真新しい携帯にももう慣れた。機種は今まで使っていたものと同じ、ストラップも待ち受け画面も着メロも。けれど決定的に違うのは登録されている名前の数。女性の名が全てなくなったらとても違和感があり自分のものとは思えなかった。だからこそ持て余しているのかもしれない。
 遠足も近くなったけれどやはり家に帰る気も起きず、けれど女性と一夜を過ごすでもなく聖は街の喧騒の中を当てもなく歩くことが増えていた。海人先輩の家にも亮悟先輩の家にも泊まったから正直もう行く所がなかった。亮悟先輩はバランスを取っているといっていたけれど、今になってそれがよく分かった。彼女たちに依存していた。


「いい身形したガキがこんな時間に何してんだー?」


 下卑た笑いが聞こえたと思って思考を切り替えたと同時に体に重い衝撃を受けて思わずよろめいた。荷物はバスケットボールが入っている指定鞄しかないし、時間は十時を回った所だ。こんな早い時間にイチャモンなんてつけんじゃねぇよ、とばかりに聖は彼らを睨んだけれど彼らは相当酔っているのかげらげら笑っている。


「いてててて!骨が折れた!!」

「どうしてくれんだ、ガキィ」

「このくらいで折れる訳ねぇじゃん、骨粗鬆症じゃねーの?」


 ポケットの中の携帯を手のひらで転がしながら吐き出すように言うと、柄の悪い兄ちゃん達は色めきたった。数人がお互いに頷きあい、雰囲気的にヤバイなと聖は僅かに目を眇めた。大通りを歩いてはいるけれど隣は誰も来ないような裏路地だし、そもそもこんな所に警察はこない。来たとしても補導されるのは目に見えている上に家に帰されたら溜まったもんじゃない。
 ちらりと仄暗い路地を見てやはり中に飛び込むのが得策だろうと思っていると、案の定相手は悪役そのままの台詞を吐き捨てた。


「クソガキが!やっちまえ!!」

「このガキよく見りゃ竜田の制服着てんじゃねぇか。相当のお坊ちゃまだぜ!」


 勢い付いて殴り掛かってくる拳を上体を傾けるだけで避けてそのまま路地に飛びのいた。それに乗って男たちが全員追ってくる。聖は荷物を放り出すと体を低くして口の端を引き上げた。
 喧嘩の仕方なら兄とも父とも慕った人間に教わった。絶対に負けない自信も勝機もある。最近喧嘩なんてしていなかったから体が鈍っているかもしれないが、準備体操には十分な相手だろう。そこらの不良になら、八つのときでも勝てた。そういえば彼の店はこの辺にあったかもしれないと思い出して、何となく居心地が悪くなった。


「何だ!?こいつ強いぞ!」


 どこの漫画の三下役だと聖は鼻で笑って三人目を地面に這い蹲らせた。五人いた男はいつのまにか二人になっており、相手も聖も数箇所怪我を負っている。状況は同じかもしれないけれど聖の方が数枚上手だ。にやっと笑んで1人と距離を縮め、相手が焦って拳を振り出した瞬間に沈み込んで下から顎を突き上げる。これで倒れたと思った。けれどこのとき聖はどうしようもなくもがいていた。驕っていたわけではないけれど驕らなければ自我を保てないように、不安定でもがいていた。後ろから殴りかかってくる男に気づいて反射的に避けたけれど、木片が掠って頬に傷を作った。


「……痛って……」


 何かが、弾けた気がした。抑圧していたもの全てが無になって飛び出したような妙な開放感を感じ、無意識に近くにあった鉄パイプを手にした。喧嘩の武器はこれに限ると、その人は言っていた。真似る訳ではないけれど実際聖にとっても冷たいそれは手に馴染んだ。
 後ろから殴りかかってきた男をそれを一閃させて追い払いながら後ろに飛びのき、残っていた一人の額を叩き割った。同時にそれをぶん投げて、鞄を拾って路地の奥に駆け出す。気絶していた者達が意識を取り戻して聖を追ってくる気配を感じながら、聖はやっと自分の手や制服にべったりと付着したどす黒い血に気づいた。


「あのガキ探せ!そう遠くには行ってねぇ!」


 遠くの方と近い所から呼応する声が聞こえて、聖は反射的に辺りを見回して逃げ場を探した。男達の足音が反射してどこから来るのかわからない。逃げようにもこのまま大通りに飛び出したところで警察に通報されるのがオチだろう、こちらも血まみれなのだ。とにかく逃げようと鞄を肩に掛けなおしてとりあえず大通りに向かって走り出した。けれど角を曲がった瞬間に数人の男と鉢合わせして慌てて方向転換する。


「しつけーな」


 吐き捨ててとりあえず右に曲がった時、急に腕を引かれて薄暗い店に引っ張り込まれた。捕まったのかと反射的にその手を振りほどいて身構えるけれど、暗くて相手の顔は見えなかった。店の外をバタバタと喚きながら数人の人影が通ったけれど、彼らは聖に気付かなかった。目の前の男が奴等の仲間じゃないなら誰なのかと聖は警戒したまま店の中を見回した。ビリヤード台の置かれた店内は裏新宿に相応しくくぐもった気配で換気扇を回しているし、仕舞われた「Sodom」と書かれた看板は埃を被ってそこにいた。カウンターの奥には昔と変わらずにたくさんの酒の瓶があった。
 もしかしてと思う間もなく相手の男は店内の電気をつけた。淡い光に照らされて、彼は昔と変わらずににやりとした笑みを浮かべた。


「よう、ひぃ坊」

「……あーちゃん」


 からかいを交えた呼び名に聖は無意識のうちに彼の名を口にした。もう何年もあっていない父代わりであり兄のような存在。聖に酒の味を教えたのも喧嘩の仕方を教えたのもこの酒井綾肴だ。聖が角倉の家に引き取られてからあっていなかった。店の場所を知っていたけれどあえて避けていた場所。そこに、きてしまった。
 聖は店を飛び出そうかと思ったけれど、体が動く前に綾肴が聖の首根っこを捕まえてカウンターの席に座らせて無理矢理服を脱がした。


「顔まで怪我して、お前バカ?」


 呆れたように頬の傷に触れられて、聖は痛みに眉を寄せた。気が付けば口内も切ってしまったのか血の味がする。店の床に吐き出そうかと思ったけれど絶対に怒られるので手を伸ばしてカウンターの中のグラスを一つとってそれに吐き出した。救急箱を取り出した綾肴が隣に座り蓋を開くのを見ながら、聖は居心地悪そうに身じろいだ。ここにいてはいけないのだと知っているから、心臓が掴まれたように痛かった。


「……俺、帰る」

「帰れんなら帰れば?不良息子」


 その格好で帰ってみろと挑発的に言われて、聖は沈黙するしかなかった。血まみれで傷だらけになって、帰れるわけがない。この時間ではもう外を歩けば補導されるのは確実だし行く所もない。大人しく黙っていると綾肴は豪快に消毒液を傷口にかけてその上からガーゼを貼る。乱暴だけれど変っていない治療に聖は口の中で「痛い」と文句を言ったけれど「男なら我慢だ」と子供に言い聞かせるように言われて聖はむすっとしたまま黙った。


「にしても、お前燈によく似てんなー。マジで男か?性転換とかした?」

「する訳ねぇじゃん」

「…よし、やっぱりひぃ坊だな」


 ぐちゃぐちゃを頭をなでられたけれど、聖は俯いて黙っていた。綾肴は聖の母の幼馴染で、聖もよく彼と時間を過ごした。聖の母は綾肴を聖の保護者代わりだと言っているが綾肴自身はこの親子の保護者だと思っているだろ。実際聖は幼い頃綾肴が父親だと思っていた。
 救急箱を片付けてさっき聖が血を吐き出したグラスを洗い出した綾肴のほうを見て聖は目を細めた。昔から理由を聞かない彼がいつだって好きだった。友達と喧嘩してもそこらへんで絡まれて喧嘩になったときも理由は聞かずに手当てしてくれた。今も聞いてくれないことに感謝はするけれど、少しだけ話を聞いて欲しい気もした。


「あーちゃん。何か飲みたい」

「ガキが生意気言ってんじゃねぇ」

「あれ、ジンがいい」

「放り出すぞクソガキ。カクテル作ってやっから待ってろ」


 でも作ってくれないわけじゃないからやっぱり変っていないのだと聖は嬉しくなった。昔小さい時、彼の作った酒で幼馴染と一緒に酔って母に三人で怒られたことを思い出した。今彼女は、元気だろうか。どうしているだろう、倖せだろうか。


「燈もコトも元気だぞ」

「……そっか」


 まるで人の心が読めるようだと思う。聞きたいことを教えてくれて聖は僅かに笑って見せたけれど傷が引きつって痛かった。それに笑って、綾肴が聖の前に甘いカクテルを置く。けれどそれには手をつけずに聖はただそのグラスを見つめていた。いつの間にか隣に来た彼がライターを擦る音がして何気なくそれに視線を移すと、煙草を銜えた彼がにやっと笑ってケースごと差し出してくれた。


「吸うか?」

「……うん」


 頷いて飛び出していた一本を引き抜いた銜えてどうすればいいのか目線だけで聞くと、彼は笑ってライターを差し出してくれた。近くなった煙草の匂いと低い少しごろつく心地いい声に安心して思わず泣きそうになった。


「息、吸ってみ」


 彼からはこうやって悪い事を教わった。言われたとおりに吸い込むと一気に肺まで煙たくなって思わず咳き込むと、クックッと綾肴が肩を震わせて笑ったのが見えた。ムカついたので今度は顔をそらして煙を吸い込むと今度は上手く体に染み渡った。吐き出した紫煙と一緒に溜め込んでいたものまで吐き出されたようで、軽くなった口から言葉がぽろぽろと零れ落ちた。今まで黙っていたことも押し隠していたことも自分すらも気づいていなかったこともすべて、白煙と一緒に吐き出した。


「俺、どうしよう」

「何が」

「わかんない。わかんないけど、訳わかんない」

「訊かれたって分かるわけねぇじゃん。テメェのことなら、悩め」

「………」

「甘えんな。それとも燈に慰めてもらうか?ひぃ坊」

「母さんには、会わない」

「あっそ」

「だから、あーちゃんも絶対言うなよ」


 自分で納得するように頷いてから聖がはっきり言った。それに軽く頷いて綾肴は笑った。悩んでいるようではっきりと自分の行きたい道をこのガキは知っているのだ。間違いそうになりながら、絶対に間違わない道を歩くように教えたのは彼自身だから彼は頷くことしかしない。聖は昔から変っていないのだから。


「煙草デビューもしたし、これやるよ」


 話を誤魔化すようにも感じられる逸らし方で綾肴は笑って煙草と一緒に置いておいたライターを聖に放った。危なげなくチャッチして聖が不審そうな顔をしたけれど、それを隠すようにぐしゃぐしゃと母によく似た色素の薄い髪を撫でると昔と同じように嫌だと抵抗を示した。


「やめろってば!」

「今度灰皿も買ってやるからまた来いよ」

「……ライター」

「燈ちゃんが買ってくれたライターだぜ?」

「いらない」

「いいから持っとけよ。俺からのデビュー祝い」


 「嬉しくない」と呟きながら、けれど聖はしっかりとポケットにライターを仕舞った。長くなった煙草の灰を二人の間の灰皿に落として、妙に似合う仕草で銜えなおす。その姿にやはり聖は子供ではいられなかったのだと改めて思った。聖を子供のままにしてやりたかったけれど、それは不可能だったのだ。それが妙に大人びた少年を造り、聖と言う人間を形どっている。それが可哀相に思えた。しかし綾肴には他人のために感傷的になる趣味も過去を悔やむ癖もない。
 短くなった煙草を灰皿に押し付けて、綾肴は立ち上がって氷を入れたグラスにウォッカを注いだ。


「あとは女だけかぁ。誰か紹介してやろっか」

「いらない」

「見得張んなよ。本当は興味あんだろ?」

「経験済み」


 聖の言葉に綾肴は言葉を失った。いつの間に、というか十二のガキの分際で生意気な。からかってやろうかとも思ったけれど聖の顔が妙に大人びて、それでいて迷子になった子供のような顔をしていたものだからグラスを呷ってただ黙っていた。本当にこいつはいつも何かと戦っている。


「よし、今度乱交パーティでも誘ってやろう」

「……だからあーちゃん彼女できないんだよ」


 相変わらず小生意気なガキの頭をかき回し、綾肴は少しだけ安堵した。聖という人間は迷っていなかったから。まだ一人で立っていられる強さを持っている。
 明日学校だという聖に純度の高い酒を無理やり飲ませて強制的に寝かせ、綾肴は制服の染みを抜いてやった。朝日が上がる頃には目を覚ますだろうと予想を立てて一人で忍び笑いする。きっと二日酔いに悩まされることになるだろう。綾肴からのプレゼントだ。あどけない表情で安心したように眠っている頬を撫でて、綾肴は淋しそうに笑った。










 左の頬に大きなガーゼを貼って右の額には絆創膏、口の端を紫に腫らして学校に行くとまず最初に亮悟が驚いた顔で駆け寄ってきた。6時ごろに目を覚ましてそのまま学校に来たので早すぎてしまい部室のソファで眠っていたら、一番に来た亮悟が悲鳴のような声を上げたのでそれで起きたのだ。


「聖!どうしたの、喧嘩!?」

「……亮悟先輩、声でかい」


 昨日の酒が原因だろう、頭が割れるように痛いのに至近距離で大声を上げられたら堪らないと聖は眉を顰めた。聖の苦しそうな顔に亮悟は慌てて口を噤み、けれど少し怒ったような顔で顔のガーゼにそっと触れてきた。


「昨日はどこに泊まったの?」

「知り合いのバー」


 端的にしか話さない聖の言葉に亮悟は少し悩むような素振りを見せた。これ以上問い詰められても答えるのが面倒なので聖は先に小さい頃から知ってる男だと説明した。亮悟は安堵したように顔を緩め、何かを言おうとした時どやどやと他の二年レギュラーが入ってきた。聖の姿にぎょっと目を見開いて、けれど亮悟が何も言わないので誰も何も問わなかった。


「聖、亮悟と海人ん家には泊まったんだろ?家にも来いよ」

「庄司先輩に襲われそうだからヤダ」

「優しくしてやるって」

「今はそんな気分じゃない」


 言いながら聖はケータイをポケットから取り出した。今まで使っていた機種なので先輩たちが色めくけれど、聖はただ淡々とそれを開けて五人を見回した。


「携帯変えたけど、番号教えてあげよっか?」

「前と同じ機種じゃん、それ」

「まぁ。使い方分かるし」


 全員が携帯を取り出すのを待ちながら、聖はふとポケットに手を突っ込んでそこにあるライターを確認した。バッグには来る途中で煙草を買って放り込んである。綾肴とは違う、彼の店にも置いていないアルカディアという珍しい銘柄のものだ。新しい安定剤を求めながら、聖はライターを握りこんだ。





-続-

酒井綾肴(さかいあやな)
燈(あかり)

時軸が分からなくなり、実際にカレンダーが大活躍し始めました。