朝、あまり寝ていない聖はぼんやりとしたまま教室に入った。春休み中に自堕落満載の生活を他人の家でしていた聖にとって久しぶりに実家でとった睡眠は禄に意味を持たず、欠伸を噛み殺す。昨日貰った教科書はすべてロッカーに放り込んであるので、今日も持ち物はスポーツバッグにボールペン一本とバスケボールが一つ。そしてポケットに携帯と財布が入っているだけだった。
 やはり教室中の視線浴びながら、聖はつまらなそうに自分の席に着くと携帯を取り出す。今日は帰りたくないから、目的のアドレスを探し出してメールを打つ。


「おはよう」

「……はよ」


 このクラスでも干渉してくる人間なんていないと思っていたのに後ろから声を掛けられて、聖はやや遅れて返事を返した。昨日面倒くさくて無視したら椅子を蹴り上げられた事は記憶に新しい。億劫だが振り返ると、九条院龍巳は無表情で立っていた。その後ろでは小柄な少年が聖の視線にビクリと肩を振るわせる。
 その反応を見慣れたものだと内心嘆息して、聖は視線を携帯に移した。いつも何も聞かずに泊めてくれる年上の女性に今日泊まりたいのだと言う事を仕事頑張ってというメッセージと一緒に送った。


「お前、携帯が友達な訳?」

「は?」


 後ろから溜め息混じりに訊かれ、聖はいぶかしむように眉を寄せた。ちらりと視線を背後に移せば、龍巳の視線は自分の手元のダークグレーの携帯に注がれている。何となく居心地が悪くて、聖は手のなかのそれをポケットに滑り込ませた。


「関係ねぇだろ」

「別に」


 不機嫌に聖が呟くと、龍巳は何でもないことのように言って視線を上げて微笑を浮かべる。するとちょうどチャイムが鳴り、担任の大河田が入ってきた。
 九条院龍巳という人間は、妙な人間だと聖は思う。家柄重視のこの学校の中で『角倉に引き取られた愛人の子』である自分に声を掛けてきた人は今まで誰もいないし、それでいて聖に取り入るつもりもないようだ。彼が九条院組の跡取りで周りから避けられているわけでもない。彼には、ずっとくっついている少年がいるのだから。本当に、妙な人間だ。しかしその奇妙な人間にほんの少し興味を持っている自分がいることも事実で。
 何となく頬杖をつきながらそんなことを考えていると、ポケットの中の携帯が振動した。返事かなと思って、教師の目を盗んで机の下でメール画面を開くと彼女からの返信だった。さっと目を通し、溜め息を吐く。今日は仕事の関係でダメだそうだ。舌打ちでも漏らしたい気分になって、しかし聖は同じメールを違うアドレスに送った。自分を泊めてくれる女性は、大勢いるのだから。


「なぁ」


 メールを送信し終わると静まり返っていた教室がざわめきを取り戻した。それに気付いて聖が顔を上げると、同時に椅子の下から蹴り上げられたのか嫌な振動を感じた。不機嫌全開で振り返ると、微かに笑みを刷いた龍巳と目があった。


「何だよ。つーか椅子蹴んじゃねぇよ」

「バスケ部入るんだろ?レギュラーの人たちと随分仲良いな」

「別に。仲良いんじゃなくて遊ばれてるだけだろ」


 いい加減にして欲しくて聖が言うと、龍巳は薄く笑ったまま聖の長い髪に手を伸ばした。昨日は結っていなかったが、今日は綺麗な髪を高めの位置で女物のかんざしで括っている。物珍しそうに触れてくる龍巳に聖は諦めてポケットの中で携帯を転がした。さっき送ったメールの返信は、まだ来ない。


「色、抜いてるのか?」

「染めてる」


 不機嫌なまま聖が言うと龍巳は意外そうに微かに目を瞠った。聖の髪は元々母譲りで色素が薄い。それを見た美容師の彼女が染めてみたいと言い出し、あれよあれよという間に栗色に染められしかも前に近い数房にメッシュまで入れられた。これの見返りは、 三日分の寝床だった。


「お坊ちゃんもそういうことをするんだな」


 若干の驚きを含んだ龍巳の声が酷く印象的で、聖は奇麗な顔をほんの少し歪めて目を閉じた。チャイムと一緒に教師が入って来て授業をしている間、何故か背後の人物が気になって仕方なかった。










 小等部は四十五分ずつ授業が行われるが、中等部からは午前中の授業は九十分になる。
 実質二時間目、体育の授業の為に聖は着替えてグラウンドに出た。髪は先程よりも高い位置で括っているので、白い項が覗いている。現れた心の底からだるいなと思っている聖の気だるげな姿に女子だけでなく男子も息を飲んだ。教師も息を飲んだ。その刺さる視線にウザそうに瞳を歪めて聖はクラスメイトが集まっている数メートル前で止まり、一緒に歩いてきた龍巳も止まる。体育は二クラス合同なので人数が多く、いつもより多い視線に聖は更に目を細めた。


「お前本当に男?」

「………」


 掛けられた龍巳の声に、聖は龍巳を振り返った。しかし先ほどまでのうざったいと言う視線ではなく、他の色を含んでいた。更衣室で着替えている時に見た龍巳の姿を思い出して聖はマジマジとその部分を見つめてしまった。その視線に龍巳が不思議そうに首を傾げた。


「何だよ、冗談に決まってるだろ」

「お前のそれ、本物?」

「それ?……あぁ、本物」


 聖の視線の意図に気付いて、龍巳は眉を跳ね上げた。聖に質問されたのは初めてだ。
 更衣室で見た龍巳のわき腹に、女の首の彫り物があった。今までまったく龍巳に興味がなかった聖だったが、その刺青だけは興味を引いた。何となく、自分と近い匂いを感じた気がした。
 クラスの輪の外でぽつぽつと会話していると、さっきまで聖に見とれていた教師がチャイムで我を取り戻しホイッスルを吹いた。その音にクラスメイトが皆小走りに駆けていく。それよりも遠い所から、聖と龍巳は面倒くさそうに歩いて整列した。


「準備運動した後、二人一組で柔軟体操!」


 教師の声の後にホイッスルが鳴り、集まっていた彼らは適当に距離を取った。誰が掛け声を掛けるのかと思っていたら、政治家の息子だったか男子生徒が声を張り上げる。ご苦労な事だなと思いながら、聖はだらだらと体を動かした。
 あまり教師は見る気がないのかだらだらしていても特に何も言われずに準備運動が終了すると、周りは皆柔軟の相手を探して声を掛け合っていた。視線を感じて聖が視線を巡らせると、クラス中どころか隣のクラスの女子までもがこちらを見ていた。


「おい」


 当たり前のように龍巳に声を掛けられ、聖は振り返った。すると周りから諦めの息と「でも九条院さんも角倉様も見目麗しいからそれだけで目の保養になりますね」などと言っている女生徒の声が聞こえる。聖がどっちなんだと息を吐き出すと、周りの生徒達は粗方くっついたようだった。


「お前はそいつがいるだろ」


 龍巳の後ろで自己主張するように手を上げたり跳ね上がったりしている少年を見て聖は溜め息を吐くと、視線を巡らせた。聖の所属するD組は男子も女子も奇数だから、きっと女子にも余りが出ているだろう。そして女子だったのならば確実に落す自信がある。龍巳が少年の姿に呆れた息を吐き出している間に聖は奇数で固まっている女子を見つけた。奇数でいると言っても、2人の所にあまり仲の良くない少女が声を掛けたようで彼女たちの間に距離がある。
 もらった、と思って聖はそちらに近づいた。何となく、龍巳と一緒にいたくなかった。


「ねぇ、もし良かったら一緒に組んでくれないかな?」


 近くまで歩いて行って、聖はにこりと今まで教室で見せた事のない笑顔を浮かべた。それを直視してしまった女子の呼吸が止まる。周りで偶然見てしまった男子の呼吸も止まる。それを見て聖は内心ニンマリと笑んだ。自分の顔は正しく判断できるし、今までの十二年間この笑顔で落ちなかった女性はいない。残念ながら格好良いのではなく可愛いなのが自分では納得がいかないが。


「組む人いなくてさ」

「あの、私で良かったら」


 ほんの少し俯いて苦笑すると、周囲がざわめいたのが分かった。「ね?」と上目遣いに彼女たちを見つめると、三人の中で一番可愛らしい少女が遠慮がちに名乗りを上げた。彼女は二人に声を掛けたようでほんの少し距離を置いていたし、顔もまずまず。内心「ラッキ」と思って聖は微笑んで彼女の顔を覗き込んだ。


「ありがとう、湊舞依さん」

「なんで、名前……?」

「クラスメイトでしょう?それに、可愛いし」


 邪気のない笑顔を邪気満載の心意気で聖が浮かべると、舞依はぽっと頬を染めた。内心「耐性ないな」と思いながら聖が彼女の手を取ると、さらに真っ赤になる。その顔に苦笑して、聖はちらりと龍巳を探した。数メートル離れた斜め後ろにいた彼は呆然と聖を見ていて、聖は微かに意地の悪い笑みを浮かべる。自分は、こっち側の人間だ。


「そんなに緊張しないで。柔軟しよう」

「う、うん……」


 柔軟しながら、聖は頭の中で思考を巡らせた。これでクラス内の株もそこそこで、いつ兄の耳に入っても問題はないだろう。それだけではなく、これは牽制。龍巳に対して「俺に構うな、お前とは違う」というのと、クラスメイトに対して「これ以上踏み込むな」というのと。聖が積極的に絡んでいくことによって、ここまでは近寄っていいが、ここからは踏み込ませないと言うラインを見せる事に成功した。これで、いい。


「角倉くん、奇麗な顔してるね」

「そう、かな。ありがとう」


 彼女への第一印象は、そこそこ可愛くて扱いやすそう。そして、物怖じしない。単純に容姿を褒められて、聖は慌てることなくにこりと笑顔を返した。いつも「聖は本当に奇麗ね、可愛い。女の子みたい」と言われるので、それだけなことに逆に違和感を感じてしまう。断じて可愛いといわれたい訳ではないけれど、条件反射とは怖いものだ。


「湊さん、体硬いね」

「角倉くんが柔らかいんだよ!」

「いや、俺普通」


 奇麗な笑みを浮かべて聖が返すと、舞依はほんの少し驚いたように聖をマジマジと見た。なにかやってしまったかと聖が一瞬身構えるが舞依はにこっと笑い、自分の中の緊張を誤魔化す為に聖もにこりと微笑んだ。
 何となく、調子が狂う。逃げたいなと思っていると丁度良いタイミングでホイッスルが鳴り、それに顔を上げた聖は舞依に微笑みかけて集合を促した。


「校内探索も含めて宝探しをする!一時間後に集合、校内の数箇所にサッカーボールと野球ボールが隠してあるからそれを見つけろ」


 いや、それって宝探しとかじゃなくてボール探しの手伝いじゃねぇの?瞬間的にそう思ったが、それは聖だけのようで周りは期待に目を輝かせて教師のホイッスルと一緒に元気に散って行った。竜田学園中等部ってこんなにバカだっけと聖が深く息を吐き出すと、龍巳もそう思っていたらしく後ろから「バッカじゃねぇの」という呟きが聞こえた。


「一緒に回ろうぜ」

「……別にいいけど」


 頷いてから聖は意識した。自分は、彼を恐れていた。九条院龍巳という人物に押し殺した聖と言う人間を晒されることを、極端なまでに。海人先輩たちに晒している自分をクラスメイトという近すぎる存在に晒す事を恐れた。それは言い換えると、『角倉』という名前に自分が押しつぶされている。


「聖って呼んでいいか?」

「勝手にすれば」

「んじゃ、聖」

「何だよ………龍巳」


 躊躇って、聖は彼の名を呼んだ。呼ばれた名前と呼んだ名前は二人の距離をほんの少し縮める。呼ばれた龍巳は一瞬驚いたようにマジマジと聖を見たが、すぐにニカッと笑った。
 もしかしたら、あれから自分を曝け出した事がないかもしれない。海人先輩たちにだって接している自分は自分ではないかもしれない。それを自覚した瞬間悩むよりも吹っ切った気がした。自分を晒す方法を忘れてしまったかもしれないけれど、何も気にすることはないと気付いたからそれだけで十分だ。


「若!若ぁぁぁぁあ!」


 だるそうに二人がグラウンドから校舎に向かって歩いていると、前方から凄い勢いで走ってくる少年が見えた。いつも龍巳にくっついている少年だ。彼は龍巳に突進してくると泣きそうな顔で早口でまくし立てた。それに龍巳がうんざりした顔で答える。


「若!どこにいらしたんですか!?」

「お前がどこかに行ったんだろう」

「若がついていらしてると思ってました!」

「何でそう思えんだよ」

「そもそもなんで角倉のご子息と!?」


 質問の間に龍巳の眉間に深い皺が刻まれた。その顔にはウザイとはっきり書いてあるが、彼は気付いていないらしい。そして最後の質問に、とうとう龍巳が切れた。脇で聞いてた聖は詰まらなそうに空を仰いでいる。
 龍巳は眉間に皺を刻んだまま少年の胸倉を掴み上げて顔を近づけた。ぶんぶん揺すりそうな勢いで、どすの効いた重低音の呟きを漏らす。その本場仕込の声に彼は体を竦ませた。


「うるせぇよ。俺が誰といようと関係ねぇだろが」

「申し訳ありません、若!」


 叫びだしそうな声で言った少年に龍巳は瞳を眇めたままぱっと手を離した。そしてほんの少し困った顔で聖に視線を向ける。その視線に気付いた聖は龍巳を見て曖昧に微笑んでみせたが、すぐに其れが無駄な事と知る。


「うちの組が用足してる料亭の跡取りで森誠だ」

「……で?」

「よろしく」

「あぁ、よろしく?」


 誠ではなく龍巳が彼を紹介して、聖は特に興味無さそうに首を傾げた。特に微笑んだわけではないが誠は頬を染め、なにかを喚きながら走り去っていってしまった。何なんだと思いながら、聖は再び青い空を仰いだ。世界がほんの少し奇麗に見えた気がした。





-続-
湊舞依(みなと まい)
森誠(もりまこと)

聖さんと舞依ちゃんの初対面。つーかこんな中学生嫌です。