教室と言うのは亜空間なんじゃないかと、聖は思う。思考の読めない人間の塊、関わる必要の疑問を感じざる人間、できれば避けて通りたい人間とのふれあい。一種の牢獄なのではないかと思って、聖は密かにため息を吐く。
溜め息を吐くと、倖せが逃げちゃうわよ?
なんでかその言葉が、頭を過ぎった。どうせ倖せなんてあってないようなものだろうと聖はちらりと時計に目を落とした。昼の前の三、四限目、家庭科の時間。良家のお坊ちゃん達にとって家庭科などは珍しいだろうが、聖にとって炊事はかつて生活の一部だったから興味なんてわかない。教師の言葉を聞いているふりをして、今日何度目かの欠伸を噛み殺した。確かに、大人の女はすごいと改めて思い知らされる。
「おい、いつまで呆けてるんだ?」
「何が」
俺も男なんだけどな、と思っていると後ろから呆れたような声がかけられた。授業中に何だと思って不機嫌に呟いて顔を上げると、一体何の話をしているのかクラス中が立ち歩いて各自数人で固まっていた。黒板を見ても教師は微笑んでいるだけで、何があったのかサッパリ分からない。
状況を掴んでいない聖が誤魔化すように曖昧に微笑むと、龍巳は手元のプリントに自分の名前と聖の名前、それから龍巳の後ろで騒いでいる自称・若の側近、森誠の名を書いた。
「何それ?」
「お前、全く話を聞いてなかったのか?調理実習の班決め」
「若!この森の跡取りの僕に任せてください!」
「男女五人くらいの班を作るんだと」
龍巳の手元のプリントの自身の名前に聖は微かに笑みを浮かべた。自分を当たり前のように呼んでくれる人間がいる。今まではいらないと思っていたが、これはこれでいいものかもしれない。
龍巳の後ろで騒いでいる誠が煩いと思って視線を移すと目が合ってしまい、聖は反射的に微笑んだ。これは悪い癖だと思うが、条件反射なのでしょうがない。すると、なぜか誠はぼっと赤くなっておとなしくなった。
「男女って無理がねぇか?」
周りを見ながら聖が呟くと、龍巳は不思議そうな顔をして首を傾げた。「人数的には問題ないだろ」と言うのだが、問題はそこではないと思う。一応聖は角倉の人間だ。だからこそ近づいてくる人間も少ないし、聖の愛想もない。ある事はあるが、学校と言う場所で発揮されるものではない。加えて龍巳は悪人顔でかの九条院組の跡取り。どこの物好き女が寄ってくるんだ、こんな班。
聖の顔をマジマジと見た龍巳もその可能性に気付いたのか黙ってしまい、数秒後に名案とばかりに聖に向かって指を突きつけた。
「お前、ナンパして来い」
「やだ、面倒」
「体育ん時みたいにやればいいだけだろ?」
あんなものは非常手段だ、と思いながら聖は気を落ち着かせるように数度深呼吸する。あれをやった事がばれるとまた怒られること確実なのだ。どっちみち家に帰っていないから関係ないかもしれないけれど、元々あれは好きじゃない。
龍巳との言い争いが停戦状態に入ったとき、後ろから可愛らしい声が掛けられた。女子が声をかけてくるとは思っていなかった聖は軽く目を見開いて声のした方を見やった。そこに立っていたのは、湊舞依だった。彼女は申し訳無さそうに手を口元で合わせる。
「組んでなかったら、一緒に組まない?」
「構わないが、そっちこそいいのか?」
ガラ悪い班だけど、と龍巳が抑揚もなく尋ねると、舞依は頷いて勝手に近くの空いている席に腰を下ろした。隣にいた大人しそうな少女にも座るように促す。緊張しているのだろうか頬を微かに桃色に染めた彼女と目が合ってしまって聖はにこりと微笑みかけた。彼女がさらに赤くなって俯くので、それを見てからやってしまったと悟る。
「ごめんね。美鈴、人見知りする子だから……」
「こっちこそ驚かせてごめん」
慌てて舞依がフォローするが、聖は微笑んで頭を下げた。過去いろいろな人に「聖の笑顔って不意に見ると凶器だわ」と言われてきた聖にとって、目の前で頬を染める少女は珍しいものではない。ただ、学校内では初めてではあるけれど。
「じゃあ、とりあえずこのメンバーで組むって事でいいのか?」
「はい若!よろしくお願いいたします」
話をまとめようとした龍巳に何故か誠が元気よく頭を下げる。それを無視して、龍巳は2人の少女を見やった。どうしてこの少女たちは自分たちに声を掛けて来たのだろうかと微かに思ったが、今それを言葉にする気はない。元々龍巳は口数が少ないし、聖が何となくリラックスしているように見えたから。
「湊さんとは縁があるね」
「あ、舞依でいいよ。よろしく、角倉くん」
「いい、聖で」
言ってから聖はポケットの中の携帯が振動した事に気づいて慌てて取り出した。振動すると焦るのはどうしてだろうと思いながらメールが面を開くと、今日泊めてくれる約束をしているみどりからだった。謝罪の言葉と、今日予定が入ってしまったことが綴られたメールに聖は奥歯を噛み締めた。彼女がダメだったら、行く所がないのに。一応『どうしてもダメ?』とメールを送るが、多分ダメだろうなと思う。
「聖くんてバスケ上手いよね」
「そう?」
「うん、お兄ちゃんが言ってた。レギュラーの第一候補だって」
楽しそうにそういう舞依に聖はにこりと微笑んだ。それから黙って俯いている美鈴に視線を移すが、彼女は口を開こうとはしなかった。彼女に話題を振るべきかなとは思うが、それも面倒くさい。本来、聖はあまり会話が好きではない。否、好きではなくなった。角倉に引き取られる前は友達は多い方だったし、たくさんの人と会話した記憶がある。けれど思惑だらけのこの空間では、たった一言が命取りになりかねない。だから、あまり会話は好きではない。
「湊はなんで、バスケ部?」
「舞依でいいよ、えっと…龍巳くん?部活はお兄ちゃんが強制で」
「………大変だな」
人との会話が億劫になっていたのかもしれない。言葉の裏まで読み取るという行為は苦手ではないが、好んでやりたくはない。だから本当に中等部は家の階級が関係ないと言っても、だれとも関われないと思っていた。ほんの少し変わってきた自分を自覚して、聖は微かに目を細めた。
本当に班決めだけだったのか、授業は雑談しているうちに終わってしまった。雑談と言っても舞依が一人で話していたようなもので、それに龍巳が相槌を打っていた。ああいう風に喋れるのもいいなとほんの少し羨ましく思ったが、言葉を紡ぐ行為の恐ろしさに自分はしり込みしてしまうだろうと思った。
それよりも、今この状況を如何にかした方が懸命だと聖は考える。昼休みに食事をしていると、三年生に呼び出された。体育館裏と言うベタな場所に連れてこられたが、相手を見る限り告白ではないだろう。というか、あんな巨体に告白されるのはご免被る。
「一応聞きますけど、何の用ですか?」
「ずいぶん生意気なガキが入ったってんでな、ちょっとご挨拶だ」
「挨拶ならもうちょっと場所ってもんがあると思いますけど?これじゃ弱い者イジメみたいだ」
言って、聖はその顔に笑みを刷いた。中等部に上がると家柄が関係なくなるというのは本当のことのようで、呼び出されたのは初めてだ。『角倉』という枷が外れれば、聖はただの生意気なガキでしかない。校則違反だらけの着崩した制服、覗くアクセサリー。そして、茶色に染めた髪。これだけ揃えば立派な不良新入生だ。
自分のおかれた立場を客観的かつ冷静に判断して、聖は溜め息を吐き出した。相手はガタイのいい3年が3人。対して自分は丸腰。勝てないかもしれない。
「弱虫の自覚があんならもうちょっと利口に生きろや、お坊ちゃん!」
言いながら一人が腕を大きく振って殴りかかってきた。聖はそれを簡単に体を沈めて避けて、勢い余ってよろけた彼の首筋になれた仕草で両手を組んで叩き込んだ。簡単に意識を失った彼を冷えた瞳で見下ろして、舌を出す。
「どっちが坊ちゃんだ、ボケ」
「付け上がりやがってぇ!」
呆然と見ていた二人が一遍に突っ込んできた。繰り出される拳を体を傾けて避ける。ひょいひょいと交わしながら、こいつらはそう慣れている人間じゃないんだと楽しそうに目を細めた。生憎、聖は喧嘩には慣れている。再度飛んできた拳を今度は受け止めて、そのまま腕を引き寄せて反対の手で彼の顎を突き上げた。そいつも簡単に仰け反って倒れる。
あと1人か、と聖が武器を探そうと意識を離した刹那、背後に気配が生まれた。
「っ!」
「舐めんな、ガキ!」
反射的にそちらを振り向くが遅く、顔面に拳が叩き込まれる。とっさに頬でそれを受け、聖は体を吹っ飛ばされた。どうにか体勢を立て直して着地して、殴られたところを確認するように拳で拭うと口の端が切れたのか血がついた。プッと口内に溜まる血を吐き出して、聖は手近にあった木の棒を掴んだ。
「やってくれんじゃん」
にやりと、聖は口の端を引き上げた。久しぶりの喧嘩に意識のどこかで妙に体中がざわつくのを感じる。こっちは怪我をしたのだから、どれだけやっても正当防衛だ。さっきまで手加減していたが、これで手加減なし。
意識を保っている二人は聖の笑顔に引きつった声を漏らしたが聖には逃がしてやる気はサラサラない。体を沈めてまず一人に詰め寄って下から鳩尾に拳を叩き込んだ。それでも小柄な自分がダメージを与えられない事を知っているので、更に躊躇うことなく折れて近くなったこめかみに棒を叩き込む。
「まず、一人」
蟲惑的にすら聞こえる声でそう囁いて、聖は大声を上げながら向かってくる最後の1人に目を眇めた。彼もそこで見つけたのか棒を持っているが、慣れていないのだろうメチャメチャに振り回している。聖は避けながら溜め息に似た息を吐き出して彼の背後から綺麗に頭を殴り倒した。
「弱いくせに向かってくんなっつーの」
幼い頃に喧嘩の仕方を教えてくれた人物に心の中で感謝を述べながら聖は棒を投げ捨てると、ポケットに手を突っ込んで校舎に戻る。ふとメールを確認すると、メールが来ていた。歩きながら見てみると、みどりからでやはり泊まるのは無理のようだ。
しょうがないなと思って携帯をポケットにしまうと、前から龍巳が走ってくるのが見えた。彼は聖を見つけると安堵したのか歩調を緩める。
「……なんでピンピンしてんだよ」
「悪ぃのか?」
近づいてきてやや落胆の色を浮かべた龍巳に聖が口の端を厭らしく歪める。ほんの少し走った痛みに、聖は顔を歪めた。そういえば顔に怪我をしてしまったから、当分女性の家に世話になるのはやめたほうがいいかもしれない。無様な自分の姿を晒すのは出来れば避けたい。彼女たちの幻を壊してしまいそうだから。
聖の隣を歩き出した龍巳は、聖の口元の傷に微かに眉を寄せた。
「三人に呼ばれて怪我それだけかよ?」
「弱かったし」
そう呟いて、聖は口元の傷を確認するようにそっと触れた。ちくりとした痛みに無意識に眉を顰める。口の端を切っただけのようで血はもう止まっているようだが、痣にでもなったようだ。目立つ傷になりそうだなと聖は自分に舌を打ち鳴らす。
「保健室行くか?」
「……面倒」
答えてから、聖は随分龍巳と会話していることに気づいた。言葉を選ぶという行為をせずに、声を発していることが自分には珍しいことに思える。でもまだ、今まで人とどういう風に会話をしてきて、接してきたかよく分からない。どこに本物の自分がいるとか、何かを恐れているとか。もしかしたら自分は何かを恐れているのかもしれないけれど、それを自覚すること事態が怖ろしい事に思えた。
そう思って自分の思考のくだらなさに口の端を歪めると、傷が痛んだ。龍巳が何かを言おうと口を開くが、その前に予鈴が鳴った。
「次の授業、数学?」
「数学。その顔に怪我して、先輩たち驚くだろうな」
「その前に笑うだろうけど」
「そうか?」
龍巳の質問に、聖は過去を思い出して唇を尖らせた。過去、顔に怪我をしたことがあった。これも原因は喧嘩だが、詳しいことは覚えていない。その時は海人先輩と庄司先輩には笑われ、直治先輩に馬鹿にされて亮悟先輩だけが心配そうに理由を聞きながら治療してくれた。ちなみに、護先輩には襲われかけた。
もしかしたらまたそうなるのかと思いながら、聖は顔を綻ばせると教室に戻った。
-続-
聖さんは喧嘩っ早いです。