集合時間よりも一年生は準備などをするために早く部活に行く必要がある。けれどそれは一般の一年生だけでありバスケ部レギュラーにはあまり関係ない。けれど集合時間の三十分ほど前にバスケ部一年レギュラーは聖を除いて部室の前で会った。別に示しを合わせていた訳ではない、偶然だ。


「おっはよー。早いじゃん」

「寿季こそ」


 専用体育館の二階がレギュラー専用になっている。部室の前で挨拶を交わして、寿季が部室のドアを開けた。朝早いことも手伝って部屋の中は薄暗く人がいても分からないだろう。否、いないはずだ。鍵が掛かっていたし。部室の鍵は一学年に一本ずつあり、普段はキャプテンが持っている。一年はまだキャプテンが決まっていないので、今日はジャンケンで晃が持っていた。
 手探りで電気を点けて荷物を置こうと数歩踏み出して、寿季は固まった。後ろから入ってこようとしていたレギュラー陣が詰まって不快気に眉を寄せて寿季の背中を突く。


「どうした?」

「寿季、邪魔なんだけど」


 葵が寿季を押しのけて室中に潜りこんだ。そして同時に言葉を失って立ち尽くす。ただ彼は感動したようにほぅと息を吐き出した。彼らの視線の先に龍巳を晃も訳も分からず目をやり、同時に思わず目を奪われた。逸らすことが叶わず、ただその美しさに圧倒される。


「おーい、そんなとこ立ってたら俺たち入れないだろ」

「お、大沢先輩…二ノ宮先輩も」


 この中で一番はやく帰ってこれた龍巳が掛けられた声に反応して振り返った。そこには海人と庄司だけではなく二年レギュラーが勢ぞろいして、龍巳は寿季を後ろから思い切り蹴って道を開かせた。その間に晃と葵はどうにか我に帰っている。
 部屋の中を覗いた一年の奇怪な行動に首を捻りながらも部室の中に入った二年レギュラーはしかし一年とは違い硬直することはなかった。ただお互いに僅かに微笑を浮かべて顔を見合わせる。


「聖、寝てんじゃん」

「あぁ、だから一年は固まってたんだ」

「相変わらず寝顔は可愛いよな」


 原因はたった一つしかない。聖がソファで静かな寝息を立てて寝入っていたのだ。制服のまま、完璧に横になって眠っている。まるで天使のような寝顔だった。女のように柔らかく繊細な顔立ちをしていることを強調している線は、起きているときとは全く違う色を見せる。長い睫毛が目元を隠し本当に美少女に見えた。
 海人と庄司は顔を見合わせると自分の荷物をロッカーに放り込んでソファにそろそろと近寄った。近寄りながらも小さな声で笑みを噛み殺しながら会話をやめない。


「ほんと、寝てると可愛いんだよな」

「起きてるときと違ってな。寝てる聖なら彼女にしてぇもん」

「お前、それ犯罪」


 聖の耳元に近づいた海人と庄司が事を起こす前に、亮悟が動いた。どうせ大声で起こすつもりだったのだろう、息を吸い込んでいる間に彼らの後ろに回りこんで思い切り頭を叩く。彼らが叫ぼうとした音と亮悟が生み出した音、どちらが大きかっただろうか。綺麗に入った平手に多少つんのめり、海人と庄司は同時に「何すんだよ」と亮悟に文句を言おうとしたがその前に亮悟に睨まれ直治に睨まれ、合えなく言葉を飲み込んだ。


「……亮悟先輩?」

「聖、起きちゃった?もうちょっと寝てていいよ」

「ん……」


 ぼんやりと聖が目を開いて定まらない焦点で亮悟の姿を捉え、微かに口の端を引き上げた。その声を聞きつけて亮悟がにっこりと笑ってソファに腰を下ろし、聖の頭を膝に乗せてそっと髪を撫でる。すると聖は吐息のような声を漏らして再び眠りに落ちた。子供にでもするように髪をそっと撫でていると、それを海人と庄司がじっとりと見やった。


「寝ててよくねぇだろ、部活だし」

「まだ三十分もあるよ。それにこの時間に聖がいるってことは、また夜遊びだよ?」

「……にしても、甘やかすぎじゃね?」


 時計に目をやって、そろそろ着替えようかと海人と庄司は制服からシャツに着替える。着替えながら子供のように眠る聖をちらりと見る。まるで子供が母親の腕の中で安心して眠るようだ。この表情は亮悟と一緒の時しか見られない。決して海人や庄司ではだめなんだ。聖の髪を撫でながら微笑んだ亮悟の顔が、妙に印象的だった。


「聖はね、家に泊まっても二、三時間に一回は目を覚ましてるんだよ」

「……家はそんなことないっぽいけど」

「どうせまともな寝方してないよ。だからね、安心して寝られるうちは寝かしてあげないと参っちゃうよ」

「とんだお坊ちゃんもいたもんだな」


 おちゃらけた茶々を入れて、護が笑った。何となくしんみりしてしまった空気を払拭したかったのだが、なんとも微妙な空気になってしまった。一年がいるから時を使ったのが仇になってしまったのだろうか、一年は皆黙って黙々と着替えを済ませていた。
 四人が「お先に」と妙に低いテンションで部室を出て行ったのと入れ違いに、三年レギュラーが入って来てソファで安らかに眠っている聖を見て固まった。








 チームになって約二ヶ月、ようやくポジションも決まり、一年と二年レギュラーはお互いに一on一に精を出していた。自然龍巳が直治と組み、聖は海人と組んでいる。今コートを使っているのは聖たちと晃と護のペアだ。専用体育館の二階にはコートが二面あるが一面は三年が使っているので二組しかコートに入れない。
 チームメイトの行動を追いかけながら、龍巳は隣りに立って微笑みを浮かべている先輩に視線だけを送った。聖のことをこの人が一番気にかけているように見える。心配している訳ではなく、ただもっとも聖の情報を持っている。聖が依然新宿に住んでいたこともその辺の事情も一通り彼に聞いた。なぜこの人は、聖にそこまでするのだろうか。


「……先輩」

「何かな」

「先輩は、どうして聖のことをそんなに?」

「それは『どうしてそんなに気にかけるのか』ってことで良いのかな?」


 壁にもたれかかって視線だけでにこりと笑った直治に龍巳は頷いて倣うように壁に背を預けそのままズルズルと座り込んだ。斜め上から降ってくる声には特に感情をこめた様子も押し殺した様子もなかった。彼にとって聖は、興味の対象ではないのだろうか。


「別に気にかけてるんじゃないよ。ただ、目が離せなくなってしまっただけ。聖は、奇麗だから」

「……奇麗」

「そう。そしてその美しさは愚か者しか持ち得ない」


 彼は聖のことを言っているのだろうと思う。けれど聖は愚かだろうか。確かに愚かしい行為に走るかもしれない。けれど彼が何を考えているか分からない以上、龍巳には聖を非難する言葉は持たなかった。けれど直治の表情には哀れみにも似た色が浮かんでいて、それが妙に癇に障った。


「九条院はきっと、聖のいい友達になる」

「……そうですか?」

「だって君、聖のこと好きでしょう?」


 訊かれたけれど、龍巳は答えなかった。好きか嫌いかなんて分からない。ただ一目見たときから気になった、それだけだ。好悪の対象の前に急激に惹かれた。聖が自分に持っているものを持っているからだとか、そんな陳家な理由を取ってつけたりするつもりはない。そんな言い訳じみたことを思いついたって、自分の方が聖が持っていないものをより多く持っていることはうぬぼれでも哀れみでもなく知っている。聖は、家族の愛情が欲しいんだ。それが枯渇しているから類似品を求めてさ迷い歩いている。そのくらいのことは分かる。


「そんな君に、いいこと教えてあげようか」

「何ですか」

「聖はね、今とっても荒んでるの。売春に喫煙飲酒、暴力。手を出してないのはレイプと麻薬くらいかな。それも時間の問題だろうけどね」

「……知ってますよ、そんなこと」


 薄々は気づいているけれど、聖が口に出さない以上知らない振りを決め込むことを決めていた。そこはお互いに踏み込んではいけない場所だとなんとなく理解している。お互いに踏み込めない、踏み込まない場所。それは絶対的に存在している。聖の笑顔が近くなるたび、感じていた。


「お願いだからさ……。君は、聖の友達になってあげて」

「……それは、俺だけの問題じゃないですから」


 少しだけ感情の込められた直治の言葉に僅かに首を傾げながら、龍巳はぽつりと言った。彼からこんな言葉が聞けるとは思えなかった。まるで亮悟のように聖を心配しているような声だ。ただ彼は龍巳の返答に笑っただけだった。










 夕方になり、ようやく練習が終わった。朝から晩までと本当に一日部活に費やされている。聖にはまだ夜という活動時間が存在しているけれど、今は夜が楽しい訳ではないのであってないようなものだ。集合をかけれられて、漸くチームが揃って集まった。今日はポジション練習ばかりだったので昼食の時しか喋っていない。


「聖!今度家泊まりに来ねぇ?」

「は?行かねぇし」


 集合するなりにやけた顔で言って来た寿季に聖は訳も分からず言い捨てた。いきなり泊まりに来いとか言われても素直に行くわけがない。何でそんなことになったかは分からないけれど、寿季だけではなく三年レギュラーもにやにやと見ていることに気づいて聖は上目遣いに亮悟を見やった。こうすると彼が負けてくれることを経験から知っている。


「亮悟先輩?」


 じっと見つめて言うと、聖の笑顔に亮悟が一瞬たじろいだ。畳み掛けるように数度瞬けば、簡単に「聖の寝顔を見ちゃったからだよ」と口を割ってくれた。隣で海人と庄司が「亮悟ぉ!」と何故か怒っているけれど無視して聖は顔を歪める。他人に寝顔を見られるのは嫌いだ。寝ていると自分に意志もないし無防備になっている。だから気をつけていたのに、そう言えば朝、亮悟にまだ寝てていいと言われたときいたような気がしなくもない。覚醒していなくて記憶にないが。


「はい注目ー」


 聖がジトリと寿季を睨みつけて文句を言おうとすると、その前に勝春が数度手を打ち鳴らした。彼の隣には直治もファイルを持っていて、爽やかな部長と腹黒そうな補佐役に妙な違和感を覚えた。直治先輩、牛耳ってんじゃねぇの?と素直に聖が思っていると、勝春が人の良さそうな笑みを浮かべてレギュラーを見回した。一度聖の所で視線を止めて薄く笑い、また視線を戻す。


「来週は恒例の練習試合だ。一年は初めての試合だと思うが、気張っていけよ」

「今回は新宿の公立校です。実力はそこそこあるそうなので安心してください」


 ファイルに書かれているのだろう文字を辿りながら直治が笑う。その言い方に聖も二年レギュラーも慣れているが、一年レギュラーは不可解気に顔をしかめる。それを見て聖が通訳代わりに顔を寄せて囁いた。


「毎年他の学校と試合するんだけど、レベル低すぎて練習にならないらしい」

「へー……。さっすが竜田」


 呆れたような寿季の声は周りには聞こえなかったようで、聖だけが薄く笑みを漏らした。
 それから当日までの練習の流れなどを直治が説明していく。別にそこら辺は流して聞いてその日にまた説明してもらえばいいやと思って、聖は欠伸を一つ噛み殺した。それを見ていた亮悟に「大丈夫?」とでも言うように顔を寄せられる。あまり亮悟に心配をかけたくもなかったのだが亮悟がそれを許さず聖の耳に唇を寄せた。


「眠いの?」

「大丈夫」

「昨日は角倉さんと帰ったって聞いたけど、ちゃんと寝た?」

「寝た、うん。大丈夫だってば」

「聖は簡単に嘘吐くから信じないよ。今夜は?家来る?」


 いつもいつも嘘ばっかり吐くと言われて、聖は反論しようかと思ったけれどやめた。どうせ反論の仕様がないことだ。嘘ばかり吐いていることは真実だし、嘘を吐かなければ何かに潰されてしまいそうに思うこともある。だからあえて反論しない。


「亮悟先輩、体調悪いんだから無理しない方がいいと思うけど」

「大丈夫ですよ。今日は家に来るので」

「は?葵?」


 急に会話に首を突っ込んできた葵に思わず聖が首を傾げて声を上げた。何だって葵がそんなことを言い出すのか、今までは全く関心がなかった振りをして。文句を言いたげな顔をして見せたけれど葵はいつも通りマイペースに「ねぇ、晃も来るでしょ?」と話を振っていて、何だか葵の家に行くのは決定事項のようになっていた。


「一年、人の話ちゃんと聞いてた?」

「はぁーい」

「聖がカワイコぶってるってことは聞いてなかったんだね」


 聖がわざとニッコリと微笑むがそれが仇に成ったようで直治はにこりと笑って一年レギュラーに後片付けを命じた。思わず聖が憚ることなく舌を打ち鳴らすと、海人と庄司に思い切り頭をかき混ぜられた。何事かと思ったら特に何もなかったようで亮悟も笑って見ている。


「おーい、じゃれ合いは終わりにしないと部活終わらないぞ」

「へーい」

「どうぞサクサク終えちゃってください!」


 呆れたような勝春に海人と庄司がおどけた様に手を上げた。そんな二人に挟まれて不機嫌に唇を尖らせている聖に勝春は笑って、部活を終了させた。





−続−

葵ちゃんが出張り始めて一番ビックリしました。