ゴールデンウィークが終わると、皆少なからず変化している。それはクラスの雰囲気もそうだし、聖もそうだろう。ゴールデンウィーク明け一日聖を見ていて龍巳は思った。今まではずっとケータイを弄っていたのにいきなり小難しい本を読んでいたり、愛想がよくなっていたり。けれど聖の愛想の良さは偽物だと分かっていた。
「学総って、ホームルームじゃねぇよな?」
現状にさっきまで読んでいた本から顔を上げて独り言のように呟いた。それを聞いていた龍巳も呆気に取られたように頷く。
中等部にのみ設定されている学活総合の授業は三年間継続内容を行う。金持ち学校ならではなのだろう、各自が会社を設立し仮想運営をする。三年後にどれだけ企業が成長しているかでその人間の能力が判定される。成績は出ないが、父兄には筒抜けの為どの生徒もそれこそ他の授業よりも本気で取り組むのだ。
学総の時間のはずなのに、この現状はどういうことだろ思うのだ。なぜ今遠足の話し合いをしているのだろう。そんなものは金曜のホームルームの時間にやってほしいものだ。特に会社運営に興味がない聖ですらそう思った。けれど、他の人間は疑問にも思っていないようだった。
「遠足ってどこに行くんだ?」
「鼠王国」
龍巳の問いに聖は本に栞を挟んで閉じながら返した。毎年、中等部の遠足はテーマパークを貸しきって一年から三年までが同じ所に行く。場所は違うけれど、今年は鼠王国ということだった。正直面倒くさいと思いながら聖が後ろに体重を掛けて揺らす。
「お前行ったことある?」
「この間行ったけどめっちゃ混んでた」
そのときの事を思い出して、聖は目を細めた。春休みが終わる頃に女性と一緒に行った鼠王国は混んでいて、とても楽しめるものじゃなかった。けれど彼女が喜んでいたから、つまらないなんて言えなくて楽しい振りをした。学校で行くそこは、楽しいだろうか。
黒板に視線を移すと、班を作る指示やその班で今日中にやる事が書かれていて、各自集まり始めている。班員は男女含めて八人くらいになるように作れば良いらしい。とりあえず三人は決まっているとして、あと女子はどうしようか。
「ね、一緒に組んでいい?」
「どーぞ」
どうしようかと思った矢先に声を掛けられて、聖はにっこりと笑みを浮かべて頷いた。声をかけてきたのは舞依と美鈴の二人だ。何となくなれたメンバーになってしまう気がして、聖はいつもよりも自然に微笑を零す。その顔を直視したのか、美鈴がぼっと顔を赤くした。
「これで五人だけど、あと三人は?」
八人には全然届かないだろうと龍巳が呟く。確かにそうだなと思って聖が辺りを見回すと、みんな二、三人で集まっているのが多いようだった。聖的にはあと女子3名とかでも歓迎だが、今はあまり人と関わりたくはない。
どうでも良いなと思って空気に任せようとした時、おずおずと近寄ってきた人影があった。
「あの、私たちも仲間に入れてもらっていい?」
「実は、ずっと角倉君と話したいなって思ってたの」
見覚えのある顔に聖は反射的ににこりと微笑んで頷いた。一人は大手電機メーカーの社長令嬢。高い位置に結われたツインテールが良く似合っている。もう一人は緩いウェーブの長い髪が可愛い角倉傘下のホテルの支配人の娘だっただろうか。中々積極的な性格なようだが、油断はならないような気がした。何を目的にして近づいてきているのかが分からないのだ、この学校の人間は。
「私、小野寺茜」
「いつも父がお世話になってます、大石さくらです」
「角倉聖です」
にっこりと笑った少女達に聖も名乗って微笑むと、二人が顔を見合わせてきゃあきゃあ騒ぐ。まるでアイドル扱いなのに苦笑するが、その後ろで龍巳が渋い顔をしていた。更にその後ろでは誠が不審そうな顔をしている。
聖は龍巳のほうに顔を寄せて、確認でも取るように僅かに唇を割った。妙に色気のあるその仕草に誠が息を飲んで数歩下がった。聖の意図を察して「七人でも良いんじゃないか」と喋り始めている女子達を見ながら龍巳が口を開くが、声を出す前に後ろからまた声を掛けられた。
「あの、僕も仲間に入れてもらっていいですか?」
「……は?」
いきなりで振り返ると、男子が1人立っていた。たった一人ということにも驚いたし、その人物が今まで聖を忌み嫌っていた人物だったから龍巳は僅かに目を眇めた。日々龍巳のために情報を集めている誠が「伊藤優一君です。角倉傘下の社長子息です」と耳打ちする。それを耳に挟んで聖も目を眇める。
「……他に友達とかっていないの?」
「ぜひ、角倉の坊ちゃんのお世話をさせてください」
やや緊張気味に頭を下げた優一を見て、聖は何となく合点して聖はにっこりと奇麗な笑みを浮かべた。その笑みを見てしまった龍巳はゾクリと背筋が泡立つのを感じる。いつだったか先輩たちが言っていた。聖は、本当に嫌なものがあると見ているこちらが怖くなるほどに奇麗な笑顔を浮かべるのだと。聖に対して伊藤優一の存在が聖に何を思わせるか分からないけれど、この話は断った方が良いと思い口を開くが、声を出す前に聖の手に遮られた。聖は笑っているけれど、不機嫌なのが見て取れた。
「どうせ君が思ってるんじゃないんだろ?別にいらねぇよ」
「そ、そんな!そんな訳には参りません、ご一緒させてください」
「……勝手にすれば」
はぁと溜め息を吐いて、聖は適当に頷いた。一昨日家に帰ったとき、帰宅していた兄に呼ばれてお茶を飲みながら土産話を聞かされた。なんでも、スイス支社の社長が直に面会を求めてきたそうだ。珍しい事だと思ってあってみると、彼の子息が聖と同じクラスの男子であり世話係を申し出た。兄の澄春自身が聖には勝手にしろと言ったしそれが本心でもあるので必要ないと思ったがあまりの熱心さに折れてしまったそうだ。笑顔で「何かあるかもしれないけれど、がんばるんだよ」と言外に一人で事を片付けろとまるで尻拭いみたいな事を言った兄を思い出して、聖は苦々しく顔を歪める。
きっとこのいつも権力が欲しいんだ。心底ほっとしている優一を端目で見やって、聖はつまらなそうに目を眇めて本に視線を落とす。
「ねぇ、角倉君。何読んでるの?」
「ん、源氏物語」
「やだ、素敵!」
続きを読もうと思ったのにさっそく邪魔されて、聖は小さく息を吐いて本を閉じた。全体を見回せば、舞依と美鈴は2人で話しているし、龍巳はむすっとしていてその後ろでは誠が一生懸命若を楽しませようと話題を振っている。
趣味とか好みのタイプとかいろいろなことを訊いてくる女子の質問に適当に答えながら聖は黒板に目をやって、目の前の女の子たちににっこりと微笑みかけた。その笑みを直視して彼女たちは一瞬言葉を失う。
「班でコース、決めないと」
「う、うん…。角倉君はどこ行きたいの?」
「みんなの行きたい所で良いよ」
微笑んで誠からさっとガイドブックを奪って少女達に渡すと、関心はそちらに行ってしまったようで聖は詰まった息を短く吐き出す。ガイドブックを龍巳に見せようとしていた誠が後ろで文句を言っているが軽く無視して、聖は龍巳に向き直った。どこか怒ったような顔をしている龍巳に小首を傾げて苦笑に似た笑みを浮かべると、龍巳も肩の力を抜くように微笑を佩いた。
「よくやるな」
「しょーがねぇじゃん、癖だし。龍巳はどっか行きてぇトコねぇの?」
「コース決めてもどうせ当日はバラバラになるだろ」
「それもそっか」
さっきとは違う笑みを浮かべた聖に龍巳は安堵したように目を細めた。一瞬聖が変ったかと思ったけれど、気のせいだったようだ。まだまだぎこちないけれど、段々距離が近づいているのはハッキリと分かった。
「おいこら角倉!若に拝見していただこうと思っていた本を返せ!」
「森!角倉の坊ちゃんに失礼だろう!!」
「なんだと!?こちらにおわすお方をどなたと心得る!」
何故だか勝手に白熱していく付き人の言い争いに聖と龍巳は思わず溜め息を吐いた。誠の時代劇がかった台詞につい「水戸光圀公」と聖が呟いてしまい、龍巳に睨まれる。それをきょとんと可愛い子ぶって笑って交わして、聖はふと視線を感じた。その先を探せば、美鈴がこちらを見ているのでついつい微笑んでみる。
「関東は九条院組の次期組長にあらせられるぞ!」
「極道など野蛮な!角倉の坊ちゃまに失礼ではないか!」
「野蛮だと!?そっちの方が小汚い手をしているくせに!!」
エスカレートしていく言い争いは段々個人的なことからその職種にまで及んでいる。これ以上言わせておく訳にも行かず、聖と龍巳は同時に肩で息を吐いてギンと二人を睨み据えた。同時に口を開いたけれど、吐き出した言葉は違う言葉だった。
「いい加減にしろ!」
「黙らねぇと黙らせるぞ」
言っている事は極道跡取りだろうが名門実業家跡取りだろうが変らない。凄んだ声に二人は同時に背筋を冷やし、自身の主の顔を見てペコペコと頭を下げる。龍巳は慣れているので無視しているが、聖は初めてなのでどう対応すれば良いのか今一分からずに「お前の好きにすれば」と言い捨ててポケットからケータイを取り出した。
「ねぇねぇ、聖くん、龍巳くん。日曜日レギュラー決めの試合だね」
「らしいね。特に興味ないけど」
「やだなー。今一年でぶっちぎりトップじゃん」
「そういや湊はレギュラー専属マネだっけか?」
「うん。だから2人共、頑張ってレギュラーになってね!」
部活の話を持ち出されて、聖はケータイから目を離して頷いた。舞依と話すときは何の気負いもないし、気が楽だ。舞依はレギュラーとともに専用コートで仕事をしているのであまり話をしないけれど、同じバスケ部だというので親近感がある。龍巳も話に混じってきて何となくいつものような気楽は雰囲気になっていると、突然茜とさくらが混じってきた。女子特有の甲高い声に龍巳が目を眇めるが、聖は慣れたものなのでさっと笑顔を浮かべる。
「角倉君バスケ上手いの!?」
「試合いつ?応援に行ってもいい?」
次早にされる質問に聖は少し困ったように眉を寄せた。すると彼女たちは少し仕舞ったという顔を見合わせて頷き合うと代表のつもりか茜が質問をしなおした。けれど聖はよく分かっていないので「聖で良いよ」とだけ言って誤魔化すように微笑む。隣から舞依が「今週末の日曜日、応援は抽選です」とマネージャーらしく言うと彼女たちはジトっと舞依を睨みつける。その視線に舞依ではなくて美鈴がびくりと体を震わせた。
舞依はその視線の意味を理解したのか、不機嫌に眉を寄せて聖を見た。その視線に聖は了解の意を示すように片眉を跳ね上げ、彼女たちに微笑みかけた。
「舞依はマネだからさ、そんな顔しないで。笑った顔、見てたいな。その方が可愛い」
「え……っ」
聖の笑顔を直視してしまい、茜もさくらも小さく息を飲んで顔を真っ赤にして黙ってしまった。後ろから龍巳の「詐欺師……」とかいう呟きが聞こえてきたけれど無視して舞依をみると、舞依も頬を僅かに染めていた。なんで舞依まで赤くなっているんだろうと思ったけれどどうせ顔がいけなかったのだろうと自己完して、特に気にすることなく龍巳に顔を寄せた。
「俺、遠足サボっていい?」
「良い訳あるか馬鹿」
にべもなく言い払われて、聖は案の上の回答に肩を竦めて笑って見せた。正直、同じ年頃の少女達は疲れるのだ。どう相手をしていいのか分からないので絶えず気を張っている。これが年上の女性ならば求めているものが簡単に分かってそれを演じていればいいだけ。だけれども、彼女たちの求める人物像は全く分からない。だから、疲れる。聖の中で、まだ素の自分と言うものは存在していなかった。
時計がチクタクと時を刻むのを聞きながら、聖は自室に寝転がってぼんやりと未だ見慣れぬ天井を見上げていた。部活が終わってから特に呼ばれたわけではないけれど誰にも会いたくなくて、家に帰ってきた。本当はみどりにとめてもらおうと思っていたのだが、生憎彼女は出張で会うことができない。だから仕方なく、家に帰ってきた。ここならば心配される事もないし、堅苦しく演技する必要もない。
「ひーじりさん。入って良いですか?」
「どーぞ?」
姉に声を掛けられて、聖は腕で上半身を中途半端に起こして声のした戸を見た。するりと開いた戸から姿を現した彼女に首を傾げれば、美月はにこにこ笑って入って来て聖の傍に寄って座った。体を起こした聖は手近な脇息を引き寄せて体をもたれかけさせる。
「どうしたんですか?」
「用はないんですけどね、聖さんが帰ってらっしゃるんだもの」
にこにこと嬉しそうな美月に一応「兄上は」と訊くと「お部屋にいらっしゃいます」とだけ帰ってきた。別に呼んでいることはないことに安堵の息を吐き出して、聖はまた美月の顔を見た。ただただにこにこと嬉しそうな顔。半分だけ血の繋がった姉は、母親にそっくりだ。無意識に聖は美月に腕を伸ばして甘えるように抱きついた。美月は、クラスの女子とは違って気負う必要はない。年上の女性とも違って、自分を偽る必要もない。だから、ほっとする。
「俺、美月さん大好き」
「私も聖さんが大好きです」
抱きついたまま体重を移動させてずるずると美月の膝の上に頭を落すと、美月はクスクスと笑んでそっと聖の髪を解いた。顔に落ちてきた髪を掻き揚げもせずに放っておくと美月の細い指がそっと掬い取り、優しく梳く。感触と体温の心地よさに聖は目を細め、低く掠れた声で呟いた。
「クラスの女の子に、アドレス教えちゃった」
「あら、聖さんもてもてですね」
「やきもち妬きました?」
聖が悪戯に喉で笑うと、美月の手が一瞬だけ止まった。けれどすぐにまた変わらぬように優しく聖の髪を梳きだす。動揺したのかと思ってそっと顔を窺うけれど、その顔は常と変わらずに穏やかににこにこしていた。
「妬きませんよ。私は聖さんの特別だもの」
「そうですね」
ふっと息を吐き出しながら、聖も僅かに頷く。聖に惚れこむ女は多い。美月だって感情は違えどもしかしたらその中の一人かもしれない。けれど彼女たちと美月の決定的に違う所は、血が繋がっている所。母親は違うけれど、確かに同じ父親の血が流れている。特別な『姉』という存在は、他人には成り代れはしないものだ。それを美月も聖も分かっている。
「でも、正直あーゆーのは疲れる」
「お疲れの聖さん。ねぇ、一緒に寝ましょうか」
「いいですよ」
にこっと笑って、聖は美月を離してごろんと寝転がった。その姿に美月が苦笑して聖の額を指で弾く。何となく子ども扱いされているような気がして、聖は唇を尖らせて寝返りを打った。
すぐにうとうとしてきて、眠りに落ちる瞬間にそう言えば伊藤優一について訊きたい事があったなと思い出した。
-続-
聖さんに坊ちゃんて、似合わないにも程がある。