大沢家は七人家族だ。五人兄妹に両親+犬。全員が集まって正に家族という空間に聖は僅かに足を止めた。今まで一度も持ったこともない『家族』と言うものに直面するたびに足が竦む。未知のものに恐怖を覚えるのは動物の本能だ。
 けれど大沢家の母は聖が来たことを喜んでくれて、笑顔で「聖くん、いらっしゃい」と言って座るように促してくれた。何となく輪から体を引いて持参させられた弁当を開くと、妙に豪華だった。これは多分、料理長の心意気なのだろう。いや、ついでかもしれない。


「相変わらず聖の弁当って豪華だよな」

「俺はそっちの方が羨ましいけど」


 隣から覗き込んでくる海人は紙皿を持っている。中央に置いた大量のお弁当は、大家族だという温かみを感じられる。こんな金が掛かっている冷たい弁当なんかよりもおいしそうだった。角倉の家に引き取られる前は母親と二人ぐらしで、こんなにたくさん料理を並べたことはなかったし騒がしくはならなかった。温かく幸せだったのは確かだけれど。角倉に引き取られてからは食事を一緒に取ることを避けていたので、誰かと弁当を囲んでいるのが不可思議だった。
 あまり味が感じられないのは、目の前の弁当が羨ましいからだろうか。進まぬ箸をゆっくりと動かしていると、右隣で貴人が聖の袖をくいっと引いた。


「聖くん、おべんと交換しよ?」

「いい考えだ貴人!そっち食ってやるからこっち食えよ。食いたいだろ?」

「海人も貴人もやめなさい!聖くん、好きなもの食べてね」


 一喝されて海人と貴人は揃って肩を竦めた。それを見てみな笑っているので、聖も付き合い程度で笑みを貼り付けた。海人が差し出してくれた紙皿をありがたく受け取って、代わりに豪奢な弁当箱を押し付けると海人が微笑み、逆隣から貴人が羨ましそうに頬を膨らませていた。


「そーそ、聖は素直な方が可愛気があるぞ?」

「いらね、そんなもん」

「可愛くねーの。食いたかった訳でもねーだろ」

「それは……別に」


 確かに海人には感謝している。あのままだったら一人でこの淋しい弁当を食べなければならないところだった。もちろん楽しくなんてない。本当は龍巳たちが誘ってくれると期待していたけれど、それは淡くも去ってしまった。けれどそれを口に出す気はない。期待したのは自分で、自業自得なんだから。
 少しだけ拗ねた気持ちで卵焼きを口に放り込むと、甘い味が広がった。昔食べた家庭の味を思い出して、涙が出そうになった。甘い卵焼きは、久しく食べてない。不意に、頭を撫でられた。


「あいつらはまだ聖の根本を理解してないだけ。まだまだ付き合い浅いだろ」

「……気にしてねぇ」

「期待はしてただろ?」

「期待なんて、しない」


 期待することはもう疲れた。現実は変わらないのに幻想を抱くのは勝手だ。失望するのも勝手。目に見えるものは同じはずなのに期待を介すと目の前が光る気がする。それを諦めたのは、いつからだろう。
 低い声で呟いた聖に溜め息を軽く吐き出して、海人は勝手に皿にカラアゲとハンバーグを乗せた。驚いた顔をしているので「食え食え」と進めると、躊躇いがちに遠慮した後ゆっくりと箸で割る。卵焼きとかカラアゲとか、久しく食べていない。子供が好きな代表作なんて角倉の家では登場しない。


「それにな、守ってやりたくても家名ってのもある訳よ」

「………」

「直治も庄司も生粋のお坊ちゃんだから家は裏切れない。それは九条院も北畠も浜崎だって一緒だろ?」

「分かってる」


 その答えを捻り出した途端、自分がイラついていたのだと気づいた。それほどまでに先輩たちにもチームメイトたちにも心を許していた。それを、はっきりと自覚した。思わず大きく溜め息を吐き出すと大沢家の母親は不安そうな顔をして聖を見た。


「聖くん?美味しくなかった?」

「あ、すごい美味しいです」

「聖は今青春の悩みで忙しいんだもんな」

「何、それ」

「さっきの女の子誰よ」

「え、聖クン彼女いんの?」


 海人の不機嫌そうな言葉に聖は回答をどうしようかと一瞬悩んだ。その隙に大沢家の三男である久人が食いついてきた。聖の一つ下なので今小等部の六年だ。聖は答えに窮したが、海人の目が「正直に答えないと亮悟にチクる」と言っているので時間を稼ぐためにおにぎりを頬張った。
 美鈴との関係ならば付き合っているというのが明確な形だろう。けれどまだ何もないし、する気もない。ただ相手の出方を窺っている状態だ。そうは言っても聖には前科があるので信用は薄いはずだ。そもそもクラスメイトと付き合っているといった時点で信憑性が薄い。おにぎりを飲み込んで、聖は軽く頷いた。


「美鈴ちゃんはクラスメイト。彼女じゃない」

「なーんだ、つまんないの」

「彼女じゃなくて、何?」


 久人は簡単に納得してくれたけれど、海人はそうはいかなかった。彼女じゃなくても関係を表す言葉はたくさんある。聖は言葉を使うのが上手いからいつも以上に警戒しているのだろう。その気になれば、海人に嘘を吐くのは簡単だ。


「俺に気があるクラスメイト。まだ様子見てるだけ」

「へー……」


 疑わしそうに見てくる海人から視線をそらして聖がパックのお茶に口を付けると、海人は納得していないように鼻を鳴らした。更に何か言い募ろうとしたが、母親の「早く食べちゃわないと午後の部が始まるわよ」と言う言葉に遮られた。
 残りのお弁当を慌てて掻き込んで海人に弁当箱を返してもらい、久しぶりに料理をしたくなりながら聖は礼を言って大沢兄弟と一緒にグラウンドに戻った。午後の部にも出場種目は多い。まだ、大丈夫だ。恐怖に怯えることなく立っていられる。










 午後の種目が終わる頃には、聖は龍巳と並んでクラスメイトから羨望の視線で見られるようになっていた。午後に参加した種目はリレーと長距離、玉入れに騎馬戦。種目を決めていた時は空きがなかったくせに、いざ提出すると運動神経を変われてか聖と龍巳はほとんどの種目にエントリーされていた。
 部活対抗リレーのメンバーがスタートについているのを見ながら、二年レギュラーは聖の姿を捜した。最後まで嫌がっていた聖に強制的に女装させてメイクまで施している。目撃した女子だけでなく男子も端から絶叫するような美人ぶりだ。やっぱり小柄で元がいいと何をしても映える。不機嫌を顔に貼り付けているけれど、輝いて見える。他のメンバーがユニホームだからギャップにときめく。聖だけ、チアリーダーのような格好だから。長い髪も、こういうときばかりは色気に一役買っている。
 パンと渇いた鉄砲音が鳴り響き、スターターの龍巳がスタートした。ビデオを回しながら、庄司が呟く。


「聖、かーわいー」

「今までなら絶対に着てくれなかったよな」

「いっぱい写真とって亮悟にも見せてあげなくっちゃね」


 聖の可愛さを絶賛しながらもやはり彼の僅かな変化に心を留めていた。急に明るくなった裏には直治の言葉があると思うから、直治自身が少し気にしている。ただ、聖が変ったことはいいことだと思う。元々聖は心を開けば活発で人の目を惹きつける人間だから、今のようにクラスどころか学校中から注目されてもおかしくない。けれど聖の出している警戒心だけが気になった。


「亮悟、一番聖のこと気にしてるからな」

「今日も這ってでも来そうだったしな」

「……聖の親ってさ、何してるのかな」


 ずっと黙っていた護が発した言葉に、三人は固まった。護は角倉の父親の事を言った訳ではない。母親のほうだ。中学生といえども権力を持つ子供たち、聖の母の所在を調べるのは容易かった。けれど、聖に伝えてはいない。聖がそれを望まない限り伝えるつもりはない。結局、聖の問題だからこれ以上足を突っ込んではいけないのだ。


「護、余計なこと言わないでよ?」

「わーってるよ。ただ、聖に会いたくないのかなって思って」

「彼女にも彼女なりの思惑があるだけで聖のことを大切にしてるよ」


 全てを調べたのは直治だ。ただ、持っているのはデータだけ。そういう役回りを演じている。調べた中に人間の感情を示してくれるものはない。けれど調べる過程である程度は真実が見えてきた。彼女は聖のことを一番に思い、角倉に引き渡した。聖の幸せだけを願っていたことを聖も知っているから、あの家から逃げ出しきれない。
 いつの間にかリレーはアンカーにバトンが渡るところだった。バスケ部は現在二位。一位は陸上部だ。去年は海人は兄と対決し悔しくも負けてしまった。それを思い出して海人が奥歯を噛んでいると、聖に寿季からバトンが渡った。


「いっけー!聖!」


 思わず声を上げると、聖は聞こえていないはずなのに顔を引き締めた。女装しているはずなのに女っぽく見えないのは聖の目だ。それをまざまざと見せ付けられる姿だった。一メートルほども前にいる陸上部に引き離されることなく食いついている。バスケ部は一年レギュラーの仕事だが、部活によってはベストメンバーを出してくる所もあるから、バスケ部が勝利することは稀だ。


「まだまだ、聖は早いよな」

「今日のヒーロー聖かよ」

「MVPとか取れるんじゃねー?」

「亮悟に報告することが増えたね。喜ぶと思うよ」


 そんなことを話している間に聖はグングン距離を詰めて、とうとう抜き去った。歓声が上がり、海人はすぐ近くで上がった歓声に驚いて思い切り振り返ってしまった。視線の先には、美月が立っていた。


「ひ、姫!?」

「あ、あの……聖さんがお昼にお邪魔したと聞いたので、お礼に……」

「そ、なんだ。どーいたしまして」

「あとね、聖さんはどうして女装しているの?」


 美月の瞳には困惑と憤りが僅かに浮かんでいた。それを見て海人は思わずたじろぐ。それを近くで見ながら完全に無視して、三人はカメラと一緒に聖を追った。そのままの勢いでゴールに向かっている。徐々に二位との差が開き、これは勝てると確信した。


「あれは、うちの伝統?」

「私の大切な弟に何させるんですか!」

「本当に『大切な弟』?」


 美月の小さないぶかしむような言葉と護の「海人」と諫める言葉は歓声にかき消された。聖が一位のままゴールしたのだ。アナウンスでバスケ部の勝利が告げられ、周りからは大きな歓声がひっきりなしに上がっている。それは、彼らがこちらへ戻ってきてからも変わらなかった。女装したまま戻ってきた聖に美月がいの一番に駆け寄った。


「聖さん!おめでとうございます!!」

「美月さん、恥ずかしいから先に着替えさせてください」

「そうですよね。でも、似合ってますよ」

「だーめ。似合うんだからもうちょっとそのままでいろよ」


 美月が聖を着替えに行かせようとしたのを海人が聖を後ろから抱きしめるような形で止めた。聖が不機嫌に見てくるけれど、気にしない。美月の目が僅かに吊り上るけれど、もう取り消せない。こんな後悔を、海人は何度もした。


「大沢君、聖さんに意地悪しないでください」

「姫の大切な弟だもんな?」

「俺の大事な姉に何言うんですか」


 聖に不機嫌なままに言われ、思わず顔がひきつってしまった。力が抜けた腕から聖が抜け出すと、それを待っていたように庄司がカメラを護に押し付けて聖を捕まえる。すると美月が今度は庄司に向かって「二宮君、聖さんを離してください!」と頬を膨らませる。その表情は海人に見せるよりも数段柔らかいものに見えた。
 そうこうしている内に聖のクラスメイトも数人集まってきて、聖は取り囲まれるようになってしまった。残りのクラスメイトは、遠巻きから見ている。まだ聖との距離を測りかねているのか彼の美貌に気後れしているのか、状況的には後者な気がする。


「聖、おめでとう!」

「格好良かったよ、女装だけど似合うし」


 寄ってきたのはみんな女子で、それが聖らしいといえば聖らしい。聖も微笑んで対応しているし、別にただのクラスメイトとの交流だろうか。聖の女性関係には疑心暗鬼になっている二年レギュラーはこれをVTRに残して亮悟に見せるかとても悩んだ。
 ふと、海人は聖の周りから一歩下がったところにいる美鈴とか言う名の少女に気づいた。聖を見る目線が他とは違い、思わず目を細める。聖のことだ、どこで恨みを買っているかわからない。


「本当に聖って何でもできるね」

「美的感覚ゼロの癖にな」

「うるせぇよ」


 龍巳の僅かに呆れたような声に聖は短く唸った。けれど否定はしない。自分の欠点を認めているのは良いことだ。
 そうしているうちに閉会式の準備も整い、整列の号令が掛かる。今まで入り混じっていた生徒たちが引いてくのをみて、護はビデオを切った。


「聖、今日は帰る?なんだったら亮悟の様子見に行く?」

「んー、どうしよ」

「聖さん、帰りの車はグラウンドを出てすぐ左に停まってますからね」

「帰るみたいです」


 美月はにっこりと笑ってそういうと、「ごきげんよう」と手を振って自分のクラスに戻っていった。その後を追って海人も離れる。
 それを見送って、聖は先輩たちと別れて龍巳と並んでクラスに戻る為に歩き出す。帰りには父と兄も一緒の車に同情するのだろうか、否それはない。きっともう帰っているはずだ。ならば顔を合わせる心配はないと僅かに安堵して細い息を吐き出す。その時、喧騒の中から声を掛けられた。


「角倉聖君」

「ん?」


 振り返ると、同じ一年だけれども知らない人間が立っていた。誰だこいつと一瞬訝しんで見て、以前どこかで見たことがあると思い出す。けれどそれがどこだったか誰だったかは思い出せなかった。一歩下がって控えている優一も分からないようだった。それを理解したのか、その少年は軽く笑って頭を下げた。


「美月様の許婚の常陸紀仁といいます。初めまして」

「あ、ども」


 初めて見る姉の婚約者に聖は曖昧な返事を返した。けれど彼は大らかに笑って手を差し出してきた。握手を求められ聖が困惑しながらも恐る恐る手を出すと、彼は笑顔で握ってきた。生来の性格が大らからしい。


「挨拶が遅れて申し訳ない。これからよろしく」

「はぁ……」

「いい友達っていうのは変かもしれないけど、なれるといいな」

「……善処します」


 聖の回答にも彼は笑って、「集合だから」と行ってしまった。それをポカンと見送りながら、聖は一体なんだったのかと考える。茜やさくらに引っ張られながらなので足だけは無意識にクラスの元に進んでいる。隣を歩いていた龍巳が、呆れたように聖の髪に触れた。


「善処しますって何だよ」

「ホントにな」

「女装しっぱなし」

「あー、そだ。忘れてた」


 聖は呻き、着替えてくると言い残して部室に向かった。サボった閉会式でMVPに選ばれたことを知ったのは、部室でシャワーを浴び終わって着替えている最中だった。





-続-

きっと角倉さんちの卵焼きは出汁巻き