週が開けると、教室内どころか学校内はある一つの話で持ち切りになっていた。どこから話が漏れたのかは定かではないが、学校内で皆その話をして驚きと侮蔑の入り混じった表情を浮かべている。中には当然だというような顔をしている人間もいて、龍巳は不機嫌に誰にも分からない程度に顔を歪めた。


「若、角倉のご子息のお噂をご存知ですか?」


 自分よりも遅れて登校してきて「おはようございます」と頭を下げてからそう切り出した誠に、龍巳は読んでいた本を机に置くと溜め息を一つ吐き出す。朝から学校の敷地内どこでも聞くことができる噂を知らない訳はないし龍巳はそれで不機嫌になっているというのに、周りは皆好奇の対象としてその話をしている。角倉聖が、先週上級生に暴力をふるった。三人を相手にほぼ無傷で、停学になるだろうと噂されている。その話が間違っていないことは龍巳自身が本人に聞いたから知っている。けれど、語弊があるのだ。聖が悪いのではないことを、誰も知らない。目の前にいる、クラスメイトでさえも。


「上級生と喧嘩して勝ったらしいですよ。でも若なら瞬殺ですよね!」


 なんでも龍巳と比較する誠はまだいい。けれどクラスメイトのことだというのに、蔑んでいる奴等もいることを龍巳は感じていた。遠くから聞こえてくる会話には、確実に聖を愚弄する言葉が聞こえてくる。自分に何の力もないくせに親の力を誇示したい輩なのだということは簡単に理解できるが、これで聖は傷付かないだろうか。


「所詮『角倉』も、それほどのものだということだな」


 聞こえてきた高らかな声に龍巳は不機嫌に声のした方に視線を移した。窓際の席で自慢気に見たわけでもない聖の噂をしている少年は、向井敦。角倉と張るほどの旧家の長男だが、現在は零落して家名だけの名家になっている。だから、聖の存在が気に食わなかったのだろう。自分の手柄のように、聖の話をしている。
 聖は、この話をきいて傷付くだろうか。「やはり育ちがものを言う」とか「角倉と言っても所詮愛人の子だ。粗暴だな」など、勝手な話が広がっていく。


「僕らも気をつけなければ、あの暴虐さが移ってしまうかも知れないよ」


 その言葉に後に、話を聞いていた奴等から一斉に視線を向けられて、龍巳は瞳を眇めた。きっとこれは、聖と付き合っているから向けられる視線ではないだろう。龍巳自身が小等部のときから感じている一種の差別だ。九条院組という巨大な組織の本家に生まれたことに対する異質さの拒絶。きっと聖にもあったのだろう、『角倉』という名のもとに生まれた重圧が。本妻の子ではないという事実は、きっと龍巳が感じた以上に聖は辛い思いをさせただろう。何より、龍巳には温かい組員たちや誠がいた。けれど、聖には支えになれる誰かがいただろうか。
 視線を向けてくるクラスメイトたちを睨みつけると、彼らは遠目にもわかるほど体を竦ませた。そのときにガタンと前で音がして、視線を移すと聖が椅子を引いた音だった。


「聖、おはよう」

「……はよ」


 振り向くこともせず呟いた聖に龍巳はむっとして聖が座った椅子を乱暴に蹴り上げた。何をするんだと言わんばかりの聖の視線が向けられるが、その瞳はいつもと違って感情を素直に見せてはくれない。出逢ってまだ短いけれど、龍巳は聖の思いが読めた気がした。


「椅子蹴んなって言ってんだよ」

「テメェが馬鹿じゃなきゃ蹴らねぇよ」

「あ?」


 聖が不機嫌な顔で首を傾げた。その顔に、噂を知らないのかと思い斜め後ろに控えている誠に視線を送ると、待ってましたとばかりに誠が説明を始めた。朝から学校中でこの間の喧嘩の件が話題になっていることを伝えると、聖はにっこりと笑顔を浮かべて誠を上目遣いに見やった。その瞬間に誠は相手が男だと分かっているのに真っ赤に頬を染める。その顔を見て、龍巳はなぜだか聖が全てを知っていることを知った。


「おい、お前知って……?」

「別に、関係ねぇだろ」


 聖は素っ気なくそういうと、ポケットから携帯を取り出してさっさと龍巳に背を向けてしまった。その背中に龍巳は聖の過去を見た気がした。小等部でも、このような扱いだったのだろう。『角倉』の子息だから、近づきにくい。けれど、『愛人の子』だから近づきたくない。だれもいないところで、聖は1人で過ごしていたのだろう。小さな聖の背中が世界を拒絶しているようにみえるのは、当たり前なのかもしれない。きっと今まで聖を受け入れたのは5人の先輩たちだけなのだろう、だから、彼らにだけ見せる表情がある。誰も理解してくれないのなら、頑張ることすらばからしくなる。それは龍巳も知っている。知っている人間だけに、見せる顔があればいい。そう、思っていた。
 朝のHRで、聖は担任に呼ばれた。










 昼休みに担任に呼ばれ、聖は食事もとらずに生徒指導室の椅子に腰を下ろす。ポケットではケータイがしきりに振動しているが、出てもいいかは分からない。
 目の前で腕を組んで深刻な顔をしてる担任の市町正の顔から興味無さそうに視線をそらすと、彼は一度唇を舐めてからゆっくりと口を開いた。彼はゴンゾー先生と呼ばれているが、名前との関係は特にない。


「角倉。言いにくいんだが、その顔の怪我はどうした?」

「別に。ちょっとドジっただけです」


 間違ったことを言っていないと思って、聖は窓の外に泳がせた視線を軽く細めた。自分の詰めが甘かったから油断して殴られただけの話で、自分の落ち度だ。この怪我があったから本気で反撃したのだけれどと舌を出したくもなったが、聖はゆっくりと瞬いただけだった。真実を告げる気はサラサラなかった。何を言っても聖の言葉は真実にならない。周りの噂は真実でなくても事実のように構成されていき、本人の言葉の方が軽んじられることが多い。そして一番強い発言力を持っているのは結局は『家』になるのだ。何を言っても、最終的には角倉の判断が聖の事実を作る。


「上級生と喧嘩をしたと言うのは本当か?」

「知ってること訊くのって時間の無駄だと思うんですよね」

「事情は本人に訊くものだろう?」


 意味のないことを、と思いながら聖は欠伸をかみ殺した。土日だったので女性の部屋に居続け、ろくに寝ていない。午前中の授業は美術と数学だった為ぐっすり寝かせていただいたが、やはり教室で寝るのではあまり体力回復にはならない。
 聖の態度に困ったように眉を下げたが、市町先生は机に身を乗り出すようにして口を開く。


「角倉を停学にしろと、怪我をした生徒が要求しているんだ」

「停学にでも何でもすればいいじゃないですか」

「……なんにも言わないのか?」


 興味無さそうに言った聖に市町先生は不安そうに聖を見た。けれど聖はにこりと微笑んだだけで何も言わない。聖は、何も言わないことが正しいと分かっている。言ったとしても、それはただの権力を振りかざしただけだ。聖は、『角倉』を好いていない。言おうと言うまいと結果は付いてくるので何も言わない。聖が何か言った所で、結果は変わらないことを理解している。


「結局、何なんですか」

「角倉家からは内々に処理をしてくれと言われた。ただし、処分は問わないそうだ」

「ま、当然でしょうね」


 先日兄に言われた「口を出すのをやめようと思ってね」と言う言葉は、やることさえやれば不干渉と言うことだ。裏には義務を付帯しているけれど、それ以外は干渉しない。護ることも攻撃することも、何もしない。そう言った兄は今日本にいないし、と聖は思って口元に微かに笑みを浮かべた。どんな処分になろうと、それはきっと『角倉』からの解放の証になるだろう。それを実感できるのなら停学でもなんでも、嬉しいほどだ。逆に自由な時間ができるから嬉しい限りだ。学校に来るのは、苦痛を伴う。
 市町先生は聖の余裕のある笑みに不安そうに顔を歪める。この少年は、歳にそぐわぬ顔をする。


「処分は、ない。これからは気をつけて生活しなさい」

「………それ、誰の判断ですか?」


 市町先生が苦虫を噛み潰したような顔で告げると、聖はうっすらと笑みを浮かべて立ち上がった。その笑みは12歳の少年のものなのに、背筋にぞくりと寒気が走る。その瞳を真正面から見てしまい言葉を紡げないでいると、聖はいたずらっ子のような笑みを浮かべなおして部屋を出て行った。彼のポケットの中では、変わらずに携帯が振動していた。










 一日不愉快な思いをした聖は、いい加減に切れそうになっていた。聖自身気が短い自覚はあるが、このくらいの無視や侮蔑の視線には耐え切れると思っていた。いままで二年、似たような生活をしていたのだ、変わりはないはずだった。けれど耐えられなかったのは、ここが中等部だということだ。高らかに演説をする馬鹿がいるし、よく知っている先輩たちが無駄に面白おかしく騒ぐものだからいい加減鬱陶しい。
 でも今日耐え切れたのは、龍巳がいたからだと言うことも聖は心の底では分かっていた。一時間目から何も知らないように一緒にいたのは同情からでもないことも分かっている。きっと、友達だから。この響きが恥ずかしいけれど、正しいことだ。


「聖って変なのに好かれるよなー」

「好かれてねぇだろ、この状況は」


 しみじみ言った海人に言い返して、聖は溜息を吐きだした。少し離れた所ではチームメイトたちが遠巻きにこちらを見ているが、これは先輩たちといるからだろうか。けれどその後ろでは、向井敦がいまだに自慢気に聖の喧嘩の話をしている。昼休みに呼び出されたことや、そこで処分なしだったことまでどこで知ったのか話している。それを聞いた人間は、揃って聖を見、その視線が更に聖の機嫌を損ねた。チームメイトも二年レギュラー陣も何を言ったらいいか分からず、彼らを無視しているしかなかった。


「ま、可愛い子はどこに行っても視線の的だからしょうがないよ」

「亮悟、それはどーよ」

「あいつも結構うざいな。あとで聖と試合させようか」

「つーか聖、チームメイトのところに行かないとハブられるんじゃん?」


 好き勝手に言っている先輩たちに聖は肺の中の空気を全て吐き出すほど深く溜息を吐き出した。その息に庄司が後ろから聖の顔を不思議そうに覗き込むが、理由は分かっていないようだ。周りの彼らが何も言わないのは、楽しんでいるからだろう。


「そう思うんだったら庄司先輩が俺を離せばいいと思うけど」

「だぁって聖って抱き心地いいんだもん。いっそ俺の彼女になんない?」

「俺は女じゃねぇよ」


 不機嫌に呟いた聖に「知ってる」と笑って聖を抱きしめていた庄司はいつものようにしつこくするではなく聖を離した。あまりに素直なので意外そうに聖が軽く目を見開いたが、あっち行けとでも言うような直治の視線にどこか恐怖を感じて聖は彼らに背を向けた。
 本当は、彼らと離れるのが怖い。自分のことを否定しないで、どんな噂があっても付き合ってくれた人間だからたぶん誰よりも信用している。けれど、チームメイトたちはちがう。龍巳は何も言わないが気にしてはいないのは分かる。彼も、現場に程近い位置にいたのだから。けれど、他の人間は違う。何を考えているかがわからないのだ。怖い訳ではないけれど、体が強張るのが分かる。
 けれどそれは、ただの杞憂だったことを聖は知った。ゆっくりとした足取りでチームメイトの方に向かうと、寿季が一番に手招いてくれたのだ。


「先輩たちんとこいるから声かけづらいって」

「……悪い」


 彼らは、全く気にしていないのだろうか。目の前の寿季は、変わらずにニカリと笑っている。晃は変わらず無表情だし、葵は相変わらず読めない顔で聖を見ている。心の中では何を考えているかは読めないけれど、少しだけは信じていいかもしれないと思い始める。


「聖」


 ほんの少し聖が笑みを浮かべると、葵の淡々とした声が聞こえた。いつの間にかチームメイトは名前で呼ぶようになった。それが段々普通になってきているので特に不思議に思えないが、葵に呼ばれると妙に心が逸る。彼が持つ独特の雰囲気のせいだろうか、今も体が微かに強張っている。聖の動揺に気付いているのかいないのか、葵はじっと聖をみて微笑む訳でもなく口を開いた。


「ここに空はないよ」

「……は?」

「それとも騎士が欲しい?それとも誓いに胡蝶草を贈りたもうか」


 相も変わらず葵の言葉は何が言いたいかは分からない。けれど胡蝶草の花言葉が「あなたと一緒に」だと知っているし、空が嘘を示していることは理解できた。空の言葉は、嘘。それは、彼らの中に含まれていないのだろう。聞こえてくる声は自分をイラつかせるものばかりだし向けられる視線はムカつくけれど、この中にいれば何も疑う必要はないのだろう。それを意識した瞬間に聖は体が軽くなったような気がした。今まで萎縮していたのだろう、自分らしくないと思う余裕も出てきた。
 その時、一際大きい声が聞こえた。その声は確かに、自分に向けられたものだということが視線と言葉に含まれる毒で簡単に分かる。


「やはり権力とはすごいね、仮令下賎な子でも当然のように護られるのだから」

「おい、テメー……」


 頭の中で、引っかかっていたものが取れた感じがした。今まで我慢していたのが馬鹿らしくなって聖が低い声で唸りながらそちらに歩き出す。出した声は聖が思ったよりも感情を含んでいなかった。いい加減にしろと言おうと思っていつまでも言い続ける敦の前に行って睨み据えると、敦が勝ち誇ったように聖を見た。その顔に妙にイライラして拳を握った時、体が浮いて後ろから口を塞がれた。それが海人のせいだと気付いた時には聖と敦の間に亮悟が割って入ったところだった。


「喧嘩は良くないよ。同じ一年生同士、仲良くしないと」

「そんなに聖が気に食わないなら、正々堂々勝負しようぜ?」

「角倉聖君は、先輩達にも護られているんだね。さすが『角倉』」

 敦の言葉にはっきりと敵意を読み取って、聖は海人の腕から抜け出そうともがいたが流石に敵わなかった。聖の抵抗を物ともせずに二年レギュラーは顔を見合わせ、苦笑を零す。周りからは分からないかもしれないが、彼らは聖を護っているのではない。彼を見張っているといった方が近いかもしれない。何をするか分からない聖だから多少過保護になってしまうときもあるが、決して聖は護られるほど弱くない。
 彼らから1歩離れたところで見ていた直治が、クスクスと笑いながら敦に言葉を放った。もしかしたら、これが一番辛辣かもしれない。


「直接戦ってみた方が早いかもしれないから、一on一でもやってみれば?」


 直治の言葉を待っていたように、バスケットボールが一つ飛んできた。後ろから飛んできたそれを確認することなく海人が聖を離してボールを受ける。聖が振り返って出所を探すと、護が薄く笑みを浮かべて立っていた。海人からボールを受け取って、聖はほんの少し不思議そうな顔をする。けれど質問する前に直治にコートに促された。


「文句を言わずに試合しなさい。僕たちを楽しませてよ?」


 直治にとって聖はただの玩具なのだ。笑顔からそれを読み取って、聖はボールをつきながら軽く肩を落としてコートに向かった。先輩たちの前でプレーするのはあまり好きではないのだが、彼らの眼は既に楽しむ気満々だし、敦は聖を任す自信があるのかコートで屈伸している。聖は大きく息を吐き出すと、気合を入れるようにポケットの中に突っ込んでいた飾りのついた髪ゴムで髪を高く結い上げた。





-続-

向井敦(むかい あつし)
市町正(いちまち ただし)

いつもいつも葵ちゃんの台詞に困ります。