電源を切った携帯を無意識に片手で閉じたり開いたりしながら、聖は壁につるされた大きな時計を見やった。もう5限の授業も終わるだろう、今日は朝から保健室にいる。保健医の先生は随分前に誑しこんである。朝麗子の部屋を出て学校に着たけれど教室に行く気が起きなかったので保健室のベッドでずっと当てもないことを考えていた。けれどそろそろ部活が始まるのでいい加減に結論を出さなければ先輩たちに居所はたちどころにばれてしまうだろう。


「いつまでもみっともねぇって」


 何度目とも分からない寝返りを打って、聖は手のひらの中のケータイを握りこんだ。この携帯は一年ほど前に女性の一人に買ってもらったものだ。使用料も彼女が払っている。けれど、全ての女性に別れを告げるつもりだ。みんながみんないついなくなっても不思議ではない繋がりだから、連絡が取れなくなったらそれで終わりだと理解するだろう。終わりだと思ったから、携帯の電源も落としている。携帯を買ってくれた彼女にはメールで別れを告げたので、あとは手元からこれを失うだけだった。
 聖はゆっくりと体を起こして顔に掛かる長い髪を掻き揚げて耳にかけ、ベッドに腰掛けたまま携帯を開いて握った。少し力を込めれば折れて使えなくなる。そうするつもりでもある。けれど躊躇うのはどうしてだろう、彼女たちにとっても自分にとっても、一番ではないのに。
 腕に力を込めると筐体が軋んだ。もう少しだと僅かに顔を歪めたとき、保健室のドアが開いて思わず携帯が何の余韻もなく折れてしまった。


「……あ」

「聖?こんな所にいたのか」


 保健医の先生が入ってきたのかと思ったら、龍巳だった。カーテンの向こうから覗きこんできた龍巳の視線が聖の顔から手元の折れた携帯に移動し、訝しむように歪められる。何か舌打ちでも漏らしたくなって力任せに筐体を繋ぐコードを引きちぎってバッグの中に放り込む。誤魔化すように完璧な笑みを浮かべて立ち上がった。


「ショート終わった?」

「……あぁ」


 誤魔化せたと思った。思って聖はバッグを肩に掛けてポケットに手を突っ込んで出て行こうとした。けれど横をすり抜けたときに腕を掴まれて、危うくたたらを踏んだ。


「何やってたんだよ」

「何って……サボってただけ。何か気ぃ乗んなくて」


 誤魔化せたと思わない。けれど龍巳に理由を言うつもりはない。今までは誰に何を思われても良いと思っていたけれど、龍巳には知られたくないと思う。現状を知られて幻滅されて傷つくとは思わないけれど、あえて口にしたくはなかった。アドレスを教えてもいないので特に問題はないと思ってから、先輩たちには文句を言われるだろうなと思った。


「……携帯」

「番号?今度教えてやるよ。部活行こうぜ」


 龍巳が何を言いたいのかは分かっていた。けれどあえて違う答えを返して、聖は笑った。偽物の笑顔を貼り付けるのなんて慣れている。何となく龍巳にはばれていると思うけれど、それでもいい。誤魔化していると気づいたら突っ込んでこないと分かるので、話を振らない。
 歩き出しながら、聖は空になったポケットに若干の物悲しさを覚えた。一番じゃなくても彼女たちはとても大切な人たちで聖にとって重要な一部だったのに、それを切り捨ててしまったのだから。けれど依存した自分の負け。この苦しさは敗者の証。思い込もうとしたけれど、聖は知らないうちにポケットの中で手を握り締めていた。


「おい、大丈夫か?顔色悪いぞ」


 龍巳に顔を覗き込まれて、聖は僅かに目を見開いた。同時に自分がきつく手を握りこんでいたことに気づいてゆるゆると力を抜く。手のひらにくっきりとついた痕を指で撫でながら、なきそうになっている自分に気づいた。それに気づかない振りをすればするほど、顔が歪んでしまう。


「泣きそうな顔してるぞ?」

「してねぇよ」


 言い捨てるように言って、足早に下駄箱で上履きから履き替えて正門に向かう。そこから徒歩五分の専用体育館に着くまで、ずっと黙って歩き続けた。










 レギュラー専用の部室に入ると、先輩たちが既にいて聖は僅かに体を竦めた。あれから先輩たちには会っていないのでばつが悪い。僅かに指先が震えるのを感じながら荷物をロッカーに放り込んでボールを取り出そうとしたら真っ二つの携帯も一緒に落ちてしまった。慌てて拾い上げたけれど乾いた音が消える訳もなく、目撃した全員が軽く目を見開いていた。


「聖!携帯どうしたの?」

「なに、イジメ!?聖の美貌を妬んでとか!」


 驚く葵と寿季の向こうから、二年レギュラー全員が僅かに頬を緩めてこちらを見ていた。ばつが悪くてそれを乱暴にバッグに放り入れる。プラスチックででも切ったのか、指に筋のように血が浮いた。舐めて終わろうかと思ったけれどそれを目聡く見て、亮悟先輩が手招く。


「聖、おいで。手当てしてあげる」

「いいっスよ、このくらい。舐めときゃ治る」

「いいからおいで」


 珍しく強い声で言われ、聖は渋々従った。3年は大会の抽選で偶然にも出払っているので直治がチームメイトに「練習始めてていいよ」と言うのを聞いて聖も行きたくなったけれど、許してもらえないようで先輩五人に囲まれた。チームメイトも出て行き辛そうだったけれど、直治の笑顔に渋々従っていた。


「俺、今日聖にメールしたのに返ってこなかったんだよな〜」

「俺電話したんだけど?」


 庄司と海人がそう言いながら部室から奥のシャワールームに繋がる部屋に促された。脱衣所として使われている涼しげな部屋の畳で出来た椅子に座らされてむすっとしていると、聖の前に亮悟が座って手を取った。丁寧にも消毒液をつけられて何だか歯がゆくて僅かに身を捩る。


「聖、携帯壊したんだね」

「……全部、終わりにするから」


 呟いた聖の指に絆創膏を貼って、亮悟が微笑んで聖の頭を撫でた。それをきっかけに隣から海人と庄司がどつくように突いてきて思わず仰け反る。椅子からこけそうになったところを護先輩に支えられついでに唇を奪われかけたが、その前に直治先輩が護先輩の頭を引っぱたいたので、勢いで唇が触れてしまった。亮悟が息を飲んだ音を聞きながら至近距離で護先輩と目が合って、一度触れ合っただけでは満足しなかったようでにんまりと笑ってもう一度顔を近づけてきた。


「護!やめないと怒るよ!?」

「冗談だって。なー聖?」

「本当に奪われるかと思った」


 珍しく亮悟先輩が怒っているので、聖はわざと目を伏せて庇護を求めた。亮悟先輩を怒らせてはならないことは暗黙のルールと化しているので、護先輩が慌てて謝るのを見て笑って、聖は一息吐いた。


「そう言えばさ、聖」

「話し終わったら練習行くんじゃねーの?」

「携帯、さっさと新しくしろよ。不便だし」

「………ん」


 庄司先輩にぽんと頭を叩かれて、聖は僅かに目を伏せて頷いた。問題は、新しい携帯をどうするかなのだと、さっき気づいたばかりなのだ。
 今まで使っていた携帯の番号は美月しか知らなかった。兄にはもちろん言っていないしばれる心配もなかった。だから今更携帯が欲しいと言っても何を突然と思うだろうし、あの人に頼み事をするのがそもそも苦手だ。けれど携帯がないと不便なのは分かりきったことなので、聖は深く深く息を吐き出した。
 先輩たちに促されて聖は着替えを済ませると部室を出て行た。すぐに集まってきたチームメイトに笑って見せると、葵が真面目な顔をして口を開いた。


「断絶は芽吹きを待っている」

「……わかんね」


 相変わらず分からない言葉だけれどきっと後になったら分かる言葉なのだろうと思って、聖は微笑を貼り付けて手元のボールを遊ばせた。中指に張られた絆創膏が存在を主張するようにボールに引っかかった。










 家に帰るなり聖は美月の部屋を訪ねた。携帯を壊すことは事前に美月にだけは話していたので連絡が取れないことは文句は言われなかったけれど、心配したのだと何度も言われた。それに同じ数だけ謝って、聖は制服を整えながら尋ねる。


「美月さん、兄上は?」

「お部屋にいらっしゃいますよ?」

「ちょっとお話が……」

「珍しいですね、聖さんからお兄様にお話があるなんて」


 クスクスと笑う美月に誤魔化し笑いを浮かべて聖は足早に兄の部屋に向かった。遠足は数日後に迫っているけれど、優一が接近してくる様子は見せない。それに何だか不安を覚えたから、兄に真意を尋ねにきた。もちろん、もう転がり込む家なんて先輩のところくらいしか残っていない。
 兄の部屋の前で落ち着かせるために深呼吸を一つした。それから、ゆっくりと口を開く。


「兄上、聖です。今お時間いただけますか?」

「おかえり、入っておいで」

「……失礼します」


 戸を開けて窺うと、澄春は書き物をしていたようだった。すぐにそれを閉じると脇息を引き寄せて聖のほうに向き直り、その姿に聖は背筋を伸ばしてやや距離を取って正面に座った。全てを見透かしているような兄の眼に体を僅かに竦めて、今日の目的を思い出す。聞きたいことは、たった一つだ。


「クラスに、伊藤優一という者がいます」

「伊藤?……あぁ、あの」


 考えるように僅かに宙を仰いで人差し指で唇に触れる仕草は、美月に良く似ていた。それは聖とも共通していて、嫌が応にも血が繋がっているのだと思い知らされる。少し考えて思い当たる節があったのか呟いた兄の言葉を自身の中で復唱して、聖は質問を続けた。


「遠足で同じ班になりました」

「……そうか」

「俺の世話をしたいそうです。兄上はどうお考えですか」

「聖の好きにしたらいいと言わなかったかな?」


 確かに、と聖は口篭った。けれど言いたいのはそういう事ではなく、確認と許可が欲しいのだ。自分が何をしても良いと、確かなものが。それが保健だろうとも自己保全だろうと必要だ。この世界には身を護る者なんて自分以外にいないのだから。自己すらも信じられない聖にとってはそれすらも信用しがたく、故に確実な事実を立て並べる。それが唯一の身の安全。


「俺の好きにして、いいですか?」

「構わないよ。玩具でも貰ったつもりで楽しみなさい」

「ありがとうございます。……それから、もう一つ」


 口内がカラカラに乾燥していて、のどを湿らす為に聖は口を噤んでのどを嚥下させた。けれど湿ることもなくやかりカラカラのままでまた口を開く。こうなったら当たって砕けろ、甘えてみよう。今まで咄嗟の口八丁で生きていた。今だってなんら変わらない。微笑んでいる澄春の眼から僅かに視線を逸らして、聖は窺うように上目遣いに言った。


「携帯が、欲しいんです」

「あぁ、そのことか。美月から聞いているよ」


 聖にケータイがないのは不便だって文句を言われてしまったよ、と苦笑した兄に思わず拍子抜けしてしまう。予想外に事が運んで嬉しいような美月に迷惑を掛けて心苦しいようなそんな感情に呑まれて、気づかぬうちに眉間に皺が寄っていたらしい。気づいた澄春が苦笑して自分の眉間に指を当てた。気づいて聖は慌てて笑みを履く。
 澄春の真意を窺うように聖は注意深くその表情を窺いながら彼の話を聞いた。


「聖に何かを強請られたことはなかったし聖は物分りがいいから、すっかり忘れていたんだけどね」

「……ありがとう、ございます」

「手続きの方には手を回したから、美月とでも行っておいで。私となど行きたくないだろうしね」

「そんなことは……」


 そんなことはないと慌てて首を振って、聖は僅かに笑みを浮かべた。「ありがとうございます」ともう一度呟いてから頭を下げて前を辞する。戸をゆっくりと閉めてから足音に気をつけて小走りに美月の部屋に行き、礼を述べてから抱きついた。夕食の後に一緒にケータイを見に行こうと約束をして、聖は揚々と自室に戻って制服を脱いだ。手を回してあるのなら全てばれているのだから適当な着物に袖を通して髪をかんざしで結いなおし、けれどきっと選ぶのは同じ機種の携帯なんだろうと漠然と思った。





-続-

携帯を是非折ってみたい。