ゴールデンウィークと言われる連休が世間にはあるらしい。小学校までは受けられた恩恵は中学に上がり運動部に所属すると自然に消滅するものらしい。さも当たり前のように連休のほぼ総ての日に制服を着て学校に行き、一日中部活だ。連休だったはずなのに休みは最後の一日しかなく、その一日に約束どおり聖は新宿の駅前に立っていた。
 買い物に行きたいと言い出した寿季だが特に何がほしいという訳ではなかったらしく、場所はどこでもいいと無責任なことを言いだした。「聖はどこでよく買い物をすんの?」と聞かれたから素直に「六本木とか銀座」と答えたら「このセレブ!」とか言われた。それが理由かどうかは分からないが、結局新宿で落ち着いてしまった。約束の時間よりも少し早くついてしまったので聖は空を見上げて目を細めた。イヤホン越しにドラムの音の向こうから聞こえてくる雑音は、いつも心地いい。


「かーのじょ、一人?誰か待ってんの?」


 不意に笑みを含んだ声を掛けられたが、聖は無視して見せた。ナンパなんて残念ながら慣れたことなので一々相手にしていたらキリがない。聞こえなかったふりをしてイヤホンに耳を傾けていると、今度はイヤホンを抜かれた。いかにも遊んでますと言っているような男が不躾に顔を覗き込んでくる。


「聞こえなかった?暇なら一緒に遊ばない?」

「……連れがいますんで」


 僅かに体を引いて聖はそう答えた。けれど男は引く気がないらしく、「じゃあ連れの子来るまで遊ぼうよ」とか言っている。どうせ目的はそこら辺のホテルでここから離れるんだろうから「来るまで」なんて約束が守られるわけがない。そもそも聖は男だ。答えるのも面倒だと思って無視していると、いきなり腕を掴まれた。無理矢理にでも連れて行く気か、と舌打ちを漏らしたくなる。そう言えば、幼い頃も似たようなことがあったなと頭の端で考える。腕を引かれてつんのめり、いい加減に聖が相手を殴ろうと掴まれていない方の拳を握った時いきなりそちらも掴まれた。


「俺の連れ、どこ連れてく気だ?」


 決して怖ろしい顔をしている訳ではない。けれど、龍巳の目は確かに恐怖を呼び起こした。相手が中学生だというのに迫力に気圧されたのか、男は何だかみっともない捨て台詞を残して足早に去って行ってしまった。掴まれた腕を摩りながら聖が振り返ると、龍巳だけではなく寿季も晃も葵さえ立っていて少しばつが悪くなった。


「聖ナンパされてやんのー」

「うっせ」

「姫は魔王に浚われるのが仕事だ」

「さしずめ勇者は俺か?」

「龍巳の顔って勇者じゃなくて悪役だろ」


 好き勝手言い始めたチームメイトに聖は一言だけ言ってポケットに手を突っ込んだ。確かに今日の聖の格好は細身のジーンズにタンクトップを二枚重ね着し、その上にショート丈のパーカー。服に合わせて小さめのショルダーバッグで、髪は軽く梳かしただけだが伸びてきたので肩を覆うほどの長さがある。聖はそろそろ染め直そうかと思っているが、時間がない。
 聖のその格好を見て、寿季はにやにや笑いながら聖の肩に腕を伸ばした。肩を組むようにして体を引き寄せ、ふわっと香ってきた甘い香りに目を細める。


「聖ホントに女の子みたい。超美人だし」

「寿季、殴るぞ?」

「えへ、冗談」


 寿季に腕を回されたまま、けれど聖は興味なさそうに歩き出した。それに続いてみんな歩き出す。寿季は新宿が初めてだとはしゃいでみたり晃は歩いたのは初めてだと感情の薄い声で言い、龍巳がそれを呆れたように聞いているが視線は厳しく周りに這い回っている。そんな中、葵は聖の隣まで来てそっと奇麗な手を握った。一体何事かと聖が顔を向けると、葵は至極真面目な顔で聖を見つめた。


「心残りがあるの?」

「………別に」

「僕たちがついてる」

「何、葵どこの次元から持ってきた話?」


 何となく心を言い当てられたような気がして聖がゆっくりと首を横に振ると、葵は心配そうな顔で聖の手を更に強く握った。けれど寿季が顔を出して呆れたような顔をするのでそれ以上何かを聞くこともできず、聖は黙ってビルの中に入った。いつも買い物に付き合わされるここは色々なブランドが入っているからまぁ気に召すだろう。そう思ったけれど、寿季の第一声は予測できなかった。
 寿季は中を見回して、並んだブランド名に目をキラキラ光らせて嘆息するように言葉を吐き出した。


「……セレブだ……」


 失敗したかもと聖は素直に思った。遊びに行くと言っても聖はあまり相手がいなかったので同世代の遊びと言うものを知らないだろう。小学校の頃は普通に遊んでいたがそれは角倉に引き取られる前なのでもう二年以上前だ。それ以降は行きずりで捕まえた女性と買い物したり、海人先輩たちとバスケをしたり。あまり同世代と遊びに行くということをしたことがない。だから、その感覚が分からない。
 寿季が行きたそうな店に何となく入ったりしながらゆっくりと歩きながら、ふと聖は龍巳の傍に寄ってその顔をちらりと見た。昼間はそんなに危なくない土地のはずだが、さっきから何故周りを警戒しているのだろう。


「警戒しすぎじゃね?」

「癖だ。家は誰に狙われてもおかしくないからな」

「……面倒くせぇな」


 何か気を使った言葉を言おうとかと思ったが、思いつかなかったのでそれだけ言った。すると当たり前だが会話がなくなってしまい、沈黙が降りる。すると、一人ではしゃいでいた寿季がこっちに寄ってきた。何だかその表情は居た堪れなさそうだ。


「聖がセレブなのは知ってるけどさ、高すぎ」

「自分がどこでもいいって言ったんじゃん」

「そりゃそうだけど……もっとお手軽に行こうよ」


 寿季の言葉にしょうがなさそうに頷きながらも、聖は表情を曇らせた。自分に今は昼間だから大丈夫だと言い聞かせて、買い物を切り上げて何かして遊ぼうとか言い出した葵の言葉を尊重して近くのビリヤード場に向かった。
 聖の表情の変化に気付いたのは龍巳と葵だけだったのだろうか、誰にも気付かせるつもりがなかった聖は歩きながらそう思った。










 近くにカラオケもボーリングもあったのにビリヤードを選んだのは無意識だったのだが、やはり深層心理とかいうものだろうか。今度カウンセラーの彼女にでも聞いてみようかと思いながら、薄暗い空間で聖はキューにチョークを塗りながらぼんやりと台の上の艶がある球を見やった。晃と葵が経験者だったらしく、不親切極まりない説明で試合を行っている。ボールが当たる軽快で重い音を聞きながら、聖は目を眇めた。ここにいると昔の知り合いに逢いそうで、周りの目が妙に気になる。


「大丈夫?」

「何が」

「顔色良くない。何もなくならないよ」


 すとんと隣に腰を下ろした葵に心配そうに顔を覗き込まれ、聖は緩く頭を振った。葵と話をしているとどこまで知られているのか分からなくて怖い半面全て話してしまっても良いのではないかと思えて心が楽になる。葵と反対のとなりに龍巳が腰を下ろした。何がどうなっているのかと思ったら、晃と寿季が真剣勝負しているらしく怖ろしく本気の雰囲気が漂っていた。


「お前、本当はここ嫌いなんじゃないのか」

「……別に、嫌いって訳じゃないけど」

「でも、何かを得ることに臆病になっている」


 そういう訳ではない、と言おうとして聖は言葉をのどの奥に引っ掛けた。得ることに臆病になっているというのは否定できないことを自分で知っている。何かを得ればその代償に何かを失うことになる。その代償が今持っている少ないものだったら、泥沼から足が抜けなくなる。もし得たと思ったものが本当は失ってしまうものだとしたら顔を上げられなくなってしまうかもしれない。何よりも、弱い自分を目にするのが嫌だった。
 黙ってしまった聖から視線を逸らして、龍巳は目を眇めた。


「ここ、昔住んでたんだろ」

「何で知ってんだよ!?」

「直治先輩が言ってた」


 噛み付くような顔で龍巳を見たが、返ってきた淡々とした声に奥歯を噛み締めて手の中のチョークを握りしめた。聖は引き取られる前にここに住んでいた。母親は歌舞伎町のホステスで、母の幼馴染は裏でビリヤード場を経営している。聖はそこで喧嘩の仕方もビリヤードも女性との付き合い方も学んだ。ここは、それだけの思い出がある場所だ。だからこそここに来るのが怖かった。ここは知り合いが多すぎる。もし知り合いに会ったら、芋づる式に母に会える。今まで、会わないようにしていたのに。きっと、これからも。
 手からゆっくりと力を抜くと、手のひらは青いチョークだらけになっていた。それをぎこちない手つきで払い落として、聖はゆっくりと深呼吸する。きっと直治先輩のことだから全て話してしまったのだろう、隠す必要はない。


「母さんに会いたくない。だからここには来たくなかった」

「……会いたいのに、会えないね」

「それはお前の為か。母親の為か」

「それは……」


 即答できるはずだった。母さんの為だと言えるはずだった。けれど聖は言葉が出てこなかった。もしかしたら自分の為かもしれない。母さんの為だと建前で自分を守っていただけかもしれなかった。けれど自分の幸せを願ってくれた彼女に会うことは罪深い事だと思う。希望を、奪うのだから。祈りも願いも全て奪い取るのはひどく罪深い行為だと思う。


「もし会って喜ばれたら、それも罪深い所業だと自分を責める?」

「………責める」


 それだけは聖の中で譲れないのだろう。やや間が開いたが強く言い切った。せめて希望だけは残してあげたい。その為に自分はどれだけ傷ついても構わないから。
 思いながら聖は唇を噛んで立ち上がった。癖で時計を確認して、そろそろいい時間なので伝票を持ってまだ真剣にゲームをしている晃と寿季を置いてレジに向かう。後ろから四人が慌しくついて来るのを感じながら聖はさっきの言葉を反芻した。何の為に何て考えたくない。それを考えたら何かを失ってしまいそうだ。


「あらやだ、聖?」


 精算を終えて4人から金を徴収していると、後ろから声を掛けられた。知った声に聖が振り向くと、彼女たちも店を出る所なのか小さなバッグだけを持った女性だった。一瞬緊張したように体を強張らせた聖だが、女性の顔を見た瞬間表情を和らげる。


「麗子さん」

「お友達?」


 長身の女性の問いかけに聖は躊躇った後軽く頷いた。後ろから寿季が「誰!?」と息巻いて聞いてくるので「彼女」と耳打ちすると彼女にも聞こえたのか嬉しそうに自らを「彼女です」と名乗っていた。彼女はこの近くでカウンセラーをしている。今日は午前だけの診療だったようで、友人と遊んでいたらしい。偶然の出会いがただの彼女でよかったと思って聖は頬を緩ませた。聖のあどけない表情に麗子はにこりと微笑んだ。


「また今度、連絡ちょうだいね」


 何気なく合流しながら店を出て、別れ際にそう言われた。聖が頷いて微笑むと、彼女も悪戯に笑って一歩聖に近づいた。僅かに体を折って聖の顔に自分の顔を近づけいつものように「お別れのキス」と囁いた。聖は慣れた風にそれを受けるが、後ろからは悲鳴のような声が聞こえた。ちゅっと軽く音を立てて口付けて彼女に別れを告げようとすると、男の物ではない悲鳴が鼓膜を揺らした。


「聖!?」


 今度は何だと思う間もなく聖は目を眇めた。つかつかと怒ったような顔をしてこちらに近づいてきたのはこの間捕まえてから連絡がうるさくてずっと無視していた女子高生だった。舌打ちでもしたくなって、聖は隠すことなく奇麗な顔を歪めた。 寿季がまた「誰!?」と興奮気味に聞いてくるが今度は面倒くさいので無視して制服を着ている彼女に向き直って一度溜め息を吐きだした。隣で麗子も不思議そうな顔をしている。ずかずか近寄ってきた彼女は聖だけを見て目を吊り上げた。


「ずっと連絡くれないんだもん、心配したんだよ!?」

「……心配される筋合いないんだけど」

「何それ。てか、この女誰よ!」

「彼女」


 聖は不機嫌に顔を歪めながら手で頭をかき回した。後ろでは「修羅場だ、修羅場」と寿季が騒いでいる。麗子に向けられた手を軽く払うと、彼女は驚いた顔で聖を見た。さっきまで怒っていた顔は見る見るうちに泣きそうに変わる。


「浮気したの!?」

「何気取りな訳。もしかして彼女気取りとか」


 クックと喉で笑いながら聞くと、彼女はやや顔を引きつらせながらも頷いた。本当に彼女気取りだったのかと聖は一瞬面白そうに口の端を歪めたが、すぐに顔に嘲るような色を浮かべてポケットに手を突っ込んだ。不安そうな顔をしている彼女が滑稽に見えてくる。


「私…彼女じゃないの?」

「俺と一回寝たくらいで彼女気取られても迷惑なんだけど」

「ひ、ひどい……」


 まるで俺がひどい男みたいだなと聖はぼんやりと思った。目の前で泣きそうな顔をしている彼女にあの時どうして声を掛けたのだっただろうか。そうだ、眼に入ったから。
 その場で泣き崩れてしまった彼女をどうしたものかと聖は頭をかき回した。端目でチームメイトたちを見るとこちらを胡散臭いものでもみているような目で見ているし、反対側では麗子が少し困ったように笑って友人に別れを告げている。聖は一つ溜め息を吐き出した。面倒くさい。


「気ぃ済んだ?」

「な、なんで……、何で私はダメなの?」

「ウザイから」


 言い切って聖は彼女から視線を逸らして駅に向かって歩き出した。数歩歩いて一度止まり、麗子に微笑みかけて「また遊ぼ」とだけ言ってまた歩き出す。数度聖の背と泣いている女子学生を見比べたが聖は止まる気も待つ気もないようなので4人は麗子に軽く会釈すると聖を追って走り出した。


「聖!」


 駅近くにまで来て漸く聖は歩調を緩めてゆっくりと息を吐き出した。肩から力が抜けたのを見てから晃が聖の顔を覗き込んで淡々とした声で問いかけた。一度瞬いた聖だが、すぐに当たり前のことでも言うように晃を見返す。その瞳に、晃はぞくりとした。この瞳には、引力がある。


「あの電話の相手か?いいのか、あんな酷いこと言って」

「俺は本当のことしか言ってない。彼女とか、ウザイだけじゃん」


 聖にとってそれはそれだけのことだったのだろう、言葉からは感情が読めなかった。けれどその声音は少し悲しみに似た色を浮かべていて、晃は口を噤んだ。人間と言うものはその人の価値観でしか動けない。これ以上言っても聖は聞かないだろう。きっと、彼らは全く違う景色を見ている。少し淋しい気もするけれど、それは真実だろう。
 晃が黙ってしまうと、龍巳はふと聖の隣に並んで髪を引っ張った。聖の驚いたような顔を見ずに前を向いたまま問いかける。


「お前、何かに執着したことないだろ」

「……別に」

「できないのか」

「面倒くさい。本気になるのも、なられるのも」


 何か考えるように口を噤んだ聖を見て龍巳は目を眇めた。聖がたくさんの女性と関係を持っていることは直治先輩に聞いて知っている。その女性たちが皆他に恋人がいたり遊びだったりと本気ではないということも聞いた。そして聖が物事に執着していないことも。あまり詳しくは聞いていない。それは聖の口から聞くべきことだと思っている。聞いたのは聖の現状だけだが、聞いただけでも聖は自分たちと違うものを見ているのだと思い知らされた。先輩たちじゃ女性恐怖症なだけだから大丈夫だと言うが、聖は果たして自分たちに執着してくれるだろうか。先輩たちに向けるような笑顔を、向けてくれるだろうか。


「じゃ、俺こっちだから」

「こっちってどこ?どこ帰んの」

「家。今日は帰って来いって言われてるから」


 すこし嫌そうな顔をしながら、聖はチームメイトに背を向けて軽く手を振った。その背中を見ながら四人は顔を見合わせ、各々帰路に着いた。





-続-

実際に取材に行ったのに活かされませんでした。