美月にほぼ強制的に家に連れていかれて、夕食後に聖は自室でやっと身体の緊張を解いた。この家では食事する時ですら気が抜けない。やっと部屋に戻って着物から洋服に着替える。細身のパンツにタンクトップ。その上に薄手の長袖パーカを羽織って髪をかるく纏め上げる。
 明日は振り替え休日で学校がない代わりに部活があるので、鞄の中身を出してTシャツとボールと必要なものを詰めていると、布団の上に放り出していた携帯が鳴りだした。音の設定はしていないから、典型的な電話の音だ。膝で歩いて携帯を掴み、開いて着信を確認する。ディスプレイには『亮悟先輩』と表示されていた。やや躊躇って、通話ボタンを押して受話器を耳に当てる。


「……亮悟先輩?」

『聖、体育祭お疲れ様。聞いたよ、MVPだって』

「ども。先輩こそ身体大丈夫?」

『大丈夫、いつものことだから。今は?角倉の家?』

「ん、部屋にいる」

『そう。明日は部活だから、遅刻しないようにね』

「そんなこと言う為に電話してきたの?」

『……特に用はないよ。MVPのお祝いが言いたかっただけ』


 亮悟の声に耳を傾けて僅かに眉を寄せていた聖は、口元を柔らかく綻ばせた。自分だって身体が辛いくせに、人のことをとても心配してくれる。どうせ昼食のときのことを聞いたのだろう。別に気落ちしている訳ではないけれど、亮悟の声を聞いたら何となく安心できた。理由もなく心配してくれることが嬉しい、電話をしてくれるのが嬉しい。自然綻んだ口元に気づいて誰も見ていないと分かっていても恥ずかしくなって掌で隠す。


『じゃあ、早く寝るんだよ。明日は僕も部活出られるから』

「うん、待ってる」

『おやすみ』

「亮悟先輩」

『ん?』

「……ありがと」

『どういたしまして』


 電話の向こうで亮悟が笑った気配がした。それが妙に照れくさくて聖は電話が切れても口元が笑むのが収まらなかった。
 しばらく布団の上で携帯を握り締めてぼんやりしていたが、少しして落ち着くと荷物の入れ替えを再び始めた。鞄から出したものに弁当箱があり、洗わなければと無意識に思う。別に聖が食べた訳ではないけれど、調理場の人間に「美味しかった」と伝えるべきだろう。弁当の包みを持って部屋を出て調理場に向かう。見えた調理場には、まだ電気が付いていた。中を覗いて、遠慮がちに声を掛けてる。


「あの、弁当箱……」

「坊ちゃん、わざわざありがとうございます」

「いいよ、俺洗う」


 朝食の仕込みをしていたところだろう板長がさっと笑顔を貼り付けて聖の手から弁当箱を受け取ろうとした。けれど聖は反射的にそれを引き寄せる。この板長はこの家の中で美月を除いて唯一聖のことを角倉の人間と認めている人物だ。だから聖も自然と彼と接する機会が増える。
 自分で洗うと調理場に入ろうとすると、板長だけでなく中にいた料理人たちがこぞって止めに来た。板帳の顔は、酷く困惑している。


「調理場は男子の立ち入る場所ではありませんから!」

「自分男だろ。ついでに何か作らせて」

「私はプロです。でも坊ちゃんは高貴なお方、天と地ほども違います!」

「違わねぇ」

「聞き分けてください、お願いします」


 今にも土下座せんばかりの勢いの板長にこれ以上掛ける言葉もなく、聖は諦めて弁当箱を渡して「美味しかった」と伝えた。彼は申し訳なさそうな顔をしていたけれど僅かに顔を綻ばせ頭を下げる。
 できないと思ったら料理がしたくなってくる。今日食べたカラアゲだとか卵焼きだとか、子供が好きそうなものはとんと食べてないし作ってもいない。今まで毎日料理をしていたので、したいと思ったらなんでもいいから作りたくなった。元来我慢ができる性格ではない。聖は「明日朝いらない」と言い捨てて踵を返すと、自室に戻って準備し終わったばかりの荷物を掴んだ。携帯をポケットに突っ込んで、家を出る。逃げる訳ではないけれど、行く場所は一つしかない。










 学校指定の鞄を肩からかけて右手にスーパーの袋を提げて、歩きなれた新宿の街を足早に歩く。裏路地に入ると怪しい輩がたくさんいるのでできるだけ係わり合いにならないように気をつけながら、その店への最短距離を歩いた。先日変なチンピラに絡まれたばかりなので、気配だけは慎重に探っている。
 ちらりと腕時計を確認して今が八時なのに少し安心して顔を上げると、もう店の前だった。ぼんやりと開店しているんだかしていないんだか分からないほどか細くだけれど電気が付いているし、埃を被った『Sodom』の看板も出ている。聖は少しだけ逸る息を極力落ち着かせて、店のドアに手を掛けた。


「あーちゃん、台所貸して!」

「は?」


 逸る息はどうにか制御できたけれど、浮かれた心と表情はどうにも隠せなかった。緩む口元でドアを開けながらそういうと、カウンターの中で銜え煙草でグラスを磨いていた綾肴はぽかんとした顔で聖を凝視した。彼が動けないことをいいことにさっさとカウンターの中に入り込む。聖がスーパーの袋をカウンターに置いた所で、綾肴に思い切り頭を叩かれた。


「何してんだテメェは!」

「料理したい」

「そうじゃねぇよ。……あぁ、くそ」


 綾肴は憎らしげに呻いたけれど、言葉を飲み込んだように最後には舌を打ち鳴らして会話を切った。彼にしては聖がここに来ることが意外だったのだろう。多分彼は、もうこないと思っていた。聖本人ももうこないと思っていた。けれど再びここに来たのはやはり逃げだった。先輩の家に行こうとも台所は貸してくれない。結局、ここが一番心地いい。それに彼は母親には黙っていてくれるだろう、約束を破ったことはないから嘘はない。だから少しだけ、ここに逃げてきたくなる。
 聖が袋から人参とたまねぎを出していると、煙草を灰皿で揉み消した綾肴が腕を組んで聖を睨み据えた。


「あーちゃん、何か食べたいものある?」

「店で誰が料理して良いって言ったよ」

「材料は買ってきたから大丈夫」

「そういう問題じゃねぇ。うちのコンロの使用目的知ってんだろが」


 イライラと言う綾肴に聖はわざと話を混ぜた。この店はビリヤード場で、薄暗い換気扇の音が心地いい。煙草と酒の匂いが入り混じった無秩序な空間には確かに家庭の匂いは似合わない。それは分かってはいるけれど、どうしても料理がしたい。別にテンプラ作りたいとか言っているわけではないのでいいじゃないかと口を尖らせたくなる。実際口を尖らせた。


「おつまみ作るためだろ」

「分かってんならバカ言うな。落花生の為だけに存在してんだ」

「今日おつまみ増やせば?」

「ぶん殴るぞ」


 にっこりと笑って言ってみると、綾肴もにっこりと笑って拳を握った。聖の社交性は綾肴が育てたのだから、行動は似たようなものだ。お互い笑顔で膠着状態に入ってしまうとただ時間だけが無駄に過ぎてしまう。無言の空間にぼそぼそとした客の喋り声と球のぶつかる甲高い音だけが邪魔をしていた。
 しばらくにらみ合っていると、ふとカウンター越しに男が座った。「マスター、何か作って」と注文するので、綾肴は憎らしそうに舌を打ち鳴らしてシェーカーを取り出す。


「注文は?」

「ミント・ジュレップ」

「……了解。ひぃ坊、さっさと出てけ」

「やだ」

「少年、得意料理は?」


 綾肴からプイと顔を逸らして人参を手元で遊ばせていると、男は聖を見てにっこりと微笑んだ。僅かに首を傾げていると、得意料理を訊かれた。彼の意図は分からなかったけれど聖が「オムライス」と答えると彼は「いいね」と人の良さそうな顔で笑った。


「マスター、あとオムライス」

「メニューを見てくれ。書いてあるか?」

「でも作れるようだから」


 グラスに直接ソーダ水とミントの葉、砂糖を注いでステアしながら綾肴はジロリと聖を睨んだ。けれど聖はそ知らぬふりをして「作れる」とにやりと微笑む。それを見た綾肴は深く溜め息を吐き出し、ミントを潰しながら舌を打ち鳴らして小声で「しょうがねぇな」と呟いた。それを捉えて、聖は袋から材料を全部取り出してさっそく包丁を手にした。久しぶりに握る包丁は、重かった。


「余計なこと言ってくれやがって。おまちどうさん」

「客になんてこというのさ。あんまりいじめちゃ可哀相だよ、可愛い子なんだから」

「だから厳しくしてんだよ。獅子と一緒」

「あーちゃんのはただサドなだけ」


 人参をみじん切りにしながら聖が呟くと、男は笑った。酒でのどを湿らせて目を閉じてしまう。綾肴は溜め息にも似た息を吐き出してまたグラスを磨きだした。それを横目に見ながら、トントンとテンポよく野菜を刻んでいく。


「泊まってくのか?」

「店閉まる時間には始発動いてるっしょ」

「それ作り終わったら寝ろよ。ガキは寝ろ」

「ガキじゃねぇもん」


 グシャグシャと頭をかき回されて、聖は抵抗するように頭を振った。けれど彼はカラカラ笑うだけでやめようとしない。材料を切り終わってフライパンを火にかけながら、聖はふと顔を上げて綾肴を見た。この人は昔から変わっていないけれど、何を考えているか変わらずに分からない。どこまで分かっているのかどこまで分からないのか、予想が付かない。
 ふと、彼の耳に目が行った。左だけに光る五つのピアス。記憶の中にある彼は、三つしかなかったと思うのに、いつの間に増えたのか。それが大人の印のようで、今も昔も憧れた。


「あーちゃん」

「ん、失敗したか?」

「ピアス開けてよ」

「あー、そだ。約束のプレゼント」


 ただの戯言に近かった。けれど彼はあからさまに話題を逸らしてさっさと奥に消えてしまった。何なんだと口を尖らせると、目を閉じて黙っていた男が笑ってうっすら目を開け、グラスに手を伸ばした。半分ほどに減ったグラスの中の氷が、カランと渇いた音を立てる。


「マスターは君を大切にしているんだよ」

「どこが?」

「ピアスなんて身体に穴開けてるだけだから。どこかに負い目があるんじゃないかな」

「……ふーん」


 軽く頷いたけれど、彼にそんなものがあるとは思えなかった。いつだったかピアスは記念だと語ってくれたし、思い出を忘れない為に開けるのだと昔語ってくれたことがあった。だから、気負うことなんてないと思っている。
 黙って炒めたご飯を一度お皿にあけ、卵を焼く。軽く混ぜた卵を熱したフライパンに乗せてすぐに火を止め、その上にさっきのご飯を乗せて手早く包んで更に映す。上にケッチャップベースのソースをかけて、カウンターの上にスプーンとセットで置いた。


「お待ちどうさん」

「マスターそっくりだね。おいしそう、いただきます」


 受け取り、彼はオムライスにスプーンをさした。半熟の卵がとろりと流れ出し、それに感嘆の息を吐く。思い通りに完成した作品に聖は満足そうに微笑んでフライパンを水につけた。ジュッといい音をさせて湯気を出すけれど、代わりに焦げたケチャップの匂いが鼻をついた。


「ひぃ坊。プレゼント……匂いだすなって言ったじゃねぇか」

「しょうがないじゃん、等価交換てヤツ。プレゼントって何?」

「灰皿。やるって言ったろ」


 そう言って綾肴は新聞紙に包まれたものを差し出した。それを受け取って、聖は思わずはにかんだような笑みを浮かべる。新聞紙を剥がすと、銀メッキの武骨な灰皿が現れた。聖の持ち物とはそぐわないかもしれないけれど、聖の欲しいものではあった。持ち物の半分ほどは、女性が持っていてもおかしくないものだったから。


「……ありがと」

「吸いすぎは体に悪いから程ほどにしろよ」

「あーちゃんに言われたくないんだけど」


 言いながら綾肴は煙草に火を点けている。聖の頭をガシガシかき回し、嫌がる聖に楽しそうに笑みを向ける。それから片付けはやるからとカウンターから追い出した。片付ける前にシェーカーを持ち直して、口の端を引き上げる。


「特別になんか作ってやるよ」

「じゃあレインボー」

「俺がシェーカー持ってんの見えねぇのか?」

「……バレンシア」

「待ってな。呑んだら寝ろよ」


 綾肴がシェーカーを扱っているのをぼんやりと見ながら、明日の部活では何かあるかとふと思う。それから時計に視線を移す。ピンクをベースにしたデザインは明らかに女性物で、ブランド物と言うことを差し引いてもあまり他人に見せたくないからできるだけ隠すようにしている。これに綾肴が気づかなければいい。
 けれど彼は目聡くそれを見ると、僅かに目を眇めた。その視線に聖は慌てて手首を隠すけれど、遅かった。綾肴がカクテルをカウンターに置きながら睨んできた。


「その時計、どうした?」

「……買ってもらった」

「誰に」

「女の人」


 聖の回答に綾肴は難しい顔をしてフライパンを洗い出した。けれど文句は言われない。彼には彼なりに思うところがあったのだろう、聖には悟れないけれど何か。カクテルに口を付けながら、聖は目を細める。深く訊かれないことはとても楽だけれど、半面とても苦しい。知って欲しくないのに知って欲しいなんて、矛盾している。
 時間を掛けてグラスを空にすると、聖はカウンターに突っ伏すようにして眠った。部屋に行けと怒鳴られるかと思ったら何も言われず、それどころか毛布を掛けられた。眠ってしまいそうで身体を動かすのが億劫だったから何も言わなかったけれど、この空間はとても居心地がいい。






−続−

ピアスを開けたいのは私です。