はじめて聖に会ったのは、小等部に聖が編入してきた時。角倉本家の脇腹の息子だという話は聞いていて、父からはあまり係わり合いにならないように言われていた。けれどさくらは初めてみたときから聖に心を奪われてしまっていたのだと思う。とっても奇麗な顔でとても穏やかに笑うから。
 中等部に上がった時、父は聖と仲良くするように言った。家は角倉傘下の企業だから、聖と仲良くなった方が都合が良いと思ったのだろう。もちろんさくらはそれが嬉しくて、でも恥ずかしくて近くに寄れなかった。初めて同じクラスになって勇気を振り絞って遠足の班を組んでもらって。今は彼女になってしまった。だから今、死にそうに嬉しい。


「さくら、運動得意?」

「運動?あんまり得意じゃないのよね。どうして?」

「もうすぐ体育祭だから」


 聖は学食のランチを食べながらしれっと言った。聖とお昼を食べるのはいつも保健室。聖はものを食べている姿を人に見られたくないと言っているけれど、本心はきっと恥ずかしいからだろう。だって部活の仲間の九条院君たちとは教室でご飯を食べるから。彼女と話しているところとか悪戯にキスしているところとかを見られるのは誰だって恥ずかしい。
 遠足の時に告白して聖と付き合いだして、二週間ほどが過ぎた。気がついたらもう六月で、この短い間に何度か悪戯にキスをした。


「聖は得意でしょ?バスケ部のレギュラーだもんね」

「得意って訳じゃねーよ。走るの好きじゃないし」

「でも走るの早いじゃない。陸上部よりも早いんでしょ?」


 付き合っている間に気づいたこと。聖の顔がとても奇麗なこと、彼が浮かべる笑顔は本当は作り物だということ、とてもぶっきら棒だということ。聖が頭がよくて運動ができることなんてみんな知ってる。聖はいつだって注目の的だから。


「みんな手抜いてんじゃねぇの」

「体育祭はお父様もお母様もお見えになるの?」

「……ちょい黙れ」


 付き合っている間に気づいたこと。聖は角倉の家のことを話題に出されるのが嫌いで、話を逸らすためにキスをする。奇麗な顔で目を細めて顔を近づけて。そうされると黙らない訳には行かなくなる、聖に従ってしまう。それが誤魔化す手段で、ただ唇が触れるだけの行為だとしても。
 すぐに離れるけれど、聖はいつも何か言いたそうに吐息が掛かるほど近くで一度唇を開く。その姿に毎回ドキドキしながら、聖が何も言わずに口を引き結んで遠くなるのを見ている。


「何?」


 じっと聖を見ていたら、聖が不思議そうに目を眇めて首を傾げた。慌てて「ううん」と言うけれど、きっと誤魔化しきれていない。聖の鋭い双眸は心臓を射抜いて苦しくなる。
 聖はバスケ部のレギュラーになって忙しいのは分かる。けど、付き合っていて恋人同士になったのだからデートしたいと思うのが乙女心。まだ一回もデートしてないし、それどころか一緒に帰ったこともない。ただお昼を食べて、たまにキスして。それだけ。


「……急がしいのは分かってるけどさ、今度どこか出かけよう?」

「いいけど」

「え……?」

「いいけど、部活がないときな?」


 当然駄目って言われると思っていたので、少しビックリした。聖は傷だらけの顔でパックのジュースを飲みながらあまり興味無さそうに足を組んだ。
 教室で見る聖はいつもお人形みたいに奇麗な顔で笑っていた。けれどそれはどこかよそよそしく感じていた。もしも今目の前にいる聖が素の聖だったら、今見ているのがさくらだけなのだとしたら自分は特別なんじゃないかと思えてならない。最近では少しだけ教室で見せる華のような笑みもきっと素直な聖なのだろうけれど、それを他人に見せたくない。そのためなら、何をされても構わないと思った。










 初めて見た角倉聖の印象は、はっきり言って最悪だった。笑っているけれど心の底では全てに距離を置いているあの顔は、けれど龍巳の心を惹きつけた。初めは角倉の坊ちゃんだというので気後れもしたけれど、同じ部活でチームを組んで聖と言う人間はただの坊ちゃんではないのだとはっきり分かった。そもそも初めからただの坊ちゃんだったならば、九条院組を恐れただろう。


「聖、得意な競技は?」

「バスケ」

「スポーツ訊いてんじゃねぇよ」


 そんな馬鹿みたいな会話を出来るようになるとは龍巳自身も思っていなかった。初めはすべて堅苦しい笑顔で返ってきた返事も、あれ以降聖の軽い笑顔と言葉が返ってくるようになった。
 体育祭の出場種目を決めているのにクラスの連中には不謹慎ではあるかもしれないけれど、返ってくる返答になぜか安心を覚えた。初めは嘘くさい笑顔を浮かべてぎこちなかったクラスメイトとの会話も、最近では少し円滑にできるようになって少し怯えながらも笑顔を見せるようになった。龍巳の方がクラスになじめていない感じが強いほどに。


「だぁって玉入れとか興味あるか?」

「騎馬戦とかにすればいいだろ。その顔の傷で箔もつく」

「俺の顔に傷つけられるから、ヤだね」

「もう遅いだろうが」


 聖の顔にはたくさんの絆創膏が張られている。毎日耐えることのない傷は、治ったと思ったら違う所を怪我をしてなくなることがない。ただ最近は少し落ち着いてきたのか包帯はなくなった。この間まで、腹に包帯が巻かれていたのに。


「訊いていいか?」

「何を?」

「その傷……」

「絆創膏は男の勲章」


 そうやって聖は笑って話を逸らす。決して聖は怪我の原因を話そうとしなかった。それどころではない、聖の深いところには絶対に踏み込ませなかった。先輩たちに話を聞くしか聖を知るすべはない。こいつは自分を隠す方法をよく知っているのだから。
 ただ気になるのは、ここのところ家の若い衆もよく怪我をしている。そして奴等が言うのは、龍巳と同じ制服を着た女顔の美人。この学校でそんな人間を龍巳はたった一人しか知らない。けれどもしもそうだとしたら、きっと聖の深いところに踏み込む必要があるだろう。だからどうしても躊躇っていた。


「いい男が台無しだな」

「いい男ってのはどんな小道具でも良く見えるモンなんだよ」


 そう言って笑う聖の顔は、以前の聖ではなくて本当の笑みを浮かべていた。それだけ心を許してくれたのが嬉しい。きっとこれが聖の魅力という奴なんだろう。ただ、これだけ近づいても聖は深くまで見せてくれない。


「若!」

「坊ちゃん!」


 二人で話していると、誠と伊藤優一が揃って駆けてきた。一体何事だと聖と一緒に奴等を見ると、何か興奮して黒板を指差していた。いつの間にか競技が決まり始めていて、二人三脚と長距離、徒競走くらいしか残っている種目はない。まぁ障害物競走とか言われてもやりたくないから、徒競走辺りが狙い目だろうか。


「「ご一緒に二人三脚に参加しませんか!?」」

「「しねぇよ」」


 ゴメンだと思わず聖と声を合わせて凄み、これ以上何かを言われてもしょうがないからと徒競走を希望した。長距離よりも短距離の方がまだマシだ。聖も同じことを考えたのだろう同時に手が上がり、思わず顔をみあわせた。定員はあと一人。負けたら二人三脚か長距離。長距離は最終的に顔がみっともなくなるから是非聖にやらせたいと思う。
 数秒顔を見合わせて、二人で同時に手を出した。まさか「じゃんけん」まで被るとは思わなかった。


「「ポン!」」


 残念ながらグーでアイコ。何も言わずに見詰め合って。今度は何も言わずにジャンケンをした。パーでアイコ。チョキでアイコ。またパーでアイコ。何度もアイコになって二人揃って本気でヤバイと思った。次で勝負を決めなければ、勝負はつかない。


「……っしょ!」


 出したものは、聖がパー。龍巳もパー。またしてもアイコだった。これで終わりかと思わず諦めかけた瞬間、聖の口元がにやりといやらしく引きあがった。同時に手が一度グーに結ばれる。


「あっちむいてほい!」


 下がった聖の指。思わず下げた顔。この瞬間負けたと思った。驚きに目を見開いて顔を上げると聖がにやにやと笑っていて、卑怯な手と妙な悔しさに奥歯を噛み締めて龍巳は誠にギンと視線を送った。それに肩を震わせて、誠が手を上げて悲鳴のような声を上げる。


「若が徒競走で!」

「ずっりぃ!勝ったの俺だろ!?」

「せこいことを言うな」

「せこいのはどっちだよ!」


 聖が声を荒げるけれど、誠がさっさと書かせてしまって聖は奥歯を噛み締めてちらりと優一を見、悔しそうに「長距離で」と言った。それほどに二人三脚が嫌なのかと問うと、聖は「団体行動が嫌いだ」と言った。二人は団体行動に入るのか。感心するやら呆れるやらの龍巳の隣で、誠と優一が自分たちが二人三脚だということに硬直していた。










 直治に頼まれて、亮悟は聖を強制的に引っ張って家に帰った。聖自身は海人の家と亮悟の家に泊まることが多いので勝手は知っているが、最近の行動でばつがわるいのだろう黙って亮悟に従っていた。湯上りに絆創膏も全てはがして部屋に入ってきた聖を見て、亮悟は僅かに顔を歪めて救急箱を引き寄せ聖をベッドに座らせた。


「最近、怪我が多いね」

「……減ったと思うけど」

「でも怪我してる」


 初めて聖と会ったのは二年も前のことだろうか。小等部に編入してきた頃、放課後に一人でバスケをしている聖を見つけた。練習の場所がなかったから、一緒に遊んだことを良く覚えている。あの頃も少なからず怪我はあったけれど、今より全然少なかったし擦り傷程度だった。けれど、女性たちと別れるとケータイを折った辺りから聖の怪我が増え始めた。本当に不安定な子だ。
 この間まであった腹の青痣は少しマシになって包帯は取れたけれど、顔の傷はまだ酷かった。


「イライラしてる?」

「別に。吸っていい?」

「何を?」


 聖の問に亮悟は首を捻った。まさかシンナーでもやっているのかと一瞬浮かんだけれどそれはないだろう。聖もそこまで馬鹿じゃない。聖は制服を手繰り寄せるとポケットから煙草とライターを取り出した。きょろっと辺りを見回して灰皿代わりを探すが見つかる訳もなく、鞄から携帯灰皿も取り出す。なんて用意周到なんだろう。一本抜き出す聖の手を上から制して、厳しい顔を取り繕った。


「聖。忘れているようだけど未成年なんだよ」

「別に忘れてねーけど」

「スポーツマンが煙草って何を考えてるの」


 煙草を吸ったり酒を呑んだり喧嘩したり、最近の聖は酷すぎる。女性と関係を持っていたときはまだ良かったようだ。本当に彼女たちは聖の安定剤だったのだろう。きっとそれを分かっていて、無意識に今安定剤を探しているのだろう。喧嘩に明け暮れてみたり酒に溺れてみたりしながら、聖なりにもがいている。けれどもがき方に少々問題がある。それを言うべきか少し迷った。
 傷を消毒し終わると絆創膏を貼ろうとする手を制して、聖はベッドに寝転がって右手で一本の煙草を弄んだ。


「……これが一番落ち着く」

「聖……」

「酒って、忘れても一瞬じゃん。二日酔いで思い出すし、喧嘩は痛いだけでスッキリしないし」

「バスケすればいいよ。付き合ってあげるから」

「……誰にも何も言えないから」


 少しだけ切なそうに目を細めた聖の濡れた長い髪をそっと撫でながら寝転がった隣に腰掛けると、聖は避けるように寝返りを打った。
 聖はすこし変ったと思う。教室にいるのを覗きに言った時も部活の時も少しだけ素直に感情を出すようになった。けれどそれだけでまだ芯の部分で何も晒していない。こんなにも臆病になっているのか何か理由があるのか分からないけれど、それはきっとまだ踏ん切りがつかないで聖自身が戸惑っているのだろう。


「まだチームメイトにはだんまり?」

「だって、訊かれないし」

「聖の悪い癖だよ。もう少し信頼しな、仲間なんだから」

「やっぱ慰められるのは亮悟先輩がいい」

「直治も心配してるからそんなこと言わないの」

「俺、亮悟先輩になら抱かれてもいいかな……」


 吐息のような声で言って眠ってしまった聖に亮悟は怒ろうかと思ったけれどやめて布団をかけ、あどけない顔に掛かる髪を払ってやった。きっと今の聖は守護を期待しているのだ。直治のような厳しさの中に見せる守りではなくて、母が子に与えるような無償の守護を。
 父がなく生まれた聖にとって誰かに甘えるということは幼い頃から出来なかったに違いない。母親は聖を深く愛したと聞いているけれど、十分な愛情を与えられた訳ではないのだろう。生活の為に働く時間、聖は我慢し続けいつしかそれが当たり前になった。だから、枯渇したそれを求めるように女性と関係を持ったようにしか思えなかった。





-続-

亮悟先輩のポジションは母。