部活の時、予想通りに海人先輩と庄司先輩には笑われ直治先輩にはネチネチと苛められて護先輩には口説かれて、亮悟先輩だけが胃を抑えながら治療してくれた。理由を問われたが聖自身が理由を知らないので、答えずにいた。
 代わりに、一つお願いした。今晩泊めてくれ、と。亮悟先輩以下揃って「家に帰れ」と言ったが、海人先輩だけは笑って了解してくれた。聖はこの答えを予想していたけれど、内心安堵して今に至る。


「お前は、俺に感謝しろよ?」


 そう言いながら、海人は聖に救急箱を差し出した。海人の家に泊まるのは聖にとってなれたものだった。家族が多い海人の家は、聖が転がり込んだくらいでは特になんとも思わない。それどころか歓迎してくれる。だからこそ何の気がねもしなくていいので、聖は何かあると海人の家に転がり込むのが常だった。
 聖が救急箱を受け取って中を漁っていると、コンコンと海人の部屋のドアが開いて小学生に上がったくらいだろうか子供が飛び込んできた。


「海人兄ちゃん、おふとん!」

「うわ、待った貴人!」


 飛び込んでそのまま上に飛び上がってきた弟に海人は驚いて慌てて手を出して弟を支えた。弟たちの微笑ましい様子を見ていた、布団を持ってきた少年が置きながらクスクス笑う。大沢家は、大家族だ。男ばかりの5人兄弟だが仲は良いらしく、それが聖にはほんの少し羨ましかった。
 弟たちを見つめる聖の視線に、大沢家の長男伸人は苦笑を浮かべて聖の長い髪を撫でた。


「いらっしゃい」

「……ども」

「兄貴、言っとくけどそれ男」


 海人の声に、伸人は一瞬固まった。聖は呆れたように溜め息を吐き出すが、海人は自分の兄をじとりと見やる。聖が家を訪れることは何度もあったのに、何を勘違いしているのだか。だいたい女だったら問題だろう。そう思うのは海人だけではないようだが、伸人は失念していたのだろう。ぎこちない笑顔を浮かべた。


「いや、海人に可愛い彼女ってのもしっくりこないとは思ってた」

「……馬鹿」


 自分の兄ながら大馬鹿だと思って、海人は溜め息を吐きながら手で彼を追い出す仕草をする。すると伸人は幸いとばかりにそそくさと部屋を出て行く。当然ついて出て行くと思っていた末の弟がまだ部屋に留まっていることに海人は首を傾げたが、末っ子の貴人は聖の顔をじーっと覗き込んで泣きそうに眉を寄せた。


「いたい?」

「ん、大丈夫」


 消毒液をコットンにしみ込ませながら聖が言うと、貴人はにこりと笑ってそっと聖の傷口に手を当てて「痛いの痛いの飛んでけー」と可愛らしく言って、照れたようにパタパタと部屋を出て行ってしまった。一体なんだったんだと聖が呆然と見送ると、海人が忍び笑いを漏らす。


「可愛いだろ、六歳って無邪気で」

「……なんか、ビックリした」


 聖のポカンとしている姿に海人は苦笑を漏らして、兄が持ってきてくれた布団をありがたく敷く。それを端目で見ながら、聖はさっさと消毒をしてバンソコを貼った。口元なのでしゃべり辛いが、文句を言ってはいられない。消毒をし終わると、聖は勝手に海人のベッドに上がって上のクッションに手を伸ばした。それを抱え込んで、顔を埋めると心地よかった。クッションの手触りが心地良いのか海人の部屋が心地良いのか分からないけれど。


「聖ベッド使う?」

「そっちで良い。海人先輩のベッドだし」

「当たり前だろ。つーか敷くの手伝えよ」

「ふとんって2人で敷くと敷きにくいって知ってる?」

「代わるとかあるだろ、やり方が」


 「後輩の癖に」と悪態を吐く海人に聖は笑って、体を倒した。ここは、心地が良い。言葉を全て吐き出せる気がする。気負う必要もないし、何かに遠慮することもない。そんな気がした。それでも目の前で笑っているこの人は先輩で、やはり自分の間とは隔たりがあるのだろうか。けれど聖が彼らと会ったのは先輩としてではない。だからこの不安定なバランスの上に立っているのだろう。


「………」


 言葉が見つからなくて聖が黙っていると、布団を敷き終わった海人がベッドに上がった。聖に覆いかぶさるようにして顔を近づけ、その行動に聖は不可解そうに眉を寄せる。その顔に苦笑に似た笑みを浮かべ、海人は聖の手からクッションを奪って手を拘束すると聖を完全にベッドに縫いつけた。


「ホント聖って美人だよな。ちっちゃいし、女の子みてぇ」

「で?」

「このまま襲っても良いかなって」

「………」


 悪戯に笑った海人を無表情に至近距離で見つめ返すと、海人の方が呻き声を上げて体を起こすと降参の意を示すように両手を挙げて肩を竦めた。奪ったクッションを聖に投げ返すと、聖はそれを抱きしめて海人に不審そうな視線を送る。


「冗談だって。これで少しは気ぃ落ち着いただろ?」

「たちが悪い」


 不機嫌に顔を歪めて、聖はクッションを抱えてベッドを降りた。しかしベッドにもたれかかる。クッションが気に入ったようなので海人は何も言わずにベッドに寝転がった。何か言いたそうな聖の言葉を待っていると、聖が膝を抱えて呟いた。本当に分かりにくい奴だと海人は思う。気が立っていることも悩んでいることも聖自身が分かっていないのだろうか、変化は本当に僅かだ。自分たちだって見逃してしまいそうなほどに。


「……会話すんのが、こわいと思った」

「誰と?」

「人と。教室にいる時、こわくなった」


 怯える幼子のようにクッションに顔を埋めて、聖は呟く。
 人と接する方法が不意に分からなくなった、と。今まで接しないようにしてきたから、どう接したらいいかわからなかった。どこまでが見せるべき本心で、どこまでを隠すべきか。口に出していい言葉が分からない。口に出してはいけない所が分からない。
 そう呟く聖が、海人には泣きそうに思えた。


「言いたいこと言ったらいいだろ?俺たちには出来るんだからさ」

「……どうやってやってるのか分かんない」

「しょうがねぇ奴」


 こんなに弱っている聖は久しぶりだと海人は笑い、聖の頭をくしゃくしゃとかき回した。
 昨日、亮悟が言っていた。聖は変わってきていると。けれどそれは自分たちと会ったときと同じとても不安定なもので、きっと聖1人では潰れてしまう。まだ聖は誰かを信用する事に慣れてはいないから、自分たちが見守ってやらなければ心配で仕方がないと、胃の辺りを押さえながら言っていた。


「好きなこと言ったらいいんだよ。少なくとも俺たちは嫌わない」

「別に、嫌われても……」

「嫌われたくないから悩んでるんだろ?俺たちみんな、お前のこと好きだから」

「………」

「特に亮悟なんて、胃痛めながらも心配してるんだぞ」

「それいつもじゃん」


 漸く笑った聖に、海人はにかっと笑って更に頭をくしゃくしゃとかき回した。聖が抵抗するのもお構いなしだ。かき回してから、聖を押しつぶすように上から乗っかると聖が一瞬呻いてから体を滑らせてふとんに寝転がった。やっと聖らしくなってきたと、海人は思う。
 それから、と肺に溜まった空気後と吐き出すと、聖が守護を求めているようなか弱い瞳で見上げてきた。この瞳があるから、自分たちは聖を手放せないでいる。


「無理矢理笑うなよ」

「……笑うとさ、別物な気がするんだ」


 呟いた聖の声が泣きそうだから、気付かない振りをして海人は「電気消すぞ」と言って返事を待たずに消した。こうすれば聖が泣いてしまっても気付かないふりもできるし寝たふりもできる。海人がベッドに寝転がって待っていると、聖が布団に潜り込んで口を開いた。


「俺、条件反射みたいに笑うけど……それは、俺じゃない」

「あの女に見せるやつな」

「昨日、笑うなって言われた。無理して笑うなって」


 聖がたくさんの女と関係を持って寝床を確保していることは知っている。言い換えれば売春になってしまうけれど、それでも聖は必死だったから何も言えないでいた。その中の女にも聖を大切に思う人がいたのかと安堵の息が漏れる一方、また違う聖の姿に呆れもする。
 それほどまでに聖は、何を恐れるのだろう。何も恐れていないふりをして、本当は世界そのものを恐れているように思える。


「いいじゃん、普通にしてれば」

「それで棄てられたら俺、生きてけないもん」

「………馬鹿」


 今度こそ心底呆れたように、海人は言い放った。その言葉に聖は息を詰めるが、何も言い返さないでいる。いや、言い返せないのだろう。きっと聖は自らの愚かさを自覚している。
 嫌われることを恐れながら、だからこそ世界を拒絶する。そのジレンマの中に長いこと身を置いたのだろう、歪んだ表現。歪まざるを得なかった心。それほどまでになるほどに気付かなかった自分たちの愚かさもさることながら、世界を愛したがっている聖の涙を誘う愚かさに海人は唇を噛み締めた。


「お前のこと、嫌いになんてなれねぇよ」

「……分からねぇじゃん、そんなこと」

「そしたら俺たちが慰めてやる。それでどうだ」

「あんま嬉しくない」


 そう言いながらも聖の声は心なしは嬉しそうで、海人は手近にあったクッションを掴むと聖がいるだろうところに向かって投げてみた。すると丁度良いところに行ったようで、聖のくぐもった呻き声が聞こえた。文句が飛んでくる前に、声を落として囁く。


「さっさと寝ろよ、でかくなれねぇぞ」

「そのうち抜いてやる」


 「そいつは頼もしい」と軽口を叩いて、海人はふとんに潜り込んだ。その間に聖の静かな寝息が聞こえてくる。相当疲れていたのだろう。女のように小柄で奇麗な顔をしながらも、きっと誰よりも苦しんできた。それは『角倉』という家の人間だからだろうか、それとも『聖』という人間に降り注いだものなのだろうか。
 考えても分からないけれど、全ては聖が乗り越えていかなければならない問題だ。自分たちは変わってやれる事ができない。しょうがないなと嘆息して、海人は目を閉じた。










 朝早めに海人と共に家を出て、聖は海人と分かれて教室に向かった。朝は先輩たちに弄り回され、その頃には全てが吹っ切れたような気がしていた。まだ不安なことは多いけれど、どうにかなる気がする。こうなったらもう怖いものはないと思って、聖は教室のドアを開けた。刺さる視線に、やはり躊躇う自分を自覚する。


「おはよう、聖くん」

「あ……おはよう」


 声をかけられ反射的に微笑みを浮かべて、聖は挨拶を返す。その笑みを見てしまった舞依の向こうにいたクラスメイトたちが次から次へと挨拶を仕掛けてくるので聖はやってしまったかなと内心苦笑しがら挨拶を返す。苦笑する余裕のある自分にビックリした。
 漸く全員返したのか自分の席に行くと、本を読んでいた龍巳がゆっくりと顔を上げてにやりと笑った。


「おはよ、聖」

「はよ、龍巳」


 欠伸を噛み殺しながらそう言うと、龍巳は笑んだまま本に視線を落とした。一体何なんだと思いながら荷物を降ろすと、昨日初めて認識した町谷美鈴とばっちり目が合ってしまった。反射的に聖は微笑んで挨拶すると、彼女はぽっと顔を染めて俯いてしまう。


「おはよう、美鈴ちゃん」

「……おはよう」


 蚊のなくような声で返された返事に聖がにこりと微笑むと彼女はばっと顔を逸らしてしまった。その反応に聖がきょとんとしていると、後ろから龍巳の押し殺したような笑い声が聞こえた。一体なんだと思って振り返ると、面白そうに口の端を歪めている。


「色男は大変だな?」

「ま、俺美人だから」


 言ってから、自分はこんなことが言えるのかと素直に自分自身に感動した。龍巳も意外だったらしくポカンと聖を見つめたが、すぐにクックッと肩を震わせて笑い出した。
 聖は文句を言おうと口を開いたが、言葉を発する前にポケットの中のケータイが震えた。聖は言葉を飲み込んで慣れた手つきでケータイを開くと、すぐに眉間に皺を刻んだ。その変化に龍巳は首を傾げるが、「どうかしたか」と問いかける前に聖の曖昧な微笑みに問う事さえ出来ずに口をつぐんだ。





-続-

小さい貴人が可愛いんですけど。