緋桜がバカンスだと大喜びするものだから、脱出する気がなくなってしまった。ただし五日だと約束して今日は四日目だけれど、三人揃って帰りたくなくなっていた。見て回ったこのオアシスはそんなに広くはないが緑が豊かで今までいた世界と続いているとは思えない。彼らからも歓迎され、目を覚ましていたときに寝かされていたのはオアシスの中心に聳える楼閣だったそうだ。それだけが豪華な建物らしく、一般の家屋はもうすこし木を組んだだけという印象を受けた。


「いいところだよなぁ」

「いいところだけどな……」

「言うなって」


 緋桜は小川さんを見張りに湖に泳ぎに行っている。三人の中で一番バカンスを満喫しているのは緋桜のようで、カグヤも筑紫も一通り見て回ってからは大抵部屋の中ですごしていた。外に出歩くには自分たちは異分子なのだと自覚している。けれどその間に二人でずいぶんと濃密な時間を過ごしてしまった。お互いにごめん蒙りたかったけれど煙草もあまり吸えない状況で一緒に飛ばされた車もすぐに直った。だから改めて緋桜のことだとか筑紫の体質だとかについて話してしまった。そうして出た結論は、緋桜については今までどおりに守りきる、筑紫については自己責任という今までと変わらないものだった。


「報告しないとダメなわけ?」

「少なくともここの人たちに世界の形を伝えなきゃいけないだろうな」


 大倭の存在を知らないオアシスの人たちはカグヤたちが軍人だと知らない。それを知らせたくない気もするが現実を知らさなければならないだろう。この世界の形にはまっていなかった彼らを世界にはめなければいけない。この世界はこれ以上に変わることはないのだから。


「お客様方」

「なんすか?」

「緋桜さんに聞いたんですが、明日お立ちになるそうですね」

「あ、はい」


 部屋で喋っていたら声をかけられて、先に反応したのは筑紫だった。けれどその後の受け答えはカグヤの役目で、仕事もあるから明日の朝に出発することと今までの礼を告げた。けれどどうしてもまだ彼らに世界の形を告げることはできなかった。なんせ、彼らは彼らの世界だけで十分に生きているのだから。


「今夜送別会を行おうと思うのですが、出席していただけますか?」

「送別会?」

「よろこんで!」


 その言葉に僅かな疑問を感じてカグヤは眉をひそめたけれど、そんな機微には気づかずに筑紫が二つ返事で頷いた。遠慮を知れとカグヤは声を落としたがそれを聞いた相手は笑って遠慮はいらないなんていうから筑紫は調子に乗ってカグヤに向かって勝ち誇ったような笑みを向けた。
 それでは今夜、と言って出て行った住人が楼閣の下から現れるのを待ってカグヤは大きな溜息を吐き出す。


「お前な」

「だって嬉しいじゃん。何か……嬉しくて」


 くしゃっと顔を笑みの形に歪めた筑紫をカグヤは初めて見た。どこか照れたようなはにかんだ笑みなんて見たことがない。照れ隠しなのか顔を背けた筑紫は紫色の髪をかき回して板張りの床に寝転がると深く深く息を吐き出した。それに混じって搾り出した声が聞こえる。純粋な歓喜にそれは微かに震えていた。


「俺のこと、紫って言わなかった……」


 その言葉で、ここが本当の意味でオアシスなんだとカグヤは思い知った。幼い頃から差別され蔑まれてきた筑紫にとって髪のことを言われずに接してもらった経験など皆無に等しいはずだ。対応に慣れたといったところでそのたびに心は傷ついていたはずで、けれどここでは紫の話を知っている人もいない。それは緋桜も同じで、こんなところで名家も何もない。ただの緋桜として楽しんでいる。


「裏切るのは俺たちだな」


 真白の話では反乱だなんだとの噂があるらしいけれど、内部でそんな気配を感じ取ることはできない。結局軍人であることを告げて世界の形を告げる自分たちが一番の裏切り者になる。相手が信頼してくれているというのは先ほどの送別という一言でよく分かる。
 それに気づいたのか筑紫も黙って、それから煙草に火を点けた。










 存分に遊んできたらしい緋桜は、明日帰ることに文句を言いたかったらしいけれど十分満喫しただろうと小川さんに叱られて小さくなっていた。落ち込んだ緋桜に夜には送別会を開いてくれるといったら元気になってくれたので安心したが、筑紫が「現金な奴」と言ったのでそこでまた一喧嘩あった。
 そうして夜、呼ばれたのは本当に宴会だった。今まで世話になった食事は質素なものが多かったけれど今日は豪華に酒までが出ている。


「でも肉ねぇな」

「黙れ」

「フルーツ美味しい!」


 ここの料理は一種の精進料理のようで肉類が一切出ない。家畜がいないことが原因だとは思うけれど、緋桜は特に気にしないでフルーツばかりを食べているからカグヤは栄養バランスが心配になった。帰ったら当分文句を言われようともバランスの取れた食事をさせなくてはと決意するほどだ。
 宴会は盛り上がり、人々は好き好きに酔っ払っている。こういう光景は始めて目にするような気がしてなんだか和んだ。酒宴といえば緋桜にとっては堅苦しい会だったしカグヤと筑紫にはそんな思い出もない。


「皆さんお帰りになるってぇと、お仕事ですか?」

「えぇ、まあ」

「やめてここに住んじまえばいいのにねぇ。何をなさってるんで?」


 酒を注ぎにきてくれた男の言葉に、カグヤは思わず息を呑んだ。まさかこうも早く核心を疲れるとは思っていなかった。隣の筑紫も同じだったようで、飲んでいた酒が肺に入ったのかむせ返っている。けれどいつまでも黙っているわけにもいかないし、いいタイミングなのかもしれない。見れば宴も酣状態だ。


「皆さんにお伝えしなければならないことがあります」

「なんでぇ?」

「我々は大倭軍第一部隊です」


 普段使うことない正式名称を口にして、カグヤはその堅苦しさに顔を歪める。発した真面目な声に、それまで騒いでいた人たちが全員黙って真剣な顔つきになる。一番近くでいた男が必然的に疑問を投げかける羽目になり、その場で起こるだろう質問を代弁してくれそうになったので、その前にカグヤはすべてを話すために口を開いて男を制した。もう煙草は、残っていない。


「今から六年前、第三次世界大戦が勃発したのはご存知ですか?」


 事の始めを問うけれど、その場に集まったオアシスの人たちは全員が首を横に振った。やはり彼らは別次元で生きていたのかとなぜか安堵し、カグヤは三年前に世界が統一され、彼らの使う言語も今は使われていないことを話した。驚くのも無理がないだろうと言葉を失っている人々を見て思う。


「私たちをどうする気なの?」

「本来は軍の指導の下、国家に組み入れられます。しかし正直そうはしたくない」


 緊張した女性の質問に、カグヤは強張った顔の筋肉を動かして極力笑顔を作った。ここは何十年もの間人々にその存在を知らさなかった幻の土地だ。今回が例外なだけでまたこの先何十年も見つからない可能性は高い。だからカグヤたちが見つかりませんでしたと報告すればそれで終わる話なのだ。幸い、無線も何も通じない。まるでこのオアシスはなんにしろ外界からの干渉を拒んでいるように見えたから、もしかしたら何かの力で姿を隠しているのではないだろうか。


「本当にそっとしておいてくれるのか?」

「我々は、砂漠には何もなかったと報告するつもりです」

「でも、それじゃあ貴方たちは……」

「ばれなきゃいいんスよ。大丈夫、大丈夫」


 こちらの身を案じてくれるような女性の声は不安に震えていたが、筑紫が気楽に笑うとしばらくの間は不安そうにしていたものの微笑を浮かべた。そう、ばれなければいい。小川さんさえ黙っていてくれればいいし、真白もきっとこうなることが分かっていた。なくてもいいし、あったとしても反乱の兆しがなければそれでいい。ただの、バカンスだった。
 場の雰囲気が安堵に変わりかけていた中で、一人の声が空を劈くように響いた。声の元を見れば、綺麗な女性が立ち上がってヒステリックに何かを言っている。細かいところまでは翻訳機が拾ってくれなかった。


「駄目よ!私たちは不可侵で生きてきたのに、国家の介入なんて許さない!ここは私たちの世界よ!!」

「落ち着け、この人たちは漏らさないと……」

「分からないわ!それに、世界の形は私たちを許してくれない」

「黙れ!」


 カグヤたちが何かを問う前に男たちは錯乱したように叫ぶ女性を連れ出してしまった。遠くなるほどに甲高くなる彼女の声をかき消すために酒を煽るけれど、なかなか消えてくれそうにない。変な沈黙が落ちてしまい、座を離れようかとしたときに初めに酒を注ぎに来てくれた男がぽつりと言葉を落とした。


「我々はもともと、強い独裁国家の中の小さな集落だったんです」


 ここがこんな砂漠になる前にこの地域を統べていた男は搾取できるものは搾取しつくす男で、辛い生活を強いられた。それは砂漠化していくに連れて強くなり、ここの住民たちはそれに耐えてきた。そうして砂漠化の影響でとうとうここだけ残された。それまでの悪政もなくなりやっと手に入れた自由をみんなで大切に守ってきたそうだ。
 確かにそれじゃあ支配なんてされたくないな、と素直にカグヤは思ったけれど、筑紫はもっと素直だった。


「そりゃ大変でしたね。でも大丈夫、俺たちチクりませんから」

「……ありがとうございます」

「逆に守りたくなっちったもん、このオアシス」


 にかっと笑った筑紫の笑顔に、ようやくこの場に笑顔が零れた。それを皮切りにまた宴が始まり、夜中遅くなるまで騒いでいた。










 早朝にオアシスを出た。ここは砂漠の真ん中というよりも地下にあるらしく、長い道のりをかけて緩やかなトンネルのようなところを車はかったるそうに登った。空を見るまでにはどれだけの時間がかかるだろうかと、後ろ髪を引かれる思いで三人揃って黙っていた。もう煙草も尽きている。


「……あぁいう世界もあるんだね」

「そうだな」


 送り出してくれた彼らは笑ってくれたというのに、この車の中の空気は重い。助手席の小川さんは黙っていることについて文句を言うんじゃないかと思っていたけれど、何も言わない。それは後ろの二人も同じようで、筑紫がいつもよりもやや低い声で声をかける。そうしてやっと彼が電波を拾おうとしていることに気づいた。まだ電波は入らないようで、車のスピーカーからも砂嵐しか聞こえない。


「なんか、あのオアシスって俺たちを助けてくれたみたいだよな」

「てことは、カグヤが無茶な運転しなかったら辿りつけなかったってこと?」

「……何か根に持ってるのか?お前ら」

「んーん。バカンス楽しかったし、ね」

「おう。ただ肉食いてぇ、肉」


 誰も辿りつけなかったのは、その誰もというのが公式な調査団だったからという理由だけなのではないだろうか。もしかしたら死にそうな人間の前に現れるのかもしれないし、そもそも調査団でも隠蔽していたのではないか。憶測はいくつも飛ぶけれど、確かなのは今まで未確認だったということだけだ。そうして、今回も。
 急に明るくなったと思ったら、頭上には青空が広がって急に暑くなった。振り返ると岩と岩の隙間のようなところから出てきたようだった。自分たちの世界に戻ってきたような気がして、思わずカグヤは車を止めた。


「暑いね」

「あぁ、暑い」

「……暑ぃ」


 再びグロッキーになりそうな筑紫に緋桜が笑ったので、それを合図にカグヤはアクセルを踏んだ。それと同時に、砂漠に爆音が響き渡る。静か過ぎる空間に響いた音に緋桜が悲鳴を上げた。慌てて音源を振り返ると、おそらくあのオアシスがあるであろう五百メートルほど向こうで砂が舞い上がっていた。反射的にハンドルを切ってアクセルを一気に踏み込んだ。


「覚哉!どうしたの!?」

「真白……。大丈夫、なんでもない!」


 通じたのかという安堵は一瞬で、次には現状を伝えるのはまずいという結論に達した。小川さんに通信を切らせる間にも爆音は上がり続ける。断続的に上がるそれを見ながら集落があるだろうと思われる場所まで車を走らせると、そこにはぽっかりと穴が開いてしたの楽園が覗いていた。
 ついさっきまではオアシスだったそこはあちこちから爆発したのかひどい状態だった。これでは生存者はいないだろう。車を止めて降り、中を覗き込んだ瞬間に再び爆発が起こってその爆風に吹っ飛ばされた。二人で緋桜を抱きすくめて守り、体を起こした。


「楼閣が……」


 最後に爆発した中央に聳える楼閣が、崩れ落ちた。ずずずと音を立てて倒れていくそれを見てカグヤは口惜しさに唇を噛んだ。理由もなく胸を支配する無力感がある。戦争のときに味わった友人をなくしたあの感覚とも両親が死んだときのそれとも違う感覚の不可思議さに対してどうすることもできなかった。
 突如ガンッと金属の音がしてぎこちなくそちらを見ると、筑紫が車を蹴っていた。筑紫も筑紫なりに虚無感を感じているのだろう。隣の緋桜は何も言わない。


「帰るか」


 おそらく三人の胸に去来する思いは同じなのだろう。筑紫は一つだけちくしょうと呟いて、車に乗り込んだ。何が彼らに自決を思い切らせたのか分からないけれど、それほどまでに彼らはオアシスを愛していたのだろう。
 砂漠を出るまでずっと沈黙を保っていた。とりあえずカグヤは、煙草の紫煙で胸を満たそうと思った。





−next−

帰り道、筑紫は溶けそうでした