若王子緋桜は軍の大切な所有物である。
 筑紫よりも先に検査が終わって追い出されるように研究室を出た緋桜は二階のラウンジに入って、その言葉を聴いた。思わず隠れるところを探したけれど見晴らしのいいラウンジにそんなものがあるはずもなく、馬鹿みたいにフロアの真ん中で足が止まる。その緋桜の姿に気づいたのは、カグヤだった。緋桜の姿を見て目を大きく見開いて、気まずそうに口元が歪む。やはりこの話は、聞いてはいけない話だったようだ。こういうとき、緋桜は昔から自分が悪いような気になってしまう。だから、聞いていないふりをする。


「サク、今の話……」

「なぁに?なんの話?」

「聞いてなかったならいいんだ」

「変なカグヤ。私お腹すいた、何か食べていい?」


 多少胸が痛むけれど、緋桜は勝手に笑った。手を伸ばしてメニューを開き、オレンジジュースとサンドイッチを選んでやってきた給仕に伝える。その間にずっとカグヤは物言いたげな顔をしつつ煙草でその唇を塞いでいた。いつもならば煙草をやめろという緋桜も今日ばかりは文句を言うことを忘れてしまった。


「若王子さん、分かってると思うけど君は軍の大切な武器だよ」

「真白!」

「自覚してもらわないといけないんだよ、こういうことは」


 真白の言葉を聴いた瞬間は緋桜の表情も固まった。バシンとテーブルを叩いたカグヤは隣にいるはずなのにやけにその音は遠くから聞こえた。真白の真っ直ぐに冷たい上官の視線に射すくめられ、彼女の目も知らぬ間に名門令嬢のそれになっていた。柔らかい微笑を浮かべ、了解している意を示すために緩やかに首を縦に振る。
 その表情を見たカグヤの表情の変化を緋桜は見逃さなかった。驚いたようにまず目を見開き、それから何かを諦めたときのように切なげに目を伏せて。そうして、拳を握ってテーブルを再度叩いた。幸いラウンジにほかに客はいないけれど、オレンジジュースとサンドイッチを乗せた皿を盆に乗せた給仕が驚いた顔でこちらを見ている。


「ふざけるな!サクは俺たちの仲間で、お前らの玩具じゃない!」

「そんなことはどうだっていいよ。彼女を奪われるわけには行かない、それだけのことだから」

「真白!」

「カグヤ、もういいよ」


 イラついた声で真白の名前を叫んだカグヤの袖を緋桜は引いた。驚いた顔が向けられて一瞬驚いた表情を作るけれど、すぐにばつの悪そうな顔になって反らされる。彼の気持ちは嬉しいけれど、緋桜はちゃんと分かっている。自分は軍に変われている。カグヤと筑紫が仲間になってくれただけで、十分だ。
 給仕が空気を呼んで無言で置いて行ったオレンジジュースのストローを指でくにくにと軽く潰しながら、緋桜は微笑んだ。


「初めからわかってたことだもん。それに、ちゃんと二人が守ってくれるでしょ?」

「サク……。そうだな、ちゃんと気合入れて守るよ」

「ところで若王子さん、宮守君は?」

「まだ研究室です。私、先に終わったから」

「そっか。下手したら宮守君、今日食事できないかもね。明日に引きずらない程度ならいいんだけど」

「どういうことだ?」

「あれ、知らないの?宮守君の検査って、研究なんだよ」


 真白がにっこりと笑ってコーヒーを飲み、それからゆっくりとかつて筑紫が軍に入りたての頃に行われた特別変異の身体検査と称された研究の実態を話しだした。それは、対等の人間に行われるものとは思いがたい、卑劣な話だった。










 一体何年前になるだろう。同じ苦痛を味あわされたのは。
 薄れそうになる意識をどうにか保ちながら、筑紫は歯を食いしばってこの苦痛に耐えた。気を失ってしまえば楽だろうけれど、自分の身体に何をされるか分からない今意識を失ってしまいたくはなかった。何をされてもただ受動的に受け入れるだけの状態は吐き気がするほど嫌いだ。


「……グッ……ハァっ……」

「相変わらず耐えるね」

「うるせぇ、変態……」


 覗きこんで楽しそうに笑っている夏村の顔に唾を吐き出したいけれど舌が痙攣してできそうもない。どうにか悪態を吐き出して筑紫は歪めた顔を反らした。その拍子に汗が額を伝わって手術台の上に垂れる。もはや汗を拭う気力すらなくなりかけている。けれどまだ意識はある。先ほどから与えられ続ける痛みに、あとどのくらい耐えればいいのだろう。
 手術台の上で筑紫は麻酔もなく腹を割かれた。組織が再生しないように腹を開けっ放しで内臓を切られて、放置されている。身体を僅かでも動かせば痛いから顔を逸らすだけしかできないのがもどかしい。


「確か心臓を刺しても再生するんだっけ」

「一回やった、こと……もっかいやる、なよ……」

「君には大抵のことをしちゃったからねぇ。首飛ばしちゃダメっぽいし、つまらないねぇ」

「こんだけのこと、しといて……ハァ……つまらないとか、言ってんなボケ」

「あ、塞がったね。五分か、変わらないな。でもやっぱり中の方が遅いんだね」


 大腿の表面につけられた傷が塞がったらしいのは筑紫自身も感触で分かったけれど、内臓はどこに傷つけられたのか分からない。おそらく腹からはみ出している腸なのだろうけれど、ちょっと自分の腹から腸が飛び出している様を見るのは気分が良くない。もしかしたらすき焼きが食べられないかもしれない。


「宮守君、内臓もらっていい?」

「いいわけ……あるかっ」

「じゃあ細胞もらうよ」

「グァッ……いきなり、やめろ……」


 内臓を直接切断されたようで、吐きそうな痛みが襲った。内部を貫かれるとは正にこういうことを言うんだなと頭の中で妙に冷静に思っていたけれど、そんなことを思っている場合ではない痛みが脳から思考を一瞬消し去った。みっともなく声を上げて痛みを散らそうとするけれどそんなものは気休めでしかない。
 はみ出した腸を腹の中に詰め込まれて、表面の固定も外される。くっつき始める前に身体を横向きにさせられて、内臓の動く感触に寒気がした。ついで走った頭の衝撃に記憶が飛ぶかと思った。


「脳みそもらうよ」

「……勝手に、しやがれ……ぅあっ」

「本当は骨ももらいたいんだけど、仕事に支障ない程度って言われてるからさ。また来てよ」

「来るわけ、ねぇだろ変態……」


 一段落したのか、身体に直接ぶつけられる痛みはなくなった。あるのは身体のそこら中に燻るみたいに残った熱だけで、やっと息を一つ吐き出す。自力で仰向けに転がった拍子にくっつきかけていた腹の表面がずれて嫌な寒気と新たな痛みにうめくことになった。変態医師が結果をメモしているのを見ながら筑紫は彼を呼んだ。


「おい、煙草」

「あ、だめだめ。ここ禁煙だから」

「……クソ野郎」

「そういえば宮守君、煙草の量と身体の復元率が合ってないから肺汚いよ」

「知るか」


 腕も動かせない状態なので煙草は諦めて、筑紫は少し眠ろうと目を閉じた。ここに初めてきたときも同じことをやられたけれど、あの時とどう違っただろう。あの時は身体を裂かれて修復することを一週間も連続でやられたけれど一日の痛みはここまでじゃあなかった気がする。
 ただ、昔は五人程度の医師に囲まれてこの手術台の上でわけも分からずに腹を割かれ腕を折られ、それが修復されると内臓を弄られるということが続いた上に食事も与えられなかった。あれよりも、少しいいかもしれない。


「動けるようになったら帰っていいよ。ちなみに腸切ったから三日くらい食事できないかも」

「テメェふざけっ……いてぇ!」

「すき焼きなんだっけ。残念だね」

「ぜってぇくっつけてやる……」

「無理無理。そんなことできたら俺ら要らないでしょ」


 悪態をつきながら、筑紫は少し眠った。こうした方が回復が早いことは知っている。三時間ばかり眠って、目を覚ましたころには少なくとも表面の傷は治っていた。内臓の方もおかゆくらいは食べられそうな気がする。まだ節々が痛む上に頭がグラングランする身体を起こして、筑紫は煙草を銜えて研究室を出た。










 筑紫がラウンジに現れたとき、場は沈黙していた。けれど彼の姿を見た真白がまず「じゃあ行こうか」と朗らかに笑ったものだから場が変に和んでしまい彼に先導されるようにしてそこに向かった。そうして今、筑紫はすき焼きの匂いをかぎながら目の前にお粥を置かれていた。


「ちょっと覚哉、そこにお肉入れたら硬くなるじゃん」

「文句があるならお前やれよ」

「おなかへったー!」


 周りはとても楽しそうなのに、筑紫だけお粥。泣きたい。
 どこに行くのかと思っていたら、真白はカグヤの実家に向かった。誰も知らなかったようで驚いているうちに勝手に家の玄関チャイムを押して、長女がいないのをいいことにカグヤを見て喜んだ子供たちと一緒にすき焼きの準備を始めてしまった。おかげで、杭ノ瀬家のリビングですき焼きパーティが開催されている。子供たちが楽しそうなのが唯一の救いだろうが、これであの長女が帰ってきたらどうする気だろうと筑紫も緋桜も気が気じゃあない。


「お兄ちゃんのご飯久しぶり」

「兄ちゃん、今日ずっといる?」

「ぼくらと一緒にねる?」


 杭ノ瀬家の長女と仲が悪いようだけれど、下の三人の子供はカグヤのことがとても好きらしい。すき焼きを全部真白に押し付けたカグヤは三人にべったりとくっつかれている。下の双子は特にカグヤにかまってもらいたいようで左右でいろんなことを尋ねて、カグヤが嬉しそうなのが簡単に見て取れた。確かに年齢的にカグヤとの思い出は少ないだろう。唯にでも吹き込まれたのかカグヤをヒーローでも見るかのような目で見ている。
 二人のお姉さんであるはずの唯は真白の隣でニコニコ笑って筑紫と緋桜を見ていた。


「真白お兄ちゃん、真白お兄ちゃん」

「何?唯」

「このお姉ちゃんはお兄ちゃんの彼女さんなの?」

「あれ唯、もうそんなことに興味あるの?」


 じっと緋桜を見つめた唯の瞳に緋桜の方が恥ずかしくなって顔を逸らした。もちろん彼女なんかじゃあないけれどこんな真っ直ぐな目で見られたらなんて言えばいいのか分からない。緋桜が曖昧に微笑んでやると、唯も恥ずかしそうに微笑んで真白の耳に何かを囁いた。


「若王子さん綺麗だねって言ってるよ」

「あー内緒にしてって言ったのに!」

「あ、ありがとう……」


 真白がさらりと言ってくれたので緋桜もなんと返せばいいのか分からないで、結局小さく礼を言って俯いた。それを見ながら筑紫は苦笑して妹にあらぬ疑いをかけられているカグヤを見た。彼は両脇に弟たちを抱きかかえて遊んでやっていた。なんだかこいつ似合うな、と正直感心した。
 そのとき玄関が開く音がして、子供三人が「お姉ちゃんだ!」と揃って反応した。こちらの騒ぎを不審に思ったのだろう、少し早い足音が入ってくる。


「……唯?直、景?」

「お姉ちゃんおかえり!」

「咲、おかえりー。今夜はすき焼きだよ」

「真白くん……何してるの?」


 リビングで鍋を囲って和んでいる兄たちに対して帰ってきた長女は険しい目を向ける。けれどその目を真白は笑顔で無視して、立ち上がると彼女の肩を後ろから押して強制的に座らせた。そうして、みんなで手を合わせる。カグヤと遊んでいた双子が兄の両隣で同じように手を合わせて元気に合唱した。


「いただきます!」

「ちょっと、これどいういう……」

「咲、よそってあげるから器貸して」

「お兄ちゃんの分は唯がよそってあげるね」

「サク、せめてこれに汁だけでいいからいれてくれ」


 開始の瞬間にはもう会話も何もが混線してしまって、結局戸惑ったままの咲を巻き込んですき焼き大会は始まった。それなにのお粥を食べている自分の不幸を呪いながら筑紫は、それでもカグヤが少し楽しそうで安心した。真白も従兄弟というだけあって楽しそうに笑っている。こういうのを見ていいなと思える自分に少し安心して、筑紫はこの席に酒がないことに気づいた。
 結局夕食だけで帰ることになったけれど、その頃にはそれ以前のぎすぎすした雰囲気はなくなっていた。





−next−

ほのぼのっとやるつもりが……ごめんね筑紫!