本当は、あの店に行きたかった。小さな頃から通った自宅と言っても過言ではないほど親しんだ店。けれどあそこに行くというのも罪深い気がした。
 十で角倉に引き取られたとき、母は何も言わずに聖を手放した。きっと誰にも気づかれないところで泣いていただろう。彼女の目が泣き腫らして真っ赤になっているのを見たのが最後だった。それまで泣き虫だった彼女が泣かない訳がない。幼馴染に頼らないはずがない。聖は今まで母親には会おうとしなかった。否、会えなかった。会うことが罪深いことに思えたのだ。もしもあのとき彼女が聖を手放したことを後悔していたのなら、きっと泣かせてしまうから。だからあの店に行くのも同じ理由で怖い。もしも彼女に会ってしまったら、取り返しがつかないから。


「こんにちわー、一人?可愛いね」


 声を掛けてくる人間はこの町には腐るほどいる。けれど聖はそれを全て無視してあてもなく歩いていた。
 どんなに行くまいと思ってもまた偶然会えるのではないかと新宿の裏道に沿って歩く。きっとこれは悪い癖だ、何かに期待するのはもうやめたのに。もし偶然会ってしまったら取り返しがつかないのにそれを全て分かっていながら希望を捨てきれない。


「あっれー?この間の坊ちゃんじゃん」


 ふと聖が裏道に逸れたとき後ろから声を掛けられて、聖は無意識に目を眇めた。足を止めようかと一瞬迷ったけれどこれ以上奥に行っても良い事はないだろう。ゆっくりと聖は足を止め、自分の背に舐めるように這わされている視線を振り返った。


「何の用だよ」

「この間のお返しがしたかったって感じかなぁ?」


 数人がニヤニヤ笑って狭い道を占領しているので逃げ出すことは出来ないようだ。初めからサラサラ逃げる気はなかったけれど、聖はどうしようかと一瞬思案した。裏道を走って逃げても良い。伊達にここで育っていない、新宿の裏道は知り尽くしている。けれど逃げる気分でもなかった。内に篭る分からないもやもやとしたものに多い尽くされそうなのだ。
 やはり聖の胸のうちに逃げるという選択肢はないようで、肩掛けの指定鞄をポイと放り置きYシャツの首元を緩めた。


「いいぜ。くれば?」

「おい、人数集めろ!」

「勝ったら一晩中相手してもらうからなぁ!?」


 下世話だと聖は目を眇め、殴りかかってくる一人を避ける為に体を僅かに傾けた。そいつの腹に膝を打ち込みながら新手の振り下ろした角材を間一髪で避けて、バランスを一瞬失って手を突いて体を支えながらバックに一転して体勢を立て直した。
 腹を抱えながらも立ち上がった男が一人と角材を持った男、道を塞ぐように立っている男。さっきよりも一人減ったのは仲間を呼びに行ったからだろう。聖は手首の髪ゴムで降ろしっぱなしの髪を手早く結い上げると、にやりと笑って男たちを見据えた。


「次は?」


 聖の言葉を引き金にしたように飛び掛ってくる男の顔面に肘を打ち込もうとして、僅かにずれて顎にぶち当たった。多少こちらにも反動があって顔を歪め、角材で殴りかかってくる男の懐にもぐりこむと容赦なく鳩尾に奇麗に蹴りを放った。吹っ飛ぶ巨体に一つ息を吐いて、顔を真っ赤にしているリーダー格の男を睨みつける。顎を肘で打った割りには元気だ。


「餓鬼が舐めたマネしてんじゃねぇぞ……!」

「こんな餓鬼に負けるようじゃまだまだだっつの」

「く、そ…餓鬼!」


 陳腐な言葉を吐き出しながら向かってきた男を一歩下がって交わし、横っ面に奇麗に足を埋め込んだ。けれど男はよろけるだけで、地面に足をつけた聖はそれを冷静に見て地面を蹴った。後ろから掛かってきた残りの男の腹に拳を叩き込んで倒れた巨体についでに蹴りを喰らわせる。最後までしぶとく残った男を落そうと息を一つ吐いた時、十数人の足音が近づいてきたのに気づいて聖は奥歯を噛み締めた。仲間は来ると思っていたけれどこんなに人数が多かったとは。
 けれどここまできたら引くに引けない。聖は体勢を低くして下から相手の顎に聖を思い切り叩き込んで同時に胃の真上に蹴りこんだ。


「…グっ、ハ!」

「何、寝んの?」


 口角から血の泡を吹いて意識を失いかけているのだろうぼんやりと光を宿して倒れている男の横っ面をふんずけて聖がさも楽しそうに笑った。「つまんねぇな」とばかりにぐりぐりと踏みつけながら近くにあった鉄パイプを掴んで感触を確かめているうちに、十数人の男に囲まれた。彼らはこの光景に口々に怒りの言葉を発するけれど聖にはただ動物の唸り声にしか聞こえなかった。


「新手登場ってか」

「……お前が、一人で?」

「他にどう見えるって?」

「ンの野郎ぉ!」


 いきりたって殴りかかってきた男を交わして後ろから軽く蹴りを食らわせて壁に貼り付けさせ、聖は鉄パイプで強かにその男の頭を打った。ピシャッと飛んできた血を拭いもせずに次々と向かってくる男を相手にした。実際全てがどうでもよかったのかもしれない。殴る不快感も肌につく血の感触も殴られる痛みも全てが現実味を欠いて聖の中に溶け込むような、まるで脳が麻痺したようなそんな感じだった。ただ目に映っている世界はとても奇麗で、自分が何をしているのかされているのか、今だけは忘れていたかった。
 気づいたら立っている人間は聖しかおらず、いつのまにか殴られた体はずきずき痛むけれどそれはどうでも良い。鞄を拾って帰ろうかと思ったところで帰るところが思い当たらず、不意に淋しくなった。あの店は、帰るところではないのだから。そう感じたら体からズルズルと力が抜けて思わず座り込んでしまい、そこでやっとむせ返るような血の匂いに気づいた。同時に、姿を現した人影も。それは逆光で顔は見えなかった。


「……こんなことだろうと思った」


 小さく聞こえた声は知っているもので、聖は安心して強張らせた体の力を抜いた。それと同時に意識もふっと軽くなり、危機感もなく眠りに落ちた。










 ふっと浮上した意識は体の鈍い痛みで強制的に引き上げられた。ずきずきするというよりは熱を持ったような痛みに顔をしかめてうっすらと眼を開けると、そこは薄暗い部屋だった。見覚えのない白い天井は妙に綺麗で、聖は痛む体を無視して再び眠ろうと布団にもぐりこもうとした。


「目が覚めた?」

「……直治先輩」


 小さな本を片手にベッドサイドに腰を下ろした人物の名を呼び、そういえば意識が途切れる瞬間に見たのはこの人物だったことを思い出した。直治の家は病院経営を主にしている。だからだろう聖の傷には丁寧に処置が施されていた。体を起こそうとすると直治の手にやんわりと制されて、聖は黙って動くのをやめた。


「やんちゃなボウヤだね、全く」

「何で……」

「あんな顔してる聖を放って置けないよ。キャプテンの身にもなって行動して欲しいね」

「……別に心配なんていらない」

「あのね、仲間の心配しない訳がないよ。言っておくけど一年から言って来たんだよ?聖の様子がおかしいって」


 直治の言葉は酷く伝わりにくいけれど、みんなが心配しているのだけは分かる。けれど聖はそれが妙に遠い出来事に感じられた。何となく痛みの中で自分は生きているのだと感じられたから、きっとあれは酸素のようなものなのではないかと漠然と思う。酸素とまで行かなくても、似たようなそれだと思う。
 直治はにっこりと微笑んで聖の額を叩いた。思わず痛みに目をきつく閉じると、彼の手が思いのほか優しかったことに気づいた。


「亮悟みたいに上手くできなくて悪いね」

「直治先輩が亮悟先輩みたいだったら気持ち悪い」

「よしよし、回復したね。ちゃんと明日、みんなにお礼言うんだよ」

「……ん」

「今日はもう寝なさい。明日も朝練あるしね」


 温かい手は心地よく、聖は疲れていたのかふっと眠りに落ちた。こんなに早く心地よく眠りに落ちることが出来たのは久しぶりだった。夢を見ることは出来なかったけれど、ただ聖にとっての世界はちゃんとこの世に留められているか、曖昧な空間だった。










 聖の体が思いのほか傷だらけだったため朝練を休んで朝練が終わる頃の時間に学校に行くと、教室の前に四人が集まっていた。やってきた聖に寿季がぎょっと目を見開いて駆け寄ってくる。聖の顔はところどころ絆創膏が張られていて、頭には包帯が巻かれている。一体何があったのかと寿季と葵は目を見合わせるけれど、聖はばつが悪そうな顔をしていた。


「聖、それどうしたの!?」

「ちょっと喧嘩」


 四人に囲まれて、聖は曖昧に微笑んだ。それからポケットの中のライターを握り締めて顔を上げる。ふと龍巳と目があって恥ずかしくなって顔を逸らす。全員から顔を逸らすように少し上を向くと、白い天井が見えた。昨日の直治の部屋と一緒だ。一度深く深呼吸して、聖は早口で呟いた。


「……心配してくれてサンキュな」


 言って恥ずかしくなって、思わずその場にしゃがみ込むと上からぎゅっと押しつぶされるように抱きしめられた。それが寿季の仕業だと分かったけれどいつものように引っぺがす気にもなれなかった。ただ何となくこいつらなら何の気兼ねなく信頼しても、大丈夫に思えた。寿季を後ろに貼り付けたまま立ち上がると、今度は目の前で葵が笑って聖の手をぎゅっと握って頷く。聖がぎこちなくも笑みを浮かべてみる。


「魔法は解けたよ」

「うん?」

「予鈴、なるぞ」


 葵の言葉が相変わらず分からなかったので首を傾げて龍巳を見ると、龍巳は表情を変えずに腕時計を叩いた。その仕草に慌ててみんな自分の教室に散っていき、残った聖と龍巳はお互い顔を見合わせるとそれだけで教室に入っていった。途中聖が龍巳の肩に腕を回そうとしたが、それは無残にも振り払われた。
 教室に入ると、それはちょっとした騒ぎだった。まず気づいた美鈴が悲鳴のような声を小さく上げて、それに気づいた舞依が駆け寄ってくる。その事態に茜とさくらも心配そうに駆け寄ってきて、結局クラス全員から注目を浴びてしまった。


「聖くん、どうしたの!?」

「別に。大したことない、直治先輩が大げさにしただけだから」


 心配されるのは鬱陶しい。聖は舞依に笑って席に着くが、彼女たちの心配そうな表情に苦笑を浮かべると「大丈夫だって」と三人の頭を順番に撫でた。それでは怪しまれるからと龍巳に話を振ろうとしたけれど、彼は無表情に軽く頷いただけだった。


「痛そう……。平気?」

「大丈夫だってば。美鈴ちゃん心配しすぎ」

「だ、だって……」

「誰だって心配するよ。聖の顔超奇麗だし」

「ねぇ」


 会話を繰り広げてくれた女の子たちに感謝しながらも、まだ彼女たちに対して警戒している自分に気づく。初めから女性に対して何かしら警戒はしていた。今まで付き合っていた彼女たちだって何を求めているのかをいつも慎重に読み取っていた。けれどそれとは違う意味で、なんとなく警戒心を抱かせるのだ。いつかそれを取り払う日は来るのだろうか。今龍巳に感じている僅かながらの安心感のように。そして、このクラスにも。クラス中が心配してくれてるのは分かるけれど、どうも緊張してしまう。それだけ危険だと思っているからだろうけれど、それがどうしても不自然なものに思えてしょうがなかった。


「聖。お前さ、喧嘩強いのか?」

「ん、何で?」

「昨日、うちの若い衆が二十人ほどどっかでヤられたんでな」

「……黙秘」


 一瞬もしかしてとも思ったけれど、核心がなかったので何も言わずにただにやりと笑って口元に指を立てた。何となく龍巳には気負う必要がない気がして、いつの間にか素直に笑えていた。まだ心配そうにしている舞依にももう一度「大丈夫だって」と言う。何故かクラス中の視線が集まっているようで忍びなく、聖はにっこりと笑みを浮かべた。


「俺のことなんかより、そろそろ本鈴鳴るけど?」

「やだ、もうそんな時間?」


 ショートの始まる時間だと聖が足を組みながら言うと、茜とさくらは自分たちの席に戻っていった。舞依も戻ろうとしているが美鈴だけが残っていて、聖は首を傾げてポケットからケータイを取り出した。今日のお昼の予定は美鈴とだったはずだが。


「どうしたの?美鈴ちゃん」

「他の子と仲良くしないで」

「……は?」

「他の子と仲良くしないでよ!」


 言うなり自分の席に戻って突っ伏してしまった美鈴に聖はどう対応するべきか分からずに深く溜め息を吐き出した。どうしてこう問題ばっかりが重なるんだ。美鈴のは可愛らしいやきもちだろう、幼馴染にも同じ事を言われたことがあるが、今はあの時とは違う。とりあえず謝りのメールを入れて、お昼を食べながらどう謝ろうかと思案していると後ろから椅子の下を蹴られた。微細な振動に聖がそのまんまの表情で振り返る。


「椅子蹴んなって何度言ったら……」

「お前、何考えてるんだ?」

「何が」

「お前がいいなら別に構わないが、気をつけろよ」

「……成るようになるだろ」


 龍巳が美鈴のことを言っているのは分かったけれどどうすればいいのかわからなかったので、聖はそれだけ言って笑った。何となく嬉しくなってきて、意味もなく海人の携帯に意味もないメールを送りつけてみる。そんなことをしているうちに本鈴が鳴って、担任が入ってきた。彼は聖の顔にぎょっとするけれど、聖は知らないふりをして微笑んだ。





-続-

二十話書いて、まだ一月。