天気予報の通り、体育祭は晴天のうちに迎えることが出来た。竜田学園の体育祭はグラウンドではなく専用グラウンドで行われる。大きさは東京ドームと同じくらいだろうか、学校から少し離れた海沿いに建っている。六月といえども天気はよく、暑いくらいだった。
 午前中の種目はまだ三種目ほどしかこなしていないが、聖達のクラスがずば抜けて点を稼いでいた。縦割りの連合が出来ているといっても、点数はクラス別でもでてくるのでみんなあまり気にしない。得点版に表示されたそれをみながら、海人は庄司と共に聖を探して歩いていた。そろそろ十一時を回ることで、聖が空腹を訴え始める時間だ。


「聖!」


 トラックが見渡せるクラスの応援席で聖を見つけ、庄司が声を掛けた。こちらに気づいた聖が不思議そうに首を傾げて龍巳と話していたので、少し歩調を上げて近寄り思わず聖の全身をまじまじ見た。普段の部活で見慣れているはずなのに、聖の体育着姿が妙に似合っていなくて笑えた。


「何?」

「お前らのクラス、トップじゃん。すげーな」

「俺らが頑張ってますから」


 にっと笑った聖に海人と庄司はお互いに顔を見合わせた。聖の表情はいつもと変わらないように見えた。けれど明らかに違っている。今までよりも警戒心を感じられる。昨日、直治にあの言葉を言われてから聖に妙な警戒心が宿っているのは知っている。見ている限り、聖はクラスメイトとも笑顔を交えて話が出来るようになった。だからだろうか。
 聖が「な」と龍巳に話を振るのは不自然ではない。けれど、聖が体育祭に積極的に参加しているという事実が不自然そのものだった。部活には積極的に参加をしても、こんな大人数を相手にメリットとかを考えなければならない行事に積極的に参加するとは思えない。


「頑張ってるって、聖そんなに種目でてんの?」

「今ンとこ障害物と短距離。何か俺は良いって言った覚えねぇ種目に登録されてた」

「いいえ、坊ちゃんは了承なされてました」

「覚えてねぇ」


 聖の隣に控えていた優一が丁寧に訂正するのに聖がにべもなく言い捨てて、肩を竦めて見せる。伊藤優一のことは話しには聞いていた。けれど正直聖の近くにいて欲しくなかった。折角こんなにも無邪気に心を開こうとしているのに、それを邪魔して欲しくないというのが二年レギュラー全員の願いだ。


「聖、長距離でるんだろ?」

「……ジャンケンで勝ったのに」

「あれはジャンケンじゃねぇ、あっちむいてほいだ」


 聖が口を尖らせると龍巳がしれっと言う。どっちでもいいけれど、聖の柔らかい表情から龍巳には心を開いたのだと思うと少しだけ嬉しくなる。これなら聖も大丈夫だろうか。庄司と顔を見合わせて笑い、海人はいきなり聖を抱き寄せた。驚いた聖が文句を言うけれどそのままにぎゅっと抱きしめ、聖を挟むように庄司が聖を抱きしめる。あとは、女性でも煙草でもなくチームメイトで心のバランスを取ってくれればいいのだが。


「珍しいじゃん、聖がクラスでこんなに頼りにされてるなんて」

「スポーツテストの結果のおかげ」

「……つーかさ、俺たち先輩なんだから敬語使えよ」


 聖は敬語を使わない。出会いが敬語の要らない関係だったから特に気にしていなかったけれど、中等部に上がってきてからはクラスメイトや他人がいるところでは不自然なほど敬語を使っていた。けれど最近はめっきり減って、部活中に敬語を聞くことはなくなった。それは聖が周りに世界を広げているということだからいいのだろうけれど、ここはグラウンドでクラスの人間もいるのだ。もしかしたら、聖が心を許し始めているのかもしれない。これはあとで亮悟に報告しなければ。


「いい加減苦しい!そういえば、亮悟先輩は?」

「体調不良で休み」

「ふーん……またか」


 聖から離れらながら言うと、聖は詰まらなそうに呟いた。まるで拗ねた子供のようで、聖がいかに亮悟を慕って頼っているかが窺える。励ますようにぐりぐりと頭をなでると、「はちまきが取れる」と小さな声で拒絶された。


「宍原先輩は体が悪いんですか?」

「あ、他の奴は知らなかったっけ。亮悟、体弱いんだよ」

「そうなんですか」


 龍巳は知らなかったようで、理由を教えてやると静かな声でそう言った。
 丁度そのとき午前の種目が終わり、昼休みになった。昼休みは保護者と食事を取るのが通例となっているため、一旦ここで友人たちとは別れることになる。個室が用意されているのでそこで食事にする家が多い。大学部までが一緒なので数に不安があるが、高等部になってしまうと家族が時間の都合をつけなくなったり生徒の側で嫌がったりしてこないので十分に足りた。


「もう昼か。珍しいな、聖が腹減ったって言い出さないの」

「普段から言ってない」

「……来るか」


 昼食になると、観覧席から下のスタジアムに各家のお抱えの者たちがやって来て家の坊ちゃんやお嬢様と上に戻るようになっている。生徒がぞろぞろと戻っていくのを喋りながら見ていると、誠が走ってきたのが見えた。龍巳が目を眇めて舌を打ち鳴らすけれど意味が分からない。


「若、頭がおつきになりました」

「追い返せ」

「えぇ!?」


 龍巳が腕を組んでサラッと返事を返してくれたので、誠は思わず声を上げてしまった。さも当たり前のように言われてもできるわけがない。そもそも誠自身、先触れで来たのであってすぐに彼はここに来るだろう。
 龍巳の有無を言わせぬ言い方に海人も庄司も思わず顔を見合わせてから聖を見た。海人たちにとって龍巳はそんなことを言うように見えないのだが、聖は苦笑を浮かべているだけだった。


「もう無理です若ぁ」

「無理じゃねぇ。あいつを近寄らせんな」

「相変わらず口の減らねぇ餓鬼だな、おい」


 低い力のある声がして、反射的にそちらを振り返った。一瞬彼を見ただけで海人も庄司も言葉を失くすが、龍巳は兄の姿に嫌そうに奥歯を噛み締める。
 九条院砂虎は九条院組の現在の最高権力者であり、龍巳の実兄だった。歳が十七も離れているので二十九歳。切れ長の瞳は龍巳と良く似ていた。けれど、虎の刺繍の着物よりも何よりももっとも目についたのは、右の額から掘られている虎の刺青だった。


「組の連中が雁首揃えて観戦に来てやったんだ、余興をしっかり見せやがれ」

「頼んでねぇよ」

「餓鬼が文句言ってんじゃねぇよ。親父も上で待ってんだ、行くぞ」


 強面で一言一言に力があった。睨まれれば心臓を止められてしまうかもしれない。けれど行くぞと言った彼は、龍巳の肩に腕を回して龍巳に振り払われていた。しぶしぶ兄と距離を置いて歩き出した龍巳の後を、誠が慌てて追った。


「聖。また後でな」

「誰だ?」


 龍巳が足を止めて振り返り、砂虎もまた振り返った。聖の姿に目を留めて、足の先から舐めるようにじっとりと聖を見ている。その視線に肝を冷やしたのは海人と庄司だった。相手は九条院組の頭。聖はいくら角倉の子息だといってもその家を嫌い守護を求めない。何か起こってからでは遅かった。


「ダチだよ、うるせぇな」

「……例のお坊ちゃんか」

「てめぇにダチの作り方まで指図されるいわれはねぇ」


 吐き捨てるようにそれだけいうと、龍巳は後ろ手に手を振りながらさっさと歩いて行ってしまった。その周りには数人の柄シャツの男が控えて龍巳の羽織をかけてやっている。それを呆然と見送って海人が聖に目を落すと、僅かに頬を染めて唇を軽く噛んで視線を落としていた。ほんのり染まった頬が可愛らしくて、思わず聖の頬を抓ってやる。


「何、聖照れてんの?」

「……悪ぃかよ」

「いんや?かーわいー」


 庄司もにやにや笑って聖の頭をくしゃくしゃかき回す。いつもならば「やめろ」と怒鳴る聖だが、今日ばかりは何も言わずに俯いていた。
 そろそろ聖のところにも迎えが来るかな、と思って海人は辺りを軽く見回した。本来の目標は誰にも言っていないけれどこれだった。いや、庄司辺りは分かっているだろう。美月に会いたかった。クラスが一緒ではあるけれどクラスメイトとしてはちゃんと話せない。けれど聖を介してだったら少しはマシな気がしていた。


「聖さん、こんな所にいたんですね」

「美月さん」


 予想通り、美月は現れた。海人の姿を見たビクリと一瞬だけ表情を引きつらせたような気がするが、そう思い込む前に庄司が背を叩いてくれた。チームメイトに勇気を貰って、海人は聖を後ろから抱きしめたまま美月を見た。相変わらず可愛らしいので、知らずに心臓が暴れだす。


「姫、聖のお迎え?」

「お、大沢君……。いつも、弟がお世話になってます……」

「かったいなぁ。そういえば、姫大活躍だったじゃん」

「美月さん、大活躍だったんですか?昨日はあんなに嫌がってたのに」

「活躍なんて全然……みんなの足を引っ張っただけですから」


 美月は本当に聖の姉かと疑いたくなるほどに運動が出来ない。なんでも卒なくこなす聖と違い、大抵の動きも海人から見れば鈍い。それが可愛い所でもあるけれど、海人はからかうしか出来なかった。今のだって、美月がドベしかとっていないことを知っていての言葉だ。美月はうっすら涙を浮かべ、海人がしまったと思う前に俯いてしまった。


「美月お嬢様、聖お坊ちゃま」


 ふっと現れたのは初老の男性だった。燕尾服を着ているところから見れば角倉の執事だろうか、聖のことをお坊ちゃまと呼ぶ人間にあまりお目にかかったことのない海人と庄司は思わず吹き出しかけた。辛うじて堪えて聖を見ると、眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた。これは、出逢ったことの顔だ。この顔を、聖は家の中ではまだしているのか。


「美月お嬢様、本日の昼食は常陸様とご同席になります。澄春様もいらしておりますよ」

「……そう」

「聖お坊ちゃまは申し訳ございませんが、ご遠慮願うよう託ってございます」

「分かってます」

「こちら、坊ちゃまの昼食になります。料理長から預かってまいりました。我々でよろしければ同席させていただきたかったとのことです」

「どうも……」


 聖に弁当の包みを渡すと、男性は美月を促した。美月は少し悲しそうに聖を見て、数言耳に囁きを落としてから彼に従って行ってしまった。人ごみの中に消える彼女らを見ながら、聖は僅かに笑みを刷いて包みを見落とした。


「んじゃ、聖はうちで一緒に飯食おっか」

「は?」

「飯、一人なんだろ?」


 海人は当たり前のようにさらっと言った。それに聖が一番面食らっているが、庄司も納得したように頷いている。納得していないのは聖だけのようで、渋るように弁当に視線を落としている。  聖の向こうに小さな影が走ってくるのに気づいて、海人は聖の額を指で弾いた。反射的に聖がやっと顔を上げる。


「うちは聖のことみんな知ってるし、人数増えても気にならない。そんなの知ってるだろ?」

「海人兄ちゃんいたー!」


 飛び込んできた貴人を抱きとめて、海人は笑った。庄司も迎えが来て行ってしまったので、もう残っているのは聖と海人くらいのものだ。貴人も聖に懐いているので、海人の言葉を聞いて嬉しそうに目を輝かせて海人の手を引いた。


「海人兄ちゃん、聖くん一緒にごはん食べるの?」

「そーそ、一緒だぞ」

「やったね!」


 貴人があまりにも無邪気に笑うので、聖もぎこちなく微笑を浮かべた。早く、とばかりに貴人が引っ張るので嫌だとか言う前に足を出さざるを得ない。ただ、こんな強引なものも迷惑ではなく寧ろありがたかった。今の聖には決定する意志がなかったから。
 数歩進んだ時、後ろから切羽詰った声に呼ばれて聖は思わず足を止めて振り返った。立っていたのは、美鈴だった。


「聖くん!」

「美鈴ちゃん?」

「あの、一緒にお昼……食べない?」

「先輩と食べるから、ごめん。それに変な噂が立って迷惑になったら困るしね」


 手をきゅっと握りこんだ美鈴に聖はにっこりと笑って告げた。それを隣から聞いていて海人は苦笑する。本当に上手く言葉を使っている。主語を交えないから、誰が迷惑になるか分からない。一見して優しい言葉だが、聞き方によっては酷く自愛的な台詞だ。


「私は別に、噂なんて……」

「明日のお昼は一緒に食べよ。今日は家族と食べた方がいいだろ?」


 美鈴に数歩近寄って、聖はそっと彼女の頬に唇を寄せた。彼女が赤くなって俯いている間にさっさと踵を返して歩き出してしまう。聖は今までと違うことをしていると思っているかもしれないけれど、海人にしたら同じだ。大人の女性でも同学年の少女でも、聖のはただの恋愛遊戯だ。
 数歩先に進んだ聖が、不意に振り返って笑った。


「海人先輩。いいこと教えてあげよっか」

「……何だよ」

「さっき美月さんが言ってたこと。『大沢君の方が大活躍で格好良かったの、すごいのよ』だって」

「何それ、マジ!?」

「俺の方がいい男なのになぁ」

「テメ、先輩と張り合うんじゃねぇよ」


 聖が笑ったからさっきのことを問い返すことも出来ず、海人は僅かに沈黙した。間を埋めるように貴人が喋ってくれるのはありがたい。聖は一々話を聞いて相槌を打っていて、こちらに考える猶予を与えてくれているようだった。実際、与えてくれてるのかもしれない。
 結局、先ほどの少女との関係を訊こうと思ったけれど、口から出てきたのは違う言葉だった。


「聖。さっきの……ヒタチサマって?」

「美月さんの婚約者」


 聖がさらっと答えてくれたので理解に少し時間が掛かった。美月に婚約者がいるのは知っていたけれど、どこか別次元の話をしているようだったので今まで気にしていなかった。やっとここにきて現実になったようだった。
 けれどまだ中学生。猶予はあるだろうとつい、先送りにして話題を避けてしまった。代わりに、来週の他校との練習試合の話をしながら、間に貴人を置いてゆっくりと歩いて行った。





-続-

九条院砂虎(くじょういんさとら)

出たはいいけれど、龍巳さんが酷い。