六月に入り、体育祭の色が濃くなってきた。文化祭は幼等部から大学部までが一つになって行うけれど、体育祭は各部で同日程別プログラムで行う。目玉はクラス対抗のリレーだろう。とうとう明日が体育祭当日であり、今日は練習や応援の準備に当てられていた。学年の縦割り連合が出来上がってはいるけれど、種目は学年別に行われる。今日はクラスの結束を固める為にも大切な日なのだ。


「あれ、角倉君はどこに行ったんだ?だれか知らないか」

「知らなーい。湊さん、知ってる?」

「分からない。ちょっと連絡とって見るね」


 まとまって練習をしている中、担任の市町には心配事の種が一つだけあった。彼の噂は小等部からの申し送りでなくとも耳に届いているし、中等部に上がってきても部活などで有名だった。何よりも初めて見た瞬間から彼の顔には目を奪われた。驚くほどに奇麗な顔をしていて、強そうな双眸が印象的だった。その角倉聖は、今日もクラスの練習に参加していないようだ。先日からの練習にもあまり参加していないようで、元々企画の遅かったリレーの順番がまだ決まっていない。
 同じバスケ部である龍巳は誠を従えて、詰まらなそうに本を読んでいる。その横で舞依が聖に電話しているようだった。けれど舞依の電話から発信音が途切れる前に、廊下から声が聞こえた。


「だから、これは聖にしか出来ないって」

「絶対やだ!」

「聖にならできる!」

「いーやーだー」


 廊下から言い争いの声が聞こえてきたかと思うと、聖が五人もの団体さんを引き連れて足早に教室に入ってきた。驚いているクラスメイトに目もくれず龍巳の机に腰を下ろすと、苛立たしげに足をぶらつかせた。顔には未だ絆創膏が数箇所貼られている。龍巳は聖を一瞥しただけで特に興味がなかったのかまた本に視線を戻した。
 聖と一緒に来たのは、バスケ部の二年レギュラーだった。みな連合が違うはずなのにどうして聖の後を追いかけているか分からないし、聖の頑なで自然な姿にクラスメイトは目を奪われてしまう。


「他に誰がやるってんだよ!?」

「葵にでもやらせればいいじゃん」

「聖?先輩命令だよ」

「拒否します」


 一体何のことだかわからないけれど、聖が先輩命令ですら拒否している。先輩の命令は絶対だと思って過ごしてきたクラスメイトたちには驚きで、龍巳もやや驚いたように眉を上げて本から顔を上げた。

「……どうしたんですか?」

「龍巳からも何か言ってやって!?女装での部活対抗リレーは伝統なんだって!」

「はぁ……?」

「体育祭の部活対抗リレーは一年レギュラーが毎年走るんだけど、アンカーは女装して走るのが伝統な訳」

「ちなみに、去年は海人が女装したんだよね」

「今年は聖だろ!」

「そうですね」

「ヤダっつってんじゃん」


 部活と教室での聖の顔は、少しだけ違うように見えた。春から比べて聖は柔らかく笑うようになった。龍巳のほうがクラスメイトと馴染めないでいるほどであると担任としても感じている。けれど二年レギュラーに対している時の聖は完全に警戒心をなくしたような顔で接している。今まで決して見れなかったものだ。体育祭の練習の時だって、一人であるか龍巳と黙々と走っていることがほとんどだった。
 市町が聖を見て考えていると、クラス委員が困った顔をしてリレーの選手登録書類を持ってきた。一応出来たのだが、まだ確認ができていないそうだ。確認したいけれど、龍巳や聖に近寄り辛いということだろう。市町は「クラスメイトだろう」と後押しして彼に聖の元に行かせた。


「あの、角倉君」

「……何?」


 彼の言葉に答えた聖は、確かに笑っていた。けれどきっとそれは心から笑っているんじゃなくて、繕った笑顔なのだろう。感情を感じられなかった。彼は龍巳のことをちらりと窺ったけれど不機嫌な目と目が合って、口篭って手元の紙に視線を落として小さな声で呟いた。


「クラス対抗のリレー、角倉君がアンカーで九条院君がスターターでいいかな?」

「別にいいよ。な?わざわざありがと」


 聖が龍巳に声を掛けると龍巳が軽く頷くので、聖は彼に礼を言って笑った。彼が安心したように仲間たちの元に戻って行ったのを市町が目で追っていると、先ほどとは違い落とした二年生の声が耳に飛び込んできた。


「聖、相変わらずクラスメイトに人見知り中?」

「別に人見知りじゃないス」

「誰も敵じゃないよ。そんなに怯えないの」

「怯えてる訳じゃないし、龍巳の方が浮いてんじゃん」

「らしくないね、聖」


 直治が言った言葉に、聖は思わず息を飲んだ。聖がどうしてそうしたのかは分からないけれど、聖は頭に載せられた手を振り払いはしなかった。クラスには馴染めないけれど部活には馴染んでいる聖の姿がやはり心配で、市町は短い息を吐き出す。別にクラスで孤立している訳でもないので変に相談事があるかなどとは訊けない。対処の仕方が分からないうちに、チャイムが鳴った。










 いつものように保健室でご飯を食べながら、茜は思わず聖を凝視してしまった。朝はおかしくなんてなかったのに、急に深く何かを考えるように黙ってしまっている。心配になって声を掛けようとするとじっとこちらの顔を恥ずかしくなるくらい見つめてきて。一体何かあったのだろうか。


「……聖?」

「お前さ、俺のどこがいいの?」


 純粋に疑問を浮かべられて、茜は言葉に詰まった。思わず聖を凝視してご飯を口に運んでいた手は止まる。
 初めに思ったのは、聖はとても奇麗。好きになったのは上辺と優しい当たりだったと思う。けれど実際に付き合い始めると聖は優しいけれど意地悪だったり見たことのない顔をしたり、更に惹かれた。理由なんて訊かれても浮かんでは来るけれど上手く言葉には出来なかった。


「上手く言えないけど、全部好き……だよ」

「具体的に」

「……分かんないよ。初めは聖って凄い奇麗な子だなって思ったけど、最近は聖って強いなって思った」

「そっか。……茜、キスしよ」


 誤魔化すように聖が笑ったけれど、茜は何も言わずに頷いた。きっと聖は誰にも何も言ってもらいたくないだろう。すでに自分で考えて自分で答えを出している。聖はそういう人間だと思う。
 目を閉じて待っているとちゅっと唇が一度触れた。付き合い始めてもうすぐ一月になる。その間に何度もキスしたし、手も繋いだ。初めは恥ずかしいこの行為にもなれて嬉しく感じるようにはなったけれど、まだ人前で恋人同士らしいことはしていない。


「聖って、キス上手いよね」

「そっか?」


 向かい合っていた場所で食べ終わったコンビニのごみを袋につめて茜の隣に座りなおした。肩が触れるほど近くに聖の顔があって、軽くまとめたサラリとした髪から甘い匂いが漂ってくる。それだけで、頭がくらくらしそうだった。重なった手は意外に冷たくて、心臓がドキリとした。


「俺のこと、好き?」

「う、うん。顔近いよ……」

「どのくらい?俺がお前刺しても?」

「え、あの……」


 質問の意味は全く分からなかったけれど、聖の顔が徐々に近づいて来ているのには気づいている。吐息が触れて、唇があと三センチ。先生がいるとか色々言いたいことはあるし、腕でどうにか突っぱねたいのに体は言う事を聞かなかった。聖の目と間近で合ってしまって思わず目をきつく瞑ると、少し遠い所から楽しそうな笑みが聞こえてきた。


「珍しい、聖が飢えた獣みたいだわ」

「先生黙って?見なかったことにしてくれたらお礼ちゃんとするし」

「嬉しいんだけど、彼女的には大丈夫じゃないみたいだから」

「俺が迫って落ちなかった女、いないから」

「そのくらい積極的に何でもしたらいいのに」


 聖が先生と会話している間に茜の思考はだいぶ正常に動くようになった。もしかしたらこのまま押し倒されてしまうかもしれない。恥ずかしいことをされるかもしれない。それが分かるけれど、逃げられも出来ない。まるで蜘蛛の糸にでも捕まったように、動けなかった。
 聖の行動を固まって待っていると、不意にぎゅっと抱きしめられた。キスはするけど抱きしめられたことなんてない。手は繋ぐけれど、デートをしたことはない。近づいた体温にドキドキしていると、そっと聖の手が頬に触れた。女のように奇麗な顔なのに、聖の手は少し節くればっていた。


「キスしたい。ぶっちゃけるとそれ以上がしたい」

「あ、あの……」

「慣れろよ?」


 奇麗な顔で、聖がとても凶悪な顔で笑った。両頬を包まれたかと思ったら唇に柔らかいものが押し当てられて、思わず目を閉じる。熱い舌に唇を舐められて割られるはじめての感じに恥ずかしくて体が熱くなるのを感じたけれど、すぐに何も分からなくなった。










 誠にとって角倉聖の第一印象は、噂どおりの美人。けれど現在はその頃の畏怖はなく、ただ大切な若に近づく不貞の輩でしかなくなった。幼い頃から龍巳の一番の友人であり舎弟であった誠が始めて感じた敵であって、角倉の御曹司というものではない。クラスの中では角倉の御曹司と敬遠されがちだが、誠には聖よりも龍巳の方が敬遠されているようだった。確かにお坊ちゃまお嬢様にとって極道なんて怖いだろう。だから今まで、誠だけが龍巳の大切な友人であれた。


「……角倉がまた若と楽しそうに話してる」

「リレーの作戦だろう?坊ちゃん、珍しくやる気ではないか」


 誠は自称聖の付き人の優一と足を結び合っているのに、聖と龍巳が仲良さそうに話しているのだ。嫉妬で焼け狂いそうだ
 龍巳を通して誠も聖の変化には気づいていた。クラスメイトには当たり良く接しているくせに絶対に歩み寄ろうとしなかった。言葉だけ、笑顔だけ。表面だけの笑顔にみんな騙されているけれど、確かに龍巳の前で見せる違う顔がある。


「若が、笑ってる……」

「般若が笑ったみたいに言うのかい?」

「……なんだか、変だな」


 龍巳の隣で笑う聖に思わず誠は呟いた。確かに表面上は聖は変っていない。ただクラスメイトにも明るく積極的に接するようになっているしより自然になっているように見える。相手の肩を叩いたり少し乱暴でも自然な言葉を使ったりしているけれど、聖と龍巳の周りに何か強いバリアのようなものが見えるのだ。人に接しようとしているくせに警戒心を強めているように見える。きっとこれは、気のせいじゃない。


「クラス全員……っていうか、女子のフォームとかを見ているようだね」

「似合うけど、変だ」


 クラス対抗リレーの練習指揮を聖と龍巳が執っているのだ。龍巳が主に指令を出し、聖がそれを細かく振っているように見える。共に名家に生まれたためかその姿は板についているけれど、どうも聖に奇妙な違和感を感じた。無理矢理取り繕っているような笑みは誠に近寄りがたさすら感じさせる。
 クラスの人間を二チームに分け、それを更にリレーの順番に四チームに別けているようだ。誠も優一も後半のチームだったので、個人種目の練習に当てていた。けれど目は、輪の中心にいる聖と龍巳を捉えている。五人の中で運動部のリーダーに指示をしてフォームやバトンのコツなどを練習している。聖と龍巳は、主に足の遅い女子の練習に手を出しているようだった。


「どうして、伊藤は角倉に?」

「家は角倉傘下の雇われ社長でね、坊ちゃんと仲良くしておくに越したことはない」

「……そっか」

「でも、最近思うんだ。坊ちゃんはとても美しい」


 優一が何を言わんとしているか分からないけれど、ただ聖に売名目的だけでなく好意を持ち始めていることは声音から簡単に判断できた。角倉聖と言う人間は人を寄せ付けないように笑っているのに、人の目を惹く妙な人間だ。
 しばらく見ていると、他のクラスで練習していたバスケ部のメンバーが集まって来た。その中ですら心地良さそうに笑っている聖を見て、誠は本物の聖がどこにいるのか分からなくなる。仲間内で笑っている聖が本物のはずなのに、まるで硝子のように反射して正体を隠したような感じだった。


「誠!ちょっと来い!」

「はい、ただいま!」


 龍巳に怒鳴られて、誠は優一と声を合わせて龍巳たちのところに行った。歩くよりも遅いけれど、龍巳は辛抱強く待っていてくれたので少しほっとしながら「何か御用で」と訊くと軽く頷いた。怒ったような顔でみられて自分の粗相を疑ったが、思いつかないので顔を伏せて次のお沙汰を待つ。ちらりと顔を上げると、不思議そうなバスケ部の一年レギュラーがいた。


「明日が晴れってのは本当か?」

「晴天の予報ですけど」

「雨を降らせ。さもなくば兄貴が来れないように毒を盛れ」

「そんな殺生な!」

「龍巳?どうしたの?」


 おろおろした寿季の言葉に龍巳が答えないので、聖が小さく「兄貴大ッ嫌いなんだと」と耳打ちした。
 龍巳の上には兄が一人いる。誠ももちろん深い仲だ。けれど昔から龍巳は彼を嫌い、何かあると誠に無茶な注文をつけた。これは実際に出来ないことに対しての八つ当たりなので特に何をする訳ではないけれど、毎回毎回酷い。けれど誠にとって龍巳がスッキリしてくれればそれで十分だ。


「坊ちゃん、僕には何もないですか?」

「んー……あ、パン買って来い」

「は?」

「腹減った」

「は、はい。ただいま」

「ストップ伊藤!」


 危うく優一が走り出しそうになってしまい、慌てて誠が止めて足の紐を解こうとしゃがみ込んだ。
 聖は今までチームメイトや誠には理不尽な冗談も言ったけれど、それ以外には冗談でも言わなかった。今だって優一のことを信用した訳ではないだろう。やはり聖は変ったのだ、この短時間に。それが仮令違和感を感じるものであったとしても。





-続-

優一君てどんなキャラでしたっけ……?