昼休みに学食でパンを買ってきた聖は、弁当を机の上に置いて腕を組んで待っていた龍巳の姿に軽く目を見開いた。聖の持っている安っぽいビニール袋にはやきそばパンとサンドイッチ、パックの飲み物が入っている。一方、龍巳の机の上に乗っているのは、おそらく重箱だろう。一瞬近づきたくなくなったが、聖が踵を返す前に龍巳が聖の姿に気付いて瞼を上げた。逃げられないと悟って、聖は小さく溜め息を吐き出すと肩を落として自分の机に向かう。
自分の椅子を引き出して片手で器用に反転させて龍巳の机に向かせると、聖は腰を下ろして袋の中から昼食を取り出し、龍巳は手馴れた仕草で風呂敷を解いた。
「……何で重箱?」
「普通じゃないのか?」
「普通ではないと思う」
言いながら聖はパンの袋を開けた。金持ちはどうか分からないけれど、世間一般では弁当に重箱を持ってくる人間を聖は知らない。周りを見回しても学食で買ってくる人間が多いのか、弁当箱を持っている生徒は少ないけれど重箱は龍巳以外いない。
不思議そうな顔をしている龍巳から顔を逸らして足を組み、パンを食べる。そのとき、廊下が俄かに騒がしくなった。特に興味がないけれど、他のクラスメイトは興味津々なのか教室の窓やドアに駆け寄っている。ふと周りを見回して、聖は瞬いた。
「今日、あいつは?」
「あいつ?」
「森誠」
「休みだ。家の方の事情でな」
「ふーん」
「お前が人のことを気にするなんて珍しいな?」
「確かに」
龍巳の指摘に聖は「やけに静かだと思った」とにやりと笑って見せた。言葉にしてから気付いたけれど、誰かの存在を気にかけたのはどれくらいぶりだろうか。昨日零した僅かな本音は、確かに聖の中に波紋を落としたのだろう。大河のなかに降った一滴の血でも誰かが気付くように、聖が気付かないうちに聖が知っている。
久方ぶりの感覚に聖は誰にも気付かれないほど僅かに苦笑を浮かべた。妙に渇くのどを潤すためにパックのジュースにストローを刺すと、教室の中がどよめいた。一体何ごとだと思って聖がストローを銜えたまま視線を巡らせると、ドアの所に見知った女生徒が立っていた。彼女は近くにいた生徒に何か話しかけて、こちらに向かって歩いてきた。
「聖さん」
話しかけられた生徒は顔を緊張で真っ赤にして固まっている。それをちらっと見て聖は目を眇めた。しかし特に構わずににこやかに自分の名を呼んだ彼女ににっこりと笑顔を向けてパックと机の上に置く。
「美月さん」
やってきた彼女は手を伸ばし、聖は細いそれを取るとぎゅっと自分の両手で握りこんだ。龍巳が驚いたような顔で見ているけれど軽く無視して、聖は小首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。周りからは「あれが角倉の……」や「本物?」など不躾な言葉と視線が向けられている。舌打ちでも漏らしたくなったが知らないふりをして、聖は微笑む。
「お食事中にごめんなさいね。今日は絶対に帰ってきてください」
「そのことなら、さっきメール見ましたよ?」
「この間、聖さんは帰ってきませんでしたよね?」
「……そうでしたっけ?」
にっこりと笑って視線を明後日に向けた聖に美月は唇を尖らせて聖の柔らかい頬に指を伸ばし、そっと触れるときゅっと抓った。朗らかに笑っている美月に聖が諦めたように両の手を上げると、美月は嬉しそうに笑ってぎゅっと聖を抱きしめた。いつものことなので聖は動揺しないが、周囲が大きくざわつく。
「兄様が、今夜大切なお話があるそうです」
「……はい。分かりました」
「聖さんが帰って来ない間、兄様には部活動だって言い訳してありますからね」
一瞬表情を翳らした聖が笑顔を取り繕って言うと、美月はにっこりと微笑んだ。きっとその言い訳は苦しいものだったのだろうけれどそう言いつづけて自分を護ってくれている姉に感謝を込めて、聖は「美月さん大好き」と呟いてぎゅっと抱きついた。甘えるように頬を摺り寄せると美月はクスクス笑って聖の髪をそっと梳く。その光景を見ているクラスメイトだろう悲鳴が飛び込んできたが、聖は聞こえないふりをした。
「兄上にお変わりは?」
「ありません。明日からお出掛けするそうで、今夜聖さんにお話があるって仰ってました」
明日からと言うことは泊まりで当分いないのだろう。本当は心底面倒くさいけれど、これは帰らなければならないだろう。入学式が終わって一ヶ月近く経つが、実家に帰った回数は数えるまでもない回数だ。月に1度は帰ろる努力をするといつか約束したから、今日は諦めるしかない。そう思って聖は美月から腕を離して指を出し、それに気付いて美月も細い指を絡めた。いくら聖が小さいからと言ってもやはり男なのだろう、美月と比べて柔らかさを失っていた。どんなに幼いふりをしても、確実に成長している。
「今日は帰ります。約束」
「嘘ついたら、一週間私の荷物持ちをしてもらいますからね」
念を押すような美月の顔に聖は微笑んで頷き、絡めた指をそっと振った。いつだったか、約束をした。ずっとずっと前だから約束した彼女ももう覚えていないだろうけれど、漠然と約束をした。それを思い出して聖は微かに目を細める。
今まで黙っていた龍巳が、箸を銜えたままポツリと呟いた。
「先輩たちだ」
聖がえっと思う間もなく慣れたようにぞろぞろと長身の団体様が五人入ってきた。彼らは迷うことなく真っ直ぐ聖たちの方に向かってきて、後輩たちと同級生の姿に一瞬だけ足を止めた。
「げ、角倉さん……」
「じゃ、じゃあ聖さん、帰りは待っていてくださいね。絶対に逃げちゃダメですよ」
誰が漏らしたのか分からない呟きが聞こえたのだろうか、美月が慌てたように聖に念を押してぱっと踵を返した。途中ですれ違った男子生徒たちに軽く頭を下げ、小走りに去っていく。その背中を見て、聖はほんの少しだけ悲しそうに目を眇めた。
分かっていることだ。この学校にいる人間には、人のもつ力は価値でしかない。『角倉』という価値は紙一重なもので、時に最も弱いものになる。そのことを聖は、真の意味で理解していないのかもしれない。
「聖、ケガ大丈夫?」
「なんで五人で一緒に来るかな……」
ちらりと手元の時計に視線を落として時間を確認してから、聖は食べかけのパンに手を伸ばした。ジュースで流し込みながら呆れたように呟くと、にこにこと嘘くさい笑みを浮かべていた直治がにっこりと笑って聖の髪をかき回して顔を上げさせた。髪を引っ張られて何を怒っているのかと思ったが、先輩たちの顔に浮かんでいるのは怒りではなく心配に似た色だった。
「いい加減にしないと僕たちも怒るからね?」
「は?」
「何かあったらすぐに言うんだよ?」
直治と亮悟が前に出て聖の視線に合わせて体を屈め、じっと瞳を覗き込んだ。本気で心配そうな亮悟の顔は血の気が引いているようで、聖は逆に心配になった。髪を掴んだままの直治の手をぱっと振り払うと、代わりとばかりに護が聖の顎に指を添えてくいっと持ち上げて顔を近づけた。その後ろで庄司と海人が腹を抱えて笑っている。
「聖、愛してるよ?」
「うん、嬉しくない」
「口ではそう言ってても体はどうかな?」
「飯を食わせろ!」
顔を近づけられて、聖はいい加減に切れて声を荒げ、護の体を押しのけた。彼らに背を向けていらつき交じりにパンにかじりつくと、今度は後ろから腕をまわして抱きしめられた。うんざりとして聖がふりかえると、海人が聖をじかに抱きしめてその後ろで庄司が海人に抱きついていた。一体何なんだと聖があからさまに溜め息を吐いて食べ終わったパンの袋を丸めると、後ろから楽しそうな海人の声が耳を擽った。
「なぁんで姫がここにいたの?」
「姫?」
「角倉のお姫様」
「なんでって、釘を刺しに?」
「どういう関係よ、お前」
「姉弟」
聖をからかうように抱きしめていた海人が、固まった。その後ろで庄司が「聖も角倉だよな」と呟く。あからさまに落ち込んでいる海人を肩越しに見ながら、聖はサンドイッチの袋を開けた。正直鬱陶しいなと思いながらちらりと視線をやると、海人の頭を慰めるように亮悟がよしよしと撫でている。落ち込んだまま聖から離れて去っていく先輩たちに、聖は「一体何をしに来たんだ」と呟いた。
部活がないことを結局メールで知った聖は、約束どおり美月と共に車に乗った。聖自身家の車に乗ったことがあまりなく、久しぶりに乗るそれに妙に緊張を強いられる。それを見透かしたかのように、美月の手が聖の手に重ねられた。にこりと聖が反射的に笑むと、美月はにっこりと微笑んだ。
「ねぇ、聖さん?」
「なんですか」
「さっき、大沢君たちがいたでしょう?仲がいいの?」
妙に不安そうな瞳で見つめられ、聖は微かに首を傾げる。大沢君とは海人のことなのは分かる。けれど美月と面識があったことは聖にとって意外だったし、彼女がこんな顔をしているのも見たことがなかった。初めてみるこの顔はよく知っている。聖は美月の質問に頷き、笑ってほのかに赤くなる顔を覗き込んだ。きっと彼女は、自らの中の想いがあってはならないものだと思っている。
「好きなんですか?海人先輩のこと」
「そ、そんな!私には許婚もいます、から……」
「ごめん、美月さん。泣かないで?」
泣きそうに歪んだ美月の顔に聖は慌てて言って美月を抱きしめた。美月が何も言わずに黙っているのでますますやばいと思って抱きしめる腕に力を入れる。許婚のいる身とはどれほど重いものなのだろうか、聖には分からない。何人もの女性に偽物の愛を交わし、その全てを軽く見ている聖には理解できない。
「中学生の恋愛なんて、ガキの遊びだよ」
未来に夢を見ていられるような砂糖菓子のように甘い恋しか知らないけれど、自分が本気の恋をしていないのは知っている。自分は恋も満足できないのは心も体も成長できていないからだと、思っていた。
妙に重い沈黙が落ちてしまって居心地の悪い思いをしていると、家に着いたようで運転手が車を止めてドアを開けた。聖は美月の肩を抱きながら車を降り、自然な仕草で彼女の荷物も受け取る。
「美月さん……」
「大丈夫、ごめんなさい。行きましょう?」
美月の肩を抱きながら聖が彼女を促すと、美月はゆっくりと足を進めた。玄関までの距離を歩いているうちに美月は落ち着いたのか微笑を浮かべ、玄関を開けるといつもとかわらない朗らかな声で「ただいま帰りました」と室内に呼びかけた。二人揃って家に上がり、制服姿のまま荷物だけを聖の部屋に放り込んで兄のいる奥の間に向かう。歩きながら聖は髪を手櫛で梳かし、だらしなく着崩している制服のボタンと留めた。美月も軽くスカートを直し、兄の部屋の前で一度足を止めた。
「お兄様、ただいま帰りました」
「お帰り、美月。今日は聖は一緒かな?」
「はい、兄上。ただいま帰りました」
「お帰り。入っておいで」
兄の静かな声が聞こえ衣擦れの音がした。2人が顔を見合わせてそっと襖を開けると、体を起こしたばかりの彼は優しげに微笑んで聖を手招く。聖は一度会釈すると体を滑らせるようにして室内に入った。美月も入ろうとして、しかし彼は微かに頭を振った。
「悪いけれど美月はまた今度。今日は聖と話があるんだ」
「……はい、失礼いたします」
兄の言葉に美月は頭を下げ、やや落ち込んだ声でぱたぱたと部屋を後にした。聖が知っている限り今目の前にいる兄が美月を部屋に入れたことはない。あからさまではないけれど避けているようにも見える。美月を気にしていたからか、彼は立ち竦んでいる聖の名を呼んだ。はっとして聖が戸を閉めて兄の枕元に腰を下ろす。ゆっくり頭を下げると、兄の優しい声が降ってきた。
「部活動を頑張っているそうだね。聞いているよ」
「はい、ご報告が遅れて申し訳ありません」
「その顔の傷はどうした?」
顔のばんそうこうに気付いて、彼は末弟の頬に手を伸ばした。しかし聖はビクリと体を強張らせその手を避けて体を引く。その仕草に彼は苦笑してほんの少しだけ悲しそうに顔を伏せた。聖が慌てて後ずさった分だけ体を戻して言葉をかける。聖にとって兄は畏怖の象徴のようなものだけれど、恐れているものではない。
「すみません、ちょっとビックリして……。ちょっと部活でぶつけただけです」
「……ならばいいけれど、気をつけなさい」
「はい。申し訳ありませんでした」
「今日呼んだのはね、明日から私は父上と一週間ほどでかけるから、留守の間頼んだよ」
病気がちな兄の療養と仕事のためにスイスに一週間ほど滞在するらしい。その間、たくさんの手伝いや執事がいるけれど、女だけになってしまう。本家の男児として後を任せたと言って微笑んだ兄に聖はどう返事していいのか分からなかった。角倉の人間だと信用してもらえたことを喜ぶべきなのか、ただ家というものに縛られる口実を突きつけられているのか。いつも読める相手の手の内は、兄相手に成功したことはなかった。
「それからね、聖ももう中学生だからあまり口を出すのをやめようと思ってね。しっかりやっていると聞いたし」
「…はい」
「その代わり、角倉の人間としてやるべきことはやりなさい」
「……はい」
これは解放なのか、自由という名の束縛なのか見えない。けれど一つ確かなことは、兄の前に出る回数が極端に減るし、やることさえやれば家に帰ってこなくても誰に気を使うこともない。出来るだけ物事を肯定的に取るようにして、聖はゆっくりと頭を下げた。まだ、喜んでいいのか悔しんで良いのか分からない。
-続-
別サイド恋物語が発動しました。