素直に聞き入れずカグヤはいらつきに任せて腰を沈めたソファの肘起きを力任せに殴りつけた。カグヤの斜め前に座って居心地が悪そうに縮こまっている緋桜がびくりと肩を震わせ窺う視線を向けるが、カグヤの目が緋桜を見つける前にその視線を俯けさせた。今はこの部屋に小川さんを数に入れなければ緋桜とカグヤしかいない。その重い空気に耐えかねた緋桜は膝を抱えた。


「ねぇ、カグヤ。お酒……呑む?」

「いらない」


 恐る恐る声を掛けるけれど帰って来た声はひどく冷たいものだった。筑紫がどこに行っているのか知らない。早く帰ってこないかなとだけ緋桜は思えなかった。
 しばらく黙っていたカグヤは不意に大きく溜め息を吐き出すとゆっくりと目を閉じた。思案を巡らせるようにそのまま首をもたげ指先がポケットから煙草を引っ張り出す。手探りでなれた作業だと底を叩いて飛び出た一本を口の端で引き出して、火を点ける。常よりも深く吸い込んで吐き出された紫煙に緋桜は文句を言えなかった。


「サクは何とも思わないのか?」

「え?」

「あの子を見て、何とも思わないのか!?」


 初めて緋桜はカグヤに厳しい瞳を向けられた。突き刺さるような視線に憎悪に似た感情が混じっているように感じて、緋桜は一瞬呼吸を忘れて涙が出そうになった。カグヤが怖いと思ったのは初めてだった。小川さんがそれを注意するように一吠えしたがカグヤは視線も向けなかった。


「剛君と同じくらいの歳で、まだ生きているんだぞ!それを臓器だと、心臓だと!?」

「カグヤ、あの……」

「どうして平気でいられる!人一人の命なんだぞ!」


 激昂したカグヤが拳をソファに叩きつける。びくりと緋桜の肩が痙攣するが、カグヤは気にも留めずに更に声を荒げた。緋桜の肩を慰めるように小川さんの尾が撫でるけれど、緋桜は身を硬くしたまま動けない。ただカグヤの声だけが荒削りに部屋の空気を震わせるのに任せるしか今の彼女にはなかった。


「一人を助けるために一人を殺すなんて間違ってる!人に人の命をどうこうする権利なんてないはずだ!」


 吐き捨てるように叫び、まだ半分ほどしか減っていない煙草を乱暴に灰皿に押し付ける。それから怯える緋桜ではなくゆるやかに尻尾を振っている小川さんを睨みつけた。そのまま体を起こして白い胴体の前に膝をつくとその首を引きちぎらん勢いで自分の方に引き寄せて凄んだ。そこで獣の鼻に顔をつき寄せて低く「真白」と唸る。小川さんの通信機能を使うつもりなのか、威嚇するように毛を逆立てた小川さんにカグヤは再度「真白に繋げ」と唸った。


「真白!」

『……夜中にこんなの使って、何かあった?』

「お前知っていたのか!?」


 渋々繋いだようで、小川さんの口からビリビリと痺れたノイズの後に年若い声が不機嫌に聞こえる。日付が変わろうとしていた時間だったから眠っていたのだろうかもしれないが、緋桜にはそうは聞こえなかった。強いて言うのなら不快感を押し殺しているような声だが、今のカグヤにはその機微が分からない。いつものカグヤらしくなく感情だけで相手が上司であるはずの立場を忘れて声を荒げた。


「心臓が生きた子供だと、知っていたのか!?」

『あぁ、そのこと。杭之瀬隊長、僕は心臓を持ってこいと命令した。それだけだ』


 一方的に回線を切られ、カグヤは乱暴に小川さんを離した。小さく舌を打ち鳴らしてもとの位置に戻ると再び煙草を手にする。しかし銜えた煙草に火をつける気配はなく、恐る恐る緋桜が顔を上げると真っ直ぐに深い瞳でこちらを見ていた。緋桜の意見を、待っている。
 射すくめる視線から助けを求めるように小川さんを見たが、先ほどの行為で我関せずを決めたのか小川さんは黙って紫暗の瞳を伏せた。筑紫はまだ、帰ってこない。


「あの、私は……正しいこと、思う」


 緋桜の言葉にカグヤの目が眇められた。不機嫌なその目から逃げるようにしどろもどろになりながら言葉を探し、それでもカグヤの気が済むようにゆっくりと唇を動かした。基本的にカグヤは優しいから、いらいらしていると自覚して自分にイライラしているのだろう。
 緋桜は、あの少年を連れて帰ってもそれは正しいことだと思う。人の命を救うために人の命を犠牲にするのは確かに間違っている。ドナーと言うから臓器だけだと思っていた。けれど、どうしてそう思えただろう。戦後の統一も完全ではない状況でドナーが幼い子供のドナーが見つかるはずがない。適合したとしてもくれてやるものかと思うのが正常なはずだ。それでも見つかったというのならば、それは金に物を言わせた買収だ。けれど緋桜はベッドの上の少年と話し、この任務が正しいものだと思ってしまった。


「剛君は高林の跡取なんだよ。だから、すごい大切な命だと思う」

「あの、イブンよりもか」

「そうだよ」


 緋桜が若王子の姫だったとき、重責を感じる期間がないわけではなかった。六つ下に弟がいた。それまで跡継ぎだと言われて育ち、弟が生まれてからはその重責から解放された。けれど弟は病で二つになる前に死んでしまった。それから再び感じたのは、以前よりも重い責任感だった。だから自分の体が弱いことを責めている剛の気持ちが痛いほど分かった。劣等感を拭えるのならばそれは必要なことだし、ただの少年よりも将来の宮内長の命は重い。
 カグヤの押し殺した声が緋桜の名前を呼ぶけれど、緋桜は言葉を撤回する気はなかった。ただ目を逸らして縮こまっていると目の前で気配が動いた。ゆったりと近づいてくるカグヤの気配が、緋桜には痛かった。縮こまって膝に置いた手を握り締めると、不意にシュッと風切り音が耳に届いた。次いで、小川さんの鋭い声。


「覚哉」

「何やってんの、お前」


 小川さんの声の次に聞こえたのは、いつ入ってきたのか分からないけれど筑紫の笑みを含んだ声だった。ビックリして顔を上げると、筑紫の紫色の髪が外から差し込んでくるネオンライトに照らされて鈍く見えた。その向こうに立っているカグヤの手を払い落として、筑紫の背が震えた。


「お姫さんに手ぇ出すのはご法度だろ?」

「……どこに行ってた」

「だってお前、すっげぇ不景気なツラしてんだもんよ。あのガキのこと気にしてんだろ」


 クックッと咽喉で笑いながら筑紫は緋桜の隣に腰を下ろして、まだ震えている紫の姫の肩に腕を回した。可哀相に、と笑いながら肩をなでられ、そしてようやく緋桜は安心する。いつもは喧嘩ばかしている筑紫に安心するのは少し間違っているような気がするけれど、今日のカグヤは正直に怖かった。
 筑紫は煙草に火を点けると、美味そうに紫煙を吐き出してから足を組み今までここの責任者の所に行っていたと言った。


「この地域ってさ、まだ貧しいんだって。どこでも生活に困ってる」


 そう言って筑紫は窓の外を覗くように背中を伸ばした。まだ騒いでいる外の人々はここの地域の人ではなく比較的裕福な地域や地区からやって来た反倭派の人間だそうだ。暇なくせに、と筑紫は口笛を吹くがどうせそれは口実に決まっている。反倭派の人間はいつだって口実が欲しいだけなのだから。
 まだ土地のほとんどに戦争の爪痕が残り、年間で数えたくないような人数が飢えや病で死んでいく。それを見て見ぬ振りをしているのは軍であり政府であり、特区だ。あの少年は金で売られた。そういう子供は大勢いるそうで、適合した彼は運がよかったのだという。養うこともできずに家族が全員死を待つよりもたった一人の犠牲で全員が生き残れるのだと知った少年は抵抗の一つもしなかったそうだ。


「そんなの、ただの人身御供じゃないか!」

「でもあいつは納得してて、あいつの命一つで村一個救えちゃうんだぜ?」

「それとこれとは話は別だ!」

「剛君が助かれば国全部が救われるんだったら、同じ話なんじゃないかな……」


 再び声を荒げたカグヤにあえて筑紫が軽い口調で言うが、真面目なカグヤにはその気持ちは伝わらなかったようだ。苦々しく顔を歪めて立ち上がると部屋を出て行ってしまった。それを見送って、筑紫は最後にがんばった緋桜を労うために口に運ばなかったのに短くなってしまった煙草を灰皿に押し付けてその手で彼女の柔らかい髪を撫でようと手を伸ばした。けれど触れる前に払われる。いつもの緋桜の様子に筑紫は笑った。


「煙草の匂いが移る!」

「よし、いつも通りだな。あの真面目馬鹿相手にがんばった、がんばった」

「……筑紫は本当にどう思う?」

「俺?俺は本人が決めたことならそれで良いと思ってる。明日も早いし、俺たちも寝ようぜ」


 話を切り上げて、筑紫は立ち上がった。時計は既に日付変更線を跨いでいる。明日は六時にはここを出るはずだからもうそんなに睡眠時間は取れまい。特区に戻れるのが午前中ならば午後はたっぷり寝られるのだろうかと思いながら、珍しく何も言わなかった小川さんに筑紫は視線を移した。その視線に気付いた小川さんは興味が無さそうに尾を揺らすとするりと緋桜の寝室に当てた部屋に入って行き、見送ってから筑紫はもう一本煙草を吸うために取り出した。










 シャトルの中で三時間、カグヤは口を聞かなかった。緋桜は寝足りなかったのかシートを倒して眠っており、筑紫は暇を持て余して怒られるのを承知で小川さんに問いかけた。小川さんはカグヤと同意見だと思っていた。人の命の重さは同じだけれど、これが任務だから挟む口はないと黙っているのだとそう根拠もなく信じきっていた。けれど返って来た答えは筑紫の予想とは反していた。


「小川さんはさ、命の重さとかってどう思ってんの?」

「仕事のうちじゃ、儂の口を挟むことではない」

「言うと思った」

「ただいうのならば、覚哉は間違っておる。この場合、高林様の子息を生かすことが第一じゃ」


 驚くことに緋桜と同じ意見で、正直筑紫は驚いた。しかし確かに軍に作られた生命体が国に反する思想を手にするはずがない。だからこの回答は予想していてしかるべきだっただろう。
 自然に煙草を口に銜えて火を点けてから、筑紫は軽く視線を泳がせてまず緋桜を見た。緋桜はかつての自分と同じような境遇にある少年に自分を重ねている。そして次に視線をカグヤに泳がせる。カグヤは運ぶべき臓器に自分の弟たちを重ねている。確かに年のころは同じくらいだろうけれど彼は移す相手を間違えた。始めは剛に情を移していたのに、次に会えばそちらの少年に情を移す。優しいのは結構だが、それはいつか弱点となるだろう。
 それから筑紫は視線を立ち上る紫煙に向けた。その向こうに自分の影を見て、逃げるように目を閉じる。緋桜とカグヤと同じ、筑紫だって少年にかつての自分を重ねている。臓器として売られた少年にかつての自分を重ねて理解した気になっている。それが自分のことだけに胸糞悪かった。


「お前はどうなんじゃ」

「昨日も言ったじゃん。俺はあの心臓が納得してんならそれで良いと思う」


 仮令それが周りから見てどれほど馬鹿げた決意でも後から思い返して愚かな決断だったとしてもそのときに自分が正しいと思ったのならば誰も否定してはいけない。そう思っている。それを否定したらかつての自分を否定することになってしまうから、筑紫は何も言わない。
 その時、シャトルが微細に振動した。着陸態勢に入ったので筑紫は隣の緋桜を起こし、煙草を消した。


「……どうしょうもなく、馬鹿だけどな」


 何がとも言わず筑紫は一人言ち、シャトルの振動が止まるのを待った。
 しばらくしてエンジンが完全に止まり、シートベルトを外すとまず小川さんが降りた。軍部ではなく病院の屋上のヘリポートについたシャトルでカグヤの隣に座っていた少年をカグヤが促して下ろす。筑紫も緋桜を先に下ろしてそのまま病院内に入った。コツコツと軍靴の音を響かせながら下へ降り手術室がある奥へと進む。
 手術室の前には既に医師と真白が待機していた。高林宮内官も居り、紫と心臓の少年に気づくと深々と頭を下げる。一瞬足を止めたカグヤの代わりに筑紫が少年の手を取って足を進めた。擦れ違ったカグヤの握り締められた拳が震えていたのには気づいていたが、気づかない振りをして通り過ぎる。


「紫部隊、ただいま戻りました」

「お帰り。あぁ、この子が例の心臓だね」

「はい」


 真白が微笑したのを見て筑紫は曖昧な笑みを浮かべた。いつもの笑みだけれどその笑みに疑問が浮かぶ。しかし言葉にするほど無粋ではなく、そして自分に余裕もなかった。手術室に促す医師の声に真白も頷く。もう中で待機し準備が整っているらしい。おずおずと足を踏み出した少年の手を思わず引き、筑紫は膝を着いた。真白の眉が訝しげに跳ね上がるのに気づいていながら、黙って少年を腕の中に納めた。耳元で小さく、本当に小さく言葉を搾り出す。


「後悔するな。お前は友達も家族も、みんな救った」


 素早くそういうと筑紫は戒めを解いて少年の背を押した。きっとここまで来て急に決心が揺らいだのだろう少年が足を止めて涙目で筑紫を見上げるが、筑紫はポケットに手を突っ込んで何も言わなかった。ただ口の端を歪めて笑う。
 自分は救えなかった。後悔もしたし恨みもした。けれど結局認めなければ前へは進めなかった。友達をたとえ殺したとしても、仲間を救おうとして自分を犠牲にしたこともすべて自分で呑みこまなければ立てなかった。
 ゆっくりと手術室の扉が閉まっても、しばらくは誰も何も言わなかった。


「高林様」


 始めに動いたのはカグヤだった。静かに息子の無事を祈る父親を呼び、ゆっくりと近づく。その姿に殺気を感じて筑紫が間に割って入ろうとするが、その前に緋桜がカグヤの背に飛びついた。カグヤには簡単に打ち払えるだろうに、それで一度足が止まる。


「だって、しょうがないじゃない!」


 緋桜の一言が終わった瞬間、カグヤは彼女を引き剥がした。力任せに突き放されて尻餅をついた緋桜に一瞬筑紫が動きを止めるとその隙を突くようにカグヤは足早に筑紫の横を通り過ぎて高級官僚の胸倉を掴み上げた。そして昨夜と同様に「知っていたのか」と声を荒げる。ただ答えが返ってくる前に、カグヤの肩を筑紫が掴んだ。力任せに引っ張ってその頬を容赦のない拳で殴りつけた。勢いで吹っ飛んだカグヤの体が壁に叩きつけられ軽く咳き込むがお構いなしに筑紫はその胸倉を掴み上げた。


「いい加減にしろ、この馬鹿!」


 病院で怒鳴るなと怒られるかもしれないけれど筑紫はカグヤを怒鳴りつけ、突き飛ばすように急に離した。それから肩を竦めて動こうともしないカグヤに向かって手を差し出す。それでもカグヤは動かなかった。しばらく待っても動かないので痺れを切らして、ひどく億劫そうに筑紫の口が歪む。


「ほら」


 それを待っていたかのように持ち上がった手を掴んで、カグヤを立たせた。軽く頭を下げて緋桜に視線でフォローを頼んで筑紫は手術室に背を向けた。たぶん真白もカグヤをフォローするだろうから大丈夫だろう。ただ大丈夫じゃないのはカグヤの方で、その足には意思を感じ取ることが出来なかった。ただ惰性で動いているようなので頭の中でグダグダ考えているのだろう。この馬鹿はいつまでもクソ真面目に考えて困る。仕事だと割り切ることができない。


「間違ってる」


 カグヤのこの小さな呟きを聞いているのは筑紫しかおらず、しかしそれは気づかないふりをした。あまりにも危険な発言だったからだ。ただ場所が部屋に戻るエレベータの中だったからカグヤの理性は働いている。それが逆に厄介だった。
 筑紫は舌を打ち鳴らしたくなるのを堪えて、代わりに大きく溜め息を吐き出した。





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初めて三人の意見が割れた……!