テストが終わるまでの一週間、聖は家に帰った。こうでもしないと亮悟がテストのストレスと一緒に胃に穴でもあけるんじゃないかと思ったのだ。それを口実にして、ちゃんと角倉の家の門を潜り意味もなく本を読んだりして過ごしてしまった。特に勉強した訳ではない。けれどテストが終わったと言う事実はとても開放感を感じた。これは家からの解放を意味しているからだろうか。


「テスト終わったら遠足だね!」

「聖くん、出来どうだった?」


 テスト終了後は各班で遠足についての話し合いを行う。だからだろう茜とさくらがにこにこと笑顔でやって来た。聖は「あまり良くないよ」と苦笑に似た笑みを浮かべて学校指定の鞄に筆記具を放り込み、代わりにコンビニの袋を取り出した。朝、抱えの料理人から弁当を作ろうかと言われたが丁重に断って相変わらずにコンビニに寄って来た。弁当を作ってもらったら、弁当箱を洗うために家に帰らなければならない。それが嫌だ。
 聖はおにぎりの封を切りながら椅子を後ろに向けた。むすっとした龍巳が誠から弁当を受け取っている所で、聖は「毎日ご苦労さん」と口の中で呟いてパックのレモンティにストローを刺した。そう言えば、世話をしたいとか言った伊藤優一はあれ以来絡んでこない。兄に会うことを避けていたので聞きそびれていたが、あれは何者なのか未だに分からないでいた。少なくとも聖にとっては誠が羨ましい訳ではないので絡んでこないことがありがたくはある。


「ねぇ、写真いっぱい撮ろうね」

「じゃあカメラマンも同行させないと」


 お嬢さまたちの会話と言うのは、たまについていけないものがある。聖は別に写真を撮る為にカメラマンを必要とするとは思えない。写真なんてインスタントカメラで十分だし、取ってもらうにしてもそこら辺の観光客だとか闊歩しているキグルミにでも頼めばいいではないかと思う。それとも女は違うのかなと思って龍巳を見ると、彼も怪訝そうな顔をしながら弁当をつついていた。
 いつの間にか茜とさくらは聖のすぐ横で食事を始めているし、その反対側に舞依と美鈴も来ていた。


「聖くん、コンビニご飯体に悪いよ。レギュラーの癖に」

「んじゃサプリでも飲むよ」

「そういう問題じゃないのに」


 小さい弁当をつついている舞依に聖は笑ってレモンティを口にした。女の子はいつも小食で可愛いと思う。気配で背後に優一が来ているのを感じながら、聖は思案しつつ割り箸を割った。今日はおにぎりとサラダを組みあわせたが、無性にカップ麺が食べたいのはどうしてだろう。


「舞依の弁当、可愛い」

「え、あ…ありがと」

「よくそれで足りんな」

「……聖くんが食べすぎなんだよ」


 呆れたような舞依の苦笑に聖は苦笑するしかなかった。普段はあまり量は食べないが、聖はよく食べる。食べるという行為が…というか、生きる為の行為すら面倒くさいと感じることがある聖はなければ食べないが、あれば人の数倍食べる。試合の日も舞依は聖が貰った弁当を三つと持参したものをペロッと平らげたのを見た。美鈴が持ってきた弁当なんて普通に食べきれないだろう大きさだったのだから驚く以外できなかった。


「聖くん、一緒に観覧車乗ろう?」

「あったっけ?観覧車」


 いきなりさくらに言われ、聖は首を傾げた。先日行った時にそんなものに乗った記憶がなければ見た記憶もない。確認のようによく知っていそうな誠を見るけれど、返事どころか反応もなかった。仕方ないので龍巳に視線だけで言わせるように促す。龍巳の言うことだけは従順に従う誠はすぐに口を開いた。


「観覧車などないぞ。ねぇ、若」

「知るか」


 誠の妙に偉そうな言い方に少女達は一瞬驚きを露にし、次いで何故か誠に文句を言い始めた。いきなり何の非も無いはずなのに糾弾されて目を白黒させている誠をぼんやりと見ながら、聖は食べ終わったおにぎりの袋を握りこんだ。少し離れて黙っている優一は一体何なのだろうか。兄からのプレゼントとしての下僕なのか裏があって取り入ってくる人間なのか、今は得体の知れない存在でしかないことしか、分からなかった。










 夕食後にほろ苦いコーヒーを口にしながら、聖は上目遣いに目の前の女性を見やった。その視線に気付いたみどりが「どうしたの?」とばかりに微笑むので、聖は誤魔化すように視線を逸らした。
 聖が今日みどりの部屋に来たのは、目的がある。あの日から振り払おうとしても振り払えない思いがあった。テスト中に考えてけれど否定したくて、結局今までみどりが捕まらなかったことでズルズル伸びてしまったけれど、今日みどりに会っている。もう逃げられないとでも言うように。


「聖?」


 考え込んでしまった聖にみどりが不思議そうに声をかける。聖は「何でもない」と笑おうとしたけれど、ぎこちない笑みになってしまって気を落ち着かせるように深く息を吐き出してゆっくりとカップをテーブルに戻した。


「あの、さ……」

「なぁに?」

「俺、みどりさん大好き」


 みどりに正直に全てを話す気にはなれなかった。角倉の家に引き取られてまもなく、聖は家を飛び出した。堅苦しい雰囲気も自分を取り巻く全ての事柄も何もかもが気に入らなかったし、それは今も変わっていない。その日は、雨が降っていた。当てもなく歩いていたところに声を掛けられ、何とはなしについていった。聖の辞書には初めから『知らない人にはついて行ってはいけません』という名文句はインプットされていないので、何の抵抗もなく関係を持った。それ以降たくさんの女性と知り合ったけれど、聖にはたった一つ絶対に守っている掟がある。


「みどりさんは?」

「大好きよ」

「何番目に?」


 絶対に、相手の一番にはならない。一番の場所は聖にとってもとても大切な場所で、未だに幼い日に別れた母親が鎮座している。そして聖自身、一番になる価値などないと思っている。だからあの時も、あの学生を切り捨てた。


「そうね……二番目かしら」


 この言葉が聞きたかった。自分にとっても相手にとっても一番じゃない、浮気の関係。みどりにはいろいろな事を教わって迷惑を掛けて、他の女性とは違う感情を抱いている。けれどみどりにとって聖が一番ではない事実は聖を安心させた。
 僅かに翳った顔でみどりが言うと、聖は微笑んで角砂糖に手を伸ばすとみどりのカップに一つ放り込んだ。沈んで溶けた甘さのようにもう戻れない関係になる前に、けじめをつけなければならないのは分かるけれど、いざとなるとやはり言葉にしたくなかった。


「迷惑掛けて、ごめん」

「何も迷惑じゃないわよ……あら、誰かしら?」


 玄関のチャイムが鳴って、みどりは不思議そうに首を傾げた。時計は8時。宅配やセールスマンが来るには遅すぎる。「回覧板かしら」と立ち上がってパタパタと玄関に向かったみどりを視線だけで見送って、聖はコーヒーを口に運んだ。改めて考えると、結構無茶なことをしている。もしかしてマゾなんじゃないかと僅かに疑いつつもう一口カップに唇をつけたところでみどりの悲鳴のような声と、その後に野太い男の声が聞こえてきた。廊下をこちらに向かってくる足音もする。何となくやばい雰囲気を感じつつも聖が動く気が起きずに座っていると、男が入って来てギロリと聖を見下ろした。


「何だぁ、このガキ」

「ちょっと、いきなり来て何なのよ!?」


 後ろからみどりが怒りを露にやって来て、ばつが悪そうに聖を見た。瞬間、理解する。この男はみどりの男で聖のことを快く思わないであろうし、みどりも言い訳が思いつかないようだった。つまり、修羅場だ。マジマジと見下ろされ、聖は思わず男を睨み返してしまった。女みたいな顔に似合わず鋭い獣のような目で男を見ると、僅かに背を震わせた男が聖の代わりにみどりをにらみつけた。


「おい、みどり。こんなガキと浮気ごっこか?」

「お兄ちゃん、みどりさんの彼氏?」


 言葉も色も失っているみどりに代わって聖はにっこりと笑みを貼り付けて男を見た。男は憮然とした表情をどこか勝ち誇らせて唇を引き上げる。無邪気な子供を偽って、聖は笑って軽く頭を下げた。唇が慣れたように虚偽を紡ぐ。


「みどりさんの甥の聖です」

「甥!?そんな話聞いてねぇぞ」

「みどりさん、おばちゃんって呼ぶと怒るから」


 弱気な顔をすることもなく飄々と嘘を吐く。聖は今までそうやって生活してきた。平気な顔で人を騙して嘘を吐いて、だから今更それが罪深いことだとは思わない。
 話を合わせるようにみどりに「ね?」と笑いかけると、緊張していた体からゆるゆると力を抜いてぎこちないながらも頷いた。まだ疑うような目を男がしているので聖はわざとしゅんとして見せた。子供の仕草なんてずっとした記憶なんてないからぎこちなくないだろうかと考えながら、聖は平気で嘘を吐く。子供でいることなど、とうの昔にやめてしまった。


「俺、帰るね。邪魔しちゃ悪いし」

「ちょ、聖!?」

「おぅ。帰れ帰れ、ガキ」


 いつものようにボールくらいしか入っていない荷物を引っ掴んで肩からかけて、玄関に向かう。みどりが慌てて追いかけてきてくれたけれど、聖は「ばれなくて良かったね」と笑っただけだった。
 いいキッカケになった。これをキッカケに分かれることが出来る。自分は臆病で踏ん切りがつかなったから丁度いい。ただ最後を嘘で彩ってしまったことが後悔になりそうだけれど、ばれなかったことの方が利は大きい。


「聖、別にいいのよ?」

「ん、帰る。みどりさん、ありがと」


 心配そうなみどりに言って、聖はちゅっと軽くみどりの頬に唇を寄せた。驚いているみどりに向かって笑ってから聖は彼女に背を向けて、今まで口にした事のない言葉を小さな声で呟いた。


「さよなら」


 紡がれた言葉を耳にしてみどりは大きく目を見開いた。聖が言葉に気を配っていることをみどりは知っている。戯れも本音もすこしずつ織り交ぜる聖の癖。けれど決定的な言葉は決して口にしない言葉。きっと誰も聖の口から「愛してる」なんて言葉を聞いたことはないだろう。同時に、「さよなら」も。
 言葉の意図を察せられる前に、聖はドアを閉じた。もう来ることはない慣れた廊下を歩きながら僅かに胸が痛んだ。けれど気づかない振りをして携帯を開いた。










 みどりの部屋とは正反対のようなモノトーンを基調とした綺麗な部屋の革張りの白いソファに座って、聖は黒いクッションを抱えて顔を埋めた。みどりと別れてから麗子に連絡を取り、押しかけのように来てしまったけれど彼女は嫌な顔をせずに聖を迎え入れた。


「そうしてると拗ねた女の子みたいよ?」

「……女じゃねーもん」


 言って更に深く顔を埋めた聖に麗子は微笑んでテーブルに聖と自分の分のお茶を用意した。それを一瞥しただけで聖は何も言わず手も出さない。それを問いただすわけでもなく麗子はただ聖の正面ではなく隣に座った。カウンセリングを職業にしている麗子は今すべきことを感じ取り、聖と少し距離を取って黙ってお茶を飲んだ。
 麗子がカップを戻すのを待っていたかのように彼女の手が自由になってから聖はぽつりと呟いた。


「俺のこと、何番目に好き?」

「四番目かしら。親友が二番、彼氏が三番。四番目が聖」

「一番は?」

「もちろん、私」


 微笑を浮かべた麗子が指折り数えるのを見ながら、聖は素直に安堵した。麗子に対して聖はただの遊び以上に頼りになる『姉』のような感情を抱いている。彼女は聖の問にちゃんと答えてくれたし欲しい答えをくれた。それが仕事の延長でも構わなかった。ただ頼れる存在があったことに安堵していたのかもしれない。


「麗子先生」

「先生なんて聖の口から初めて聞くわ。どうしたの?」

「俺ってマゾなのかな」


 甘えるように麗子の傍に寄りこてんと肩に頭を預けると、麗子の淡い桃色をした指が聖の束ねていない長髪を優しく撫でた。心地良さ気に聖が目を閉じると長い睫毛が影を落として本当に少女のように見せる。憂いを秘めた、絶世の美少女に。
 今までもいたずらに麗子に対して言葉をかけたことがあった。きっとそれは十二歳の子供が考えるようなことではなかったかもしれない、まるでサンタクロースの真偽のように。けれど麗子はどんなくだらないことでもちゃんと答えを聖に教えた。空の蒼は海の反射ではなく光の乱反射なのだと、誤魔化すのではなくて現実を語った。だから今も、聖は思ったことを口にする。彼女が知っているとは思わないけれど、考えてくれる。


「聖がマゾだったら、地球上の人間ほぼ全員マゾだわ」

「……ひどく、こんなにもひどく自虐的なのに?」


 クスクス笑った麗子だが、聖の低く口から漏れた言葉にその笑みを吐き出すように短く息を吐き出した。一瞬息を詰めたように思ったけれどそれは聖の気のせいなようで、髪を梳く手は心地良いまま動いている。麗子が軽く聖の頭を抱きしめて、耳元に囁くような声を落す。


「それはとても……加虐的ね」


 自分すらも虐げる対象になるほどに虐主的で、でも他人を傷つけることにはとても臆病なのだと麗子は言った。自分に関心がないから自己すらも苛虐の対象になりけれど他人ではないから傷つけることを恐れない。きっとそれは誰よりも強いことだけれど同時に何よりも怖ろしい。けれど、ならば苛め抜かれた精神が自分ではないのなら自己と言うものがどこにおかれるものなのだろう。「聖はとても優しいから」と締めくくった麗子の声を聞きながら、聖が重くなる瞼を無理矢理押し上げると、麗子の綺麗に口紅を塗られた唇がとても近いところにあった。


「聖は初めからずっと強くなりたかったんだものね」


 甘く動く唇に何だか妙に欲情して、聖は僅かに体を持ち上げてその唇を視界から逸らした。合わせた唇の柔らかさと温かさに何故だか泣きそうになった。
 明日の朝この家をでたら、もう彼女には逢わない。きっと家をでる時は「またね」ではなくて「さよなら」と言うだろう、みどりのときと同じように。この欲望の正体が空寂だということにはまだ気づかない振りをした。





-続-

確実に当初の予定とはずれた道を進んでおります。