私立竜田学園中等部の未だ興奮が冷めやらぬ教室に少年が足を踏み入れた瞬間、その場の空気が固まった。小奇麗な顔をしたその少年は一瞬目を眇めるが、慣れたことだと席順の書いてある黒板に顔を向けた。
 入学式が終わったといっても、幼稚舎からエスカレータ式のこの学校は小等部からほぼ全員が上がってくる。その中で何か変わり映えがあるとすれば、小等部までは家柄で分かれていたクラスメイトがランダムに振り分けられている事だろうか。くだらないなと思いながら、角倉聖は黒板にやった目で自分の名を探した。
 教室の好奇と軽蔑の視線が自分に集められていることを承知しながら、慣れたそれを無視して廊下から二番目後ろから二番目の席に荷物を降ろす。荷物と言ってもそうある訳ではなく、鞄には携帯はポケットの中だし暇つぶしの雑誌とバスケットボールが入っているだけだった。


「よう」


 ポケットに手を突っ込んだまま足で椅子を引き出していると、後ろの席から声をかけられた。ニヒルに引き上げられた唇と鋭い眼光につい聖は警戒するように目を細める。彼の隣では小柄な少年が居心地悪そうに体を竦ませて彼に耳打ちしていた。


「若、この方は例の角倉の……」


 聞きなれた台詞に聖は完全に興味をなくして席に着き、ポケットから携帯を取り出した。さり気ない仕草で足を組んで特に意味もなくメールを開き、さきほどの台詞を思い出して自嘲気味に口の端を引き上げた。
 例の角倉のご子息。その台詞は自分が小等部に編入した二年前から飽きるほど聞いた。日本屈指の角倉一門の本家に迎え入れられた愛人の子、そう影で罵られているのを知っている。長男が病気がちの為引き取られた運の強い少年だと誰かが軽蔑をこめて言っているのを知っている。今更何を言われても傷付いてやる気はないが、まだこの視線が追ってくる。それがひどく煩わしい。
 淡々と昨日も会った女性に今日も泊まりたいから迎えに来て欲しい旨を打っていると、椅子を下から蹴り上げられたのか鈍い音と振動が伝わってきて聖は億劫そうに振り返った。


「九条院龍巳だ。よろしく」

「……どーも」


 これが例の、と思ったがすぐに興味をなくし聖は視線をケータイに戻す。ざっと見たこのクラスの半分ほどが小等部では上位のクラスに属していたような人間のようで自分たちを奇異の目でちらちら見ていることは知っている。九条院龍巳と名乗った彼は、関東一帯を占める九条院組の次期組長だったか。彼もこのクラスでは浮いているだろう。
 どうでも良いと思いながら眼を細めて送信ボタンを押すと、再び椅子を蹴られた。嫌な振動に聖が不機嫌に顔を歪めて振り返る。


「何しやがんだ」

「自己紹介したんだ、お前も名乗れ」


 勝手にしたんだろ、と思いながら聖は深く溜息を吐き出してケータイを置いた。龍巳の後ろに控えていた少年は聖に見られると目を見開いて彼を凝視し、聖が眼を細めて軽く睨むと息を飲んで龍巳の背に隠れた。俺何者、と聖が呆れ混じりに視線を歪める。


「……角倉聖」

「よろしく?」

「………よろしく」


 挨拶まで視線で強要されて、聖は嫌そうに顔を歪めて呟いた。机の上でケータイが振動した。きっと彼女からの返信だろから見たいのだが、何故だかこの視線から眼を離したらいけない気がした。
 その時廊下から聞きなれた騒がしい声と数人分の足音が聞こえてきて、数秒後には勢い良く教室の扉が開いて煩いくらいの声が飛び込んでくる。その声に騒いでいた教室が一瞬静かになり、聖は大きな溜息を吐いてそちらに視線を移した。


「ひっじーりくん!中等部入学おめでとー!!」


 下級生の教室に五人もの団体様で押しかけてきた知り合いたちに聖は一瞬逃げたくなったがそういう訳にもいかないようで、彼らは一瞬にして聖を見つけると満面の笑顔でフレンドリーをアピールするように手を振りながら集まってきた。


「中等部どう?楽しいだろ?」

「まだ入学式終わっただけなんですけど。つーかマジで来たんスね」

「この青春の一ページに、はい」

「サカサカっとサインしちゃって」

「はい?」


 バンと机に叩きつけられた紙に聖が不審そうに眉間に皺を寄せると、茶髪の少年がニカリと爽やかに聖の鞄を漁り筆記具がないことに軽く舌打ちを漏らした。だから一体何なんだと叩き付けた彼の手をどかしてみると、さも当然とその紙には「入部届」と書いてあった。本当に来やがったと聖が溜め息を吐く。確かに昨日彼らが「明日祝いに行ってやる」と言っていたが、本当にしかも入部届持参で来るとは思わなかった。


「入部届は明日から」

「良いじゃん別に気にしない」

「いや、気にするし。あと俺書くもの持ってないし」

「持ってろよそのくらい。今日書いても明日書いても変わらないって」

「海人先輩適当すぎ」

「俺たち聖とバスケ出来るの楽しみにしてたのに?」

「庄司先輩可愛くない」

「聖が一番可愛くないし!」

「今日もボール持ってんだろぉ?」


 茶髪の少年の台詞に聖はバツが悪くなって「持ってるけど……」と口の中で呟いて俯いた。
 校内では有名な竜田学園中等部男子バスケ部二年レギュラー陣を、聖はだいぶ前から知っていた。角倉の家に引き取られても居心地がいい訳がないし学校でも馴染める訳がなく、聖はよくバスケットボール片手に公園で一人で遊んでいた。そんな時偶然に出会ったのが彼らだった。暇を持て余していた彼らの仲間に入れてもらって遊んだ事が何度もあった。だから彼らに遠慮もないし気後れもしないのだけれど、学校で会うと妙に恥ずかしい。そして何より、彼らに素を曝け出していただけにこの場で同じ対応をするのが難しかった。
 そんな聖を助けるように、チャイムが鳴った。


「チャイム鳴りましたけど」

「聖がサインするまで帰らない」

「直治先輩、チャイム鳴りましたけど」

「うん、聖がサインするまで帰らないよ」


 いつもやんちゃな二年レギュラーを見守る優等生的な真土直治その人に同じ問をあえて名指しでするが、彼もにっこりと笑って海人と同じ答えを返した。チッと聖がはばかることなく舌を打ち鳴らすと、海人と庄司が一緒になって顔を近づけてきた。そんな何でもない戯れが、心地良かった。
 しょうがないと思って聖が書くものを探して視線を彷徨わせると、直治が待ってましたとばかりにシャーペンを差し出してきた。分かっててやってやがったなと聖は苦々しげに彼を見上げるが、あくまで笑顔のままの彼に何も言わずにシャーペンを受け取ると自分の名を書き殴った。
 その時、入ってきた担任教師が一年の教室にチャイムが鳴ったにも関わらず入り浸っている上級生を見つけて声をかけた。


「バスケ部の二年レギュラーのお偉いさんが何やってんだ」

「もう帰りまーす」

「またねー、ゴンゾーせんせ!」

「聖、また来るならなぁ」

「もう来んな」


 清清しいほど自分勝手にやってきて自分勝手に帰っていってしまった先輩たちに聖は深く深く溜め息を吐き出した。不思議そうな教師の顔を見たくもないので携帯を開いてさっき来たメールを開くと、思ったとおり帰る頃にまた連絡をくれれば近くまで迎えに来てくれる旨が書かれていた。携帯を閉じると、それを待っていたようにまた椅子を蹴られた。無言で振り返ると、龍巳が頬杖をついたままこちらを見ていた。


「バスケ、するんだな」

「まぁ……」


 その時、また携帯が今度は手のひらの中で振動した。









 約束した公園で、聖は何気なくボールを手元で遊ばせながら古ぼけたバスケットゴールを見上げた。軽く何度かボールをついて、ボールに向かって放ると、綺麗な放物線を描いてネットに吸い込まれた。


「おい」


 後ろから声をかけられて、聖はボールを拾ってから振り返った。声をかけた少年は珍しそうに聖を見やり、微かに口の端を引き上げる。教室でさっき別れたばかりの龍巳の姿に聖は不可解そうに柳眉を上げるが、彼はクックッと笑みを噛み殺してポケットに手を突っ込んだ。


「何だよ」

「俺と遊ばないか」


 龍巳の台詞に聖は思いきり顔を歪めて黙って再びボールを手元で遊び始めた。その場で何度かつき、ゴールに向かって投げる。バックボードに当たって手元に帰ってきたそれを再び投げ、今度は龍巳の方に戻った。龍巳はそれを片手で止めると、口の端を歪めて聖を見た。真新しい学ラン姿の角倉聖という少年の顔は女のように奇麗で、バスケをやっているのが疑わしいくらい小柄だった。制服を着ていても一瞬女の子ではないかと思う。龍巳の視線に居心地の悪さを覚えて聖は軽く手を上げてボールを促した。


「ボール、返せよ」

「さっきも思ったけど女みたいだな」

「悪かったな、チビで」


 顔もそうだが、きっと聖の長い髪がそれを更に思わせるのだろう。不機嫌になって手を出した所で、通りから車のクラクションが聞こえた。その後に続いて「聖」と名を呼ばれる。聖は微かに口の端を綻ばせるとペンキの剥がれたベンチに置いておいた荷物を持ち上げる。もう一度振り返ると、龍巳が無言でボールを投げ返してきた。


「じゃーな」


 歩き出しながらそう言うと、龍巳が驚いて息を飲んだ音が聞こえてきた。ボールを鞄の中に投げ入れて聖が止まっている車に小走りで駆け寄ると、女性がにこりと微笑んで迎えてくれた。


「おかえり、聖」

「ありがと、みどりさん」


 にこりと母親似の顔で微笑んで当たり前のように助手席に乗り込むと、彼女もそのまま車を出した。車内に流れる流行りの曲に耳を傾けながら窓の縁に頬杖をついて外を眺めていると隣からクスクスと噛み殺しきれない笑みが聞こえてきて、聖は不思議そうに彼女を見た。


「何、みどりさん。どうかした?」

「さっきの、友達?」

「……そう見えた?」

「どうかな」


 彼女の答えに「なにそれ」と聖は呟いて、また窓の外の流れる景色に視線を戻した。さっき来たメールが気にかかり、さっきから左手がポケットの中の携帯を弄っている。ここ数日家に帰っていない。昨日は日が昇るくらいに帰りはしたものの、それは帰ったとは言わないだろう。帰ってきて欲しいという旨の姉からのメールが何となく聖の意識を縫いとめていた。


「………みどりさん」

「んー?」

「ゴメン、やっぱり駅でいい」

「そう」


 そう言ったきり、車内にはアップテンポの音しか聞こえる事はなかった。印象的な歌詞を聞きながら、何故か聖に幼い頃に亡くした幼馴染の母親を思い出した。










 駅まで送ってもらってそこから未だ慣れない自宅へ進む。見えてきた厳つい門構えに聖は嫌そうに顔を歪めた。何でこの家はこう自分を拒否しているように建っているのだろう。中途半端な自分自身を、否定するように。
 門の前に立って入る事を躊躇していると、中から着物を纏った少女が現れた。聖の姿を認めた瞬間嬉しそうに顔を綻ばせ駆け寄ってくる。


「聖さん!おかえりなさい」

「美月さん、走ると転びますよ?」


 この家で唯一自分を純粋に好いてくれているように思える姉に微笑みかけると、彼女は「大丈夫ですぅ」と言って頬を膨らました。聖の隣に並び、一緒に中に戻っていく。美月があまりにも自然に自分を促してくれるものだから、聖は自然に玄関から家に入った。いつも、あんなにも後悔と居心地の悪さを感じるというのに。


「聖さん。帰ってきて早々で悪いんですけどね、兄様がお話したいと……」

「分かりました。着替えたらすぐに」


 部屋の前で姉が申し訳なさそうに告げる言葉に内心を押し隠して聖は微笑んで見せた。角倉本家の長子である自分の兄は、生まれつき体が弱かった。二十までは生きられないと医者に宣告され、代わりに自分が引き取られた。穏やかな顔をして自分を品定めしている兄が、好きではない。しかし彼が見せる厳しさはこの家の事を思っての事だと伝わってくるから憎むことも出来そうもなかった。
 聖は物のない部屋に荷物を放ると適当な着物に袖を通し、出来るだけ急いで帯を回す。女のそれと違って男のそれは簡単だし着流しだから慣れてしまえば洋服よりも簡単で、聖は肩ほどまで伸びた髪をさっと手櫛で整えて纏め上げるとかんざしを通した。ものの数分でそこまで支度すると、出来るだけ気を落ち着けるために深く呼吸しながら兄の部屋に向かう。
 兄と違って、父は自分の事を本気で疎んでいる。長男の代わりだといっても愛人の子を引き取ったのだ。それは彼にとっても汚点だった。聖の母親は、気まぐれに交わしただけの相手なのだろうから。


「兄上。聖です」

「入っておいで」

「失礼します」


 いつもこの瞬間が怖いと思う。監視されるようなそんな気がして息が詰まる。聖は兄の部屋の戸をそっと開けると、頭を下げて彼の寝ているふとんの隣に腰を下ろした。起き上がった兄の背に羽織をかけてやると、彼は微かに笑みを浮かべた。


「今日は中等部の入学式か。どうだった」

「特に変わりありません」

「そうか。授業は?」

「明日からはじまるそうです」


 質問の意図を探りながらゆっくりと答えていくと、彼は微笑んで聖の言葉に頷いた。これで終わりにならないかなと聖は思う。角倉に引き取られてから、授業の予習復習総て兄に監視されてきた。それまで特に何もしなくても好成績が取れていた聖にとってそれは苦痛な時間であり、兄の出す難問ですらさらりと解けてしまうことが妙に居心地の悪さを煽った。できれば今日はそれは勘弁してもらいたい。そう思っていると、彼はふっと息を吐き出して手を組んだ。


「疲れているだろうから明日、復習をしよう」

「はい、では失礼し……」

「聖」


 これ幸いとばかりに腰を浮かせた聖は不意に向けられた鋭い視線に息を詰めて座り込んだ。いきなりこの射るような視線は心臓に悪い。そう思いながら兄から視線を逸らして俯くと、彼は細い指で聖の顎を掬い上げた。近づいた視線に、背筋が震えた。


「昨夜、帰ってきたのが遅かったそうだね」

「………」

「以後、気をつけるんだよ」

「善処します」


 絡めるような視線から逃げるように早口でそう言って、聖は今度こそ立ち上がった。軽く頭を下げて、早足で部屋を出て行く。早足で自分の部屋まで歩いて、自室に入って初めて詰めていた息を吐き出した。
 そのままの格好のまま畳に体を倒して肺の中身が空になるくらいに息を吐き出して眼を閉じると、さきほどの彼女の台詞が浮かんでくる。


『さっきの、友達?』


 その台詞が妙に心臓を締め付けて、聖は誤魔化すように鞄の中の雑誌を取り出した。





―続―

先輩s出張りすぎです。